最終章② 嘘のない顔で
ポート・サイドの港は騒がしい。
波の音、船の軋む音、人々の足音。異国の空気が潮風とともに肌を撫でていく。
そのときだった。
船に乗り込んだ三人と入れ違いに、甲板からひとりの人物がゆっくりと降りてくる。
太陽の光を正面から受け、その姿は遠目にもはっきりとわかった。港に足を下ろし、まっすぐに歩いてくる。そして、ソフィーの前で立ち止まった。波の音だけがゆっくりと時間を刻んでいる。
その顔を見た瞬間、ソフィーの心臓が強く跳ねる。
額の左から頬の奥へと斜めに走る深い裂傷。そのほかにも、幾度もの戦いを物語る傷跡。
それでも翡翠色の双眸は澄み切った光を宿し、まっすぐにこちらを射抜いていた。
「——ルキフェル……!」
思わず零れたソフィーの声は驚きと震えを含んでいた。彼女は一歩、反射的に後ずさり胸の奥では警戒と緊張が渦巻く。それでも同時にはっきりとした予感があった。
——また、ここから何かが始まる。
ルキフェルは静かに微笑んだ。穏やかで、どこか重みを帯びた笑みだった。
風が二人の間をすり抜ける。波の音だけが再会の時間をゆっくりと刻んでいく。
ソフィーはヘイロンの肩に手を置き、胸元の短剣にそっと触れた。
翡翠の瞳が自分を捉えている。彼の視線には微かな優しさが確かにあった。
「……来てくれたんだな」
落ち着いた声。彼の一言が胸の奥に深く響く。
「……ルキフェル……」
ソフィーが一歩、前に出かけて思いとどまる。ヘイロンの首を撫で、呼吸を整えながら問いを投げた。
「……どうして、ここに?」
ルキフェルは肩をすくめるようにして短く答えた。
「お前に会いに来た」
それだけで、長い時間と距離が一気に縮まる。
ソフィーは思わず視線を逸らし、船の甲板へ目を向けた。
——そこには、見慣れた顔が並んでいる。
元マクシミリアン・ブーケ隊の面々。そして、ルキフェルと行動を共にしてきた仲間たち。
ジャスパー、マテオ、ニール、コリン。
シャルル、ジョルジュ、サミュエル。
リゼーヌ、スザンヌ、ペネロペ、アニータ、ロザリー。
全員が無事で、風に帆を揺らしながらこちらを見ている。
「……まさか……」
驚きと安堵と、ほんのわずかな緊張。すべてが混じったソフィーの声が喉から零れた。
ルキフェルは再びソフィーを見て、静かに言う。
「お前に……全員に、会わせたかった」
彼の一言で胸の奥が熱を帯びる。ヘイロンが小さく鼻を鳴らし、ソフィーの手に触れた。その温もりに張り詰めていたソフィーの心がわずかに緩む。
「……みんな……無事でよかった……」
ルキフェルはくすっと小さく笑った。どこか照れたようで、けれど肩の力が抜けた笑みだった。
「言っただろ。俺はまだ、死に方を決めてない」
ソフィーは思わず眉をひそめる。
「……やることが大胆すぎるのよ。危険だし」
「まあな」
ルキフェルは肩をすくめて、悪びれた様子もなく笑う。
「ほら、髪も切った。戦いも旅も、これで少しは動きやすい。それに、これは俺なりの区切りだ」
太陽の光を浴びる彼の姿に、ソフィーの視線は自然と吸い寄せられた。
かつて肩に届いていた波打つ髪は短く整えられ、額に落ちる前髪は柔らかく内側へ沿っている。
耳元も首筋もすっきりとして、風が吹くたびに軽やかに揺れた。
荒々しく伸び放題だった頃の面影と、今ここにある若々しい力強さ。
その両方が重なってソフィーの胸を静かに揺らす。
潮風が二人の間を抜け、港の喧騒は少し遠のいた。波の音、帆のはためき、そして甲板にいる仲間たちの気配、再会の時間だけがゆっくりと濃く流れていく。
ルキフェルはふっと視線を水平線へ向け、低く言った。
「この三ヶ月、色々あった。俺たちもな、ただ生き延びるだけじゃなくて……それぞれ、自分のやり方で動いてた」
ソフィーは甲板を見渡す。
海賊たちと元マクシミリアン隊の面々は笑顔を交わしながらも、誰もが戦いを越えてきた者の目をしていた。
「……ジャスパーたちも、元気そうね」
胸の奥に熱いものが込み上げる。無事でいる。それだけで、どれほど救われるか。
ルキフェルは静かに頷いた。
「ジャスパーも、マテオも、ニールも、コリンも。シャルルも、ジョルジュも……スザンヌ、ペネロペ、アニータ、リゼーヌ、サミュエル、ロザリーもな。全員、ちゃんと生きてる」
ソフィーは息をのむ。名前ひとつひとつが重みを持って胸に落ちてくる。
「でも……どうして、あんな大胆な動きができたの? あの脱走だって……」
ルキフェルは軽く笑った。
「理由があった。それだけだ。簡単に諦められる状況じゃなかったしな。危険なのは……最初からわかってた」
頼もしさと同時に拭えない不安。それでもソフィーは確信していた。
この男なら、仲間を守る。
「……もう十分でしょ。これ以上、無理はしないで」
彼女の言葉に、ルキフェルは目を細めて少し照れたように笑った。
「わかってる。……でも今回は、こうするしかなかった」
ソフィーは小さく頷き、再び船の上の仲間たちに目を向ける。波に揺れる船、風を孕む帆、仲間たちの中で手を振るカルロータとディッキー、そしてリー・ウェン。すべてが、これまでの時間を肯定してくれているようだった。
ルキフェルは短く息をつき、体をわずかにソフィーの方へ向ける。
「……きてくれて、ありがとう」
その一言に言葉以上の想いが詰まっているのが分かった。
驚きも、安堵も、喜びも、そしてこれから先への希望も。
ソフィーは目を細め、静かに返す。
「こちらこそ……生きてて、よかった。ほんとに」
光と音が淡く揺れる。止まっていた時間は、もう終わりだ。
世界は——再び、動き始めていた。
ソフィーは遠くで揺れる帆船の影を見つめたまま、ぽつりと問いかける。
「……で。これから、どうするの?」
ルキフェルはすぐには答えなかった。潮風に髪を揺らし、少しだけ視線を海へ逃がしてから低く口を開く。
「東へ向かう。ネーデルラントの船団を装って、この先の運河を越える。そこからは、東の地をいくつか巡る予定だ。リー・ウェンが全部、段取りをつけてくれてる」
ソフィーは黙って聞いていた。だが、その続きを待つうちに胸の奥にかすかな違和感が芽生える。
ルキフェルはさらに続けた。
「……でな。東の偉い奴に一度、会うことになってる。そいつに会ったら……俺は船を降りる」
ソフィーの呼吸がわずかに止まった。
「……え?」
ルキフェルは構わず淡々と続ける。
「海が近くて、どこかあったかい島国だ。人も多くない。争いも、きっと少ない」
まるでずっと前から考えていたことを、今ようやく口に出したかのように。
「そこで、穏やかに暮らす」
ソフィーはゆっくりと彼を振り返った。理解が追いつかず、言葉が遅れる。
「……なんですって?」
ルキフェルはようやくソフィーを見る。翡翠の瞳は静かで、逃げも迷いもなかった。
「俺は——もう、剣を持たない」
その一言がはっきりと空気を切る。
「捨てる。争いから身を引く。誰かの復讐も、誰かの正義も、もう背負わない」
ソフィーの目がはっきりと見開かれた。
「……ルキフェル……?」
信じられない。あれほど血と戦いの中を生きてきた男が。武の化身そのもののようだった男が。
「今度こそ、自由に生きる」
ルキフェルは静かにそう言った。
「逃げじゃない。……終わらせるんだ」
言葉の奥に長い年月の重さが滲んでいた。
ソフィーはしばらく何も言えなかった。胸の奥で驚きと動揺と得体の知れない不安が渦を巻く。
「……そんなの……そんなの、あなたらしくない……」
ルキフェルはふっと小さく笑った。
「そうか?」
彼の笑みは、どこか穏やかで少しだけ寂しそうだった。
「でもな。これが……今の俺だ」
ソフィーは言葉を失ったまま彼を見つめていた。
目の前にいるのは、逃亡者でも剣士でもない。
——生き方を選ぼうとする、一人の人間だった。
ソフィーは小さく息をつき、ゆっくりと頷く。
「……そっか。じゃあ、フランスには戻らないのね」
ルキフェルは首を横に振る。その動きは静かで迷いはなかった。翡翠の瞳には覚悟とほんのわずかな寂しさが滲んでいる。
「戻らないんじゃない。戻れないんだ」
少し間を置き、低く続ける。
「事情が、あまりにも複雑すぎる。俺たちはもう、海賊としても生きていけない」
潮風が吹き抜け、帆が軋む音が遠くで響いた。
「だったらさ」
ルキフェルは肩をすくめるように息を吐く。
「ここよりもっと遠くへ行く。誰も追いかけてこられない場所へ。——自由に生きるためにな」
ソフィーの胸がきゅっと締め付けられる。言葉が喉で止まり、何も返せないままただ彼を見つめる。
かつて共に戦った仲間。守ろうとした人。
その彼が今、すべてを手放してでも選ぼうとしている道。
ルキフェルはふと言葉を切った。
「……それに」
そう呟いて視線を船の方へ向ける。
ソフィーもつられて振り返ると、甲板の上からこちらを見下ろす人物がいた。
スザンヌだ。風に揺れる髪を押さえながら、彼女は二人を見てほんの少しだけ困ったように、でもどこか温かい微笑みを浮かべている。
ソフィーはゆっくりとルキフェルの横顔へ視線を戻した。
彼の目は、まっすぐにスザンヌを捉えていた。
穏やかな表情。けれど、その奥にあるのはこれまで見たことのないほど真剣で熱を帯びた覚悟。
「守りたいものが、あるんだ」
静かに、噛みしめるようにルキフェルが言う。
「……今度こそ」
一瞬の沈黙。波の音だけが二人の間を満たす。
「それには……剣を捨てる必要があるんだ」
その言葉は決意そのものだった。
ソフィーはルキフェルの言葉とその視線の先を辿った。
船の甲板。潮風の向こう。そこに立つスザンヌの姿と、彼女を見つめるルキフェルの横顔。
——あ。
胸の奥で、小さな音がした。
「……そっか」
思わず、声が零れる。
ルキフェルは何も言わない。ただ、視線を逸らさず静かに船の方を見ている。
ソフィーはゆっくりと息を吐いた。
海賊でも、海軍でもない。剣を捨て、立場を捨て、それでも同じ方向を見ようとしている二人。
「……そういうことだったんだ」
自分でも驚くほど穏やかな気持ちだった。胸に広がるのは切なさよりも温かさ。
「じゃあ……お幸せに」
ソフィーは小さく祝福するように呟く。
その瞬間、ルキフェルが渋い顔でソフィーを見た。
「……いや。まあ……」
彼は顔を背け、か細い声で続けた。
「まだ、何も言ってないんだけどな」
また潮風が通り抜けた。
「……は?」
ソフィーの思考が完全に止まった。
「……え?」
近くでカモメが鳴いた。
「はあ?!」
ソフィーの声が裏返り、港に響きかける。
「ちょっと待って!! あなた、今なんて言った!? 『まだ何も言ってない』ってどういうこと!? まさか……スザンヌに、まだ想いを告げてないってこと!?」
ルキフェルは一瞬ぎょっとして慌てて距離を詰めた。
「おい、やめろ! 声がデカい!! 港だぞ、ここ!」
「だって!!」
ソフィーは一歩も引かない。
「守りたいものができたとか! 剣を捨てるとか! 人生の進路変更みたいなこと言っておいて!! 本人に何も言ってないってどういうことなのよ!!」
「……だから、これから言うんだっての」
ルキフェルは小さく舌打ちして視線を逸らした。
「タイミングってもんがあるだろ」
「はあ……?」
ソフィーは頭を抱えた。
「信じられない……あんな覚悟決めた顔しておいて、肝心なところで慎重すぎでしょ……」
「うるさい」
ルキフェルは小さく吐き捨てるように言う。
「簡単に言えるなら、とっくに言ってる」
彼の声は真剣そのものだった。
ソフィーはルキフェルの横顔を見て言葉を失う。
戦いの中で何度も死線を越えてきた男が、想いを告げることだけにこれほど慎重になる。
「……不器用すぎ」
ソフィーは呆れたように呟きながらも口元は少し緩んでいた。
「でも」
ソフィーはルキフェルを見上げる。
「逃げないって決めたんでしょ? 剣も、争いも捨てるって言ったんだから」
ルキフェルはしばらく黙ったまま、潮風の中で息を吐く。
「……ああ」
遠くで甲板のきしむ音がする。スザンヌはまだこちらに気づかず、仲間と話している。
ソフィーはその光景を見て小さく微笑んだ。
「じゃあ、大丈夫ね」
「……何がだ」
「ちゃんと、幸せになれるわよ。あなた達なら」
ルキフェルは答えなかった。ただ、もう一度だけ船の方を見つめた。




