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最終章③ 嘘のない顔で 続き

 ソフィーはしばらく黙り込んだルキフェルを横目で見てから、ふっと口角を上げた。

「……でもさ」

 わざと軽い調子で言う。

「本番に行く前に、一回ここで素直になってみたら?」

 ルキフェルが眉をひそめる。

「……は?」

「いや、だから。練習。予行演習」

 ソフィーは肩をすくめ、わざとらしく言葉を続けた。

「いきなり本人の前で噛み倒すより、まずここで自分の気持ち整理しといた方がいいんじゃない?」

「余計なお世話だ」

 ルキフェルがぴしゃりと返す。

「俺の問題だ。お前にとやかく言われる筋合いは——」

「あ、もしかして」

 ソフィーは一歩踏み込み、じっと彼の顔を覗き込んだ。

「……また、怖がってる?」

 彼女の一言にルキフェルの言葉が詰まる。

「……違う」

「ほんとに?」

 ソフィーは引かない。

「ねえ。恐怖と向き合わなきゃ、本当の意味で『強い』とは言えないでしょ」

 港の喧騒がふっと遠のいた気がした。ルキフェルは唇を噛み、視線を逸らす。ムスッとしたまま、何も言わない。だが、一瞬だけ船の甲板の方をちらりと見た。

 そこには、仲間と話しながら微笑んでいるスザンヌの姿があった。

 彼女の横顔を見た瞬間、ルキフェルは小さく息を吐いた。

「……しょうがないな」

 ぼそりと誰に言うでもなく呟く。

 ソフィーは黙って少し距離を取った。邪魔をしないように。

 ルキフェルはゆっくりと目を閉じ、胸に手を当てる。

 深く、深く、呼吸を整える。


 ——最初から、答えなんて持っていた。

 ずっと前から、何度も気づく機会はあった。なのに、長い間、目を背けてきた。

 怖かったのだ。失うことが。壊してしまうことが。

 自分が誰かを本気で守ろうとすることが。

 でも、立場も名前も、剣も捨てた今なら。

 逃げる理由は、もうどこにもない。

 互いに何者でもなくなった、今だからこそ。

 ようやく、自分の気持ちと向き合える。


 ルキフェルは目を開いた。その声は低く、静かで揺れがなかった。

「……俺は」

 やっと口に出せる。

「スザンヌを愛してる」

 ソフィーは思わず息を呑む。

「心の底から」

 言葉はそれだけだった。飾りも、誇張もない。ただ、真実だけを置くように。

 潮風が吹き抜け、港の音が戻ってくる。

 ソフィーはしばらく何も言えず、やがて小さく笑った。

「……はいはい」

 少しだけ、目頭が熱い。

「今の、ちゃんと覚えときなさいよ。逃げたら許さないから」

 ルキフェルは苦笑して肩をすくめる。

「言われなくても」

 その横顔は不思議なくらい穏やかだった。

 ソフィーはじっとルキフェルを見つめてから少しだけ口元を緩めた。

「……ねえ、ルキフェル」

 冗談めかした声色で言う。

「もしスザンヌを泣かせたりしたら……許さないから」

 ルキフェルは一瞬目を瞬かせたあと逃げずに真正面から頷いた。

「ああ。大切にする」

 即答だった。迷いはない。その短い言葉の重さにソフィーは息を詰める。

 ルキフェルは視線を落とし、静かに続けた。

「正直な話……俺はずっと、スザンヌのことは」

 少しだけ言葉を探す。

「生きてさえいれば、それでいいと思ってた」

 ソフィーは黙って聞いている。

「そばにいられなくてもいい。笑ってなくてもいい。ただ、息をしていてくれれば……それで充分だってな」

 ふっと苦い笑みが浮かぶ。

「でも……あの処刑のあとだ」

 港の向こう、遠い記憶を見るようにルキフェルは目を細めた。

「全部終わったあと、沈んでた俺のそばに……あいつは、何も言わずに居続けた。慰めもしなかった。励ましもしなかった。ただ、離れなかった」

 ルキフェルは自分の顔——幾つもの傷が刻まれた頬にそっと手を当てる。

「世界はさ……俺が生まれる前から、俺を拒んでるみたいだった。……生きる場所も、居場所もないまま、ここまで来た」

 仲間がいた。家族と呼べる存在だ。それでも、傷だらけの顔を建前に「人を愛したことがない奴、しかもこの顔で誰かを心から愛することなどできない」という渇いた孤独があった。

「そんな俺に……あいつは、こう言ったんだ」

 ルキフェルは一度、言葉を切る。まるで、その瞬間を胸の奥から掬い上げるように。

「独りじゃないって。拒まれてなんかいないって」

 静かに言葉を紡いでいく。

「『世界は、あなたが生まれてくるのを待ってた』。ずっと、待ち望んでいたんだって。……それから」

 ほんの一瞬、息を整えて。

「『私が、ここにいる。だから独りじゃない』って、知ってほしいって」

 ソフィーの胸がきゅっと締めつけられる。

「誰の言葉も届かなかった。癒えなかった傷に……初めて、触れてきたのがスザンヌだった」

 ルキフェルは視線を上げ、まっすぐにソフィーを見る。

「……あいつがいたから、俺はここまで来れた。これからも、一緒に歩いていく」

 そして、少しだけ肩を落としながら続ける。

「仲間たちもだ。俺のために、命を張って動いてくれた」

 翡翠の瞳が揺るがずに光る。

「だから俺は……剣を捨てる。世界と戦うのではなく、姿を消す。それで守れるものがあるなら」

 その言葉に、ソフィーの胸の奥が静かに震えた。

 あれほど心の奥が見えなかった孤独な男が、今はこんなにもはっきりと誰かのために生きる理由を語っている。

 ソフィーはゆっくりと息を吸い、そして、静かに言った。

「……わかった」

 一歩、踏み出す。

「行きなさい、ルキフェル」

 その声には引き止める響きも、責める色もなかった。

 ただ送り出す覚悟と確かな信頼だけがあった。

 ルキフェルは短く頷き、潮風に煽られる短くなった髪を軽く押さえた。太陽の光が翡翠の瞳に反射し、そこには迷いのない決意と未来を選び取った者の覚悟が宿っている。彼はしばらく、何も言わずに海を見つめていた。陽光を受けてきらめく波。風に揺れる帆。そして、ゆっくりと——振り返る。

「……なあ」

 ソフィーをまっすぐに見据える。

「お前も、来るか?」

 差し出された手。潮風に揺れる指先は、ほんのわずかに緊張しているように見えた。港では帆のはためく音や甲板を踏む仲間たちの足音が混ざり合い、波が穏やかに岸を打つ。

 騒がしいはずの場所なのに、この瞬間だけ世界が静止したようだった。

 翡翠の瞳がソフィーを逃がさず捉えている。胸の奥で心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。

 ——触れれば届く。

 けれどその手を取ることは自分が選び、背負うと決めたすべてを置いていくことでもあった。

 ソフィーはしばらくその手を見つめたまま動かなかった。胸に渦巻く想いを、ひとつずつ確かめるようにゆっくり息を整える。港のざわめき。仲間たちの声。風を受ける帆の音。遠くで砕ける波。

 やがて、ソフィーは静かに視線を上げた。

「……私は、行けない」

 その手は取れない。

「残って、やることがあるから」

 彼女の言葉にルキフェルの肩がわずかに落ちる。けれどすぐに彼は小さく息を吐き、穏やかに笑った。

「……そうか。わかった。お前の選択だ。……ちゃんと、尊重する」

 ソフィーは深く息をつき、胸に抱えた短剣をぎゅっと握り直した。冷たい柄の感触が決意を確かに現実へ引き戻す。潮風が髪を揺らし、波の音が静かに重なる。そして彼女は仲間たちを見渡し、はっきりと声を張った。

「私ね……多民族集団のこと、どうしても放っておけないの」

 港の空気がわずかに張り詰める。

「ゼフィランサスと、マクシムがいた場所。そこにいる人たちを、このまま憎しみの中に置いたままにはできない」

 誰かが息を呑む気配がした。

「憎しみ合ったままじゃ、何も変わらない。だから、私たちのほうから歩み寄る。今は、仲直りのための計画を立ててる」

 小さく、けれど揺るぎなく。

「一歩ずつでいい。時間がかかっても、積み重ねていくしかないから」

 ルキフェルは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、すぐに真剣な眼差しでソフィーを見る。

「……相変わらずだな、お前は」

 ソフィーはかすかに笑い、ヘイロンのたてがみを撫でながら続けた。

「だから、私は行かない。ここに残って、私にしかできないことをやる」

 みんなを責めるような感情はなかった。むしろ、ここまで言葉にしても誇らしく、清々しい。

「それに……亡くなった仲間のためにも、私は逃げない」

 一度、息を吸う。

「武器を取らざるを得なかった、みんなのためにも。復讐だけを支えに生きてきたマクシムのためにも」

 視線はまっすぐ前を向いている。

「次の世代のために。誰も放っておかない。誰も見捨てない。——それが、私にできることだから」

 ルキフェルはしばらく黙ったまま潮風を受けて海を見つめていた。やがて、低く噛みしめるように言う。

「……俺が、あの海軍で本当にやりたかったことだ」

 短く息を吐く。

「結果的に……うまくはいかなかったがな」

 彼はソフィーをまっすぐ見据え、手を軽く上げて指を差す。

「いい。その想い……お前に託す」

 ソフィーは一瞬、言葉を失った。だが次の瞬間、胸の奥で覚悟が確かに固まる。

「……わかった」

 短剣を胸に抱き、はっきりと。

「必ず、受け継ぐ」

 港の風の中で二人の決意は静かに交わされた。

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