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第七章⑤ ソフィーとルキフェル Part3

 するとルキフェルは、ふっと肩をすくめて苦笑する。

「あー……こんなことしてたら、グウェナエルの亡霊に後ろから刺されそうだな」

 ルキフェルは軽く首を振った。

「やめだ、やめ。らしくねえ」

 その言葉にソフィーは小さく息を吐いた。笑っていいのか泣いていいのか、自分でもわからないまま指先で涙を拭う。

 ——グウェナエルの亡霊。

 冗談めかした言い方だったが、その名前を口にした瞬間、ルキフェルの声音がほんの一瞬だけ変わったことにソフィーは気づいていた。胸の奥で、静かに何かが引っかかる。

 ……ああ、そうか。彼はずっと、仲間のために剣を振るい、守るために命を賭け、誰かのために怒り、耐え、戦ってきた。でも、「想う」ことだけは語られていない。

 ——この人にも……いたんだろうか。命を懸ける理由じゃなくて、ただ心が向いてしまった誰かが。

 そう思った瞬間、胸の奥に言葉にしないまま置いてきた疑問がゆっくりと浮かび上がった。

 今まで聞かなかったのは、聞く資格がないと思っていたからだ。踏み込んではいけない場所だと無意識に線を引いていたから。でも、今は違う。

 夜明け前。この鉄格子の向こうにいる男は朝になれば処刑台に立つ。

 逃げないと決めた人。生きるか、死ぬか、その境目に立っている人。

 ……このまま、何も知らずに、見送っていいの?

 彼の強さも孤独も、覚悟も知った。仲間として大切に思っていると言葉をもらった。

 それなら……心の話をする資格も、少しだけはあるんじゃないか。

 ソフィーは一度、深く息を吸った。胸の奥で迷いが揺れるが、それでも逃げなかった。

「……最後に。ひとつだけ、聞いてもいい?」

 小さく震える声。でも、目は逸らさない。ソフィーはまっすぐにルキフェルを見つめた。

「ルキフェル……人を……愛したこと、ある?」

 一瞬。ルキフェルは眉を寄せたかと思うと肩を揺らして吹き出した。

「……なんで今それ聞くんだよ。しかも最後にって」

 呆れたような、でもどこか可笑しそうな声。彼の口元にほんのわずかな笑みが浮かぶ。

「……愛、か」

 彼は一度視線を外し、夜明け前の淡い光に目を向けた。

「恋だの色事だのを期待してるなら、悪いな。俺が最初に思い浮かべるのは、そういうのじゃない」

 ルキフェルはゆっくりと視線を戻し、翡翠の瞳でソフィーを見る。

「フランソワだ」

 ルキフェルは揺れのない声で続ける。

「俺の面倒見て、食わせて、叩き上げて、逃げ場も覚悟も全部教えてくれた。あいつは……恋人でも恩人でもない。家族だった」

 彼は言い切るように言って、少し間を置く。

「それから——今の連中だ」

 ルキフェルは指を軽く折る仕草をして淡々と続ける。

「ジャスパー、マテオ、コリン、ニール。あいつらとも、家族みたいに生きてきた」

 彼の口元が少しだけ緩む。

「血は繋がってないし、性格もバラバラだ。喧嘩もするし、腹立つことも山ほどある」

 それでも、と続ける声は低かった。

「背中を預けられる。死に際を見せてもいいと思える。……それ以上、何がいる」

 ソフィーは息を呑む。そこにあるのは情熱でも甘さでもなく、生き抜くために選び取った関係だった。

「……それが、あなたにとっての愛なんだね」

 ルキフェルは肩をすくめる。

「他に知らないだけだ。でも、俺にはそれで足りてる」

 一呼吸置いて、少しだけ視線を柔らかくする。

「……守る相手がいるってことだからな」

 ソフィーは静かに頷いた。彼が強い理由が、少しだけはっきり見えた気がした。

 「それと……」

 ルキフェルは一息つき、視線を逸らしたまま続けようとして——言いかけて、ふっと口を閉ざした。空気が一瞬、止まる。ソフィーは当然のように首を傾げ、逃がさない。

「……それと?」

 ルキフェルは小さく舌打ちする。

「いや、今のは忘れろ」

「忘れられると思って言った?」

 即答。ルキフェルは眉をひそめ、面倒そうに息を吐く。

「……聞くな」

「聞く」

「聞くなって言ってるだろ」

「今さらそれ言われて引き下がるほど、私、物分かりよくないの知ってるでしょ」

 数秒、睨み合い。夜明け前の静けさの中で鉄格子越しの空気が妙に張りつめる。

 ルキフェルは天井を仰ぎ、低く唸った。

「……あー……クソ」

 完全に観念した顔だった。

「……昔な」

 彼は視線を戻さず、ぶっきらぼうに続ける。

「好きな女がいた」

 ソフィーの目が思い切り見開かれる。

「……え?」

 彼女のあまりに素直な反応に、ルキフェルは一瞬だけ眉を寄せる。

「何だよ。その顔」

「いや……その……」

 ソフィーは言葉を探して思わず本音が漏れる。

「無愛想で、冷たくて、堅物で、感情とか全部切り捨てて生きてそうなルキフェルが……?」

「余計な修飾語が多い」

「だって!」

 ルキフェルは深くため息をついた。

「……一目惚れだ」

 ぶっきらぼうな一言。ソフィーは完全に思考停止する。

「……想像つかない……」

 正直すぎる感想だった。ルキフェルは少しムッとしつつ続ける。

「本来なら、好きになっちゃいけない相手だった。住む世界が違ったし、一緒になっていい関係でもなかった」

 ソフィーの中で何かが繋がる。

「……それ、もしかして……」

 ルキフェルは諦めたように頷く。

「ああ。貴族の娘だ」

 淡々と言うが、声の奥にかすかな苦さが混じる。

「俺は後から知った。一目惚れだったからな、完全に不可抗力だ」

 なぜか、ここから弁明が始まる。

「言っとくが、ちゃんと距離は保った。手も出してないし、変なこともしてない」

「……聞いてないけど?」

「念のためだ」

「誰に対する念のためなの?」

「……知らん」

 ルキフェルは視線を逸らし、ぼそっと続ける。

「どう考えても、続くわけがなかった。だから、始まる前に終わらせただけだ」

 ソフィーはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。

「……でも、ちゃんと好きだったんだね」

 ルキフェルは否定しなかった。

「……ああ」

 冷徹で、合理的で、割り切りの男。けれどその奥に、確かに人間らしい愚かさを抱えていたことが今になって滲み出る。ソフィーは少しだけ、微笑んだ。

「意外。ほんとに意外」

「言うな」

「でも……なんか安心した」

 ルキフェルは怪訝そうに眉をひそめる。

「何がだ」

「ちゃんと、人を好きになる人なんだってわかって」

 一瞬、ルキフェルは言葉を失う。そして、小さく息を吐いた。

「……だから言っただろ。俺は清廉な聖人じゃねえ。ただの、どうしようもない人間だ」

 彼の言葉はどこか自嘲的で、でも少しだけ柔らかかった。ルキフェルの言葉が途切れたあと、わずかな沈黙が落ちた。夜明け前の薄い光が鉄格子の影を床に伸ばしている。

 そのときだった。ソフィーは、はっきりと見た。

 翡翠の瞳が——ほんの一瞬、確かに揺れたのを。息を詰めるほどではない。けれど、決して見間違えではない程度に。ソフィーは静かに口を開く。

「……ねえ」

 ソフィーの声は低く、責める色はない。

「今でも、その人のこと……好き?」

 ルキフェルの表情がぴたりと止まった。次の瞬間、いつものぶっきらぼうな声音が返ってくる。

「……馬鹿言うな。とっくの昔に終わった話だ」

 きっぱりとした言い切り。感情を切り捨てるような、冷たい言葉。だが——ソフィーは、なおも彼の瞳を見ていた。

「……そうは見えない」

 ぽつりと落とすように言う。ルキフェルがわずかに眉をひそめた。

「何がだ」

「あなた」

 ソフィーは一歩も引かず、静かに続けた。

「前より、ずっと穏やかになった。人の話も聞くし、怒りも抑えられるようになった。でも……」

 彼女は言葉を選ぶように一瞬だけ間を置く。

「まだ、自分の心の中にある『怖さ』と、ちゃんと向き合いきれてない」

 ルキフェルの喉がわずかに動いた。

「……何の話だ」

「わかってるでしょ」

 ソフィーは優しく、しかし鋭く言う。

「何かから、どうしても目を逸らしてる。気づいてないふりをしてるだけで……あなた自身が、一番わかってるはず」

 翡翠の瞳が揺れた。ソフィーは、その揺らぎを逃さない。

「だから言うね」

 彼女の声は柔らかい。だが、確信に満ちていた。

「終わってないと思う。その人への想い」

 ルキフェルが思わず息を詰める。

「……」

「もう『恋』じゃないのかもしれない。でも……消えてない」

 ソフィーは胸に手を当てる。

「あなたの中に、ちゃんと残ってる。だから、そんな目をする」

 沈黙が落ちて、牢の中の空気が少しだけ重くなる。

 ルキフェルは困ったように視線を逸らし、低く吐き捨てる。

「……余計なこと言うな」

「余計じゃない。……これはね、ルキフェルが自分で、ちゃんと見つめてあげなきゃいけないこと」

 ルキフェルは苦笑にも似た息を漏らした。

「……処刑前の人間に言うことか、それ」

 その声はどこか自嘲気味だった。ソフィーは迷わず言い返す。

「だから、よ」

 夜明け前の光が彼女の横顔を淡く照らす。

「死を前にしてるからこそ。最期くらい……自分の心に、素直になってもいいと思う」

 彼女の言葉にルキフェルの瞳が大きく揺れた。怒りでも、拒絶でもない。戸惑いと、どうしようもない動揺。しばらくして、彼は低く息を吐く。

「……お前は、本当に厄介だな」

 責める言葉ではなかった。

「人の心を……夜明けみたいに照らしてくるんだよ」

 ソフィーは少しだけ困ったように笑う。

「そう? ただ……あなたが、目を逸らしてるのがわかるだけ」

 ルキフェルは何も言わず、天井を仰いだ。翡翠の瞳に夜明けの光が静かに差し込む。

 ——逃げ続けてきたもの。終わったと決めつけてきた想い。

 今も確かに胸の奥で息をしていることを彼自身が否定できずにいた。

 ルキフェルはゆっくりと目を閉じた。朝焼け前の薄い光が、彼のまつ毛の影を落とす。その沈黙は短いはずなのに、妙に長く感じられた。瞼の裏にひとつの色がよぎる。

 ——シルバーブロンド。ターコイズブルーの瞳。陽にきらめく海と、その中へ落ちていく小さな影。

 ほんの一瞬。だが、確かに胸を締めつける記憶。

 ルキフェルは低く息を吐いた。

「……今、ここでそれを認めたら」

 言葉を選ぶように少し間を置く。

「たぶん……取り返しがつかない」

 ソフィーは息を呑んだ。

「……どうして?」

 即座に返す。逃がすつもりはなかった。

 ルキフェルはしばらく黙ったままだった。鉄格子にかけた手に、わずかに力がこもる。翡翠の瞳は伏せられ、どこか遠くを見ている。

 言えなかった。正確には、言わなかった。その眼差しは、まだ何かを背負っている者のものだった。過去でも、罪でも、約束でもない。けれど、手放してはいけない何か。

 やがて、彼はゆっくりと目を開く。ソフィーを見ず、朝の空を仰いだまま静かに言った。

「……俺の気持ちは、どうでもいい」

 彼の声には不思議なほどの落ち着きがあった。

「生きていてくれればいい」

 迷いのない言葉を紡いでいく。

「どこで、どうやってでもいい。名前を変えても、俺のことなんて忘れても」

 一瞬、唇を噛みしめる。

「……生きていてくれさえすれば」

 翡翠の瞳がわずかに光を帯びる。

「それだけで……俺は、十分だ」

 その言葉は、執着でも自己犠牲でもなかった。愛を手放すことで、自分を縛らない選択。

 ソフィーは胸が締めつけられるのを感じながら、そっと言う。

「……それって、すごく、重い愛ね」

 ルキフェルはかすかに口角を上げた。

「さあな。俺は、そういう生き方しか知らないだけだ」

 沈黙が戻る。だが先ほどとは違い、そこには張りつめた痛みではなく覚悟を置いたあとの静けさがあった。夜明けの光が二人の間に差し込み始める。ソフィーは鉄格子に触れたまま小さく頷いた。

 ——彼は、まだすべてを語らない。でも、語らないこと自体が彼の答えなのだと。

 そう、理解していた。

 空の色がはっきりと変わり始めていた。夜の名残を引きずった青が薄れ、東の端が白く滲む。

「……もう空が明るい。そろそろ戻れ」

 ルキフェルの声は低く、落ち着いている。命の期限を前にしているとは思えないほど静かだった。

 ソフィーは名残惜しそうに鉄格子へ視線を残したまま、ためらうように口を開く。

「ねえ……本当に、見ちゃダメ?」

「ダメだ」

 即答。翡翠の瞳に迷いは一切ない。ソフィーは唇を噛み、短く息を吐く。

「船上での斬首だって聞いた。だったら……せめて、あなたが船に乗るところまで見届けさせて。そこまで行ったら、ちゃんと自分の部屋に戻るから」

 一瞬だけルキフェルの視線が下がる。それから、ほんのわずかに口角を上げた。

「……ちゃんと戻るならな」

「うん。約束する」

 ソフィーが小さく頭を下げると、胸の奥の重さがほんの少しだけ和らいだ。

 ルキフェルはそれに答えず、鉄格子越しに片手を上げる。指先を軽く揺らしながら低く言った。

「期待しとけ」

 一呼吸置いて、続ける。

「……俺はまだ、死に方を決めてない」

 彼の言葉には、不思議な余裕と確かな意思があった。

 ソフィーはその指先を見つめ、唇がわずかに震える。

「……どういう意味?」

 返事はない。ただ薄く笑った、そんな気がした。

「いいから。そのうち分かる」

 声の奥に彼だけが知る計画と未来が潜んでいる。ソフィーは胸をきつく締めつけられながら、ゆっくりと頷いた。

「……わかった」

 ソフィーは背筋を伸ばし、乱れそうな呼吸を必死に整える。振り返りたい衝動を押し殺し、彼女は牢から離れた。冷たい石畳に足音が吸い込まれ、潮風が頬を切るように吹き抜ける。それでも彼女は、一度も後ろを見なかった。

 鉄格子の向こうでルキフェルは小さく指先を揺らし、彼女の背を見送る。

 その翡翠の瞳には、自分の運命すら賭けにかけるような危うい光が静かに宿っていた。

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