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第九章⑤ ソフィーと???

 昼の光がトゥーロンの街並みに柔らかく差し込んでいた。

 ソフィーは山のように積まれた書類に囲まれ、机に突っ伏すように座り込んでいた。

 一枚片づけても、次の束がすぐに押し寄せる。戦略案、人事整理、各地からの緊急報告。

 王宮から正式な指示が降りないまま、海軍総司令部は半ば手探りで国家を支えている状態だった。肩が重く沈む。それでも目を閉じれば、マクシムたちの顔が浮かぶ。

 仲間を守るために、命を懸けて戦った人間たち。

 彼らが踏ん張っているのに、自分だけが手を止めるわけにはいかなかった。


 季節は夏。空気は熱を帯び、同時に国全体がどこか焦げつくような不穏さを孕んでいた。

 ルキフェルたちの捜索はついに中止となった。

 追えないのではない。追う余裕そのものが国家から失われつつあった。

 その間に、世界は思っていた以上の速度で壊れ始めていた。


 王宮は今や完全な混乱の渦中にあった。

 現国王を支えていた有力貴族——ダラス家の失墜。

 信頼の裏で行われていた幻覚剤の密輸。

 さらにダラス家が旧ブルボン派の中核であり、現体制を内側から破壊するために暗躍していた事実。

 それらすべてが白日の下に晒された末、ダラス家当主は発狂死。

 そして、その裏切りを知った国王自身も精神の均衡を完全に失った。

 怒鳴り、暴れ、誰彼構わず疑い、ついには退位を余儀なくされる。

 王宮では今、派閥を問わず同じ言葉が飛び交っている。

「今は争ってる場合じゃない」

「……で、誰が国王をやるの?」

 現王党。かつて「正義」を掲げ、海賊と犯罪者の断罪を叫んだ若き国王。

 その姿は消えたが、思想だけが民衆の中で生き続けていた。

 その矛先は、海賊だけでは終わらない。次は貴族、次は官僚、そして軍。

 海軍は正義と混乱の板挟みに立たされている。


 そんな状況の中でソフィーは書類に向かい続けていた。

「……休め、って言われてもね」

 ソフィーが軍医としてマクシミリアン・ブーケ隊に加わってから既に一年が過ぎている。

 以前、この一年を振り返ってイザベルに話したときのことを思い出す。

 冷静な副司令官は珍しく柔らかな笑みを浮かべて言った。

「ソフィー、あなた、少し休みを取るべきよ」

「い、いえ。まだ大丈夫です」

「駄目。無理やりでも休暇を取らせる。無期限よ」

 あのときは言葉を失って目を丸くするしかなかった。

 休暇なんて、今の状況でどう使えというのか。


 そして、今日。

 夏の光が窓辺に積まれた書類の山を淡く照らしている。頭は飽和寸前で、心の奥には言葉にならない不安が静かにくすぶっていた。

 そのとき、控えめなノックの音が響く。ソフィーは肩をすくめ、机から顔を上げた。

「……誰かしら。休暇の話なら、今じゃなくて——」

 立ち上がり、散らばった書類とペンを一瞥した瞬間、部屋の空気がわずかに張りつめた。

 扉の向こうから聞こえる足音は落ち着いている。しかし、軽くはない。

 夏の光の中、影が止まる。

 深呼吸をひとつ。心を整え、扉の取っ手に手をかける。

 ゆっくりと開かれた扉の先で、夏の午後の光がいっそう眩しく広がる。

 この国が、次にどこへ向かうのか。その答えが今、ここから動き出そうとしていた。


 扉を開けた瞬間、ソフィーの視線は訪問者の姿に吸い寄せられた。

「……リー・ウェン?」

 思わず名を呼ぶ。驚きと同時に胸の奥に小さな安堵が広がった。

 人事改革の場で顔を合わせて以来、彼の姿を見ていなかった。

 あのときの、すべてを見透かすような静かな目とどこか含みのある微笑みが脳裏をよぎる。

「お久しぶりです、ソフィーさん」

 穏やかな声。けれど、ただの挨拶で終わらないことはすぐにわかった。

「ええ……本当に久しぶりね。今日、来るなんて思ってなかった」

 ソフィーは無意識のうちに半歩だけ距離を取る。胸の鼓動が少しだけ早くなる。

 リー・ウェンは小さく笑って肩をすくめた。

「少し、お話がありまして。よろしければ、中庭へ」

 ソフィーは一瞬戸惑い、頷いた。

 二人で部屋を出ると廊下に足音が静かに反響する。夏の光が壁に淡く揺れていた。


 中庭に出た瞬間、ソフィーは足を止めた。

 柔らかな午後の日差しの下、見覚えのある二人の姿があった。

「……カルロータ? それに、ディッキー……?」

 トルチュ島で出会い、サン・マロで再会した二人。

 その二人がにこやかに、しかも大きな荷物を抱えて立っている。

「どうしてここに……?」

 ソフィーの声がわずかに震える。

 彼らはサン・マロで宿屋を営んでいたはずだ。なのに、この荷物の量はどう見ても短期の訪問じゃない。

 カルロータは楽しげに手を振った。

「やだ、そんな顔しないで。久しぶりね、ソフィー」

 ディッキーも大きく頷く。

「ちょっとね。いろいろ事情があってさ」

 その言い方にソフィーは一瞬で察した。

 これは偶然じゃない。休暇の挨拶でもない。

 リー・ウェンが静かに口を開く。

「実は……わたしたちは、故郷へ戻ることにしました。これまで連携してきた仲間たちも一緒に」

 ソフィーの目が見開かれる。

「え……組織ごと、帰るの?」

 思わず声が上ずった。彼の慎重さを知っているからこそ、この決断の重さがわかる。

 カルロータは肩をすくめて、どこか楽しそうに言った。

「その話を聞いたらね、私も東に行きたくなっちゃって」

「東か……悪くないな」

 ディッキーも笑いながら頷く。

 ソフィーの胸の奥にかすかな寂しさが滲む。けれど、それ以上に三人の覚悟がはっきりと伝わってきた。

「そっか……」

 ソフィーは静かに息を整え、微笑んだ。

「じゃあ……今日は、お別れを言いに来てくれたんだね」

 午後の陽光が四人の影をやわらかく地面に落とす。

 それぞれが、それぞれの場所へ向かうための静かな節目。

 ソフィーは少しだけ間を置き、確かめるように口を開いた。

「……でも、どうして帰ることにしたの? ここでの役目、まだ終わってないんじゃない?」

 リー・ウェンはすぐには答えず、穏やかに目を細めた。視線は中庭の先、空と壁の境目をなぞるように遠くへ向いている。

「予言は、無事に成就しました」

 静かな声だった。

「三つの星に当たる人物たちも、調査の末に見つかりました。その結果を、故郷へ持ち帰る必要があるのです」

 リーの言葉の端々に揺るぎのない確信が滲んでいる。彼は少しだけ口元を緩めた。

「この西の地に留まる理由は、もうありません」

 ソフィーはその言葉を胸の奥で反芻し、静かに息をついた。

 使命を終えた者だけが持つ、あの澄んだ空気。 

 それがリー・ウェンの周囲には確かに漂っていた。

「……なるほどね」

 ソフィーは小さく頷く。カルロータとディッキーもその空気を感じ取ったのか、何も言わず微笑みを交わしていた。しばらくしてリー・ウェンがふと視線を戻す。

「そういえば……ソフィーさん。無期限の休暇を言い渡されたと聞きましたが、本当ですか?」

 ソフィーは苦笑して肩をすくめる。

「ええ。ちゃんと休めたら、また戻ってきなさいって」

 少し視線を落とし、ため息混じりに続ける。

「でもね……いざ休みって言われると、何をすればいいのかわからなくて。新しい任務も決まってるのに、途中で止められたみたいで」

 リー・ウェンはそんな彼女をじっと見つめ、そっと肩に手を置いた。

「ソフィーさん。休むことは、決して無駄ではありません」

 穏やかだが、はっきりとした声。

「体も心も、立ち止まって整える時間が必要です。全力で走り続けられるのは、きちんと休めている人だけですから」

 ソフィーはその言葉を受け止めるように目を伏せた。

「あなたがこれから向き合う任務は、簡単なものではないでしょう。だからこそ、今は自分のための時間を使ってください」

 胸の奥に張り付いていた緊張がすっとほどけていく。

 ソフィーは小さく笑った。

「……そっか。頑張るためには休むのも仕事、ってことだよね」

 リー・ウェンは満足そうに頷く。

「ええ。休みが終わったとき、あなたはきっと今より少し強くなって戻ってきます」

 ソフィーは少し照れたように視線を逸らした。

「ありがとう、リー・ウェン。……少しだけ、肩の力を抜いてみる」

 リー・ウェンはソフィーの視線をまっすぐに受け止め、少しだけ間を置いてから口を開いた。

 その沈黙だけで、ただ事ではないと伝わってくる。

「ソフィーさん。今日ここに来たのは……ひとつ、お願いがあって」

 ソフィーは一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。

「珍しいね。でも、私にできることなら言って。力になるよ」

 リー・ウェンはふっと微笑み、その瞳にわずかな期待を宿す。

「……我々と一緒に、ポート・サイドまで来てほしいのです」

 その言葉が耳に届いた瞬間、ソフィーの思考は完全に止まった。

「……え?」

 声が遅れて、かすれたように漏れる。

「ポート・サイド……? 私が……?」

 心臓がどくりと跳ね、胸の奥がざわつく。あまりに唐突で現実感が追いつかない。

「ちょ、ちょっと待って。ポート・サイドって……エジプトの北東部よね? なんで、私が……?」

 するとカルロータが一歩前に出て、潤んだ瞳で両手を伸ばした。

「お願い、ソフィー! 私たちを見送ってほしいの!」

 彼女の隣でディッキーが肩をすくめながらも珍しく真面目な声で続ける。

「ポート・サイドでネーデルラント船団と合流する予定なんだ。リー・ウェンの仲間もそこに集まる。そこから、一気に東へ向かう」

 ソフィーは三人の顔を順に見つめた。

 戸惑い、驚き、そして胸の奥にじわりと湧いてくる責任感。

 遠い海の向こうで待つ人々のことを思うと怖さと同時に奇妙な引力を感じてしまう。

 リー・ウェンは柔らかく微笑み、静かに言葉を重ねた。

「あなたが一緒なら、わたしたちは心強い。それに……この旅立ちを、どうしてもあなたに見送ってほしいのです」

 ソフィーはしばらく黙り込み、三人を見つめたまま息を整えた。

 カルロータの必死な瞳。ディッキーの覚悟を秘めた表情。そして、変わらず穏やかなリー・ウェンの微笑。

「……わかった」

 ぽつりと自然に言葉が落ちた。

「行くわ。一緒に。ポート・サイドまで」

 その瞬間、カルロータの顔がぱっと明るくなり、ディッキーは大きく頷く。

 リー・ウェンもまた目を細めて穏やかに笑った。

「ありがとうございます、ソフィーさん」

 その声は夏の午後の光と溶け合うように、静かに胸に沁みた。

 ソフィーは大きく息を吸い込む。

 空気は澄み切っていて、どこか遠い東の海へと続いているように感じられる。

 休暇だと思っていた時間は、いつの間にか新たな旅路への入口に変わっていた。

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