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第六章⑥ 元マクシミリアン隊 Part2

 短い沈黙ののち、食堂の空気が少しだけ緩んだ。驚きと同時に妙な納得と安堵が混ざり合う。

 スザンヌは小さく息をつき、視線を遠くへ泳がせる。

「……あの人の瞳、不思議ですね」

 思わず、皆が耳を澄ます。彼女の声にはいつもの冷静さも硬さもなかった。

「透き通った緑で……全部見透かしてるみたいなのに、なぜか、怖くなかった」

 スザンヌは少し頬を赤らめ、袖口を指でつまみながら続ける。

「穏やかで、芯があって……優しかったです」

 仲間たちは顔を見合わせ、思わず小さく笑ったり、肩をすくめたりする。

 その表情があまりに普通の少女で、拍子抜けするほどだった。

 その瞬間、ソフィーの胸に昨夜の記憶が鮮やかによみがえる。

 ——縁も運命も、全部、俺たちが切り開くものだ。信じる必要はない。自分で選べ。

 スザンヌの声に、ほんのり混じるときめき。それを聞きながらソフィーは胸の奥で小さな波を感じていた。

「……私も、あの瞳に見つめられたら……きっと、心が揺れるだろうな」

 思わず漏れた独り言。穏やかで、それでいて自由と強さを宿す翡翠の瞳。確かに、昨夜ソフィーが見たルキフェルそのものだった。

 食堂にしばし沈黙が落ちる。誰もがそれぞれの皿に視線を落としながら、けれど意識はさきほど口にされた名前――ルキフェルの余韻に引き寄せられていた。そんな中、スザンヌがふと独り言のように呟いた。

「……それに……」

 その声は小さくためらいがちだったが、不思議とよく通った。

「……あの声」

 一瞬、空気が止まる。ルキフェルについて語られるのは傷だらけの顔だとか、剣の腕だとか、あの翡翠色の瞳だとか、危うい生き方だとか、そういうものばかりだった。

 声に言及する者は、今まで一人もいなかった。

 ジョルジュが無意識に瞬きをし、アニータが「え?」という顔をする。シャルルは片眼鏡の奥でほんのわずかに目を細めた。確かに彼はよく通る声だった。静かでもざらつかず、耳にすっと届く。無理に張り上げるでもなく、それでいて芯がある。

「……ああ……」

 サミュエルが遅れてぽつりと漏らす。

「たしかに……よく通る、いい声だな」

 その流れを、ペネロペが半拍遅れて遮った。

「……声?」

 ペネロペがきょとんとした顔で聞き返す。スザンヌはその視線を受け止め、少しだけ照れたように、それでも逃げずに頷いた。

「そう。……私、彼の声が……好きなんです」

 その瞬間、食堂の空気が別の意味で凍った。誰も言葉を挟めない。否定も冗談も、すぐには出てこない。

 スザンヌは続けた。声は相変わらず静かで落ち着いている。けれど、そこには隠しきれない感情が柔らかく滲んでいる。

「海の中で……もう、息が続かなくなって……意識も遠くなって……」

 彼女は再び視線を落とし、指先で濡れた袖を軽くつまむ。

「その時、あの声で……生きろって言われたんです」

 一瞬、言葉を探すように間を置いてから静かに。

「……あんな声で、あんなふうに言われたら……」

 唇にかすかな笑みが浮かぶ。

「もう、自分の命を絶とうなんて……思えなくなります」

 しん、と音が消えた。誰かが「あ……」と小さく息を漏らした。

 ——ああ、そういうことか。

 才色兼備で常に冷静で、近寄りがたいほど整っていたスザンヌ。

 多くの視線を集めながら誰にも靡かなかった彼女が惹かれたのは、甘い言葉でも肩書きでもなく。

 ただ一度、命の淵で投げかけられたあの声だった。

 ソフィーは昨夜の月明かりの下を思い出す。翡翠色の瞳。静かで、けれど確かに胸に届く声。わかる、と胸の奥で呟いた。

 スザンヌはそれ以上語らず、ただスープに視線を戻す。その横顔はいつも通り凛としていて、けれどどこか柔らかい。食堂には彼らが今まで知らなかったスザンヌの輪郭だけが静かに残っていた。そして再び、スザンヌの言葉が食堂の空気に溶けていく。

「……優しかったんです」

 その声は小さく、けれど確かに胸に残る響きを帯びていた。

 恋を語るというより、大切な記憶をそっと撫でるような声音だった。

 ソフィーはスープに浮かぶ湯気をぼんやりと見つめながら彼女の横顔を視界の端で捉える。頬はまだ少し赤く、瞳にはいつもより柔らかな光が宿っている。不意に、記憶が引き寄せられた。


 ランタンの灯が揺れる、静かな港。波の音と夜風。

「秘密って、守れます?」

 少し照れたようにそう聞いてきた、あの夜のスザンヌ。

 海で溺れ、助けられ、名前も告げられないまま別れた「その人」。

「あなたが居ていいところじゃない」

 そう言われた悔しさと、それでも消えなかった憧れ。

「それが嫌で、見返してやろうって思ったんです」

 あの時の彼女の笑顔は今よりずっと幼く、それでも確かな決意を宿していた。


 ——スザンヌは、その人のこと……もう、諦めたのかな。

 ソフィーはすぐにその思考を押し戻す。野暮だ。今さら考えることじゃない。

 スザンヌは今、ここにいる。そして今、彼女の心を支えているのは……食堂に響いた彼女自身の言葉。

「……彼の声が好きなんです」

 ——今の彼女が誰に救われているかは……もう、はっきりしてる。

 ソフィーはスプーンを取り、静かにスープを口に運ぶ。温かさが喉を通って胸に落ちていく。

「……それでいい」

 ソフィーは視線を落とし、心の中でそっと区切りをつけた。

 過去は過去。今は今。それは、昨夜ルキフェルから受け取った答えでもあった。

 食堂の昼下がりの光は変わらず静かに皆を包んでいる。その中でソフィーは小さく息を吐き、一度視線を落としてから静かに口を開いた。

「……昨夜、ルキフェルが教えてくれたんです」

 皆の視線がソフィーに向く。

「運命に縛られなくてもいい、怖がらなくていいって。誰かが決めた未来じゃなくて、自分の意志で生きていいんだって……」

 言葉を選びながら噛みしめるように続ける。

「怖くても、悲しくても……それでも生きるって、選んでいい。そう思わせてくれたのは、ルキフェルでした」

 一瞬、沈黙。湯気の立つスープの音だけがかすかに聞こえる。

 そのとき、スザンヌがふっと視線を落とした。

「……でも、私……」

 声がわずかに揺れる。

「自分の命を、軽く扱うようなことを……してしまいました」

 言い終えると唇を噛み、頬にかすかな赤みが差す。

「……怒られても、当然ですよね」

 ソフィーは何も言わず、ただ耳を傾ける。

 スザンヌは一度、深く息を吸ってから静かに続けた。

「ルキフェルは……自分で命を断とうとすることに、強い嫌悪感を持っているんです」

 仲間たちが自然と姿勢を正す。

「フランソワという……とても大切な人を、海に身を委ねる選択で失っているから」

 声は淡々としているが、その奥に滲む感情は重い。

「『海に生き、海で死ぬ』という理想を貫いた人でした。だから、私が海に飛び込んだとき……きっと、フランソワの面影を見たんだと思います」

 スザンヌはそっと胸元に手を添えた。

「怒っていました。でも……同時に、守ろうとしてくれていた」

 小さく、息を吐く。

「その両方が伝わってきて……私は、少しだけ安心したんです」

 床に落ちる水滴の音がやけに大きく響いた。

 ソフィーは昨夜のルキフェルの表情を思い出しながらそっと呟く。

「……なるほど」

 彼女は視線をスザンヌに向ける。

「怒りも、守りたい気持ちも……どちらも、本物だったんだ」

 スザンヌはほんのわずかに肩の力を抜いて頷いた。

「はい……怖くなかったと言えば嘘になります。でも……あの人が必死だったことだけは、ちゃんと分かりました」

 ジョルジュが眉を寄せたままぼそりと漏らす。

「……過去が、そこまで引きずられてるとはな」

 アニータは小さく息をつき、リゼーヌは静かに言った。

「でも……それだけ想ってたってことでしょう?守れなかった人も、守ろうとした人も」

 ソフィーはゆっくりと背筋を伸ばす。

「……私も。生きている限り、あの人たちの想いを無駄にしない。亡くなった仲間の分まで、ちゃんと前に進む」

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