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第六章⑧ ソフィー

 ソフィーは自室に戻ると、まず軽く肩を伸ばして深呼吸をひとつ。

 食堂での会話や仲間の死、そしてルキフェルの言葉が胸の奥でまだ重く感じられた。

 雑務はそんな思いを少しずつ整理するための儀式のようなものだ。

 まず手始めに床掃除。ほうきで石畳の細かい隙間まで丁寧に掃き清め、舞い上がる埃を払いながら、頭の中の重たいものも少しずつ掃き出す。続いて雑巾を水で湿らせ、机や棚、窓枠をひとつひとつ丁寧に拭く。手のひらに伝わる木の感触、濡れた布のひんやりとした冷たさが思考を現実に戻す。

 窓際に置いた衣服や小物を整えた後、ソフィーは短い時間だが日記を手に取り、午前中に感じたことを言語化する。手を動かし、言葉を紡ぐたび、頭の中で絡まっていた感情がゆっくりほぐれていく。ペン先に乗せる思いは痛みも悲しみも、そして僅かな希望もすべてそのまま紙に映し出される。


 庭や廊下の掃除、物資の整理、簡単な修繕など徒刑所の雑務は連日の訓練や心理的負荷の中で、隊員たちにとっても小さな心の整理の時間だった。

 ジョルジュは倉庫の棚に積まれた食料や衣類をひとつずつ点検しながら雑巾で埃を払い、整理整頓を行う。足元に散らばった小物を拾い、並べ直す作業に没頭することで、昨日の惨状や仲間の死を頭の片隅に追いやる。たまに棚の上に積もった埃をくしゃみと共に払いながら「あー、これで誰も怒られんだろうな」と独りごち、少しだけ肩の力が抜ける。

 アニータは窓際に置かれた植物の手入れをしながら葉のほこりを払い、土の乾き具合を確かめる。細かく枝を切り揃え、水をやる作業は彼女にとって精神の落ち着く時間でもあり、仲間の死を悼む小さな儀式でもある。水を注ぎながら、ぽつりと「みんな、今日も生きていてほしい」と心の中で呟く。

 シャルルは石畳の隙間に入り込んだ小石や砂利を取り除き、ほうきで丁寧に掃く。彼は言葉少なに淡々と作業をこなすが、時折立ち止まって遠くを見つめ、仲間の安否や昨日の出来事を思い返す。

 リゼーヌとスザンヌは洗濯物を畳み、衣類の汚れや破れをチェックしながら丁寧に整える。手先の細かい作業に没頭することで悲しみや苛立ちを紛らわせている。

 ロザリーは台所で鍋や食器を磨き、壁や床を拭き上げる。手を動かすうちに昨夜の恐怖や仲間の死の影も薄れ、少しずつ気持ちが落ち着く。

 サミュエルは物資の搬入と整理を担当。重い箱を運び、必要な場所に運び込む作業は体にきついが、肉体を使うことで精神が落ち着く。ときどき手を止めて同僚の様子を見渡し、互いに軽く笑い合うことで緊張の糸を少し解く。

 ペネロペはめんどくさがりながらも雑務を避けられないため、仕方なく廊下の拭き掃除や小物の整理に取り組む。最初はぶつぶつ文句を言いながら動いていたが、徐々に作業に没頭していく。床に落ちた埃やごみを拾うたび「……まあ、やらないよりはマシか」と小さく納得する。

 こうして各自が雑務をこなしながら互いに目を合わせ、短い言葉を交わすことで静かに互いの存在を確認する。手を使い、目で見て耳で感じることは単なる労働ではなく、亡くなった仲間たちへの静かな敬意でもあった。

 午後の光はゆっくりと角度を変え、石畳に落ちる影は長く柔らかく伸びていく。

 空の色は淡い藍色に近づき、太陽の熱は和らぎ、肌に触れる風は少しひんやりとした冷たさを帯びている。庭の樹々は夕暮れの光を浴び、葉の緑が温かい金色に染まった。かすかな葉擦れの音が耳に届き、風に乗って湿った土や苔の匂いが鼻腔をくすぐる。遠くの水音はかすかな振動とともに足元の石に響く。

 ソフィーはその変化をただ感じながら呼吸と足取りを整える。光と影、匂いと音のひとつひとつが昨日までの緊張をゆっくりと溶かしていく。彼女は小さく息をつき、冷えた空気を胸いっぱいに吸い込み、肩の力を抜く。今日の緊張と疲労は夕暮れの風景にゆっくりと溶け込み、心の奥に柔らかな静けさを残した。


 夕暮れの海岸沿い。ソフィーの足元に敷かれた石畳は冷たく硬く、指先まで震えるような感触を伝える。潮の匂いが鼻腔をくすぐり、湿った風が髪や頬を撫でるたび全身の神経がぎゅっと緊張する。波音が微かに耳に届くが、鼓膜を打つような重さはなく逆に不気味な静けさを際立たせる。

 そのとき、視界の端に異様な影が差し込んだ。

 二人の監視官に挟まれ、歩を揃えて迫ってくる人影——ルキフェルだ。

 夕陽に照らされた彼の輪郭は鋭く、暗く、世界の色を変えてしまったかのように見える。歩くたび足元の砂利が鳴り、緊張のリズムを刻む。

 ソフィーの胸は締め付けられ、呼吸が浅くなった。手が無意識に胸元へ伸び、指先が小刻みに震える。夕風の冷たさや潮の湿気。感覚が異常に鋭くなり、心拍と同期するように全身を貫く。

「ルキフェル……どうしたの……!」

 声は絞り出すように出た。けれど風にかき消され、心臓の鼓動が耳元で鳴り響く。

 ルキフェルの瞳が赤く沈み、動かぬ重みを持ってこちらを射抜く。彼の歩みはゆっくりだが、迫るたびに心臓を鷲掴みにされるような痛みを覚える。


 そして、鋭く短い言葉——


「死刑だ」


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