第七章③ ソフィーとルキフェル Part1
ご指摘ありがとうございます。確認しました。
やがて牢の前に立った、その瞬間だった。薄闇の奥から低く押し殺した声が落ちてくる。
「……なんで来た」
ルキフェルだ。
怒りを含んだ声。格子越しに見える眉は険しく、翡翠の瞳が闇の中でわずかに揺れている。顔には痛みと疲労が滲んでいるのに視線だけは鋭く、まっすぐにソフィーを射抜いていた。
ソフィーは一歩だけ前へ出る。足元の石が冷たく、声が震えそうになるのを必死で抑えた。
「……処刑の時、見るなって……あなたが言ったでしょ」
小さく息を吸う。
「……我慢、できなくて……来ちゃった」
言い終えた途端、胸が締めつけられる。指先が小刻みに震えた。
ルキフェルは顎を上げ、短く息を吐く。眉間に深い皺を刻んだまま格子越しに彼女を睨んだ。
「……来るなって言ったはずだ」
声は低く、揺れはない。だが、その奥にある感情の重さがソフィーの胸を押し潰す。
ソフィーは視線を落とし、自分の手をぎゅっと握る。
「……でも……ただ待ってるだけなんて、できない」
小さく首を振る。
「あなたのことを、見ないふりなんて……できないよ」
沈黙。夜風が牢の奥を通り抜け、鉄格子がかすかに鳴る。
「……見るなって言ったのは、理由がある」
ルキフェルは低く言った。
「大人しく、言うこと聞いとけ」
その声にソフィーは一瞬肩を揺らし、それから唇を噛む。
「それができないのも……私だって、わかってるでしょ?」
顔を上げ、まっすぐに彼を見返す。
「今さら言うこと聞くような性格じゃないって」
ルキフェルの目がほんの少し細まる。小さく、呆れたような息が漏れた。
「……この状況で、まだ俺を助けたいとか思ってんのか」
疲労と苛立ち、そして困惑が混じった声。
ソフィーは目を逸らさず言葉を選ぶ。
「無力でいたくないだけ。仲間を失うのに……何もできないまま、離れてるのが嫌なの」
一瞬、声が揺れた。
「……離れてる方が、無理」
ルキフェルは顔を歪め、短く息を整える。
「誰のためだ。俺のためか……それとも、自分のためか」
刃のような問いにソフィーは一瞬言葉を失った。胸に手を当て、呼吸を整える。
「……どっちも。でも今は、ここにいることしか……私にはできない」
再び沈黙が降りる。格子越しに、翡翠の瞳が彼女を見つめていた。そこには痛みも怒りも、そして微かな理解も混じっている。
「……わかった。だが、それでも俺を巻き込むな」
冷たい石畳と潮を含んだ夜風の中。二人は言葉以上の沈黙で、互いの覚悟を確かめ合う。処刑前夜。残された時間の中で交わされた、静かで重たい対話だった。
ソフィーは夜風に揺れる髪を押さえ、少し声を落とした。
「……ねえ。どうして、そんなふうに壁を作るの?」
ソフィーは一呼吸置いて、まっすぐに見る。
「どうして、心を閉じるの?」
ルキフェルはすぐには答えなかった。格子越しに彼女を見据えて口を開く。
「壁、か……守るためだ。俺自身をな。誰かを巻き込む前に。壊れる前に」
ルキフェルはわずかに視線を落とす。
「……もう俺は、壊れても取り返しのつかない場所にいる」
自嘲と覚悟が混じった響きだった。
「お前には、余計なものを背負わせたくない」
ルキフェルは視線をソフィーに戻し、はっきりと言う。
「俺の罪や絶望で、お前の心まで汚したくない。……俺はもう、誰かを守れる立場じゃない」
ソフィーは一歩も引かなかった。静かに息を吐き、彼の瞳を見据える。
「……それでも、私はここにいる」
ルキフェルの目が夜の闇のように深くなる。
「そうやって、お前は何人見送ってきた? 本当に……感謝されたと思ってるのか」
ソフィーは一瞬視線を落とす。けれど、すぐに顔を上げた。
「みんな言ってくれた。そばにいてくれるだけで、心強いって——みんな言ってくれた」
記憶が胸をよぎる。血の匂い、荒れる海、震える手。
「フェルナンドも、マクシムも……戦闘で亡くなったメリッサって子も。みんな……最期は、誰かに見守られて逝った」
ソフィーの指先が膝の上でぎゅっと握られる。
「……でも、ひとりだけ、そばにいるなって拒んだ人がいた」
彼女が視線を遠くにやると夜風が髪を揺らした。
「グウェナエルさん」
ルキフェルの瞳がほんのわずか揺れた。
「……グウェナエルか」
かすかに震える声。いつもの鋭さはなく、柔らかさが滲む。
「そいつも……お前の気持ちは、ちゃんと受け取ってたんだろう」
ルキフェルは少し考えるように続けた。
「拒んだのは……弱さを認めたくなかっただけだ」
言葉の奥に自分自身を重ねる影があった。
「……お前がそばにいるだけで、救われるやつはいる。俺も……少しな」
ソフィーは息を呑む。
「彼はね。死ぬ瞬間を、私に見せたくなかったって言ってた」
彼女は小さく微笑んだ。
「生きていた記憶だけを、私に残したかったんだって。それが、彼の願いだった」
ルキフェルは一瞬、視線を逸らす。拘束された腕がわずかに震えた。
「……生きていた記憶だけ、か。……それでいい。死ぬ瞬間なんて、見せるもんじゃない。目に焼き付いたら……お前まで壊れる」
翡翠の瞳が静かに光る。
「だから、生きてた俺だけを覚えてろ。絶望の顔なんて、残す気はない」
彼の言葉は冷静で確かな温度を持っていた。
ソフィーは胸の奥にかすかな安堵とどうしようもない切なさが混ざるのを感じる。
夜明け前の淡い光が牢の鉄格子を細く縁取っていた。太陽はまだ姿を見せていないが、空はゆっくりと灰色から青へ移ろい、輪郭だけが浮かび上がる。潮の匂いが遠くから流れ込み、冷えた空気がソフィーの頬を撫でる。
薄明の中で、ルキフェルの姿がはっきりしていく。壁にもたれて石床に座していたらしい。が、五日間の監禁を経てもその凛とした佇まいは崩れていなかった。わずかな疲労を纏いながらも背筋は真っ直ぐ。翡翠色の瞳だけが静かに揺るぎない意志を宿している。
ソフィーは思わず息を呑んだ。
「……これから死に行く人には、見えない」
かすれた呟きが朝の空気に溶ける。
ルキフェルは一瞬だけこちらを見て、ほんのわずかに口元を緩めたように見えた。その仕草が余計に胸を締めつける。五日間が彼の体に刻んだ重みを思うと息が苦しくなるのに、それでも彼は時間に侵されていないようにそこにいる。
「……どうして、そんな顔ができるの……」
ソフィーは足元の石畳を確かめるように踏みしめ、深く息を吸った。冷えた空気と潮の匂いが肺に満ち、心臓が強く脈打つ。
「……ルキフェル」
呼びかける声は小さく震えたが、逃げなかった。
ルキフェルはゆっくりと視線を向け、その翡翠の瞳が、まっすぐ彼女を捉える。一歩、また一歩。冷たい石の感触を足裏に受けながらソフィーは膝を折り、静かに鉄格子に近づいた。指先がひんやりとした鉄に触れ、彼の存在の重さが、そこから伝わってくる。
「……ごめん。触れても、いい?」
囁くような声だったが、迷いはなかった。
ルキフェルは一瞬だけ眉を動かし、何も言わずに彼女を見返す。
ソフィーはそっと手を伸ばし、鉄格子越しに彼の手首に触れた。冷たい鉄と確かに生きている温もり。
「……ここにいる」
その瞬間、胸の奥で絡まっていた恐怖の中にかすかな光が灯る。
ルキフェルは小さく息を吐き、目を細めた。唇がわずかに歪み、皮肉めいた声音が落ちた。
「……お前さ。こんなとこで何やってんだよ。大人しく寝てりゃいいのに。わざわざ時間を無駄にして」
突き放す言葉。けれど、その奥にあるものをソフィーは聞き逃さなかった。
「……無駄じゃない」
指先に力を込めて、はっきり言う。
「あなたのそばにいる時間は、全部意味がある」
ルキフェルは一瞬だけ視線を逸らし、短く息を吐いた。冷ややかな笑みは崩さないまま低く言う。
「……ほんと、厄介だな。最後の最後まで」
それでも、その声は昨夜よりほんの少しだけ柔らかかった。
ルキフェルは薄く口角を上げ、鉄格子越しに淡く色づき始めた空を眺めた。どこか遠くを見るような目でぽつりと言う。
「明日……いや、もう今日か。観客、どれくらい集まるんだろうな」
ソフィーは思わず眉をひそめ、すぐに声を強めた。
「縁起でもないこと、言わないで」
けれどルキフェルは気にした様子もなく肩をすくめる。
「だってさ。巷じゃ俺たちのこと、『五鬼衆』なんて呼んでるらしいじゃないか」
彼は鼻で笑ってソフィーを見やる。
「……何だよ、その名前。センスなさすぎだろ」
ソフィーは一瞬言葉に詰まり、少し考えてから静かに口を開く。
「でも……鬼って、必ずしも悪いものだけじゃないの」
視線を落としながら言葉を選ぶ。
「東の方では人の想いを映す存在だったり、魂の在り方を試す存在だったり……怖いけど、意味を持つ存在として語られてる」
ソフィーは顔を上げ、ルキフェルを見る。
「だから、鬼って呼ばれるからってただの化け物ってわけじゃない。人が人であることを突きつける役割でもあるのよ」
ルキフェルはその言葉を聞き、少し目を細めた。
「なるほどな……ほんと、お前らしい視点だ」
そして、どこか皮肉を含めて続ける。
「まあ、そんな深い意味まで考えて五鬼衆なんて呼んでる連中は、まずいないだろうがな」
軽口のはずなのに空気には確かな重みが残る。ルキフェルは視線を外し、低く笑った。
「しかしな……鬼なんて、概念だけの言葉を軽々しく使うのは、正直どうかと思う」
声音は落ち着いているが、鋭さがある。
「だったら、いっそ『獣』の方がまだ分かりやすい。恐怖も伝わるし、嘘がない」
ソフィーは少し驚いた顔で彼を見るが、すぐに苦笑した。
「……確かに、あなたらしい言い方ね」
ルキフェルは口元に冷たい笑みを浮かべる。
「まったく。この国の上の連中は、ちょっと何かあれば東洋がどうのって言い出す。自分たちの文化にそんなに自信がないのかね」
ソフィーは眉をひそめつつ肩をすくめる。
「今は東洋文化が流行りなの。お金持ちの間でね……正直、仕方ない部分もあるわ」
ルキフェルは小さく首を振った。
「だからこそだ。自分の足元をちゃんと見ろって話だろ」
少し間を置いてソフィーが問いかける。
「……東洋文化、嫌いなの? 否定派?」
ルキフェルはすぐに首を横に振る。
「否定はしてない。問題なのは、影響を受けてる自分に酔って何も考えなくなる奴らの器の小ささだ」
ソフィーはその言葉を胸に落とし込み、ふっと息を吐いた。
「じゃあ……流されるんじゃなくて、自分たちの価値観とちゃんと向き合え、ってことね」
ルキフェルは一瞬黙り、空を見上げる。そして、ゆっくりとソフィーに視線を戻した。
「そうだ。折り合いをつけるってのは、ただ従うことじゃない」
翡翠の瞳が朝の薄光を映す。
「自分の信念を手放さずに、外の世界とやっていくことだ」
少しだけ柔らかく続ける。
「文化も流行も否定せずに飲み込む。でも、振り回されない。それが本当の器だろ」
彼の言葉は処刑前の男のものとは思えないほど静かで確かだった。
ソフィーは小さく頷いた。胸の奥にかすかな火が灯るのを感じる。
彼の言葉は重く、けれど不思議と心を落ち着かせた。
言葉が尽き、静けさが二人を包む。話さなくてもそこにいるだけで伝わるものがある。
そんな、奇妙で穏やかな一体感だった。




