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第一章② ソフィー

 屋上の端に立つ、エリオット。全身を血に濡らし、息も荒い。それでも、その瞳には揺るぎのない意志が宿っていた。

「……彼らは、私が見る」

 低く、はっきりとした声が響く。

「お前たちは下へ。負傷者の手当てに回れ」

 命じられ、兵士たちは一瞬戸惑う。だが次の瞬間、渋々ながらも頷き、動き出した。ソフィーの脇をすり抜け、螺旋階段を駆け下りていく。その背中に、戦場の重みが滲んでいた。

 ソフィーはその場で息を呑んだ。胸を張ろうとするが、心の奥に芽生える戸惑いと焦りを押し切れない。  

 ここが、決戦の場。けれど、目の前にあるのは想像よりもずっと重たい現実だった。

 屋上の中央。ルキフェルが跪いていた。背を向けた両肩が小さく震え、荒い息が漏れている。袖口や衣服のあちこちに滲む血。その視線の先に、塀にもたれかかるマクシムの姿があった。血に濡れた身体。乱れた呼吸。無造作に握られた剣。どちらも、ひと目でわかるほどの重傷だった。

 まるで、長い死線をくぐり抜けてきた者同士の行き着いた果てのように。足元の冷たい石も、遠くで響く戦闘の残響も、急に生々しさを増す。

「……こんな……」

 言葉にならず、ソフィーの声が喉で途切れる。熱いものが頬を伝い落ちた。

 ——助けなきゃ。

 屋上に足を踏み入れたソフィーをエリオットが振り返った。

「来てくれたか、ソフィー」

 疲労を滲ませながらもエリオットの声は静かだった。

「二人とも、かなり酷い。……今、できることを頼む」

 彼の眼差しには緊迫と信頼が宿っていた。

「大元帥も痛ましいですよ……」

 ソフィーの言葉に震えが混じる。

 エリオットは軽く首を振り、淡々と告げた。

「私のことはいい。彼らを優先してくれ」

 彼の言葉にソフィーの決意はさらに固まった。胸に込み上げる恐怖と悲しみを押し殺し、今はただ目の前の二人を生かすことだけを考える。

 ソフィーは真っ先にルキフェルのもとへ駆け寄り、膝をついて彼の顔を覗き込んだ。

「……久々だな」

 血に塗れた唇からこぼれたルキフェルの声は、かすれて震えていた。

 戦場の静寂の中、そのひと言が異様に重く響く。右腕は骨の形が浮き出るほど腫れ上がり、左腕には血で黒ずんだ切り傷が幾重にも走っている。

 もともと傷の多かった顔は、殴打の跡と裂傷でさらに無残に歪み、片側の頬は赤黒く腫れ上がっていた。汗と血に濡れた髪が額に張り付き、肩口から滴る血がぽたり、ぽたりと地面に落ちる。切り裂かれたシャツの下、胸元には擦過傷と深い切り傷が入り混じり、呼吸のたびに胸が苦しげに上下している。息を吸うたびに喉の奥で荒い音が鳴った。膝から下の脚も、擦り傷と打撲で覆われ、砂と瓦礫が絡みついた血で黒く汚れている。カットラスは、彼の手の届かない場所に転がっていた。もはや握る力すら残っていないことが一目で分かる。

 ソフィーは一瞬、目を逸らしそうになる。だが、胸の奥で歯を食いしばり、震える指先を伸ばした。そっと肩に触れる。——熱い。だが、それは生命の温もりではない。焼けつくような発熱と、血と汗の混じった異様な熱だと触れた瞬間に悟る。指先がぬるりと滑った。

「……っ」

 それでも迷わずソフィーは左手で彼の手首を掴み、脈を探った。弱い。細く、今にも途切れそうな鼓動がかろうじて指先に伝わってくる。その微かな生命の証を感じた瞬間、ぞっとするほどの緊張が背筋を駆け上がった。呼吸は浅く、吐き出すたびに湿った音とともに血が混じる。

「……失いたくない」

 ソフィーは唇を強く噛みしめた。再びルキフェルの顔を見据える。その視線を外さないまま、力なく投げ出された指先へそっと手を伸ばした。

 ——冷たい。

 高熱に浮かされているはずの身体に反して、指先だけが異様に冷えている。何度も見てきた徴候だった。命の火が静かに遠ざかりつつある証。

 ソフィーは思わず彼の手を強く包み込み、両手で握りしめる。

「ルキフェル……」

 ソフィーの声は震えていた。けれど、視線だけは逸らさない。ただ彼の翡翠の瞳をまっすぐに捉え続ける。

「……安心しろ」

 途切れ途切れの呼吸の合間に、ルキフェルがわずかに口角を上げた。

「俺はまだ……死に方を決めてない」

 彼の言葉にソフィーは思わず息を呑む。血に濡れ、打ちのめされ、今にも崩れ落ちそうな姿。

 それでも、翡翠の双眸だけは不思議なほど鮮烈な光を宿していた。

「……」

 彼の眼差しを見た瞬間、胸を締めつけていた恐怖と焦燥が、ほんのわずかにほどけた。

 ——大丈夫だ。理由などない。けれど、今はただそう信じられた。

 ソフィーは小さく頷くと彼の傍らにそっとカットラスを置き直した。

「絶対に、置いていったりしないから」

 静かにそう告げ、深く息をついてからゆっくりと立ち上がる。視線を屋上の端へ向ける。

 石塀に背を預け、崩れるように座り込むマクシムの姿があった。遠目に見ただけでも異常だと分かる。

 ソフィーは足を踏み出した。一歩、また一歩と距離を詰めていくたびに、近づくにつれてその全貌が否応なく視界に焼き付く。

 マクシムの全身は血に濡れていた。頬も額も殴打によって無惨に腫れ上がり、白い肌の下には紫や黒の痣がまだらに広がっている。口元は切れ、乾きかけた血が顎へと流れ落ちていた。肩口から脇腹、胸元にかけて、刃物による切り傷が幾重にも走っている。裂かれた布の隙間から赤黒い血が滲んでいた。叩きつけられた痕と切り裂かれた痕が、無秩序に重なり合っている。呼吸は浅く、荒い。胸が上下するたび、喉の奥から苦しげな音が漏れる。

 それでも、両手は何かを掴もうとするかのように微かに震えていた。石畳の上に二本の剣が転がっている。血に濡れた刃は所々欠け、柄も歪んでいる。それでも、つい先刻まで振るわれていたことがはっきりと分かる。二刀流を捨てる瞬間まで抗い続けたのだ。

 やがて、彼女はマクシムの前で足を止めた。和洋折衷の衣服は布も革も引き裂かれ、かつて鮮やかだった刺繍は血と煤に塗り潰されている。そして、彼の象徴だった赤い鉢巻き。裂け、汚れ、布切れと化して、彼の傍らに落ちていた。顔は腫れ、血が滲み、視線は朦朧としている。両腕は力なく垂れ、指先まで傷に覆われていた。それでも最後まで立っていた痕跡だけは確かに残っている。

 これが、マクシムの戦いの跡だった。

 ソフィーは立ち尽くしていた。すると、崩れかけた身体の奥から掠れるような声が零れ落ちる。

「……ずいぶん血だらけだな。顔まで汚して」

 重たそうに瞼が持ち上がり、腫れ上がった片目の奥でかすかな笑みが揺れた。死にかけてなお皮肉だけは忘れない。マクシムは唇を震わせ、息を整えるように間を置いてから低く問いかける。

「君は……鬼は診ないって、言ってたよな……それなのに……どうして、ここに来た」

 ソフィーは胸の奥で渦巻く恐怖と怒りを静かに押さえ込んだ。逃げずに視線を逸らさず、まっすぐマクシムを見る。

「……医者として来たんじゃありません」

 けれど、その続きを言う声は揺れていなかった。ソフィーは一歩近づき、はっきりと言った。

「人かどうかなんて、今は関係ありません。生きるかどうかの問題です」

 マクシムの瞳がわずかに揺れる。

「私はね……鬼だろうが、人だろうが……傷ついた者を放っておけないんです」

 それは職務の言葉ではなかった。誓いでも、理想でもない。

 ただ、ソフィーという人間のどうしようもない在り方だった。

 一瞬、マクシムの瞳に痛みと理解しかけた何かが交錯する。

 ソフィーはマクシムの傍らに膝をつき、血まみれになった赤い鉢巻をそっと手に取った。

「……とりあえず、これで」

 彼女は鉢巻を包帯代わりに使い、出血の激しい箇所を手早く押さえた。血が染みるたび、手が震える。だが、手を止めるわけにはいかない。処置を終え、ソフィーは深く息をつき、マクシムの顔を見下ろす。

「……ごめんなさい、今はこれが精一杯です」

 その言葉とともに彼女はゆっくりと立ち上がり、マクシムから少し距離を取ろうとした時。

 立ち去ろうとする彼女をかすかな声が止めた。

「……復讐は、果たせなかった」

 マクシムの唇は血で赤く染まり、微かに震えている。

「全て失敗した。おれは…どうしたら……」

 ソフィーは立ち止まり、耳を傾ける。

「……隊長、グウェナエルさんが……亡くなりました……!」

 ソフィーの声が裏返り、嗚咽が抑えきれない。

「あなたを……最後まで守ろうとして……私は目にしていないけど…たぶん、もう……!」

 言葉が途切れ、息が詰まる。

「ここに来るまで……たくさんの人が倒れていました。名前も知らない人も、助けを待ったままの人も…………!」

 震える拳をぎゅっと握りしめる。

「胸が…苦しくて…!どうして、こんなことになったのかって……! ……復讐したかったんですよね。取り返したかったんですよね」

 その声は責めるようでいて、どこか痛みを含んでいた。

「でも……あなたが抱き続けたその気持ちが……人を戦場に引き摺り出して……守るはずだった人まで、殺したんです」

 ソフィーの視線がまっすぐにマクシムを射抜く。

「それを……仕方なかったなんて、私は、絶対に言えません……! あなたが成し遂げなかった復讐も、今も胸に抱えている復讐心も……全部、誰かの命の上にある……! だから……その重さから、逃げないでください……!」

 嗚咽を噛み殺し、声を振り絞る。

「……私は行きます」

 震えながらも声ははっきりしていた。

「二度と、失わないために。これ以上、奪わせないために……!」

 ソフィーの背中が朝日に包まれ、城壁に長い影を落とした。血と涙で濡れた軍服が揺れ、彼女の意思の炎だけが鮮烈に輝いていた。

 マクシムはその背中を見つめた。痛みと敗北の中、胸の奥に残るのは自分の犯した罪の重さと、守られた者の強さを目の当たりにした衝撃だけだった。

「……ソフィー……」

 声に出せない後悔が胸の奥で膨れ上がる。手を伸ばしても届かぬ距離。

 倒れた仲間、失った命、そして——グウェナエルの死。マクシムの心に冷たく重く突き刺さる。

 それでも彼の目はソフィーに向けられていた。

「……どうか、無事で……」

 届かぬ願い。ただ塀にもたれ、朝日の中でその背中を見送るだけだった。

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