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第八章② ソフィー……あ、ベルリオーズもいる

 ソフィーは膝を抱え直し、表紙を撫でるように指を滑らせた。五日間の牢。

 静かで、凛として、揺るがなかった姿。そして——「俺はまだ、死に方を決めてない」

 あの言葉。意味は、まだ掴めない。けれど、あれがただの強がりじゃないことだけは、はっきりわかる。本を閉じたまま、しばらく動けずにいた。時間の感覚が曖昧になる。昼の光は高く、窓から差し込む日差しが床にくっきりと影を落としている。

 ……そのときだった。外が、やけに騒がしい。波の音じゃない。人の声だ。走る足音。怒鳴り声。

「……何?」

 ソフィーは反射的に顔を上げ、窓辺へ身を乗り出す。

 次の瞬間、風に煽られた紙片が舞い上がり、まるで狙ったみたいにソフィーの手元へ落ちてきた。

 ひらり、と。掴んだ紙は、冷たかった。視線を落とした瞬間、見出しが飛び込んでくる。


「衝撃! 五鬼衆の頭目ルキフェル、死刑執行中に忽然と姿を消す!」


 心臓が跳ねた。息が止まる。

「……え……?」

 名前と言葉の意味が同時に弾ける。

 ——消えた? 死刑執行中に?

 震える指で紙の下へ視線を走らせる。


「徒刑所騒然! 凶悪海賊ルキフェル脱走!」

「捕縛隊混乱、他の五鬼衆も脱走確認!」


 文字が踊る。外から一気に押し寄せる怒号。鉄靴の音。命令を叩きつけるような声。

 港も、街も、徒刑所も——すべてが一斉に動き出している。

 ソフィーは膝を抱えたまま紙を強く握りしめた。

「……ルキフェル……」

 甲板に立つ姿。夜明け前の牢。あの翡翠の瞳。

 そして——「期待してろよ。俺はまだ、死に方を決めてない」

 胸の奥で何かがはっきりと形を持つ。恐怖じゃない。絶望でもない。

「……やっぱり」

 小さく、確信に近い呟き。

 彼は、運命に流される男じゃない。復讐に呑まれる男でもない。

 選ぶ男だ。

 ソフィーはぎゅっと紙を握りしめたまま窓の外を見つめる。真昼の光が騒然とした街を容赦なく照らしていた。その瞬間、外の騒ぎがさらに近づいた。鉄の扉が乱暴に揺れ、鎖が鳴り、廊下に怒声が叩きつけられる。

「捕らえろ!」

「見張りを強化しろ!」

「囚人はどこだ!」

 石壁に反響する声が頭の中まで突き刺さる。ソフィーは窓辺で膝を抱えたまま動けずにいた。冷たい石の感触が太腿に伝わる。廊下を走る鉄靴の音。叫び声と罵声。徒刑所そのものが、ひっくり返っている。

「……ルキフェル……本当に……」

 唇がかすかに震えた。号外には続きがあった。


「ルキフェルの一味、監視下にあった元マクシミリアン隊員も脱走」

「市内混乱必至。当局、捜索中」


「……そんな……」

 手の力が抜け、紙が床に落ちる。

「どうしよう……どうしたら……!」

 息が浅い。速い。考えようとすると、思考が霧散する。廊下の足音と怒号はまだ続いている。遠ざかる気配はない。ソフィーはその場に座り込んだまま、ただ震えていた。恐怖と期待が同時に胸を締めつける。


 逃げた。生きている。でも、どこへ?


 答えは、まだ何ひとつ見えない。

 残ったのは制御できない鼓動と、名前を呼ぶことしかできない自分自身だけだった。



 廊下の石畳を乱れた足音が駆け抜ける。

 ベルリオーズは視界の端を行き交う看守たちを必死にかわしながら、徒刑所の奥へと走っていた。怒号、叫び声、鎖が床に叩きつけられる乾いた音。空気そのものが張りつめ、胸の奥で焦りが焼けつく。

「……ルノアール殿はどこだ……!」

 息を切らしながら、ひとつの扉の前にたどり着く。迷っている暇はない。

 ベルリオーズは扉を叩いた。

「ルノアール殿! 応答を——!」

 返事はない。もう一度、強く叩こうとした、その瞬間だった。ガチャリ、と小さな音を立てて扉が内側から開く。

「……っ」

 ベルリオーズは息を呑んだ。

 立っていたのはソフィーだった。顔色は青白く、瞳はどこか焦点を失ったまま揺れている。髪は乱れ、肩に掛けたカーディガンはずれ落ちかけ、部屋の明かりがその虚ろな表情を際立たせていた。

「ル、ルノアール殿……?」

 思わず名を呼ぶ。返事はない。ただ、ふらりと彼女の体が揺れた。

「おい——!」

 反射的に彼女の腕を掴む。石畳に倒れそうになる体をかろうじて支えた。

「大丈夫か! 何があった!」

 声を張ってもソフィーは反応しない。目の前の出来事を理解していないように、ただそこに立っているだけだった。

「……しっかりしてくれ……!」

 ベルリオーズは歯を食いしばり、彼女の肩を抱え直す。廊下を満たす怒号と足音が二人を包み込み、空気を押し潰すように重くのしかかってくる。このままここにはいられない。

 ベルリオーズはソフィーを支えたまま、よろめく足取りで廊下を進み、エリオットの執務室へと駆け込んだ。扉を開けると、室内は朝の光に淡く照らされていた。

「失礼する……!」

 ソフィーをソファへと横たえ、クッションに体を預けさせる。肩や腕を慎重に支えながら、そっと手を離す。彼女の意識は朦朧としていて、瞳はまだ宙を彷徨っていた。

「……しっかり……」

 ベルリオーズは一瞬だけ立ち尽くし、唇を噛んだ。

「アルフォンスを呼んでくる……すぐ戻る」

 それだけ言い残し、踵を返して再び廊下へと飛び出した。

 扉が閉まり、室内に静寂が戻る。

 ソフィーは一人、ソファに横たわったまま力の抜けた手足を動かすこともできずにいた。

 思考はまとまらず、ただ渦を巻く。視界の端に、床に落ちた号外が見える。


 死刑執行中に消えた。脱走。ルキフェル。

 そして。


「……期待してろよ。俺はまだ、死に方を決めてない」


 まるで耳元で囁かれるかのように、その声が脳裏に響いた。

「……なんだ。そういうことだったんだ……」

 呆れと驚きとほんのわずかな安堵。けれど感情はまだ絡まったままで理性はうまく噛み合わない。

 朦朧としたまま、ソフィーは足元に落ちていた号外を拾い上げる。紙の冷たさと、ざらついた感触が指先に伝わる。昼の光は相変わらず柔らかく、室内は静まり返っていた。少しずつ文字が意味を持ち始める。


 凶悪な海賊、ルキフェル。死刑執行中、突如として姿を消す。

 混乱の最中、彼の一味、そして捕縛されていた元マクシミリアン隊員も脱走。


「……っ」

 心臓が跳ね上がり、息が詰まった。

 紙面の文字と声がぶつかり合い、足元がぐらりと揺れた。

 五日間の不安、眠れなかった夜、牢前で交わした言葉。それらが一気に押し寄せ、号外の文字はただの情報ではなく、現実として彼女を叩きつける。

「……うそ……」

 ようやく零れた言葉は力の抜けた吐息だった。

 ソフィーは号外を両手で握りしめ、静かな室内で動けずにいた。

「……何か、しなきゃ……!」

 だが足がすくみ、思うように動かない。焦りだけが胸の奥で膨らむ。

 そのときだった。

 ——見るな。

 あの言葉がはっきりと蘇った。

「……あ」

 点だったものが線になる。

「……そうか……」

 彼は最初から自分を巻き込むつもりがなかった。

 脱走に気づかせないため。危険に近づけないため。だから距離を取った。だから、見るなと言った。

 震える手で号外を握り直し、深く息を吸う。混乱に支配されていた頭の中がゆっくりと整理されていく。

「……だから、私が来ちゃいけなかったんだ……」

 小さく呟き、肩の力を抜く。心臓はまだ速く打っている。けれど、ただ恐怖に振り回されているわけじゃない。

「……だったら」

 ソフィーは号外を胸に押し当てた。

「彼の言葉を信じて……今は、ここから動かない」

 今は、信じる。胸の奥に冷たい決意がすっと落ち着く。

 ルキフェルの言葉と号外の文字が重なり合いながら、ソフィーはようやく「待つ」という選択を自分の意志で掴んだ。彼女はゆっくりとソファに身を沈め、足を組んだ。肩の力を抜き、何度か深呼吸をする。頭の奥では、ルキフェルの声がまだぐるぐると回っている。あの低い声。あの、余裕のある言い方。静まり返った部屋の中で、それは現実とも幻ともつかない響き方をしていた。

 ——ここで動かない。彼の計画が、ちゃんと進むと信じる。それが、今の自分の役目だ。

 小さく息を吐き、ソフィーはその場に座り続ける。胸の奥にはまだ不安が渦巻いている。それでも逃げ出したくなるほどじゃない。室内には紙の匂いと木製家具の乾いた気配が残っている。淡い午後の光が机の上の書類を照らし、現実の輪郭をくっきり浮かび上がらせていた。

 ソフィーは号外のざらつきを指先で確かめるように触れ、そっと目を閉じた。心臓はまだ早い。けれど、外の混乱に引きずられるほどではない。理性が少しずつ戻ってきていた。

 でも、それでいい。廊下を駆ける足音や、鉄靴の残響がかすかに届くたび、部屋の静けさは逆に際立つ。号外を握る手は冷たいが、その冷たさが今この瞬間が現実だと教えてくれる。

 外で何が起きようとも、今の自分にできる最善はここにいること。

 ソフィーはそう確信し、再び窓の外を見つめた。

 穏やかな海と街並みの下で進む脱走劇を思いながら、彼女は静かに「待つ側」としての覚悟を抱いた。

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