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第八章① ソフィー

 午前の光が、穏やかに海面を照らしていた。

 トゥーロンの港は、処刑を控えた独特の熱を孕みながらもどこか妙に静かだった。

 ソフィーは来賓席の端に腰を下ろし、船着き場に視線を向ける。人々が集まり、囁き合い、ざわめきが波音と混ざり合う。その中心で、一隻の船が静かに揺れていた。

 甲板の上に、ルキフェルが立っている。拘束はある。だが、その姿勢は崩れていなかった。

 空と海を背に、彼はいつもと変わらぬ佇まいで淡々と乗船の準備を進めている。

 ——見ない。

 そう決めたはずなのに、視線は止まらなかった。

 五日間の牢で見せた、あの静けさ。凛とした覚悟。今は陽の光の下ではっきりと形を持って立っている。

 ルキフェルが船の縁に手をかけ、体重を預ける。

 その瞬間、ソフィーは小さく息を詰めた。胸の奥が、きしりと鳴る。

 ——ここまでだ。

 彼が船に乗り込んだのを見届けて、ソフィーはそっと視線を伏せた。そして、誰にも見せるためではない、小さな礼をする。それは別れの儀式でも、祈りでもない。自分の選択を確かめるための静かな所作だった。

 隣で立っていたエリオットがかすれた声で問いかける。

「ソフィー……彼とは、仲間だったんだろう」

 一瞬、彼は言葉を探すように間を置く。

「……最後まで、見届けなくていいのか?」

 ソフィーはゆっくりと顔を上げた。その表情は泣いてもいなければ怒ってもいない。静かだった。

「失礼します」

 それだけ言って、軽く一礼する。言い訳も説明も、感情も添えない。

 ソフィーは来賓席を離れ、人の間を縫うように歩き出した。背後でざわめきが少しだけ大きくなる。だが、振り返らない。甲板の揺れも、潮の匂いも、波音も、すべてを背に置いて。自室へと戻るその背中には見届けなかったという後悔と、それでも前を向くと決めた微かな希望が同時に宿っていた。

 港には波の音と人々のざわめきだけが残る。そしてソフィーの足音はその中に静かに溶けていった。


 自室の窓辺に腰を下ろしたソフィーは腕を膝に乗せ、額を軽く伏せたまま動かなかった。

 外から差し込む午前の光はやわらかく、穏やかで、胸の内は重い。

 ——それなのに、何も残っていない気がした。海も、街のざわめきも、今はただの遠い音にすぎない。意識の奥ではひとつの声だけが何度も反響している。

「……俺はまだ、死に方を決めてない」

 理解しようとすればするほど輪郭は曖昧になる。胸の奥がちくりと疼いた。理由のわからない焦りが、じわじわと体の底から這い上がってくる。窓の外の景色は陽光のせいか、どこか揺れて見えた。波も、風も、言葉の残響に絡め取られるように現実感を失っている。

 ソフィーは小さく息を吐き、重たく垂れた肩をゆっくりと揺らした。

 あの言葉だけが胸の奥に居座り続けている。今の彼女にとっての現実は、それだけだった。

 膝の上には、一冊の「ハムレット」。

 ページを開いたまま、文字を見つめる。読めないわけじゃない。けれど、視界はどこか霞んでいた。淡い朝の光。潮の匂い。遠くから届く波の音。混ざり合い、現実と夢の境目のような感覚の中で意識が漂う。

 ページの文字を追うたび、自然と牢の中のルキフェルの姿が浮かぶ。五日が過ぎても、彼は変わらず静かで凛としていた。朝の光を受けた翡翠の瞳。どこか遠くを見ているようで、同時にすべてを見据えているような目。——揺れていない。

「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」

 ハムレットの独白がまるで胸の奥に直接落ちてくる。

 ルキフェルは今、その狭間に立っている。牢の中で身じろぎひとつせずに。だが、その内側ではすべてを見極め、受け入れ、覚悟している。その強さが何なのか。改めて思い知らされる。

「……考えても、仕方ないよね」

 小さく呟き、ページを指で押さえたまま深く息を吸う。

 読むことで、不安や恐怖をほんの少しだけ胸の奥に押し込められる気がした。文字の列が彼の存在と重なる。無言の覚悟が、ページの隙間から滲み出てくるようだった。ページをめくるたび、あの声が脳裏に反響する。胸の奥の痛みがぎゅっと引き締まる。生き延びようとする意思。仲間への思い。そして、静かに決めた覚悟。どれも言葉を超えて直接心に届く。

 ソフィーは思わず息を止めた。目の前の文字も遠く牢にいる彼の姿も、同じ重さで迫ってくる。外の風がカーテンを揺らす。紙の匂いと潮の香りが混ざり合う。指先でページをなぞりながら、あの翡翠の瞳を思い浮かべた。恐怖も、虚無も、逃れられない運命さえも受け入れた、その静かな光。自分がこれほど震えているというのに彼は揺らがない。その事実が胸に重く、静かにのしかかっていた。

「……でも、私はここで、何をすればいいんだろう……」

 ソフィーは小さく呟き、再びページに視線を落とした。文字を追っているはずなのに、意識はどうしても港へ向かったあの背中に引き戻される。

 見守ること。見送ること。そして、彼の死をただ受け止めること。

 読むことだけが、今の自分をこの場所に繋ぎ止めてくれる。

「生きるべきか、死ぬべきか」

 ハムレットの問いは、何度も胸に落ちてくる。ルキフェルの存在と重なり、静かな覚悟とかすかな火種のような感情を芽生えさせていた。窓の外は、変わらず明るい。真昼の光が容赦なく部屋に差し込んでいる。

 青い海。高い空。今日という一日が、まだ何事もなかったかのように広がっている。

 ソフィーは一度深く息を整え、またページに目を落とした。読み進めながらも心は港にあり、船の上にいる彼のそばを離れない。ページをめくる手が止まらない。

 原語で書かれた台詞や地の文は決して易しくない。意味を追うたび、頭の奥がじんわりと熱を帯びる。けれど、その難解さがかえって彼女を現実から引き剥がさなかった。読むことだけが今の自分をこの場所に繋ぎ止めてくれる。時間の感覚が少しずつ曖昧になる。

 太陽は高いまま、影だけがわずかに角度を変えている。真昼の光が壁を白く照らし、室内の空気は潮を含んだ湿り気を帯びていた。潮の匂いが窓から流れ込むたび、ソフィーは無意識に深呼吸をする。肺いっぱいに空気を吸い込み、またページをめくる。物語の人物たちの声や仕草、心の揺れが、頭の中で鮮明に立ち上がる。言葉が映像のように流れ込んでくる。

 そして——物語は終盤へと差し掛かる。

 復讐は果たされる。だがその代償として、主要な登場人物たちは次々に命を落としていく。

 胸の奥がぎゅっと締めつけられた。長い時間、物語に身を委ねていたからこそ、その死は軽くない。文字でしかないはずなのに現実の重みを伴って心と体にのしかかってくる。

 ソフィーはページの上に視線を落としたまま、しばらく動けなかった。

 真昼の光はまだ変わらず明るい。けれど、彼女の内側だけが静かに沈んでいく。

 生きるか、死ぬか。——選ぶのは、誰なのか。

 その問いがページの向こうと港の向こうを一本の線で繋いでいた。

「……何、この話……」

 ソフィーは思わず声を漏らし、窓枠に寄りかかった。窓の外はまだ真昼の光に満ち、海面には強い日差しが帯のように反射している。白く眩しい光、潮風の湿り気、冷たく硬い窓辺の感触。時間を忘れて読み耽った数時間分の疲労が、今になって一気に身体へ押し寄せてきた。

「これさ……元凶、どう考えても父親じゃない?」

 吐き捨てるように呟く。

「死んだあとまで息子に復讐押しつけるとか、あり得ないでしょ。主人公だって被害者じゃん。惨劇に巻き込まれただけじゃない」

 ページをぱらりとめくり、眉をひそめる。

「そもそも、幽霊が話の核心にガンガン介入する展開、苦手なのよね。死人に口無しは徹底してほしい派だから」

 ぱたん、と本を閉じる音が室内に乾いて響いた。

「……やっぱり、これまで読んだ中だと『マクベス』の方が好きかな」

 少しだけ考えてから続ける。

「予言を避けようとして必死に足掻いた結果、結局その通りになっちゃうの、救いがなくて最高に愚かで……なのに目が離せなくなる。ああいう、どうしようもなさの方が私は納得できる」

 そう言いながらも胸の奥の重さは消えない。文句を並べても虚無感は薄れず、「ハムレット」の結末が頭から離れなかった。想像の中で見届けた、次々と倒れていく登場人物たちの姿がどうしても現実と重なってしまう。船に乗せられたルキフェル。見送ることしかできなかった、あの背中。

 ソフィーは閉じた『ハムレット』を膝の上に置いたまま天井を見上げた。

「……ほんと、後味悪い」

 吐き出すように言う。

「みんな死んで、復讐は果たされて……全然、救われない」

「考え続けて、迷い続けて、結局は周りを巻き込んで壊していくだけ。……王子様って、そんなに偉いの?」

 言葉にした瞬間、胸の奥にふとした引っかかりが生まれた。

「……でも」

 ソフィーは眉を寄せる。

「……あれ?」

 違和感だった。ハムレットの物語を思い返しながら、自然とある顔が浮かぶ。

 ——ルキフェル。

 牢の中で見た、あの静かな目。怒りを抱えているのに、それを振り回さない男。

「……待って」

 ソフィーは思わず身を起こした。

「ルキフェルって……ハムレットじゃない」

 ぽつりと独り言のように。

「親を奪われて、怒りに呑まれたのは確か。でも……あの人、あんなふうに迷わない」

 痛みを受け取った瞬間に感情が直撃して、それでも進む方向を誤らない。

「……あれ、どっちかっていうと」

 ソフィーの思考が雪崩を打つように動き出す。

「レアティーズ……?」

 父を殺され、怒りのままに剣を取る男。一直線で感情に正直で、だからこそ利用される存在。

 でも。

「……違う」

 ソフィーは、はっと息を呑む。

「ルキフェルは……復讐しなかった」

 怒りを抱えたまま、それを止める側に立つ。レアティーズと同じ構図なのに、選んだ行動が真逆だ。

 その瞬間、別の人物が鮮明に浮かび上がる。

 ——マクシム。

 師を奪われ、その死の真相に揺れ。義務と復讐の間で、答えを探し続ける青年。

「……ハムレットって」

 ソフィーは静かに呟いた。

「ルキフェルじゃなくて……マクシムの方じゃない?」

 考えすぎて、背負いすぎて、王子みたいに孤独になる。胸の奥がざわりと揺れる。

「……じゃあ」

 記憶が、あの日の屋上へと引き戻される。血。瓦礫。二人とも、致命傷に近い怪我を負っていた。

「……決闘、したんだ」

 誰に言うでもなく確信する。

「復讐のためじゃない……復讐を終わらせるための」

 ハムレットとレアティーズは、復讐の連鎖の果てに相打ちになる。けれど——

「ルキフェルとマクシムは……逆」

 同じ構図。同じ相打ち。なのに、意味は正反対だ。復讐を果たすためじゃない。

 これ以上、誰かが復讐に呑まれないために。

 ソフィーの背筋にぞわりと寒気が走る。

「……復讐する者と、復讐を止める者」

 構図は同じ。でも、選択が違う。

 ソフィーは窓辺に目を向けた。真昼の海が光を跳ね返している。きらきらと何事もなかったかのように。その光の中に、あの日の残照を重ねる。

「……結局」

 声はひどく静かだった。

「復讐って、何も救わないんだ」

 一度始まれば、必ず次の悲劇を生む。誰かが止めない限り、終わらない。

「……あの日」

 喉がきゅっと詰まる。

「ルキフェルたちが、止めてくれたこと……やっぱり、尊いよ」

 ホレイショーのように、ただ見届けるしかなかった無力感。それが今の自分と重なる。それでも。

「私は……忘れない」

 あの選択があったことを。復讐を断ち切る決闘が確かに存在したことを。

 ソフィーは静かに息を吸い、吐いた。そしてもう一度、閉じた「ハムレット」に視線を落とす。

「……だから、私はマクベス派なんだよ」

 小さく、悪態のように。だがその目は、もう迷っていなかった。肩を小さく震わせながら、ソフィーは本の表紙を指先で押さえた。深く息を吐いても胸の奥に残った重さは抜けない。窓の向こうの海は昼の光を受けて穏やかに揺れている。

 あまりにも静かで、あまりにも平和で——さっきまで読んでいた惨劇が、嘘みたいだった。それなのに。

「……もうすぐ、あの人の番なんだ……」

 思わず声が零れる。潮の匂い。石の建物の冷たさ。

 甲板に立つ彼の背中。全部が重なって、胸の奥を締めつける。

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