最終章① 四人と一頭
ソフィーはイザベルに旅立ちを告げるとリー・ウェン、カルロータ、ディッキー、そしてヘイロンとともにトゥーロン港へ向かった。
港には旅客船が停泊し、荷を運ぶ水夫や出航を待つ旅人たちのざわめきが渦を巻いている。潮と木材と人の匂いが混じった、旅立ちの気配そのものだった。
「ヘイロン、甲板は滑りやすいからね。ゆっくりでいい」
ソフィーが首筋を撫でるとヘイロンは耳をぴくりと動かし、慎重に前脚を出した。
やがて船は岸を離れる。潮風が頬を撫で、トゥーロンの街並みは少しずつ遠ざかっていった。
カルロータは甲板で旅客に気さくに声をかけ、ディッキーは荷物を整理しながら、時折ソフィーとヘイロンに目を向ける。リー・ウェンは甲板の端に立ち、静かな眼差しで水平線を見つめていた。
「この顔ぶれで旅するの、なんだか久しぶりね」
カルロータの言葉にディッキーが小さく頷く。ヘイロンも潮風を受けて鼻を鳴らした。
ソフィーはその光景を胸に刻みながら静かに思う。東への航路は長く、決して楽ではない。
けれど、この仲間となら進める。
航海の日々は、小さな出来事の積み重ねだった。
甲板を転がるパンを拾って笑い合い、水夫の手伝いをし、夜には星空を見上げて言葉を交わす。
月明かりの下、ヘイロンは毛並みを銀色に輝かせ、ソフィーの肩に頭を寄せて静かに息をついた。
時には風が荒れ、帆を下ろすために総出で動く夜もあった。
カルロータとディッキーは汗だくでロープを引き、リー・ウェンは短く的確な指示を飛ばす。
ソフィーはヘイロンを落ち着かせながら、その場を離れずに踏みとどまった。
嵐が去ったあとの静けさは何よりも尊く感じられた。
数日後、船は中継の港に立ち寄り、物資を補給する。
再び出航すると空も海もいっそう濃い青を帯び、水平線はどこまでも広がっていった。
トゥーロンを発った頃の緊張はいつしか薄れ、ソフィーの胸には確かな希望が芽生えていた。
そして、ある日——。
海の向こうに、白い屋根が連なる街並みが姿を現した。
太陽に照らされた建物は眩しく、港には無数の帆船が並んでいる。潮風は熱を含み、海面は光を跳ね返してきらめいていた。
「……ポート・サイド」
思わずソフィーの息が漏れる。仲間たちと並び、その景色を見つめる。
長い航海の果てに辿り着いた東方の地が今、目の前にあった。
空と海が溶け合うような光の中で、彼らの旅路は確かに次の世界へと繋がっていた。
船が港内へ滑り込むと、ソフィーはヘイロンの足元を確かめながら賑わう港を見渡した。漁師や商人、荷役の男たちの声が飛び交い、カモメが空を旋回している。
「着いたぞ、ソフィー!」
カルロータが明るく手を振り、ディッキーも大きく息を吐いた。
舵を取っていたリー・ウェンが落ち着いた声で指示を出す。
「このまま停泊します。荷を降ろして、黒龍の足場を確保。その後、ネーデルラント船団と合流しましょう」
ソフィーはヘイロンとともに甲板を降り、港の石畳に足をつけた。揺れから解放された瞬間、身体がふっと軽くなる。潮の匂いと人々の熱気がはっきりと到着を告げていた。
港の奥では、すでにリー・ウェンの仲間たちが動いていた。着物や袴に身を包んだ者たちが手際よく荷を扱い、船を整えている。潮風に揺れる衣の裾、その迷いのない動きにソフィーは思わず息をのむ。
リー・ウェンが異国の言葉で短く声を飛ばすと仲間たちは即座に応じた。言葉が分からなくとも、そこにある信頼と統率ははっきりと伝わってくる。
ソフィーはカルロータとディッキーの隣に並び、静かに立った。
「ソフィー、ここまで本当にありがとうね」
大きな荷を抱えたカルロータが少し照れたように笑う。
「ええ。あなたたちと一緒に、ポート・サイドまで来られてよかった」
ソフィーも穏やかに微笑み返した。
ディッキーは頭をかきながら、ちらりと視線を逸らす。
「正直さ……無理に付き合わせちゃったんじゃないかって、ずっと気にしてた」
「大丈夫よ」
ソフィーは首を横に振る。
「むしろ、ちゃんと旅立つところを見届けられて……安心した」
その声はやわらかく、二人の胸に溜まっていた不安をそっと解くようだった。——と、そのとき。
背後から規則正しい足音が近づいてくる。振り返ると、リー・ウェンの姿があった。
彼は静かに歩み寄り、柔らかな笑みを浮かべて口を開く。
「ソフィーさん。少し、お時間を」
そして、ひと言付け加えた。
「——お渡ししたいものがあります」
差し出されたのは、小さな包みだった。怪訝に思いながら受け取り、そっと包みを解く。
次の瞬間、ソフィーの息が止まった。
「あ……」
そこに収められていたのは、修理に出したままになっていた短剣だった。手に取ると刃は以前よりも丁寧に磨き上げられ、青白い光を帯びるように静かに輝いている。
——グウェナエルが、かつて彼女に託したもの。
リー・ウェンはその様子を見守りながら穏やかに告げた。
「グウェナエルさんが、あなたに残した品です。……きちんと、届けておきたかった」
港の音が遠のいた気がした。ソフィーは短剣を胸に抱き寄せ、溢れそうになるものを必死に堪えながら小さく頷く。
「……ありがとう。本当に……」
声は潮風に溶けるように、かすかに震えていた。
リー・ウェンは一歩下がり、穏やかな笑みのまま告げる。
「これで準備は整いました。——さあ、ここからが本番です」
ソフィーは短剣を手にしたまま、カルロータに小さく呟いた。
「……本当に、行くんだね」
「うん。だから、一緒にここまで来てほしかったの」
カルロータはそう言って柔らかく微笑む。ディッキーも隣で静かに頷いた。
停泊していた一隻の帆船から接岸の準備が始まり、甲板では乗組員たちが慌ただしく行き交っていた。
「あれが……」
ソフィーが視線を向けると、リー・ウェンが一歩前に出て指を示す。
「あれが、わたしたちの船です」
「ここで見送りを終えてトゥーロンに戻るなら、さっきの船に乗ればいいはずですよ」
ソフィーは小さく頭を下げる。
「……ありがとう、リー・ウェン」
潮風に髪を揺らされながらソフィーは少し声を震わせて言った。
「これまで、本当にお世話になった。良い旅路を」
「あなたの任務も、きっと順調に進むでしょう」
まっすぐに向けられた視線には飾りのない確信が宿っていた。やがて帆船が岸に寄せられ、木の甲板が波に揺れて軋む音が響く。カルロータとディッキーは大きな荷を抱えて船に上がり、振り返って手を振った。
「見送ってくれて、ありがとう!」
「無事に行ってくるよ!」
ソフィーも手を振り返し、潮風の中で二人の姿が少しずつ遠ざかっていくのを見届ける。胸の奥で何度も繰り返した。
——行ってらっしゃい。
ふと、ソフィーは隣にいるヘイロンに視線を落とす。
「ねえ、リー・ウェン……ヘイロンは?」
リー・ウェンは黒馬に穏やかな視線を向け、それからソフィーを見た。
「黒龍は、あなたに託します」
思わずソフィーは目を瞬かせる。
「わたしよりも、あなたに懐いていますから」
安堵と驚きが入り混じる中、ソフィーはヘイロンの首を優しく撫でた。温かな体温が現実として手のひらに伝わってくる。
「この子は、きっとあなたの力になるでしょう。危機に陥ったとき……そばにいて、道を示してくれる」
ソフィーは静かに頷いた。
「ありがとう、リー」
リー・ウェンはわずかに視線を落とし、そして口を開いた。
「……ソフィーさん。わたしの真の名は——ヤン・ジュンジャーです」
その名を告げる声は低かった。
「もし、いつかあなたが東の地へ赴くことがあれば……そのときは、この名を頼ってください」
リー・ウェン——ヤン・ジュンジャーはわずかに微笑む。
「いつでも、力になります」
ソフィーは一瞬、言葉を失い、それから深く頷いた。
「……忘れない。ありがとう、ヤン」
二人の間を、最後の潮風が通り抜ける。
リー・ウェンとカルロータ、ディッキーがネーデルラント船団へと乗り込んでいく。
港に残ったソフィーはしばらくその背中を見送った。
潮風の中、ヘイロンの首元をそっと撫でながら胸の奥で静かに噛み締める。
——ここから、また別の旅路が始まる。




