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第九章④ ソフィーとイザベル 続き

 イザベルはソフィーの視線を正面から受け止め、静かに問いかけた。

「ソフィー。……これから、あなたはどうしたい?」

 その一言が胸の奥に波紋を広げた。

 ソフィーは思わず息を呑む。

 頭の中に浮かぶのは、ここ数日の出来事ばかりだ。

 マクシムの処刑。ルキフェルの脱走。エリオットの崩壊。

 混乱の渦中にある海軍と置き去りにされた感情。

「わ、私……」

 言いかけて、言葉が止まる。

 イザベルは何も言わず、ただ待っている。潮風が屋上を渡り、遠くの波音が絶え間なく届く。

 なのにソフィーの意識は、今この場所から少しずつ離れていった。


 最初によぎったのは、炎のような眼差しだった。

 マクシムが、もう引き返せない速度で復讐へ向かっていた。

 憎しみの重さに押し潰されながら、それでも誰かを守ろうとして……最後は自分ごと燃え尽きていった。


 ルキフェルが何かを止めようとしていた。

 あの夜も、あの日も。けれど何もかもが間に合わなかった。

 自分は叫んでも届かず、手を伸ばしても空を切った。

 ——何も、止められなかった。

 その痛みだけが、まだ胸の底に沈んでいる。


 次に、冷たい鉄の感触が戻ってきた。

 牢の中、マクシムに語りかけた朝のこと。

 フェルナンドの処刑の話をした。民衆が熱狂していた。人の死が見世物になっていた。

 あの光景が、ただ怖かった。憎しみが感染して、誰もそれを疑わなかった。

 自分がもし、あの群衆の中にいたら。そう思うだけで、喉の奥が冷えていった。

 メリッサが遺した言葉も、話した。


 ——復讐は嫌い。憎しみの連鎖は、もうたくさん。どうか……仲良くしてほしい。


 あの願いは、まだ消えていなかった。

 死んでいった人間の最後の声が、ここに来ても生きている。

 だからソフィーは、あの朝のマクシムに言ったはずだった。

 復讐を力にするんじゃなくて、未来につなげる第三の道を探したい、と。

 それを聞いたマクシムが隣で静かに言った。


 ——その希望……ちゃんと持って行け。おれが行けなかった場所まで。


 終わりと始まりが重なるような声だった。

 あの言葉は預かりものだ。まだ、返せていない。


 そしてもっと遠くへ、記憶は滑っていく。


 潮騒の音。白い崖の端。

 陽差しの中で波を眺めていた、幼い日の午後。

 隣にいたのはラウルだった。

 ラウル・レオパード。まだ二人とも、世界の残酷さを知らなかった頃。

 彼がふと海を見たまま言ったのだ。

 「どっちが上とか下とか……そんなの無ければ、喧嘩もしないで済むのに」

 あの時のソフィーは、何も考えずにそう返した。

 「力なんか無くたっていいのよ。大事なのは、『仲良くしたい』って気持ちよ」

 ラウルが笑った。

 「やっぱり、ソフィーって優しいと思う。キミっていつも、まっすぐなこと言うから」

 崖の下で波が砕けていた。空が広かった。

 あの日の自分には、理想を語る言葉も理由もなかった。ただ、そう思っていた。

 仲良くしたい、という。ただそれだけが、何より正直な答えだった。


 波音が戻ってくる。

 目の前の海が、あの日の海と重なる。


 そうか、とソフィーは思う。

 新しい理想じゃない。新しい決意でもない。

 ずっとそこにあったものだ。

 ラウルと並んで見た海の前から。メリッサが最後に願ったその声から。

 マクシムが行けなかった場所から先へ続いている、一本の線。

 自分はずっと、それを持ち続けていた。

 ただ、それを「選ぶ」と言う言葉を持てないまま、ここまで来ていた。

 イザベルがまだ待っている。

 ソフィーは静かに息を吸った。


「……私は、多民族集団との和解に向けて、動きたいです」


 口にした瞬間、自分でも驚くほどその言葉は迷いなく落ちた。

 逃げでも、理想論でもない。今の自分が、本当に選びたい道だった。

「争いが生んだ溝を、なかったことにするつもりはありません。でも……憎しみだけを残したまま、放っておくこともしたくないんです」

 ソフィーは視線を落とし、静かに続ける。

「マクシムも、ゼフィランサスの仲間たちも……復讐を選ぶしかなかった理由があった。間違っていた部分は、きっとある。でも、それだけで切り捨てていい存在だとは思えません」

 少しだけ声が震えた。

「力でねじ伏せるんじゃなくて。赦すかどうかを急ぐんじゃなくて。まずは同じ場所に立って、話ができるところまで……そこまで、持っていきたいんです」

 イザベルは黙って聞いていたが、やがて小さく頷いた。

「……ええ。あなたの言葉、ちゃんと届いたわ」

 そして、穏やかだが揺るぎない声で言う。

「ソフィー。あなたが『和解』を選ぶなら、それはとても困難な道になる。誰からも理解されないこともあるでしょうし、結果が出ない時間も長い。それでも……あなたがそうしたいなら、私は全面的に支える」

 ソフィーの胸にじんわりと熱が広がった。

「誰かを裁くためじゃなく、誰かと同じ場所に立つために動く。その覚悟があるなら、私はあなたを止めない。むしろ、一緒に背負うわ」

「……ありがとうございます、副司令官」

 ソフィーの声が少しだけかすれた。

「一人だったら、たぶんここまで考えきれませんでした」

 イザベルはわずかに笑い、いつもの凛とした表情を取り戻す。

「なら、二人でやればいいのよ。海の向こうでも、この国の中でも。難しい役回りほど、独りで抱え込む必要はないわ」

 ソフィーは力強く頷いた。潮風が屋上を吹き抜け、二人の間を静かに通り過ぎていく。

 荒々しくも、どこまでも広がる海が眼下にあった。

 迷いは、もうない。険しい道になることは分かっている。

 それでも、ソフィーは決めた。

 自分の選んだ「和解への航路」を、イザベルと共に歩いていくと。

 イザベルは海を見つめたまま静かに言う。

「ソフィー。ひとつ、考えてほしいことがあるの」

 ソフィーは小さく頷き、言葉を待つ。

「多民族集団とフランス海軍の関係は、エリオットとゼフィランサス個人の友情だけで語れるものじゃない。あの決裂は次の世代、そのまた次の世代にまで影を落としている」

 イザベルの声は冷静だったが、その奥に長年抱えてきた問題意識がにじんでいた。

「私たちが何もしなければ、あの蟠りは固定されたままになる。また別のエリオットとゼフィランサスが生まれて、同じ場所で同じ破滅を辿る」

 ソフィーは潮風の中に混じるその覚悟をはっきりと感じ取った。

「……副司令官。そういうことなら、私も動きます」

 イザベルはゆっくり振り返り、ソフィーを見据える。

「よろしい。そう言ってくれると思っていたわ」

 だがソフィーは少しだけ視線を落とす。

「ただ……私は軍医です。人を診ることはできます。でも、外交や交渉の専門家じゃない。軍医という立場には制限も多い……正直、不安もあります」

 イザベルはすぐには答えず、海を見つめたまま沈黙した。やがて、はっきりと口を開く。

「……それなら、総司令部に来なさい」

 ソフィーの胸がかすかに跳ねた。

「総司令部……ですか?」

「ええ。現場だけにいては動かせないものもある。あなたの医学的知識、人を見る目、現場で築いた信頼――それは、交渉の場でも十分に武器になる」

 イザベルは静かに続ける。

「現場での交渉役を担ってもらう。マクシミリアン隊の元部下たち、そしてゼフィランサスに関わる多民族集団との窓口よ。そのうえで、総司令部補佐として私を支えてほしい。現場で得たものを、すべてここに持ち帰ってもらう」

「……楽な仕事じゃないですね」

「そうよ。でも、あなたの判断次第で海軍の未来は変わる。それだけの立場を、私はあなたに託したい」

 ソフィーは海を見つめ、静かに頷いた。

「……わかりました。私、行きます」

 風が二人の間を抜ける。イザベルは手を差し出した。

「一緒に進みましょう。海軍の未来のために」

 ソフィーは迷いなく、彼女の手を取った。握られた手の温もりは命令でも誓約でもなく、同じ責任を背負う者同士の合図だった。

 イザベルは小さく息をつき、踵を返す。

「さて、戻りましょう。人事改革の続きを進めないと」

 ソフィーも隣に並ぶ。

「総司令部での任務……必ず務めます」

「頼りにしているわ、ソフィー」

 二人は並んで屋上を後にした。見下ろすトゥーロンの街には、昼の光が満ち始めている。

 過去の影を抱えながらも、動き出した新しい時代の予兆だった。


 執務室に戻るとルソー、アルフォンス、ベルリオーズたちはすでに作業に戻っていた。

 先ほどまでの重苦しさは影を潜め、代わりにどこか張りつめた静けさが部屋を満たしている。

 今ここで交わされる判断が、これからの海軍の行方を左右する。誰もがそれを理解していた。

 ルソーは第一艦隊の作戦報告書を片手に顔を上げて言い切った。

「オレの役目は変わらん。現場で部隊を率いる。それだけだ」

 迷いのない声音だった。戦場に立つ覚悟を隠しもしないその姿に室内の空気が自然と引き締まる。

 アルフォンスは淡々と書類を整理しながら頷く。

「私は引き続き、総司令部で補佐に回ります。混乱を最小限に抑えるためにも、内部の調整は任せてください」

 彼の落ち着いた口調に誰も異論を挟まなかった。

 ベルリオーズはイザベルの示した配置案に目を通し、小さく息を吸う。

「……情報部、ですか」

「君の家系と能力を考えれば適任だ」

 イザベルの言葉にベルリオーズは一瞬だけ驚いたような顔をし、それから静かに頷いた。

「承知しました。できる限りの情報を集めます」

 ベルリオーズはふとソフィーと目が合う。二人は言葉を交わさず、ただ小さく頷き合った。同じ任務を背負う者同士の合図だった。

 イザベルは全員を見渡し、静かに告げる。

「配置は決まった。次はどう動くかだ」

 彼女は机に手を置き、視線をソフィーとベルリオーズに向ける。

「二人は組んで動いてもらう。情報収集と和解への足がかり作りだ。感情論に流されるな。必要なのは、現実を動かす行動よ」

 ソフィーは背筋を伸ばし、はっきりと頷いた。

「はい」

 その一言に迷いはなかった。

 執務室には再び作業の音が戻る。紙をめくる音、ペンを走らせる音、低く交わされる指示。けれど、そこにあったのはかつての混乱ではなかった。方向が定まった空気だった。

 その一角でリー・ウェンが横笛を机に置き、ふと思い出すように口を開いた。

「エル・イエロ島……懐かしいですね。以前、マクシムさんと接触したときのことを思い出します」

 ソフィーはすぐにメモを取り、ベルリオーズも身を乗り出す。

「島の住民は外部との関わりに慎重です。特に、フランス海軍には警戒心が強い。派閥もいくつかありましたし、全員が同じ考えではありません」

 リー・ウェンは地図を広げ、島の位置を指でなぞる。

「それに、島へ向かうには隣国の許可が必須です。無断で入れば外交問題になります」

 ベルリオーズが肩をすくめる。

「……やっぱり、ひと筋縄じゃいかないか」

 ソフィーは視線を上げ、静かに答えた。

「ええ。でも、進まなければ何も変わらない」

 リー・ウェンは小さく笑い、二人を見た。

「慎重に行くことです。でも、君たちならやれると思います」

 ソフィーとベルリオーズは顔を見合わせ、苦笑する。

「……長い旅になりそうですね」

「ええ。でも、覚悟はできています」

 窓から差し込む光が執務室を柔らかく照らす。


 険しい道だ。だが、進むべき航路はもう見えている。

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