第一章③ ソフィーとルソー
ソフィーは螺旋階段を駆け降りる。足元には瓦礫や血の跡が散乱し、滑らぬよう慎重に蹴り出す。胸の奥で焦燥と恐怖が渦巻き、足の動きがわずかに重くなる。
「ソフィー、無事だったか」
下階から駆けてくるジャスパーの声に、ソフィーは息を整えながら答える。
「うん」
「屋上は……どうなってる?」
「大元帥も無事。ルキフェルと隊長が、かろうじて生きてる」
「わかった、見てくる」
ジャスパーは駆け上がろうとした足を止め、少しだけ俯いてソフィーを呼び止める。
「あのさ、ソフィー……おれ、介錯したんだ」
その声は低く、わずかに震えていた。
「……え?」
「あのまま死を待つのは、残酷だと思ったから……」
ソフィーの心臓が一瞬止まったように感じる。目の奥に戦場で見た死の残像がよぎった。
「……そう」
ジャスパーはさらに一歩後ずさり、視線を落とす。
「ごめんな」
ソフィーは小さく頷く。言葉にせずとも、ジャスパーの言葉の奥にある戦場で失われた命の重さを感じ取った。
階段を下りきると、ニール、コリン、マテオの三人が駆け寄ってくる。疲労をものともせず笑顔を浮かべる彼らの姿にソフィーは安堵を覚える。
「みんな……無事ね」
「まあ、なんとか」
互いの安否を確認し、肩に手を置き合う。笑顔はぎこちないが、戦場の恐怖と絶望を共に乗り越えた者たちだけの、かすかな希望がそこにあった。
「ルカとマクシミリアンは?」
「大丈夫、かろうじて生きてる。大元帥も無事よ」
三人の目がわずかに柔らかくなる。
「下、行ってくるね……!」
「気をつけて!」
ソフィーは頷き、足元を確かめながら再び降りていく。
城壁通路を抜けた先で、アルフォンスが焦った表情で救急隊を引き連れて通路を駆ける姿が飛び込む。
「急げ! 救える者はなんとしてでも救うんだ!」
隊員たちは手当てのため急ぎながらも、ソフィーをちらりと確認して無事を確かめる。倒れた兵士、夥しい量の血、破壊された城壁、どれも生々しい。視線は前に向けるしかない。
中庭は瓦礫と散乱した武器で埋め尽くされ、戦場の痕跡がそのまま残っていた。血に染まった石畳の隙間から、わずかに青々とした草が覗く。その一瞬の緑に、胸の奥で小さな安堵が芽生えるが、すぐに戦場の現実がそれを覆い尽くす。
ソフィーは中庭を駆け抜けた。靴音が乾いた石畳に小さく響くたび、心臓が追い立てられるように跳ねた。中庭の一角では救急隊員たちが遺体を整然と並べ、死者と負傷者を淡々と仕分けている。血に汚れた手袋、布、散乱する医療道具。その手際は正確で冷静だったが、背中からは張りつめた緊張と重責がにじみ出ている。
ソフィーは足を止め、集められた遺体の一角へと歩み寄り、近くの隊員に声をかけた。
「……すみません。襲撃者の遺体は、どこにありますか」
隊員たちは互いに視線を交わす。短い沈黙のあと一人が静かに答えた。
「北側の通路を通した先だ。まとめてある。数は……少ない。たった一体だ」
その言葉に胸がきゅっと縮む。視線を向けると中庭の端、布をかけられた遺体が一つだけ静かに横たわっていた。戦場の荒れ果てた光景の中で、そこだけが不自然なほど静かだった。
——グウェナエル。
足が止まる。一歩踏み出すまでに、ほんのわずかな時間が必要だった。布は丁寧にかけられている。敵であったはずの相手に向けられた、最低限の敬意。
ソフィーは息をつき、近くの隊員に小さく尋ねた。
「……顔を、見てもいいですか」
隊員は一瞬迷い、やがて頷いた。
「……ああ。ただし、慎重に」
ソフィーはゆっくりと布に手をかける。そっと、それを払った。
そこにあった顔は、驚くほど穏やかだった。痛みも苦悩も、すべて置いてきたかのような、深い眠りの顔。生きているときには見せなかった、静けさ。胸元へと視線を落とす。
そこに刻まれた、深く決定的な傷。——ジャスパーの一突き。
問いが喉元までせり上がる。けれど、ソフィーは何も口にしなかった。そこにある事実をただ受け止める。
ふと、自分の軍服が目に入る。紺色だったはずのそれは胸元から袖、裾にかけて、鮮やかな赤に染まっていた。自分の血ではない。戦場で失われた命の、混ざり合った痕。グウェナエルの血がその中にある。
ソフィーは布を撫でる指に力を込め、軍服をぐしゃりと握りしめた。すべて、彼が生きていた証だった。けれど今、目の前にあるのは冷たい身体。止まった鼓動。鼻腔を刺す、血と鉄の匂い。喉が詰まり、肩が震える。視界が滲み、堪えていた嗚咽がこぼれ落ちた。
「……生きていて、ほしかった……」
声は瓦礫と血の匂いに溶けていく。あの夜明け、確かに感じた温もりと鼓動が遠く引き裂かれていく。
「……どうして……」
答えのない問いが胸の奥で繰り返される。
「……守れなかった……独りで逝かせてしまって……ごめんなさい……」
かすれた声が広場に滲む。
「私だけ……私だけが生き残ってしまって……」
震える息の奥から、どうしても消せない言葉が零れ落ちる。
「……申し訳ない……」
ソフィーの慟哭は中庭に集う者たちの耳に突き刺さった。だが、誰一人として声をかける者はいない。救急隊員も兵士も作業の手を止め、ただその場に立ち尽くしていた。沈黙は彼女の叫びを拒むものではない。むしろ、その痛みを否定せず静かに受け止めるための沈黙だった。ソフィーの肩はまだ小刻みに震えている。
「……独りで……逝かせて……生き残ってしまって……わたし……」
言葉は途切れ、嗚咽に押しつぶされる。
「……申し訳ない……」
瓦礫の中庭にソフィーの声が落ちた時、彼女の背後から低く重みのある声が響く。
「……"申し訳ない"、か」
ソフィーは、はっとして振り返る。瓦礫を踏み越え、静かに歩み寄ってくるルソーの姿があった。彼は一瞬だけ、涙に濡れた彼女の瞳を見つめ、それから視線を亡骸へと戻す。
「ソフィー」
ルソーの声は柔らかくはない。だが、荒げてもいない。長い戦場を生き抜いてきた者だけが持つ、静かな重さがあった。
「生き残った者の気持ちは……オレにも分かる」
ソフィーの涙は止まらない。ルソーは一度、短く息を吐き、続けた。
「だがな。そこで申し訳ないって言葉だけで終わらせたら……その男の死を、軽く扱うことになる」
ソフィーの肩がびくりと揺れる。
ルソーの視線が一瞬だけ宙を彷徨った。遠い記憶をなぞるように。
「士官学校を出たばかりの頃、無茶をしてな。仲間を死なせた。……オレだけが生き残った」
拳をぎゅっと握る。
「そのとき、オレも同じことを言ってた。申し訳ないってな」
静かにはっきりと告げる。
「だが、それじゃ足りなかった」
ルソーはソフィーをまっすぐに見た。
「生き残ったなら、歩くしかねえ。死んでいった奴らの分までだ」
亡骸へと視線を落とし、低く続ける。
「お前が生きているのは、この男が命を懸けて残した結果だ。……泣きながらでもいい。抱えて進め。恥じることじゃない」
彼の言葉にソフィーの嗚咽が一瞬だけ止まる。けれど、すぐに小さく首を振った。
「……それでも…私が……生き残ってしまって……申し訳なくて…今は、それしか……言えないんです……」
涙が頬を伝い、血に汚れた軍服をさらに濡らす。
ルソーは彼女の隣に立ち、少しだけ身を屈めて視線を合わせた。
「……それでいい。その思いは、自然だ。無理に今、割り切らなくていい」
少し間を置いて続ける。
「だがな……生き残った者には、残された者を守る役目が残る。それを果たすことは、罪でも恥でもない」
その言葉は静かに胸に落ちていく。瓦礫の隙間から差し込む朝の光が、血に濡れた石畳を赤く染めていた。現実は容赦なく残酷だった。
ルソーは視線を下げ、低く告げる。
「……ただし、他の兵士たちの遺体も、これから運ばれる。手を尽くせることと、どうにもならんことがある」
彼の声は厳しい。だが、突き放してはいなかった。
ソフィーはルソーの言葉を胸の奥に沈めながら、それでも目の前の現実から目を逸らせなかった。守れなかった命。取り返しのつかない結果。深く息を吸い、滲む視界を何とか保った。
「……でも……」
ソフィーの声が思ったより小さくなる。
「彼は……彼の遺体は、どうなるんですか……」
ルソーはすぐには答えなかった。視線を落とし、瓦礫の向こうに横たわるグウェナエルの亡骸を見る。
「……罪人として扱われる」
低く、淡々とした声だった。
「裏切り者。身元不明の異邦人。——戦場じゃ、共同墓地行きだ。珍しい話じゃない」
ルソーの言葉に嘘はない。ソフィーは唇を噛みしめ、それでも一歩も引かなかった。
「……だったら……私が……」
声が震える。それでも言葉を続ける。
「できる限り、手を尽くします。それくらい……させてください……」
ルソーは一瞬、彼女を見た。それから小さく息を吐く。
「……構わん。批判は来るだろう。それでも、できることをやる。それでいい」
ルソーはそれだけ言って視線を外した。戦場の人間なりの許可だった。




