第二章① ソフィー
アルフォンスが通達の文面を清書した紙を手にソフィーの前に立ち、紙を開いて淡々と読み上げた。
「王国海軍本部通達。ブレスト司令部所属、第七艦艇部隊マクシミリアン・ブーケ中尉指揮下の一員、ソフィー・ド・ルノアールに告ぐ。貴殿は先般の大元帥襲撃事件に直接関与は認められないものの、部隊に所属し作戦に随伴していたことから軍規上の責任を免れ得ず。事情聴取および調査完了までの間、ブレスト城にて軟禁とする」
ソフィーは紙面を受け取り、じっと目を通す。怒りも悲しみも表には出さず、静かに頷いた。
「承知しました」
やむを得ない。これは任務の延長だ。胸の奥でそう刻みつけ、ソフィーは宿舎への足を進める。
キール通りは戦場の喧騒から遠く離れ、静寂だけが漂っていた。足音が石道に反響し、自分の心の鼓動が重なる。宿舎の扉に手をかけると、かつて自分が過ごした日々が一瞬にして蘇る。机に置かれた書類、壁に掛けられた小さな装飾品、窓から差し込む光。しかし今、その空間に立つ自分は調査の対象として扱われる存在だ。
ソフィーは荷物をまとめる。衣服や書物、必需品をバッグに詰めながら手が机の端の引き出しに触れた。普段は開けることのない小さな収納。指先でゆっくりとつまみを引くと、埃に覆われた薄い物が現れた。ひんやりとした金属の感触が掌に伝わる。
護身用の短剣――かつてグウェナエルが戦場での万一に備えて彼女に託したものだった。その冷たさに、胸の奥で何かが小さく疼く。
これは武器ではない。彼の気遣い、そして戦場を共に駆け抜けた日々の形だ。深く息を吸い込み、短剣をそっとバッグの中に収める。
「さよなら」
声には出さなかった。最後にベッドの枕を一度撫で、静かに部屋を出る。扉をそっと閉める音が別れの印になった。
廊下を抜けると外にはアルフォンスが待っており、数名の警備隊員が整然と列を作って立っていた。ソフィーの姿を見るとアルフォンスは小さく頷く。
「こちらへ」
冷静だが、指示は確かに命令だった。警備隊は左右に配置され、石畳の歩道を囲むように歩き始める。重厚な城門が遠くに見え、石造りの城壁が連なる通路を進むたび足音と鎧の擦れる音が反響する。
「ご安心を、貴殿の安全は確保されている」
アルフォンスの低い声が続いた。門をくぐり、広間を抜けるとブレスト城の内部は静まり返っていた。石の床が冷たく硬い。ソフィーは荷物を抱えたまま指定された部屋へと通される。
部屋の扉が重く閉じられると隔絶感がじわりと広がった。石造りの床と壁。窓の外には城の中庭と遠くの海が淡く見えるが、石壁が視界を遮る。
ソフィーは荷物を置き、窓の格子に手をかける。城下の通路、遠くに浮かぶ帆船、風に揺れる樹々。静かで、現実味がない。深呼吸をひとつ、ふたつ。胸の奥には屋上で見た光景、戦場の血の匂い、ルキフェルやマクシム、グウェナエルの姿がまだ重く残っている。
「ここで……どう過ごせばいいの」
独り言にもならない声が部屋の隅に吸い込まれた。
ソフィーは腰を下ろし、頭の中で事態を整理する。
他の隊員たちは捕縛され、牢獄行き。屋上で見た血と汗、荒廃した衣服が今も彼らの状況と重なった。
ルキフェルとマクシムは特別治療室で療養中。
ジャスパー、ニール、コリン、マテオは重要参考人として一部屋に収容されている。
外ではエリオットが治療に専念しながら、ルソーとイザベル、アルフォンスと共に事態の収束に動いていた。
窓の外を見やる。中庭には慌ただしく動く隊員たちの姿があった。血に染まった戦場は片付けられ、瓦礫や残骸がわずかに残るだけ。風が吹き、旗がひらめく。
「……みんな、無事でいて……」
小さな呟きは城の石壁に静かに消えた。
ソフィーは窓辺に立ち、冷たい風に髪を揺らされながら中庭を見下ろす。胸の奥のざわめきを押さえつけ、自分に言い聞かせる。
「私は、今の自分を偽らない……。嘘をつかず、できる限り率直に、すべてを受け止める」
屋上で見た血まみれの光景、グウェナエルの穏やかな死に顔、マクシムとルキフェルの傷。どれも現実として確かに存在している。感情を完全には抑えきれない。だが、逃げるわけにはいかない。
「怖い……でも、逃げはしない。皆のためにも、私はここにいる」
石壁に触れる指先に冷たさが伝わる。ソフィーは目を閉じ、心を落ち着けて、再び前を見据えた。
静かな室内に、控えめながらも規律を感じさせるノックが響く。
入室した書記官ベルリオーズは一礼し、簡潔に名乗った。
「失礼します。シャトレ司令官の代行として、本件の調書を担当します」
彼は机の脇に立ち、書類を整えた。その動きに無駄はない。
遅れて入室したイザベルは席につき、ソフィーをまっすぐ見据えた。声音は低く、事務的だった。
「では始める。マクシミリアン・ブーケの計画を知ったのは、いつから?」
ソフィーは背筋を正し、短く息を整える。
「エドガー海賊団を中心とした海賊同盟が、ブレストを襲撃した時です。三回目の戦闘中でした」
イザベルは即座に次を問う。
「なぜ、止めなかった」
責める響きはない。ただ事実を求める声。
ソフィーは一瞬視線を落とし、言葉を選ぶ。
「……彼の復讐心を、別の力に変えられないかと考えていました。結果的に、見つけられませんでしたが」
紙を走るペンの音だけが室内に残り、イザベルはさらに踏み込む。
「君は作戦会議にも参加していた。それでも止められなかったのは?」
ソフィーの肩がわずかに揺れる。それでも逃げなかった。
「正直に申し上げます。彼の異常な復讐心に確信を持ったのは、三週間ほど前です。理性では抑えきれない激情が、彼の目にありました」
一瞬迷ったが、言葉を絞り出す。
「私は彼と衝突し、その結果……拘束されました。以降、計画に介入できる状況ではありませんでした」
「だから、止められなかったと」
イザベルは確認するように言い、しばし沈黙する。ベルリオーズのペンだけが淡々と動いていた。やがてイザベルが口を開く。
「……君は事実を正確に話している。その点について、君を咎める理由はない」
ソフィーは胸の奥でかすかに力が抜けるのを感じた。だが、表情は引き締まったままだ。
「副司令官……」
声を抑え、問いかける。
「マクシミリアン・ブーケ隊は、どうなりますか」
イザベルは書類に目を落としたまま淡々と告げた。
「マクシミリアン・ブーケ隊は、本日をもって解体。国家反逆罪に該当する」
そして彼女は顔を上げた。
「マクシミリアン・ブーケ本人は負傷が回復次第、トゥーロンへ移送される予定よ」
ソフィーはしばらく沈黙したあと、静かに次の問いを口にした。
「……では、海賊たちは?」
イザベルはほんの一瞬、視線を逸らした。先ほどまでの張りつめた空気がわずかに緩む。
「事情が少し複雑でね。今は事件の重要参考人として、しばらく海軍の管理下に置くことになったわ」
ソフィーは小さく頷いた。命だけは繋がれている。それでも自由は奪われた。そのことが胸の奥に静かに沈んでいく。
「……やはり、みんな処刑されるんですか?」
イザベルはすぐには答えなかった。書類に指を添えたまま、しばし言葉を探す。
沈黙が続くあいだ、ソフィーは唇を噛んだ。答えが怖い。それでも聞くしかない。
イザベルはふっと顔を上げ、話題を切り替えるように言った。
「ブランシェ中尉の件だけど」
その声は、それまでとは明らかに違った。
「遺体の防腐処理が、無事に終わったそうよ。出立の際には……牢にいるマクシミリアン隊の隊員たちも、特別に立ち会わせるつもり」
ソフィーは思わず目を見張る。
「……どうして、そこまで?」
イザベルは小さく肩をすくめ、微かに笑った。
「私にできる、せめてもの器量よ。もちろん、公にはできない話だけどね」
彼女は現実を忘れない声音で続けた。
「マクシミリアン隊の裏切りは、決して許されるものじゃない。でも……サン・マロでの彼らの働きまで、なかったことにはできないの。街では、今も彼らを讃える声が多いらしいわ」
ソフィーは小さく頷いた。
「……今回の襲撃事件も、公表されるんですか?」
「ええ」
イザベルは迷いなく答える。
「エリオットが落ち着き次第、王宮に報告する。そのあと、ほどなくして公になるはずよ」
ソフィーはゆっくりと息を吐いた。
王宮も、世間も、やがて真実を知る。世界はもう動き始めている。
今はただ叔父夫婦の出立を見届け、静かに次の一歩を踏み出す時だった。
城内の中庭では、叔父夫婦がすでに荷をまとめ、出立の準備を整えていた。
リー・ウェンはヘイロンの手綱をしっかりと握り、落ち着いた様子でその傍に控えている。
ソフィーは一歩前に出ると、ふと視線を牢の方へ向けた。
厳重な扉の向こうには、マクシミリアン隊の隊員たちが収容されている。
特別な配慮として、彼らもこの出立に立ち会うことを許されていた。鉄格子の奥で隊員たちはわずかに身を乗り出し、外の光景を静かに見つめている。
イザベルが低く言った。
「彼らにとっても、せめて最後にできるだけの礼儀を尽くす。それだけよ。
表立って許されることじゃないけれど……これが、私にできる限界」
ソフィーは小さく息を吐き、頷いた。瓦礫と砂が残る石畳を踏みしめながら、彼女は叔父夫婦のもとへ歩み寄る。朝日の光が城壁や塔を赤く染め、遠くで海風が石に当たる音が微かに響いていた。
ジャンはソフィーの気配に気づき、柔らかく微笑む。
「大丈夫だ、ソフィー。すべて、滞りなく運ぶ」
言葉は簡素なものだったが、それだけでも胸が落ち着いた。城門前には一台の馬車が用意され、荷はすでに積み込まれている。ヘイロンは馬車の脇で静かに息を整え、白い吐息を吐いていた。
やがてジャンとクラリスが馬車へと歩み寄ると、牢の鉄格子の奥から隊員たちの姿がはっきりと見えた。鎖に繋がれた身体。それでも、その眼差しには誇りの残り火が宿っている。
ソフィーは振り返り、その光景を目に焼きつけた。声は上がらない。代わりに、シャルルが静かに胸へ手を当てる。それに倣うように、他の隊員たちも次々と同じ仕草を見せた。無言の敬礼が静かに連なっていく。ジャンはその様子を見つめ、わずかに目を伏せた。
「……彼らもまた、同じ空を見てきた者たちだな」
クラリスは小さく頷き、そのまま何も言わず馬車へ乗り込む。瞳には涙の跡が残っていたが、それを押し隠すような強さが滲んでいた。
ソフィーは一歩前に出てジャンに声をかける。
「どうか……道中、お気をつけて。それから……グウェナエルさんを、よろしくお願いします」
ジャンは一瞬だけ目を細め、ソフィーの手を強く握り返した。
「必ずだ。そして——君も、必ず我が家へ帰す」
その声には揺るぎない確かさがあった。
御者の合図とともに馬車が動き出す。車輪が石畳を軋ませ、重い音を響かせながら城門を抜けていった。馬上のリー・ウェンと目が合う。互いに言葉は交わさず、ただ静かに頷き合った。やがてヘイロンが歩みを進め、馬車は朝の光の中へと小さくなっていく。鉄格子の中で、隊員たちは最後まで視線を離さなかった。その眼差しをソフィーも胸に刻み込みながら黙って見送る。
——そのとき、誰かの微かな声が風に紛れた。
「……グウェナエル、安らかに」
ソフィーは振り返らなかった。振り返れば、きっと涙が零れてしまうと思ったから。




