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第一章④ 残された者たち

 ソフィーは小さく頷き、再び遺体へと目を向ける。そのとき、中庭の端から足音が響いた。

「ソフィー。心配はいらないよ」

 振り返るとジャンが立っていた。

「その遺体は、私が責任を持とう。管理についても……手配はつく」

 彼の言葉に隣でリー・ウェンが静かに頷く。ヘイロンの手綱を握ったまま、控えめに一歩下がるその姿は判断を全面的に支持しているようだった。

「防腐処理は、信頼できる医師に任せる。東方の……彼のツテでね」

 ジャンの言葉を聞いたソフィーの胸にようやく小さな息が落ちた。

 この血と瓦礫の中で、「誰が責任を持つのか」が決まることは想像以上に救いだった。

 ジャンは一度グウェナエルの亡骸に視線を送り、静かに頷くとソフィーの肩にそっと手を置いた。

「よくやったよ、ソフィー。最期まで友のそばにいた。それで十分だ」

 叔父の手の温もりに張り詰めていた心がわずかに緩む。

 そこで、二人の様子を見ていたルソーが眉をひそめる。

「……で、誰だ? 一般人を戦場に入れたのは」

 すると柔らかな足音とともにイザベルが現れ、肩をすくめた。

「相変わらずね。戦場に出すぎて、昔の顔も忘れたの?」

 彼女はジャンを指し示す。

「士官学校の同期よ。ジャン=バティスト・ド・ルノアール。元・海軍技術監。今はパリ医務局の文官」

 ジャンは軽く苦笑する。

「今は、ね。最近、追い出されたばかりだ」

 ルソーの目がぱっと見開かれた。

「ああ! 戦闘はからきしだが、頭だけは切れた……ジャン=バティストか!」

 ジャンはゆっくり頷き、穏やかに言った。

「東洋にはね、適材適所という言葉がある。覚えておきたまえ、ユルリッシュ。人は、立つ場所で役割が変わる」

 ルソーは一瞬、言葉を失ったように口を閉じる。その空気をイザベルが面白そうに眺めていた。

「それにしても……ジャンがパリを追い出されるなんて。私が口利きしてあげようか?」

 ジャンは首を振る。

「いや。もう住まいは決めた。エトルタだ。海を見下ろす崖の上に、古い屋敷があってね」

 ジャンは淡々とどこか安堵を含んだ声で続ける。

「修繕の手配も済ませた。妻と、そこで暮らすつもりだ」

 彼の言葉を聞いた瞬間、ソフィーの胸の奥がじんわりと温かくなった。

 ジャンはしばらく言葉を探すように間を置いてから落ち着いた声で口を開く。

「……彼は裏切り者と呼ばれる立場だったとしても、戦場で命を懸けた戦士だったんだろう」

 ジャンの言葉は淡々としているが、そこには軽んじる響きはなかった。

「なら、きちんと墓を作るべきだ。海軍の記録に残る名でなくてもいい。だが、戦って生きた者として、最後に眠る場所は整えなければならない」

 ジャンの声が少しだけ低くなる。

「それが、命を懸けた戦いに対する最低限の敬意だ。……それに」

 ジャンはソフィーを見てわずかに表情を緩める。

「お前の心が彼を大切に思っていたのなら、なおさらだ。忘れないために、ちゃんと形に残してやろう」

 叔父の一言でソフィーの胸がいっぱいになる。

「ありがとう、叔父さん……!」

 思わず抱きついた彼女をジャンは迷いなく受け止めた。

「墓のことは、私が最後まで見届ける。お前が泣きながらでも生き延びた意味を、曖昧にしないために」

 そう言って彼はソフィーの背に手を回し、そっと抱き寄せる。

「ソフィー……」

 ジャンの穏やかな声が耳元に落ちる。

「お前は姉がこの世に残してくれた、何よりの宝だ。だから私が守る。過去がどうであろうと、お前は……私の娘も同然なんだ」

 ソフィーは返事もできず、ただ叔父の胸に顔を埋めた。その腕の中は温かく、揺るぎなかった。

 幼い頃からずっと知らなかった感覚。父に抱きしめられるとは、きっとこういうことなのだと胸の奥で理解する。ジャンの腕は強く、そして優しかった。

「もう十分、強くなったよ」

 ジャンの頭を撫でる手がやさしく動く。

「……でも、泣いていい。私がここにいる」

 父ではなく、叔父として注がれる揺るがない愛情。それは静かに心の奥へ染み渡っていった。

 やがてソフィーがジャンの胸からそっと身を離すと、ルソーが軽く眉をひそめてジャンへ視線を向けた。

「……で、これからはどうする?」

 ジャンは肩をすくめ、肩の力を抜いた笑みを浮かべる。

「エトルタの病院に話を通してもらってね。向こうで、少し責任のある立場に就くことになった。正直、都会はもう十分だ。これからは、自然に近い場所で生きるさ」

 ルソーは小さく息を吐き、苦笑まじりに頭を掻いた。

「……相変わらずだな。海軍の肩書きってのは、こういう時だけは便利だ」

 そう言ってから今度はリー・ウェンに視線を移す。声音が少し引き締まった。

「問題はお前だ。これだけ損傷の激しい遺体だぞ。本当に、防腐処理ができるのか?」

 リー・ウェンは動じることなく、静かに答えた。

「東洋でも、砂漠の国でも——長い時を越えて遺体を保つ技術はあります。環境と手順を整えれば、ここでも十分に可能です」

 ルソーはやがて小さく頷いた。

「……なるほどな。さすがだ、リー・ウェン。安心した」

 そのやり取りをソフィーは黙って見つめていた。胸の奥に沈んでいた重さが、少しずつほどけていくのを感じる。

「……そっか……」

 小さく零れた声には安堵と、まだ消えない哀しみが混ざっていた。

 叔父の穏やかな口調。肩に置かれた温かな手。リー・ウェンの冷静で確かな判断。瓦礫に覆われた戦場の中に、ゆっくりと秩序が戻っていくような感覚があった。

 深く息を吸い、ソフィーは血に染まった自分の軍服へ視線を落とす。

「……ちゃんと、見送れるのね」

 そう呟いて彼女は静かに膝をつき、グウェナエルの遺体にそっと手を伸ばした。胸の中で小さく別れの言葉を告げる。

「……エトルタで、ゆっくり休んで」

 シャツ越しに伝わる冷たさが戦いの記憶を呼び起こす。けれど、その傍らに立つ叔父とリー・ウェンの存在が、確かな支えとして胸に残った。

 ソフィーはゆっくりと顔を上げ、まだ見ぬエトルタの海を思い描く。

「……海も、空も……きっと、まだ綺麗なんだ」

 涙が頬を伝う。それを拭いながら彼女の口元には、かすかな微笑みが浮かんでいた。

 守れなかった現実の重さを抱えたまま、ソフィーは静かに次の一歩を踏み出す覚悟を固めた。

 ジャンはソフィーとグウェナエルの遺体を交互に見やり、ひとつ小さく咳払いをした。その声は慎重で、どこか遠慮がちだった。

「彼は……君にとって、大事な人だったのか?」

 その問いが落ちた瞬間、ソフィーの胸がきゅっと縮こまる。

 ——どう答えるべきか。どこまで、言っていいのか。

 喉の奥が詰まり、言葉がすぐには形にならない。軍の中庭。瓦礫と血の匂い。ここは感情をさらけ出す場所じゃない。ましてや愛していたなんて言葉は、余計な誤解も波紋も呼ぶ。……言わなくてもいい。大事な仲間で、十分じゃない。そう思ったはずなのに。

 視界の端に、布を払われたままの彼の顔が入る。驚くほど穏やかな表情だった。苦痛も、恐怖も、もうどこにも残っていない。まるで、すべてを受け入れて眠っているような顔。胸の奥がずきりと痛んだ。

 ——ここで黙ることは、彼をなかったことにするみたいだ。

 ソフィーは一度、強く目を閉じた。震える息を胸の奥まで押し込める。これは弁解でも、感傷でもない。彼を、この世界に残すための言葉だ。ゆっくりと瞼を上げ、まっすぐ前を見る。

「……ええ」

 声はまだ震えていたが、逃げなかった。

「大事な仲間です」

 言葉は喉元で一度つかえたが、それでも彼女は続けた。

「それに——」

 喉が詰まり、胸が波打つ。それでも、はっきりと告げる。

「……愛し合っていました。私は、今でも……彼を愛しています」

 その言葉が落ちた瞬間、中庭の空気が凍りついた。血と瓦礫にまみれた戦場の只中で、誰かが小さく息を呑む音がした。救急隊員の一人が思わず手を止め、兵士たちの視線が一斉にソフィーへ集まる。

 身元も定かでない異邦の男。しかも敵として扱われるはずだった存在。

 その男を、軍医家系の令嬢が公然と「愛している」と口にした。

 ジャンですら、すぐには言葉を返せなかった。わずかに目を見開き、ソフィーを見つめる。イザベルも息を止めたまま珍しく沈黙していた。ただルソーだけが腕を組んだまま低く息を吐く。驚きはあった。だが、それ以上にここで言い切った覚悟の重さを量るような沈黙だった。

 ソフィーの涙が頬を伝い、呼吸が浅くなる。胸の奥には、あの夜の記憶が生々しく蘇る。唇の柔らかさ。触れた肌の温度。生きていた証のすべてが、今の冷たさと激しく衝突する。それでもソフィーは視線を逸らさなかった。これは恥ではない。彼が確かにこの世界に生き、そして自分が確かに愛したと証明するための言葉だった。そのとき、ソフィーの肩にそっと温もりが触れた。イザベルだった。言葉はない。驚いた上で、なお支えるように手を置くだけ。責めるでも、慰めるでもない、静かな存在の示し方。

 ソフィーは一瞬だけ目を向け、かすかに首を振った。

「……謝らないでください」

 声は小さいが、はっきりしている。

「誰かのせいにしてしまったら……私、きっと前に進めなくなる」

 イザベルは何も言わず、そのまま手を引かなかった。沈黙のまま支え続ける。

 ジャンは息を吐き、柔らかな眼差しでソフィーを見つめた。

「……そうか」

 それ以上、踏み込まない。だが、その一言には十分すぎるほどの理解があった。少し離れた場所でルソーが腕を組んだまま低く呟く。

「……なるほどな」

 その声には皮肉も評価もない。

「生き残った者にしか、守れないものだ」

 ソフィーは胸に手を当て、嗚咽を押し殺す。涙が止まらなくても言葉は揺らがなかった。

「私は……忘れません」

 小さく、けれど確かに。

「ずっと。ずっとです」

 イザベルの手がそっと背中を撫でる。言葉はなくとも、そこには確かな連帯があった。

 ルソーはほんのわずかに口元を緩めた。

「そこまで思わせる相手なら……筋の通った男だったんだろうな」

 戦士としての敬意と、言葉にしきれない哀惜が混じった声だった。

 その一言でソフィーの意識はふっと現実から滑り落ちる。瓦礫の冷たさも血の匂いも遠のき、代わりにあの夜明けの気配が静かに立ち上がる。

「……あの時……」

 小さく零れた声は現実と記憶の境目に落ちた。そして、ふと思い出す。

 あの瞳。夜明けの光を受けて、深く澄んだ青に揺れていた。ラピスラズリのような瞳が、ただ一心に、こちらを見ていた。逃げ場のないほど、まっすぐに。

 そして——左の薬指に、そっと触れた唇。一瞬だった。けれど、確かな重みを伴った接触。

 そのまま耳元に声が落ちる。低く、僅かに震えていて、それでも優しさだけは隠しきれない声。

「ソフィー……俺の想い、全部受け取ったか?」

 問いかけるというより、刻みつけるための言葉だった。

 あの青い瞳は、その答えをすでに知っているかのように静かだった。

 ソフィーはハッと息を吸う。意識が現実に引き戻されても、あの瞳の色だけが胸の奥に残り続けている。深い青。決して色褪せない青。

 ふっと乾いた笑いが漏れた。

「……やっぱり、あの人はいじわるだ」

 小さく呟き、胸に手を置く。

「知ってて……わざと、私に刻みつけたんだ」

 息を吐き、言葉を選ぶように続ける。

「最期まで……剣みたいに鋭くて。逃げ道なんて、ひとつも残さなかった」

 責める響きはなかった。理解してしまった者の声だった。

 彼は知っていたのだ。ソフィーが、人を丸ごと受け止めてしまうことを。

 声の震えも、あの瞳の色さえも、残された想いがすべて消えずに残り続けることを。

「……でも」

 ソフィーはゆっくりと目を閉じる。

「筋の通った男だった」

 言い切る声は静かで揺れていない。左の薬指をそっと撫でる。

「彼の想いがあるから……」

 顔を上げる。

「私は、まだ前に進めます」

 リー・ウェンが静かに頷いた。

「その想いを……生きる力に、ですね」

 ジャンもまた微笑みを浮かべる。

「ああ。胸に抱いたまま、歩いていけばいい」

 言葉の余韻だけが静かに広がっていた。

 失われた命の重さも、守れなかった痛みも、刻みつけられた愛も。

 すべてを抱えたまま、ソフィーは確かに前を向いていた。

 朝日の光が中庭を淡く染め、無惨な戦場の跡を包む。

 ソフィーはそっとグウェナエルの遺体の胸に手を置いた。冷たさに幼い頃の記憶がふとよみがえる。

 あの時のソフィーはまだ六歳で神に誓うことを拒んでいた。


 自分に誓うの。たとえ神様が本当にいたとしても、恨むと思うな。

 だって、雲の上からのんびり見下ろしてるだけでしょ?

 何もしないじゃない。


 かつて自分が発した言葉が、胸の奥で小さく反響する。

 ソフィーは指先で静かに十字を描き、長い睫毛を伏せた。すると、堰を切ったように記憶が押し寄せてくる。


 最初の印象は…ただ怖くて、厄介で、変な人だった。

「俺が守るのは、マクシムだけだ。仲間も命も、そしてお前も切り捨てる」

 嵐の甲板で突きつけられた、刃のように冷たい声。

「いいか? 俺はお前を海賊の潜伏者として見ている。変な動きをしたら、斬る。覚悟しとけ」

 復帰の日に浴びせられた、拒絶に満ちた声。

 それでも、いつからだったのだろう。互いの正義をぶつけ合いながら、少しずつ惹かれていったのは。

 廊下での激しい口論。二人きりで成し遂げた任務。

 メリッサを失い、泣きながら孤独を埋め合った夜。

 墓前に並び、皆で彼女の名を呼んだ日。

 授与式で背筋を伸ばして立つ、誇らしげな姿。

 そして、医務室で初めて弱さをさらけ出した、あの瞬間。

「どっちもお前だ。無理にどちらかに決める必要はない。大事なのは、自分の気持ちから目を逸らさないことだろ」

 思い出は折り重なり、やがて一つの夜明けへと辿り着く。生命の灯を触れ合わせ、想いをぶつけ合ったあの最期の刻。

「港で出逢ったあの日の君も、これまで共に歩んできた日々の君も、全部知っている。だからこそ、今ここにいる君の全てに惚れた。強さも弱さも、迷いも涙も、笑顔も勇気も、全部、まるごとだ」

「……あの頃の君より、ずっと……いや、あの時にはまだ気づけなかった、今の君の輝きが、胸を打つほど綺麗だ」

 数えきれないほどの言葉を、確かに受け取った。けれど、それ以上に鮮烈に残っているのは……


 ——「   」


 夜明けに、耳元で囁かれた声。わずかな震えと揺るぎない意志、自分だけに届かせようとした言葉。

「……神よ」

 かつて疑い、背を向けた存在に今は言葉を向ける。

「この人は剣と砲火の中を駆け抜け、孤独を友として歩んできました。どうか、その魂が闇に沈むことなく、ひとすじの光へと導かれますように」

 祈りの言葉は吐息とともにこぼれ、静まり返った空気に溶けていった。

 それは神に委ねるための祈りではない。自らの手で、想いを届けるための行為だった。

 穏やかに眠る彼の顔に、そっと布をかける。立ち上がると、朝日が崩れた城壁を越えて彼女の影を長く伸ばす。血と瓦礫に覆われた光景の中、春を告げる風が一筋、吹き抜けた。

 ソフィーは静かに足を踏み出す。ルソーとイザベル、ジャンとリー・ウェンはその背中を黙って見送っていた。

 彼女の歩みは、確かに次の一歩へとつながっていた。

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