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第九章③ ソフィーとイザベル

 徒刑所に戻るとソフィーは小さく息をつき、そのまま足を止めずにエリオットの執務室へ向かった。

 扉を開けると、そこにはいつもの喧騒はなく張りつめた静けさだけがあった。

 室内ではそれぞれが黙々と自分の仕事に向き合っている。

 隅のほうではルソーとリー・ウェンが声を潜めて話し込んでいた。時折くすりと漏れる笑い声はどこか抑え気味で、張り詰めた空気に小さな緩みを添えている。

 一方、アルフォンスとベルリオーズは机に向かい、書類の山と格闘中だった。紙をめくる音、羽ペンが走る音、インク壺に触れるかすかな音だけが、規則正しく響いている。

 そしてイザベルはエリオットの執務机の前に腰を下ろし、黙々と作業を続けていた。視線は鋭く、表情は硬い。それでも手は止まらず、淡々と次の書類へ進んでいく。その姿を見てソフィーは思う。

 ──ここはもう、混乱の場じゃない。立て直す場所だ。それぞれが、自分の役割へ戻りつつある。

 彼女は静かに扉を閉め、空気を乱さぬよう一歩、部屋の中へと足を踏み入れた。執務室の光景を静かに見渡す。緊張と疲労、そしてまだ癒えきらない影をそれぞれが背負いながらも皆が自分の役割を果たそうとしている。

 その空気を感じ取り、ソフィーはイザベルの前で足を止めた。息を整え、落ち着いた声で切り出す。

「副司令官。大元帥の様子を確認してきました」

 イザベルは手を止めることなく書類に目を走らせたまま、顔だけをソフィーに向ける。

「……状態は?」

「正直に申し上げます。想定より深刻です」

 ソフィーは声を低く保ち、事実だけを選んで続けた。

「意識はありますが、視線は定まらず言葉も断片的でした。海の方を見て、独り言を繰り返していて……こちらを部下として認識している様子はありませんでした」

 イザベルは眉をひそめ、書類の端に鉛筆で短く印を入れる。

「そう……」

「担当医師の見解では、長年抑え込んできた精神的な負荷が限界を超えて表に出た状態だそうです。公務に復帰できる段階ではなく、無理をさせれば悪化する可能性が高いと」

 そこでソフィーは一拍置き、言葉を慎重に選んだ。

「医師としては、職務から切り離し、できるだけ穏やかな環境で過ごさせることを勧めていました」

 イザベルは静かにうなずき、鉛筆を置く。

「……ありがとう。要点は把握しました」

 ソフィーは軽く頭を下げる。

「今後も定期的に様子を見て、変化があればすぐ報告します」

 その言葉にイザベルは短く頷き、再び書類に視線を戻した。余計な声が消えていた。だがソフィーはもう一歩踏み込む。

「補足ですが……医師の話では、今の大元帥には何をさせるかより、誰がそばにいるかの方が重要だそうです」

 イザベルの鉛筆がそこで止まった。

「日常の世話や無理のない会話。急な情報や責任を背負わせず、安心できる人間が近くにいること。それが、わずかでも回復につながると」

 イザベルはゆっくり顔を上げ、ソフィーを見る。その目には迷いのない静かな光が宿っていた。

「……なら、私がそばにいよう」

 即断だった。躊躇も、言い訳もない。

 ソフィーは一瞬言葉を失ったが、すぐに理解する。これは感情ではなく、覚悟だ。

「……ありがとうございます」

 深く頭を下げながらその決意を胸に刻む。執務室に静けさが戻る。だが、その沈黙は混乱の名残ではない。役割が定まり、覚悟が引き継がれたあとの、静かな前進の音だった。

 イザベルは椅子から立ち上がり、執務室をゆっくりと見渡した。

 ルソーは机の横で腕を組み、アルフォンスとベルリオーズは書類から手を離す。

 ソフィーは静かに背筋を伸ばし、リー・ウェンは部屋の隅で音も立てずに様子を見守っていた。

「みんな、少し手を止めて」

 落ち着いた声だったが、自然と背筋が伸びる響きがある。室内の空気が一瞬で引き締まった。

「大元帥が公務に戻れない以上、この混乱を収める責任は——私が引き受けます」

 言い切りだった。誰かに委ねる余地はない。

「これからすぐ、国王陛下へ書簡を送ります。内容は二点。ルキフェル脱走の経緯と、エリオットの現状について」

 アルフォンスが小さく頷き、すぐにメモを取り始める。

「同時に海軍内部の混乱を抑えるため、人事と指揮系統の整理も進めます。トップが空白のままでは、現場が先に崩れます。それは避けなければならない」

 ルソーが拳を握り、前に出る。

「了解だ、副司令官! オレたちは現場でも机の前でも、全部やる!」

「私もです!」

 ベルリオーズがすぐに続いた。

「書類整理でも連絡調整でも、何でも指示をください!」

 ソフィーも静かに一歩踏み出す。

「私も動きます。情報整理や関係各所への連絡、必要なら私が引き受けます」

 イザベルは一人ひとりに視線を向け、短く頷いた。

「ありがとう。心強いわ」

 それから指揮官の顔に戻る。

「では役割分担を。まずは国王陛下への書簡、その後すぐに内部体制の整理。時間はありません。遠回りもしない」

 その瞬間、部屋の隅でリー・ウェンが短く横笛を鳴らした。澄んだ音が一粒、空気を抜けていく。張りつめていた空気がわずかに和らいだ。

 イザベルはそれに気づいたように、ふっと息を吐く。

「とはいえ、休憩も必要ね。一度、ここで区切りましょう」

 その一言で張りつめていた糸がふっと緩んだ。

 アルフォンスは肩を落とし、ベルリオーズは思わず苦笑する。ルソーも大きく息を吐き、首を回した。ソフィーも小さく息をつく。ここまで来た。そう思えた瞬間だった。リー・ウェンは横笛を手に控えめに微笑む。その音色はまだ鳴らされていないが、部屋には柔らかな余韻だけが残っていた。

 イザベルは皆を見渡し、ほんの少しだけ笑う。

「短い休憩よ。その後は、また全力で行きましょう」

 それぞれが動き出す中、執務室にはいつもの慌ただしさとわずかな和やかさが戻ってくる。

 書類を抱えるルソー、駆け回るベルリオーズ、淡々と整理を続けるアルフォンス。

 その光景を背に、イザベルは静かに机から離れた。書類をそっと置き、深く息をつく。

「……少し、外の空気を吸ってくるわ」

 誰に向けた言葉でもない。振り返ることもなく、静かに扉へ向かう。その背中には指揮官としての凛とした強さと同時に一人の人間として背負う疲労と重責が滲んでいた。部屋の中がどれほど前を向いて動き始めていても、彼女の胸の奥にはまだ下ろせない重荷が残っている。

 それでも、立ち止まらない。それが、イザベル・ボナパルトという人間だった。

 ソフィーは一瞬、その背中から目を離せずにいた。いつもは誰よりも背筋が伸びていて、迷いなく前に立つ人。そのイザベルが今はハッキリと疲労を背負って歩いている。

 放っておけない。そう思った瞬間にはもう足が動いていた。

 ソフィーは音を立てないよう距離を保ちつつ、イザベルの後を追う。

 執務室のざわめきが遠のき、やがて屋上へと続く扉の向こうに開けた空が現れた。

 屋上ではイザベルが手すりにもたれて立っていた。海を見下ろすその横顔はどこか遠くを見つめていて、思考の深みに沈んでいるように見える。肩には責任と疲れがそのまま形になったような重さがあった。

「……あ、ソフィーか」

 気配に気づいたのか、イザベルがようやく顔を上げる。声はいつもより低く、少し掠れている。

 ソフィーは距離を詰めすぎないようにして静かに声をかけた。

「副司令官……お疲れ、ですよね。大丈夫ですか」

 イザベルは答えず、海に視線を戻したまま小さく肩をすくめる。深く息を吸い、水平線の向こうを見つめる仕草は言葉を探しているようだった。

 ソフィーはその背中を見つめながら胸の奥で静かに覚悟する。

 副司令官だって……人なんだ。屋上を吹き抜ける風は冷たく、潮の匂いを運んでくる。凛として見えるその背中にも、今ははっきりと疲れと重圧がのしかかっていた。

 ソフィーは一歩だけ近づき、支えるように隣に立つ。潮風が二人の間を抜け、遠くの海面がきらきらと光を返していた。

 イザベルは肘を手すりにつき、またひとつ深いため息を落とす。

「……ソフィー。あの人があそこまで壊れてたって……あなたは、前から気づいてた?」

 ソフィーは一瞬言葉に詰まり、視線を落とした。

「病院で……正直な状態を見てきました。誰かが声をかけてどうにかなる、そういう段階じゃ……なかったです」

 イザベルの肩がわずかに揺れる。

「私が……気づけなかったのよ」

 言葉は低く、重く落ちた。

「友人なのに、ずっと総司令官としての姿しか見てなかった。まさか……あんなふうに、人として壊れてしまうなんて……」

 口元がわずかに震える。いつも感情を抑えていた背中が、今は疲労を隠しきれていなかった。

「これからは、海賊の動きにも目を光らせなきゃならない。外の脅威も山ほどあるわ」

 ソフィーは静かに頷く。けれどイザベルはそれだけでは終わらせなかった。

「でもね……それ以上に怖いのは、内側よ」

 海軍。組織。人の動き。

「彼がいない今、どこまで私が支えられるのか……正直、自信がない」

 吐き出すような声が潮風に混じって震える。

 ソフィーは一歩、しっかりと並び立ってはっきりと言った。

「副司令官、大丈夫です」

 そして、少しだけ柔らかく続ける。

「私も、ここにいます。副司令官が全部一人で背負う必要なんてありません」

 イザベルは一瞬だけソフィーを見てかすかに微笑んだ。けれどその瞳の奥には、まだ消えない不安とこれから背負う責任の重さが映っている。

「……ありがとう、ソフィー」

 小さな声で言った。

「あなたがいてくれるだけで……少し、救われるわ」

 屋上を吹き抜ける風が二人の沈黙を包み込む。遠くで波が寄せては返す音が、まるでこれから始まる日々への合図のように静かに響いていた。

 ソフィーは水平線から視線を戻し、イザベルを見た。少しだけ間を置いて慎重に言葉を選ぶ。

「……これから副司令官が指揮を執るということは……実質的に、海軍のトップに立つということですよね」

 イザベルは手すりに指をかけたまま軽く眉を寄せる。

「ええ。状況的には、そうなるわね。エリオットが公務に戻れない以上、内部も艦隊も私がまとめるしかない」

「でも……大元帥の席は?」

 ソフィーが踏み込むとイザベルは小さく息を吐いた。

「形式上は空席よ。でも実際には、私が決定を下さなきゃいけない場面が増える。混乱を長引かせるわけにはいかないから」

 ソフィーは思わず息を呑んだ。総司令部の慣習を考えれば、それがどれほど異例で、どれほどの重圧かは想像に難くない。

「……副司令官の判断一つで海軍全体が動く、ということですね」

 イザベルはゆっくりと頷く。

「ええ。正直、重いわ。でもね、誰かがやらなきゃもっと酷くなる。それを望んでる人はいないでしょう?」

 ソフィーは一度大きく息を吸い、はっきりと言った。

「……わかりました。副司令官の判断のもと、私たちは全力で支えます」

 その言葉にイザベルの表情がわずかに緩む。

「ありがとう、ソフィー。こうして一緒に考えてくれる人がいるだけで……ずいぶん救われるわ」

 潮風が二人の間を通り抜ける。

 ソフィーはこれから訪れるであろう海軍内部の変化と、自分たちの立場を胸の中で整理していった。やがて、ふと思いついたように再び口を開く。

「……大元帥の任命って、国王陛下ですよね。となると……副司令官が正式に大元帥になる可能性も、あるんでしょうか」

 イザベルはしばらく黙り、水平線を見つめた。風に揺れた髪が頬にかかる。

「理論上は、あり得るわ。でも……簡単な話じゃない」

「……やっぱり、政治的な問題、ですよね」

「ええ。大元帥は、ただの指揮官じゃない。国家の威信であり、海軍そのものの象徴でもある。王の意思だけじゃなく、国内外の圧力も絡む……」

 ソフィーは静かに頷いた。

「実力や経験だけで決まる席じゃ、ないんですね」

「その通りよ。だからこそ、今は称号よりも現場。誰が大元帥かより、誰が舵を取るかが大事なの」

 イザベルはわずかに笑みを浮かべた。

「今の私は、肩書きじゃなくて操舵手。嵐の中で舵を放すわけにはいかない、それだけ」

 ソフィーはその言葉を噛みしめ、背筋を伸ばす。

「……形式はどうあれ、今、海軍を動かしているのは副司令官ですね」

「ええ。そして——」

 イザベルはソフィーを見て、静かに続ける。

「それを支えるのが、私たちの役目よ」

 ソフィーははっきりと頷いた。潮風の中で彼女の胸に覚悟が定まっていく。

 称号ではなく、責任。名ではなく、行動。

 これから先、どんな嵐が来ようとも……彼女はこの舵取りのそばに立つと決めたのだった。

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