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第七章② ソフィーと海賊たち

  残されたのは潮風と重い沈黙。ソフィーは膝を抱え、拳を胸に押し当てる。去っていく背中を見つめながら、胸の奥で決意と絶望が静かに絡み合っていた。深く息を吐く。冷たい潮風が頬を撫で、胸いっぱいに塩の匂いが入り込む。視界の端で、海面が夕陽を受けて揺れていた。さざ波が砕けるたび黄金色の光が散ってまた消える。それはあまりにも儚くかった。——希望みたいだ。

 コリンとニールがそっと近づいてくる。二人は彼女の左右に膝をつき、目線を合わせた。

「ソフィー……大丈夫?」

 コリンの声は低く慎重だった。

「……どうして、こんなことになったんだ」

 ニールの言葉には隠しきれない心配が滲んでいる。

 ソフィーは小さく肩を震わせ、二人を見た。

「……あなたたちは……どうなるの?」

 少し離れた場所でマテオが静かに答える。

「ルカの処刑が終わるまで、オレたちの処遇は保留だ」

 ソフィーの胸の奥がきゅっと締め付けられる。ジャスパーは肩をすくめ、皮肉っぽく笑った。

「いやあ……いつから海軍は、ここまで判断が鈍くなったんだろうな」

 軽口なのに目はまったく笑っていない。ソフィーはその視線を受けて、胸の奥でかすかな火が揺れるのを感じた。風に乱れる髪、光を跳ね返す海面。現実がまだ自分を繋ぎ止めてくれている。

「……私ばっかり怖がってた」

 ぽつりと零す。

「あなたたちの方が、ずっと辛いのに……ごめんなさい」

 コリンは首を振って、やわらかく笑った。

「気にしないで。今はソフィーも、ぼくたちの一員だ」

 ニールも静かに頷く。

「そうだよ。心配しなくていい。僕ら、同じ場所に立ってる」

 ソフィーはゆっくりと膝を伸ばした。石畳の冷たさが足裏から確かに伝わる。潮風を大きく吸い込み、吐く。荒れていた呼吸が少しずつ整っていく。

「……ルキフェルは、私を助けてくれた」

 小さく、自分に言い聞かせるように。

「だから……私も、ここで折れちゃだめなんだ」

 ジャスパーが隣で静かに言う。

「その通り。今はまず、自分を保て。それが一番大事だ」

 ソフィーは足元にしっかりと体重を乗せ、ゆっくり立ち上がる。風が頬を撫で、髪を乱し、背中から光が押してくる。

「私は……まず自分を守る」

 視線を上げる。

「ルキフェルのためにも。仲間のためにも。ここでは倒れない」

 マテオがくすりと笑って肩をすくめた。

「いい顔だ。だが油断すんな。ここからが本番だぞ」

 ソフィーはゆっくりと海賊たちを見渡し、深呼吸する。

 希望と不安はまだ混ざっている。それでも、足は確かに地に着いていた。


 一日目。

 夕暮れの石畳に腰を下ろし、ソフィーは目を閉じた。そうすると勝手に浮かんでくる。

 牢の中のルキフェルの姿が。冷たい石床。拘束された手。痛みを押し殺して、背を伸ばして座る男。

「……ルキフェル」

 声に出したつもりはなかった。ただ、胸の奥で呼んだだけだ。

 ——大丈夫だ。心配するな。

 返事は想像の中のものなのに、やけにリアルで。低くて、落ち着いた声で。いつもみたいに強がるようで。ソフィーは唇を噛み、そっと息を吐いた。潮風が冷たく、石畳の感触がやけに硬い。

 それでも、彼の翡翠の瞳を思い出すと少しだけ呼吸が楽になった。


 二日目。

 雨の朝。灰色の空。窓際に座り、膝を抱えたままソフィーはまた心の中で話しかける。

「……今日は、どう?」

 ——つらいに決まってるだろ。

 少し苦笑するような声が返ってくる。

 ——でも、耐えてる。お前に迷惑かけたくない。

 息が詰まる。拳を握ると、爪が掌に食い込んだ。

 どうして、そんな言い方をするの。どうして、最後まで自分のことは後回しなの。

 雨音が強くなる。その音が彼の孤独をなぞるみたいでソフィーは目を伏せた。


 三日目。

 曇り空。庭の地面は、昼間でもひんやりしている。ソフィーは腰を下ろし、足先を感じながら呟いた。

「……もうすぐ、だね」

 ——俺にとっては、時間なんて関係ない。

 少し間を置いて続く。

 ——お前は、生きろ。

 ——俺のために泣くな。

 喉の奥が詰まる。息を吸うたび、胸が痛い。でも、翡翠色の瞳を思い浮かべると不思議と背筋が伸びた。泣かない。少なくとも、彼の前では。


 四日目。

 夕暮れ前。控えめなノックの音がしてリー・ウェンが扉を開けた。

「ソフィー。……伝言です」

 彼の声の調子で何となく察してしまう。

「処刑当日、俺のことを見るな。それだけだそうです」

「……なに、それ」

 ソフィーの声が思わず荒れる。

「意味わかんない……!」

「言われた通りにしろ、と。ほかのことは考えるな、とも」

 リー・ウェンはそれだけ告げると深く踏み込まず、静かに扉を閉めた。残された部屋に沈黙だけが落ちる。

 ソフィーはその場に座り込み、胸を押さえた。また牢の中の姿が浮かぶ。誰にも頼らない背中。どうしても助けを求めない、あの頑固な背筋。

「……ずるいよ」

 小さく呟き、涙を拭う。それでも、心の中で彼に向かって言った。

「伝言、わかった。従うよ、ルキフェル」

 ——それでいい。余計なことは考えるな。俺のために、自分を危険にさらすな。

 その声に、また胸の奥が沈む。それでもソフィーは膝を抱えたままゆっくりと息を整えた。想像の中の声だけが今の彼女を支えていた。


 五日目、処刑前日。

 海を見つめながらソフィーは胸の奥で最後の問いを投げた。

「……明日、私はどうすればいい?」

 少しの沈黙のあと、あの声が返ってくる。

 ——その場にいればいい。泣き喚くな。俺を見るな。

 冷たい。でも、突き放すための言葉じゃないことは、もう分かっていた。

 ソフィーは唇を噛み、静かに息を吐く。

「……わかった。見ない」

 それでも、と心の中で続ける。

「でも、私は行く。ちゃんと、そこにいる」

 ——それでいい。それだけで十分だ。お前のことは、信じてる。

 その一言で、呼吸が引っかかった。同時に、五日間ずっと張り詰めていた何かが少しだけ緩む。

 ソフィーは足元の地面を確かめるように踏みしめ、ゆっくり立ち上がった。潮風が髪を乱し、海の匂いが濃く鼻を突く。曇った空の下、海は鈍く光っている。

 牢の中のルキフェルを思い浮かべる。痛みを堪える息遣い。赤く沈んだ視線の奥で、それでも消えない翡翠の光。

「……明日、か」

 小さく呟き、手で頬を拭う。涙は出る。でも、膝は折れない。足裏に体重を預ける。冷えた固さが、現実をはっきりと伝えてくる。

「私は……倒れない」

 声は小さいが、確かだった。

「ルキフェルのためにも。仲間のためにも」

 深く息を吸い、もう一度、海を見る。波は静かで、風は生暖かい。

 それでも、この世界はまだここにある。だからソフィーもここに立つ。

 明日に向けて。それだけを胸に抱いて。


 夜のトゥーロンは、息をひそめたように静まり返っていた。月明かりが石畳を淡く照らし、潮を含んだ風が窓枠をかすかに鳴らす。

 ソフィーはベッドに横たわったまま目を閉じても眠れずにいる。布団は冷たく、体にまとわりつく。足先がわずかに震え、腕をどこへ伸ばしても落ち着かない。

「……どうしたら、いいの……」

 声は小さく、すぐに闇に吸い込まれた。恐怖と不安が重たい石のように心臓にのしかかる。窓の外では遠く波の音が揺れている。いつもなら穏やかなはずの音が今は鼓動と重なって胸の中でざわつく。潮の匂いを含んだ風が頬に触れるたび、痛みを堪える息遣いだけがやけに近くて牢の寒さが指先まで伝わってくるようだった。

「……ルキフェル……」

 名前を呼ぶだけで胸が痛んだ。手元の日記帳に視線を落としても文字は頭に入ってこない。蝋燭の炎も揺れる影を増やすばかりで気持ちは少しも静まらなかった。布団の端を握り、体を丸める。

「……眠らなきゃ……」

 そう思うのに目を閉じるたび浮かぶのは同じ光景だ。あの瞳が、最後まで何を見ていたのかだけが分からない。

「……どうすればいいの……こんな時……」

 答えは返ってこない。それでも、胸の奥でかすかな灯が揺れる。

 あの瞳は最後まで自分を信じていた。その感覚だけが闇の中でソフィーを繋ぎ止めていた。

 やがてじっとしていられなくなり、ソフィーは静かに布団を抜け出した。裸足で石畳に足を下ろすと、底冷えする感触が一気に身体を貫く。思わず息を詰める。夜風が部屋の隙間から入り込み、髪を撫で、潮の匂いが鼻先をかすめた。心臓が早鐘を打ち、手のひらがじんわりと湿る。

 そっと扉を開け、廊下へ出る。薄暗いランタンの光が石壁に揺れ、影が長く伸びていた。一歩、また一歩。足音は小さいのに胸の鼓動と重なってやけに大きく響く。呼吸を整えようとしても胸の奥の緊張は消えない。それでも足は止まらず、ソフィーは静かな廊下を進んでいった。


 ——眠れない夜が、彼女をここまで連れてきたのだから。

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