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第九章② ソフィーとヘイロン

 ソフィーが中庭に出ると木陰の下でリー・ウェンが腰を下ろし、横笛を吹いていた。澄んだ音色が春の空気に溶け込み、張りつめた気配をほんのわずか和らげている。

 ソフィーは足を止め、しばらくその旋律に耳を澄ませてから静かに声をかけた。

「リー」

 笛の音がすっと途切れ、彼が顔を上げる。

「やあ、ソフィーさん。……耳障りじゃありませんでしたか?」

「いいえ。とても綺麗よ」

 そう答えてソフィーは本題に入った。

「ルソー准将のところへ行ってもらえない? 少しでも場の空気が和らげばと思って」

 リー・ウェンは目を細め、笛を指先で軽く回す。

「なるほど。あの熱血漢の相手役、ですね。いいでしょう。きっと退屈している頃でしょうし」

「ありがとう」

 ソフィーの胸の奥で張っていたものが少しだけ緩む。

「それと……もうひとつお願いがあるの」

「何でしょう?」

「あなたの馬を借りたいの。黒い馬……ヘイロンを」

 一瞬だけ眉が上がったが、すぐに彼は頷いた。

「黒龍なら、脚も気性も申し分ない。大事に扱ってくれるなら彼も喜びますよ」

「必ず。ありがとう」

 深く礼をしてソフィーは中庭を後にした。厩舎へ向かうとヘイロンはすぐに気配に気づき、耳を動かした。艶やかな黒毛が陽を受けて揺れ、長い鼻先をこちらへ伸ばしてくる。

「こんにちは、ヘイロン」

 そっと鼻面を撫でると馬は穏やかに鼻を鳴らし、頬をすり寄せてきた。

「……すっかり仲良しね、私たち」

 そう言うと、ヘイロンは答えるように軽く蹄を鳴らす。

 ソフィーはたてがみに指を通し、ふと微笑んだ。

「……思い出すわ。あの夜、夜明け前に君と一緒に駆けたこと」

 記憶が一気に引き戻される。


 まだ薄暗い海岸沿いの道。ラド・ド・ブレストを望む浜辺から黒馬は嵐のように走り出した。

 グウェナエルの手が手綱を引き、鞭音が夜を裂く。次の瞬間、蹄が砂を蹴り、雷鳴のような音が響いた。潮風は冷たく、髪も衣も乱れる。それでも胸の奥は不思議なほど熱に満たされていた。波しぶきが光を帯びて弾け、水平線がかすかに白んでいく。耳元に落ちた彼の声。

「進め。止まるな。命の限り——!」

 馬の鼓動と重なり、その声はソフィーの心臓を強く打った。

 二人と一頭の影が、夜明けの海辺を閃光のように駆け抜ける。

 あの瞬間、世界には彼と自分と、ヘイロンしかいなかった。

 そう錯覚するほど濃く、鮮やかな時間だった。


 現実へと戻り、ソフィーはヘイロンの首筋に頬を寄せる。

「……忘れられるはず、ないわ」

 黒馬は低く鼻を鳴らし、追憶を受け止めるように静かに身じろぎした。

 ソフィーは顔を上げ、手綱を取る。

「……行きましょう、ヘイロン」

 鐙を踏み、背に跨るとヘイロンは小さくいなないた。まるで彼女の決意を察したかのように、力強く地を踏み鳴らす。昼光に照らされたトゥーロンの街路を黒馬は駆ける。石畳はまだ冷たく、蹄音が反響するたび通りの影が揺れた。店の扉や窓から人々が顔を覗かせ、驚いたようにその姿を追う。

 過去は胸に抱いたままでいい。けれど、足はもう前を向いている。


 やがて城塞都市の門が見え、その奥に医務局の白い壁が昼の光を受けて浮かび上がった。

 ソフィーは背筋を伸ばし、ヘイロンの首筋を軽く撫でる。

「……ここからは、私の役目ね」

 蹄音が澄んだ音を立て、黒馬はそのまま街路を真っ直ぐに駆ける。やがて速度を落とし、医務局の前で静かに足を止めた。昼光に照らされた白壁は眩しく、入口脇の鉢植えの葉が風に揺れている。

 ソフィーは鐙から足を下ろし、馬の背を降りると手綱を握ったままヘイロンの首を撫でた。

「ありがとう、ヘイロン。助かったわ」

 黒馬は小さく鼻を鳴らし、落ち着いた様子でその場に立つ。その背後で医務局の建物は静かな威厳を湛え、窓の向こうでは看護官たちが忙しなく動いているのが見えた。

 ソフィーはひとつ深く息を吸い、石畳を踏みしめて歩き出す。胸の奥に残る追憶や英雄の末路の光景を、ひとつずつ意識の奥へ押し戻す。今は、仕事だ。

 扉を押し開けると明るい昼光に満ちた室内が広がった。看護官たちは慌ただしく立ち働いていたが、ソフィーの姿に気づくと一瞬だけ手を止め、軽く会釈を返す。

 ソフィーは足を止め、静かに名乗った。

「海軍から参りました、ソフィー・ルノアールです。イザベル・ボナパルト副司令官の指示で来ました。突然で失礼します」

 声は落ち着いていて余計な感情は乗せない。それでも、はっきりとした意思だけは伝わる調子だった。

 看護官の一人が小さく頷く。ソフィーは簡潔に続けた。

「本日は大元帥のご様子を確認し、必要があれば報告を行うために来ています」

 その一言で室内の空気がわずかに引き締まる。

 ソフィーは手袋を軽く整え、奥へと続く廊下へ視線を向けた。窓から差し込む昼光が白壁に反射し、廊下を柔らかく照らしている。その光の中を彼女は迷いなく歩き出した。

 扉の前でソフィーはひとつ深く息を吸った。

 目撃者として、事実を受け取る時間だ。気持ちを整え、ゆっくりとドアノブに手をかける。

 軋む音を立てて扉が開き、病室の中が視界に入った。ベッドの上には大元帥が横たわっている。

 昼の光に照らされたその身体はまだ人の形を保っていたが、顔に刻まれた疲弊と重圧は隠しようもなかった。

 ソフィーは中へ入り、足を止める。まずは、見る。

 ベッドに横たわる男は、まるで時間から切り離されたかのように動かない。目は半開きで、焦点は定まらず、どこを見ているのかも分からない。意識はあるのだろう。だが、それは「今ここ」にある意識ではなかった。呼吸はゆっくりで、時折大きく胸が上下する。指先は力なくシーツに触れ、かすかに震えている。

 ——身体が震えているんじゃない。心が、もう自分を支えきれていない。

 これは単なる衰弱ではない。二十年分の罪と後悔が、いまようやく身体の表に滲み出ている。

 ソフィーは目を細め、わずかな変化を追った。眉間の寄り、唇の引きつり、呼吸が一瞬止まる間。

 彼が「まだ生きている」証であり、同時に心がほとんど壊れている証でもあった。

「……ここまで、人は自分を壊せるんだ」

 思わず、心の中で呟く。恐ろしいのに、理解すればするほど感情は冷えていった。

「……見届けるしかない」

 ソフィーは椅子に腰を下ろし、ベッドの脇に座る。同情でも、恐怖でもない。ただ記録する者としてここにいる。昼光の中で、エリオットの身体は微かに揺れていた。目の奥の光はほとんど消え、殻だけがそこに残っているように見える。彼の口が、かすかに動いた。

「……ゼフィール……どうして………ミレーユ……ラウル……ラウル……」

 弱々しい声が途切れ途切れに空間へ溶けていく。その視線は窓の向こう、海の方を向いていた。

 もう誰も、彼を「大元帥」とは呼ばない。

 そこにいるのは名も地位も記憶も失い、自分自身からも置き去りにされた一人の人間だった。

 ソフィーの胸の奥にひとつの像が浮かぶ。

 息子のために祈り、すべてを失い、それでも赦されなかった父。

 震える肩。押し殺された嗚咽。途切れがちな呼吸。そのすべてをソフィーは静かに受け取った。

「……これが、英雄の末路」

 声には出さない。名誉も力も、何ひとつ救いにならない。その現実が、冷たくはっきりと突きつけてきていた。

 病室の扉がほとんど音を立てずに開いた。革の上着を着た医師が一歩中へ入り、手を組んだままベッドの方へ視線を落とす。その表情は、はっきりと深刻だった。

 ソフィーはベッド脇に立ち、簡潔に問いかける。

「……担当の医師として、今の大元帥の状態をどう見ますか」

 医師は小さく息を吐き、言葉を選ぶように口を開いた。

「率直に申し上げます。精神面の損耗が非常に大きい。公務はもちろん、日常的な判断すら難しい状態です」

 ソフィーは眉をわずかに寄せる。

「時間が経てば……自然に落ち着く可能性は?」

 医師は首を横に振った。

「厳しいでしょう。長年、ご自身の感情や責任を抑え込み続けてこられた。その反動が、いま一気に表に出ています」

 ソフィーは静かに続ける。

「……具体的には、どう過ごさせるのが最善でしょうか」

 医師は少し考え、慎重に答える。

「外部からの刺激は極力避けてください。責める言葉や問いかけも不要です。声をかけるなら、穏やかに。理解を求めようとしないこと」

「……日常を、保つ」

「ええ。食事、休息、軽い散歩。その程度で十分です。新しい情報や急な変化は、かえって負担になります」

 ソフィーは小さく頷く。

「つまり……無理に戻そうとせず、今の状態を受け入れる」

「その通りです。可能なら信頼できる人物がそばにいるといい。ただし、何かをさせようとする必要はありません。静かに、そこにいるだけで」

 ソフィーの口元がわずかに緩んだ。

「……それなら、私たちにできそうです」

 医師は最後にベッドの方を一瞥し、静かに言った。

「今は、彼自身が内側を整理する時間です。外から手を加えすぎないこと。それが、唯一の助けになります」

 ソフィーは深く息を吸い、窓から差し込む光に一度視線を向けた。

「……理解しました。見守ります。必要以上に触れず、ただそばで」

 医師は軽く頭を下げる。

「それで十分です。どうか、あなたご自身も無理をなさらず」

 ソフィーは同じように一礼した。

「ご説明、ありがとうございました。今後もよろしくお願いします」

 医師が病室を出ていくと廊下の静けさが戻ってきた。

 ソフィーは扉の前に立ち止まり、ほんの一瞬だけ振り返る。

 ベッドの上で、かつて英雄と呼ばれた男は静かに呼吸をしていた。

 見守る。それだけでいい。そう確信しながらソフィーは病室を後にした。廊下に満ちる静けさが、今の彼女の心と不思議なほどよく重なっていた。


 外に出ると昼の光が柔らかく降りそそぎ、ヘイロンが静かに待っていた。黒い馬体は微動だにせず、ただ主を迎えるように耳を向けている。

「……よし、帰ろう」

 ソフィーが声をかけるとヘイロンは小さく鼻を鳴らし、ゆっくりと歩き出した。

 石畳を踏む蹄の音が穏やかな午後の空気に溶けていく。道すがら、海からの風が髪をなでた。昨日の混乱、ルキフェルの脱走、そして医務局で目にしたエリオットの姿。重く暗い記憶が脳裏をかすめるが、今のソフィーはそれに呑まれない。

 見た。理解した。だから、進める。

 ヘイロンの背に身を預けながら彼女は心の中で静かに言った。

「……家に帰ろう」

 蹄の音が一定の調子を刻み、ソフィーとヘイロンはゆったりとした足取りでトゥーロン徒刑所へ戻っていった。

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