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第八章③ ソフィーとエリオット

 扉が開いた瞬間、室内の空気が一段、張りつめた。

 アルフォンスが先に足を踏み入れる。いつもの落ち着いた所作を保とうとしているが、肩のわずかな強張りが隠しきれなかった。

 続いて、イザベルとルソーがエリオットを挟むようにして入室する。

 海軍大元帥エリオット・ド・レオパード。その名に伴う威厳は、今や影を潜めていた。足取りは危うく、顔色は悪い。鋭さを失ってはいないが、瞳の奥には明らかな疲労と痛みが沈んでいる。

 ソフィーは反射的に立ち上がり、ソファを示した。

「こちらへ……」

 声は落ち着いていたが、膝の奥がわずかに震えている。

 イザベルとルソーは視線を交わし、慎重にエリオットを座らせる。鉄靴が石床を踏む音が小さく反響し、その一音一音が室内の静寂を際立たせた。

 五日前の記憶が脳裏をよぎる。牢の前、号外、街の混乱、そしてルキフェル。

 執務室は静かだった。だが、遠くから聞こえる足音や怒号がその静けさを薄く引き裂いている。

 ソフィーは息を整え、ただ見守ることに徹した。動かない。それが、今の自分にできる唯一の選択だった。

 アルフォンスが深く息を吐き、ソフィーに向き直る。

「ソフィーさん……ご協力、感謝します」

 彼の一言にソフィーはわずかに肩の力を抜いた。続いてイザベルが静かに頷く。その表情は険しいが、確かな誠意があった。

 ソフィーはまだ震える手で号外を握りしめたまま口を開く。

「……何が、あったんですか。それと、この号外……」

 アルフォンスは一瞬、言葉を選ぶように間を置き、低く答えた。

「死刑執行は、予定通り進んでいました。ですが……その最中、ルキフェルを乗せた処刑船が突然白い煙に包まれたのです」

 ソフィーの視線が紙面の見出しへ落ちる。

「煙が晴れた時には、すでに姿はなく……脱走が判明しました」

 アルフォンスは言葉を切り、深く息を吸った。

「同時刻、徒刑所でも異変が起きています。元マクシミリアン・ブーケ隊の牢が壁ごと破壊され、全員が脱走していました」

 ソフィーの胸に冷たい重みが落ちた。

「火器や煙の痕跡は確認されていません。詳細は調査中です」

 処刑場。徒刑所。二つの場所で、ほぼ同時に起きた異変。

 アルフォンスは静かに続けた。

「この混乱に乗じて、他の囚人も解き放たれました。街は現在、パニック状態です」

 ソフィーは号外を胸に押し当て、ゆっくり息を吸う。外の風の音、遠くの叫び声、鉄の擦れる音。すべてが現実として重なってくる。

「……ルキフェルは。他のみんなは……まだ、見つかっていないんですか」

 ソフィーの声は低く、かすれていた。

 アルフォンスは静かに頷く。

「現場はようやく落ち着き始めましたが……元マクシミリアン隊は街に逃げ込んだ可能性が高い。捜索は継続中です。ルキフェルについては……まだ、情報がありません。処刑船の調査を進めるところです」

 アルフォンスの言葉が胸の奥で重く反響する。ルキフェルの声が今度は優しさではなく、不安として響いた。希望ではない。確信でもない。ただ、底知れない予感だけがソフィーの胸を静かに締めつけていた。

 その言葉を噛み砕く間もなく、執務室の扉が勢いよく開く。

「アルフォンス! 大変だ!」

 飛び込んできたのはベルリオーズだった。額には汗が滲み、息は荒く、血走った目が室内を一気に見渡す。

 アルフォンスは一歩前に出て、低く落ち着いた声を向ける。

「ベルリオーズくん。まずは落ち着いて。深呼吸を。状況を整理しよう」

 だが、ベルリオーズは肩で息をしながら首を振った。

「奴は全部読んでる。処刑場も、徒刑所も、街の混乱も……全部、同時だ!」

「……っ」

 ソフィーは息を呑む。紙面で見た文字とベルリオーズの確信に満ちた声が、胸の奥の恐怖を一気に掻き立てた。

 アルフォンスは手を上げ、制止しようとする。

「ベルリオーズくん、だから落ち着いて——」

「待てません!」

 言葉を遮るようにベルリオーズが叫ぶ。

「船が消えたんです! 処刑場も、徒刑所も、全部が繋がってる!」

 そして、はっきりと言い切った。

「奪ったのは、ルキフェル本人です」

 その瞬間、室内の空気が凍りついた。

 イザベルは歯を食いしばり、思わず一歩前に出る。

 ルソーは腕を組んだまま無言でベルリオーズを見据え、その目に隠しきれない焦りが浮かんでいた。

 アルフォンスはゆっくりと視線を巡らせ、静かに口を開く。

「……理解しています。事態が深刻なのは、十分に。ですが、ここで取り乱しても事態は好転しません。今、必要なのは冷静さです。情報を整理し、手順を踏むこと。それ以外に道はありません」

 ベルリオーズは床に手をつき、荒い呼吸を整えながら、それでも声を震わせる。

「でも……船まで持っていかれるなんて……海上、徒刑所、街……全部、奴の計画の中だ」

 ルソーが低く唸った。

「……偶然じゃないな。確実に、計算して動いてる」

 アルフォンスは小さく頷いた。

「ベルリオーズくん。現場へ戻ってください。脱走者の動向を追い、可能な限り情報を集めて。揃い次第、すぐ報告を」

 ベルリオーズは一瞬だけ唇を噛み、短く頷く。

「……了解しました」

 そう言い残し、踵を返して執務室を飛び出していった。

 アルフォンスもすぐに後を追う。二人の足音が廊下の向こうへ消えると室内には静けさが戻った。

 残されたのはソフィー、イザベル、ルソー、そしてまだ意識が完全ではないエリオット。

 イザベルはソフィーに一度視線を向け、静かに言う。

「私たちも現場を確認する。脱走者の追跡に向かうわ」

 ルソーはエリオットの体を支えながら低く答えた。

「焦ると危険が増えるだけだ。正確な情報が先だな」

 イザベルは小さく眉をひそめ、ルソーにだけ聞こえる声で囁く。

「……相手がルキフェルだと思うと、厄介すぎるわね。計算力も、読みも……常識が通じない」

「だからこそだ」

 ルソーは淡々と返す。

「段取りを踏む。混乱に飲まれない。それしかない」

 イザベルは頷き、改めてソフィーを見る。

「ソフィー。あなたはここでエリオットを見ていて。何かあれば、すぐ知らせて」

 ソフィーは号外を胸に抱えたまま静かに頷いた。

「……わかりました。ここで、待ちます」

 二人は視線を交わし、執務室を後にする。足音が遠ざかるにつれ、張りつめていた空気がわずかに緩んでいった。

 やがて、残ったのはソフィーとエリオットだけ。扉一枚隔てた向こうでは混乱が続いているはずなのに、この部屋だけが異様なほど静かだった。壁時計の針の進む音がやけに大きく響く。

 ソフィーは号外を握りしめたまま胸の奥で重く渦巻く感情を抑え込む。

 ルキフェルの言葉が今は希望でも約束でもなく、底の見えない不安として静かに胸に沈んでいる。一度、ゆっくりと息を整えた。それから、そっとエリオットの横顔を見る。ソファーに身を沈めたエリオットは目を伏せたまま動かない。ただ、ひどく疲れているだけにも見えた。だが、肩がわずかに震えている。膝の上で組まれた手が握りしめたまま小さく痙攣している。

 それに気づいた瞬間、ソフィーの胸の奥がひやりと冷えた。

「……大元帥?」

 声をかけようとして喉が詰まる。結局、その呼びかけは形にならず空気に溶けた。

 代わりに、エリオットの口から零れ落ちたのは意味を持つにはあまりに壊れた言葉だった。

「……ゼフィール……あの日……俺が……殺した……ラウル……息子……」

 断片的な単語がぶつ切りのまま転がる。理解したくない。聞かなかったことにしたい。

 ——でも、もう遅い。

 次の瞬間、エリオットは突然笑い出した。声にならない、ひきつった笑い。喉の奥で引き攣る音がして、それはすぐに嗚咽へと変わる。

 ソフィーの心臓がきゅっと縮む。どう声をかければいいのか、わからない。

 この崩れ方は慰めで止まる段階をとっくに越えている。だから、目を逸らさなかった。

 怖いはずなのに、不思議と頭は冴えていた。

「……ああ、やっぱり」

 これまで感じてきた違和感。どこか噛み合わない言動。張りつめたまま、決して緩まなかった空気。

 全部、予兆だったのだ。

「溜め込んでたものが……一気に来た」

 長年積み重ねてきた矛盾と罪。英雄として背負わされ続けた役割。

 耐え続けてきた心が今、限界を越えただけ。恐怖よりも先にその理解が来た。冷たく、澄んだ感覚が胸の奥に落ちる。

 かつて「英雄」と呼ばれた男は今や額に滲む汗を拭うことすらできず、ただ小刻みに震えている。

「……ゼフィール……俺が………ああ、ラウル……ミレーユ……」

 エリオットの掠れた独白がぽつりぽつりと零れる。

 ソフィーは瞬きすら惜しむように耳を澄ました。

 時折エリオットの口元が歪み、笑い声が漏れる。だがそれは、威厳ある指揮官のものではなかった。

 数十年かけて貼り付けてきた「英雄」の仮面が音を立てて剥がれ落ちていく。

 その下にいたのは、ただ崩れていく一人の男だった。

 ソフィーは駆け寄ることも声をかけることもしなかった。

「あぁ……いやだ……いやだ……」

 エリオットは額を押さえ、身を縮めるように震えている。

「ゼフィール……ラウル……ミレーユ……いや、違う……いやだ……」

 低く、途切れ途切れに繰り返される名。そこに縋る力はなく、ただ溺れながら声を漏らしているだけの響きだった。

「……もう、立ち直らない」

 そう理解した瞬間、彼女の中で迷いが音を立てて崩れた。数日前まで確かにあった問いも、もう残っていない。

「……私は、間違えない」

 小さく呟いた声は、崩れゆく男には届くことなく空気に溶ける。だが、その言葉は自分自身に刻まれた。


 ——あとは沈黙のみ。


 読んだ本の一節が、頭の中で静かに響く。

 ソフィーはそっと背筋を伸ばした。

 崩壊する英雄を前にして、彼女の心はかえって研ぎ澄まされている。


 時計の針が、静かに進む音だけがその決意を刻むように響いていた。

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