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第七章① ソフィー

 その瞬間、全身が凍りついた。


 波の揺らぎも風の匂いも、元の石畳の冷たさもすべてが異様なほど鮮明になる。視界がわずかに揺れ、胸がぎゅっと押し潰されるように締めつけられた。唇が震え、指先が言うことをきかない。風が強まる。潮の湿った空気が肌に張りつき、髪が顔に絡んで視界を遮る。

 それでも、目の前の現実だけは揺らがなかった。

 ルキフェル。夕陽が海面に散らばり、波は赤く光っている。美しいはずの光景なのに、その色は血の気を引くほど冷たく見えた。涙が知らぬ間にソフィーの頬を伝っていた。指先は小刻みに震え、希望と恐怖が胸の奥で一瞬にして絡み合う。世界の音がすっと消える。視界に残ったのは、夕陽を背にしたルキフェルの姿だけだった。

「……死刑だ」

 短い言葉だった。けれどそれは音ではなく衝撃だった。胸の奥に、鈍く重く叩き込まれる。

「……死刑、って……」

 声になったのかどうかも分からない。ソフィーの喉が詰まり、言葉はかすれて震える。息が浅くなり、胸が苦しい。ルキフェルは視線を逸らさず、低くはっきりと言った。

「……他でもない。俺だ」

 その一言が胸を貫いた。声の重みが風や波音を押しのけ、空気そのものを張り詰めさせる。

「俺が処刑される」

 淡々とした声だった。けれど、その静けさがかえって逃げ場のなさを突きつけてくる。

「『恐ろしい海賊』としてな。……ここで終わりだ」

 ルキフェルの瞳は揺れていない。だが、その奥に沈んだ痛みと覚悟だけはハッキリと見えた。

「準備に時間がかかるらしい。……残り、五日だ」

 夕暮れの海の冷たさがそのまま胸に流れ込んできたようだった。

「……そんなの……っ、間違ってる……!」

 ソフィーは思わず叫び、震える手で彼の肩に触れようとする。けれど、「下がれ」と監視官の一人が冷たく言い放ち、ソフィーを乱暴に突き飛ばした。ソフィーの視界が揺れ、膝が石畳に叩きつけられる。鋭い痛みが走り、息が詰まった。

「……っ、やめろ!」

 ルキフェルの声が跳ね上がる。だが、もう一人の監視官が前に出てルキフェルに容赦なく拳を叩き込んだ。鈍い音。肋骨に走る衝撃にルキフェルの息が喉から弾き出される。彼の膝が地につき、背中から拘束の圧がかかる。自由は、完全に奪われた。

 ソフィーはその場に縫い止められたように動けなかった。怒りも恐怖も胸の奥で絡まり合い、声にならない。潮の匂い。冷たい風。硬い石畳。すべてが、現実として押し寄せる。

 拘束されたままのルキフェルが歯を食いしばり、顔を上げた。その瞳にあるのは怒りでも絶望でもない、必死に抑え込んだ理性だった。

「……よせ」

 かすれた声。それでも、はっきりとソフィーに向けられていた。

「ルキフェル……?」

 呼びかける声は震え、風に掻き消されそうになる。彼はわずかに視線を動かし、ソフィーを見る。沈んだ瞳は揺らがない。

「今……俺を助けようとか、考えただろ」

 ルキフェルの息を整えながら低く続ける。

「……やめとけ」

 その一言にソフィーの胸が張り裂けそうに痛み、指先が熱を帯びて全身が恐怖と焦りで震えた。

「……なんで……そんなこと……」

 絞り出すような声だった。ルキフェルの視線がまっすぐにソフィーを射抜く。冷たいけれど、その奥にあるのは痛いほどはっきりした強さと想いだった。荒い息遣い、わずかに震える肩。それでも、理性だけは崩れていない。

「……俺はもう、受け入れた。介入するな」

「……でも……!」

 ソフィーの声が裏返る。ルキフェルは息を荒げながらも言葉を鋭く切った。拘束された両腕に力が入り、抑えきれない怒りと痛みが滲む。

「俺のせいで、お前に何かあったら——」

 一瞬、言葉を噛み殺す。

「……それだけは、絶対に許せない。俺のために、自分の人生を投げるな」

 ソフィーは唇を噛みしめる。胸の奥で叫びたい気持ちが渦を巻く。

「……でも、私は……!」

 言葉にならない。それでも彼女の瞳には、恐怖と絶望の中でなお消えない光が宿っていた。

 ルキフェルの肩がわずかに震える。拘束された手首に力を込め、痛みに耐えながら彼はなお視線を逸らさない。

「分かってくれ。今は……危険に晒すな」

「……そんなの……受け入れられない……!」

 ソフィーの涙が零れ落ちる。風が髪を乱し、塩気が目に染みた。

 ルキフェルはわずかに眉をひそめる。冷たい瞳の奥には言葉にできないほど深い思いやりがある。

「……腹を括った。お前の命を賭けるな。……俺のために、生き方を壊すな」

「……でも……私……」

 ソフィーの嗚咽が混じり、言葉は途切れた。指先は宙に浮いたまま彼に届かない。

 ルキフェルは息を整え、痛みに耐えながらただ彼女を見つめる。翡翠の瞳が何よりも重く、確かに語っていた。

「……頼む。全部、お前のためだ」

 ソフィーは拳を握りしめる。恐怖と絶望の中で、ルキフェルの覚悟の重さが刃のように胸に突き刺さる。それでも、その重さを忘れないと決める。彼を見捨てないと。言葉にせず声に出さず、ただ胸の奥で固く誓いながら。

 ルキフェルは荒く肩で息をしながら膝にぐっと力を込めた。肋骨を裂くような痛みが走り、視界が一瞬白く弾ける。それでも歯を食いしばり、ゆっくりと立ち上がった。

 監視官たちが思わず動きを止める。殴られ、膝を折られ、それでも立ち上がるなど想定していなかった。

 ルキフェルは顔を上げた。赤く沈んでいた瞳がふっと翡翠の色を取り戻す。夕陽を受けてその光は鋭く、深く胸を貫くように輝いた。

「……はっ、俺がここで潰れると思ったか?」

 低い声が広場に静かに響く。

「死ぬなら、もっとマシな舞台だ。お前らみたいなのと、遊んでる暇はねえ」

 舌打ちとともに監視官たちは彼を強引に押し出した。

 その瞬間、フィーの呼吸が乱れる。胸の奥で、鼓動だけが狂ったように鳴り続ける。

「……いや……」

 かすれた声。

「いや……!」

 叫びになる。

「連れて行かないで!!」

 潮風に声が裂かれながらもソフィーは必死に叫ぶ。

「ルキフェル! やめて……お願い……!」

 膝をついたまま、手を伸ばす。だが、空を掴むだけだった。

「行かないで……私を置いていかないで……!」

 ソフィーの視界は涙で歪み、遠ざかる背中だけが焼き付く。拘束されながらも揺るがない姿。そのとき、ルキフェルが低く言った。

「……聞こえてる」

 振り返らず、ただ前を向いたまま。

「だが、介入するな」

 声は短く、鋭い。

「俺はもう、決めた。今は……このまま連れて行け」

 冷たい言葉だった。けれど、その背中は最後まで折れなかった。

 ソフィーは石畳に頬を押し付け、嗚咽を漏らす。

「お願い……!」

 声は波音に溶け、風に攫われていく。

 ルキフェルはもう何も言わない。ただ、前へ進む。夕陽の中、翡翠の瞳だけが一度だけ光り、背中が遠ざかる。

 その時、潮風にまぎれて、別の足音が近づいてきた。石畳を踏みしめる重たい音、ついさっきルキフェルが辿ってきた道をなぞるような響き。

 ソフィーが振り向くと、そこにいたのはエリオット、イザベル、ルソー、そしてアルフォンスだった。久々に姿を見せた彼らの表情はどれも硬い。疲労と緊張、そして覚悟。

「ソフィーさん……!」

 アルフォンスが思わず駆け寄ろうとする。差し出された手が視界に入った瞬間、ソフィーの中で何かが弾けた。

「触らないで!」

 反射的に叫び、アルフォンスの手を振り払う。

「離れて……!」

 怒りと恐怖が混じった声が潮風に裂かれながらも強く響いた。

 エリオットが一歩前に出る。背筋を正し、低く、落ち着いた声で言った。

「ソフィー、落ち着け……」

 彼の言葉にソフィーは鋭く睨み返す。

「落ち着く?」

 吐き捨てるように言った。

「あなた……彼が、ルキフェルが……あんな目に遭ってるのに? それで、何もしないつもりなの? 答えてください! どうして……どうして、あんなことになるの……!」

 波音に混ざったソフィーの叫びが海岸に反響する。夕陽に染まる海が赤く揺れ、その色がソフィーの感情を煽る。一歩も引かず、彼女はエリオットを睨みつけた。

「今、必要なのは整理じゃない! 助けて……! 連れて行かないで……お願い……!」

 石畳の冷たさが、足元から胸まで染み上がる。叫びは、祈りに近かった。

 エリオットはその場で立ち尽くしたまま何も言えない。肩がわずかに落ち、視線は海へ逸れる。沈黙、それ自体が答え。その沈黙を切り裂いたのはイザベルだ。

「……ソフィー。覚えておきなさい。ルキフェルの死刑は、覆らない」

 イザベルは一歩も引かない視線で続ける。

「国家の決定よ。我々の正義、秩序、そのすべての名のもとに、あの海賊は裁かれる」

 彼女の言葉は冷たく揺るぎがない。潮風と混ざり、刃のように空気を切った。

 ルソーも前に出る。厳しい眼差しでソフィーを見据えた。

「イザベルの言う通りだ。法と秩序の名において、ルキフェルはもう逃げられない」

 そして、彼は少しだけ声を落とす。

「感情に流されるな、ソフィー。残酷だが……これが現実だ」

 ルソーの言葉は重く、逃げ場がなかった。

 ソフィーは両手を強く握りしめる。

「……そんなの、間違ってる……!」

 彼らの背後から足音が増える。マテオ、ニール、ジャスパー、コリン。次々と海岸に姿を現す。

 アルフォンスが再び近づこうとするが、ソフィーは振り向きもせず叫んだ。

「彼は……彼は、あなたたちを助けたじゃないですか!」

 ソフィーは涙を浮かべたまま必死に訴える。

「海賊だとしても……彼が、何をしたって言うんですか……!」

 エリオットは答えない。顔を伏せ、沈黙を選ぶ。再びイザベルが言った。

「海賊だからだ、ソフィー。国にとって犯罪者は悪。海賊は、正しく『悪』と定義される存在よ」

 イザベルは一切の迷いもなく続ける。

「我々が掲げる『海賊撲滅』の使命を果たすためには、ルキフェルの死刑は不可欠なの」

 ソフィーの胸が締め付けられる。

「……それなら……!」

 叫びはほとんど泣き声だった。

「そんな正義、いらない! 国家の正義より……仲間を優先する! 私には……彼を守る義務があるんです!」

 声は潮風に削られながらも確かに響いた。イザベルの視線が氷のように冷えた。次の瞬間、鋭い音が空気を裂く。——パァン、と強烈な平手がソフィーの頬を打った。耳鳴りがして、視界が一瞬揺れる。頬に熱と痛みが走り、涙が反射的に溢れた。身体がよろめく。けれど、倒れはしない。

 ソフィーは歯を食いしばり、ゆっくりと顔を上げた。頬を打たれた衝撃よりも、胸の奥で燃え上がる怒りのほうがはるかに強かった。風が髪を乱し、潮の匂いが鼻を刺す。冷たい石畳の感触が痛みを現実として突きつける。彼女は震える手で頬に触れ、声を張り上げた。

「……そんな理屈、認められません!」

 涙を滲ませながらも視線は逸らさない。

「ルキフェルは……あの人は、私たちを助けてくれたじゃないですか! それなのに……それなのに、どうして……!」

 ソフィーの声は怒りと悲しみで震えながらもはっきりと響いた。彼が必死に戦っていた姿、痛みに耐えて立ち上がった瞬間が脳裏に焼き付いて離れない。

「ソフィー!!」

 突然、二つの声が重なる。

「やめろ、ソフィー!」

「落ち着け!」

 マテオとジャスパーが同時に駆け寄り、彼女の腕を掴んだ。

「離して……!」

 必死に振りほどこうとするが、二人の力は強い。マテオが背後から腕を抑え、ジャスパーが肩を押さえる。石畳の冷たさが足裏から骨に響く。

「ルキフェルを……連れて行かないで……!」

 ソフィーの叫びは海風に攫われ、空へ溶けていく。

「無理だ、今は……!」

 マテオが必死に声を絞り出す。

「助けに行ったら、あんたも終わりだ!」

 ジャスパーも声を荒げた。

「理性を失うな!」

 ソフィーはなおも抗おうとした。だがその瞬間、胸の奥に彼の言葉が蘇る。

 ——俺のせいで、お前に何かあったら。

 身体がぴたりと止まった。怒りは消えていない。それでも、理性がかろうじて彼女を繋ぎ止める。

「……でも……私は……」

 言葉は続かず、嗚咽に変わる。そのときだった。

「いい加減にしろ!!」

 ルソーの怒声が海岸に叩きつけられた。

「これ以上、命令に従えないと言うなら……覚悟はあるのか?」

 彼が一歩前に出て鋭い視線を向ける。

「海軍を辞職するか? それとも……あの海賊と一緒に処刑されたいのか!」

 その声には怒りだけでなく覚悟と現実が詰まっていた。

 ソフィーは息を呑む。握りしめていた拳が、少しずつ緩む。風が髪を吹き上げ、冷たさが一気に全身に広がる。

 ルソーは低く続けた。

「聞け、ソフィー。感情だけで動けば、守りたい者すら守れなくなる」

「あの海賊を想う気持ちは、否定しない。だが今は、冷静になれ」

 ソフィーの瞳に迷いが揺れる。怒りの炎の奥に、理性の光がわずかに差し込む。

「……わかりました……」

 絞り出すような声でそう答えた。

 ルソーはそれを確認すると視線を海へ戻した。そのとき、かすれた声が落ちた。

「……部屋で、休みたい」

 エリオットだった。顔色は灰色で肩は落ち、威厳は影を潜めている。

「大元帥……!」

 アルフォンスが慌てて支えに入る。

 エリオットは小さくうなずき、そのままアルフォンスに身を預けて歩き出した。足音が波音と混ざり、遠ざかっていく。二人のの背中を見送りながら、ジャスパーが小さく息を吐いた。

「……うちのソフィーが、悪かった」

 イザベルとルソーは一瞬だけ視線を交わし、無言で頷く。そしてエリオットたちの後を追い、石畳を踏みしめて去っていった。

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