第六章⑤ 元マクシミリアン隊 Part1
朝の光が、開け放った窓から差し込んでくる。
白み始めた空気の中で、昨夜の海がまだ胸に残っていた。
月の銀色。揺れる波。翡翠の瞳。そして、あの声。
——「信じなくていい。誰かが決めた未来なんて、存在しない。決めるのは俺だ」
その言葉は夜が明けても薄れず、私の中に深く刻まれている。胸元で、アクアマリンが冷たく光っていた。指先に伝わるその感触は、過去の痛みとこれから進む先の希望を同時に映す鏡のようで。
ソフィーはペンを取り、昨夜のことを書き留める。言葉を並べるというより心の鼓動を、波の音を、翡翠色の光を紙の上に閉じ込めるように。
朝の光
六時三十分 起床。
薄い朝日が鉄格子を斜めに照らす。昨夜の海、月光に反射した翡翠の瞳と、アクアマリンの青が、まだ頭の片隅で揺れている。深く息を吸い、胸の奥に静かに灯る希望を確かめる。
雑務
七時 居室清掃。
床を掃き、机の上を整える。手を動かしながら、無意識に胸元へ指が触れる。
七時三十分 食堂にて朝食。
パンと薄いスープ。食事をしながら、昨日の会話を思い返す。
「誰かが決めた未来なんて、存在しない」
その言葉がまだ胸に残っている。
八時 物資棚点検。
必要品の欠損なし。記録に残す。
九時 鉄格子点検に同行。
異常なし。手を止めるたび、夜の海の波音が心に蘇る。
九時三十分 書類整理。
昨日の観察記録と日誌の写しを棚に収める。
文字を通して、胸の奥にある静かな決意を確かめる。
十時三十分 居室の小物整理。
首飾りを軽く握る。その光が、過去と未来を同時に映し出す。
雑感
作業の合間、指先や視界の端にふとした光や音を感じるたび、心がわずかに震える。
夜の海で感じた自由の温度が、日常の些細な動作の中に少しずつ染み込んでいく。
「今」を生きるという覚悟が、ひとつひとつの作業に確かな意味を与えてくれる。
午前のまとめ
十一時
次の雑務に備え、呼吸を整える。
自由と責任。
その二つの重みを同時に胸に抱きながら、歩き出す準備をする。
首飾りの青い光が今日も私を守り、導いてくれる——そんな気がしてならなかった。
雑務を終え、庭の小径を抜けて隊員たちは食堂へ向かった。
昼下がりの光が小窓から差し込み、木の床と長いテーブルを淡く照らしている。炊事場から流れてくるパンと煮込みの匂いが空気に混ざり、思わず深く息を吸いたくなる。テーブルの上には、簡素だがきちんと並べられた木の皿と食器。
ソフィーは手早く自分の皿にスープと野菜の煮込みをよそい、残っていた雑務の汗を手の甲で拭った。湯気が頬に当たり、思わず小さく息が漏れる。
ジョルジュは黙々と準備しながら、ちらりと仲間たちの様子を窺っている。
アニータは鍋の中を覗き込みながら少し楽しげに言った。
「……いい匂い。今日は当たりね」
それにリゼーヌが小さく笑って頷く。
シャルルは片眼鏡を指で押さえたまま、ぼんやりと窓の外を見ていた。
ロザリーは静かに席につき、サミュエルは汚れた手を丁寧に拭いてから腰を下ろす。ペネロペは相変わらず面倒そうに椅子に座ったが、食べ物を見ると無言で手を伸ばした。
「……やっと座れた」
ソフィーが小さく息をつく。膝に疲労の名残はあるが、胸の奥は不思議と穏やかだった。体を動かしている間、意識の端に追いやっていた重たい感情も、こうして温かい食事を前にするとほんの少しだけ距離を取れる気がする。
ジョルジュがフォークを持ち上げ、リゼーヌに向かって笑った。
「雑務のあとだとさ、こういうスープ、やけにうまく感じるよな」
「わかる。体に染みる感じ」
アニータは満足そうに頷き、ペネロペは相変わらず黙ったまま口を動かしているが、その様子はどこか落ち着いている。食堂には言葉のない時間と小さな笑い声が交互に流れる。スープをすする音と、パンを割る音が重なる。そうした生活音が徒刑所の静けさを柔らかく塗り替えていった。
ソフィーは静かに思う。雑務の疲れを癒すだけじゃない。こうした食事の時間そのものが、心の隙間を少しずつ埋めてくれるのだと。仲間の死や処刑の記憶は消えない。それでも同じ卓を囲み、同じ温かさを分け合うことで、胸の痛みはほんのわずか和らいでいく。ふと、ソフィーはテーブルの向こうにいるリー・ウェンに目を向けた。
「リーもこうしてゆっくり食べるの、久しぶりじゃない?」
彼はスプーンを動かしながら穏やかに笑う。
「ええ。普段は商談や情報集めで落ち着かないですからね。こうして座って食べる時間、意外と贅沢です」
庭から自室、雑務、そして食堂。徒刑所での一日は派手さはないが、確かに積み重なっていく。仲間と過ごすこのささやかな時間こそが、過酷な日常の中で灯り続ける、小さな火なのだとソフィーは湯気の向こうで静かに実感していた。
その時、食堂に流れていた静けさを重い扉の軋む音が切り裂く。
「……?」
誰かが息を止め、全員が一斉に顔を上げる。
そこに立っていたのは、スザンヌだった。いつもと変わらぬ落ち着いた表情。けれど、その全身はびしょ濡れで、外套の裾から水滴がぽたぽたと床に落ちている。濡れた髪は肩に張りつき、布越しに浮かぶ輪郭が普段の彼女よりもどこか生々しく見えた。
ジョルジュが思わず眉をひそめる。
「……何だ、あれ……」
アニータが口元を押さえ、小さく息を吸う。
「まるで……海に落ちたみたい……」
「でも……様子が普通すぎる……」
リゼーヌの声は戸惑いに揺れていた。
ソフィーは手を止めたまま、スザンヌから目を離せずにいた。胸の奥をかすめる、ひりつくような違和感。雑務の疲れとも悲しみの余韻とも違う、嫌な予感に近い感覚。
スザンヌはゆっくりと歩いてくる。水滴が床に落ちる音がやけに大きく響いた。
「……スザンヌ?」
シャルルが控えめに声をかける。
スザンヌは一瞬だけ視線を向け、淡々と答えた。
「……散歩していただけです」
あまりに平然とした口調に、誰も言葉を継げなかった。彼女は外套を脱ぎ、濡れたまま椅子の背にかける。水が床に広がり、昼食の温もりが一気に冷めていく。誰も問いかけられずにいる中、ロザリーが胸に手を当てて震える声で言った。
「……スザンヌ……もしかして……海に……?」
スザンヌは目を逸らさなかった。
「ええ。入りました」
食堂の空気が凍りつく。ソフィーは胸がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
「……どうして……」
ロザリーの声はほとんど祈りのようだった。
スザンヌは静かに息を吐き、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「この場所で生かされて……処刑を待つだけの日々が、耐えられなかったんです」
彼女の視線はまっすぐで揺れない。
「だったら、自分で終わらせたほうが楽だと思いました」
感情を押し殺した声ではなかった。ただ事実を述べているだけの、あまりにも冷静な口調。その落ち着きがかえって胸に重くのしかかる。
ソフィーは昨夜の海を思い出していた。
ルキフェルの言葉。——決めるのは、俺だ。
スザンヌの行動は、その言葉を歪んだ形で体現しているようにも見えた。
スザンヌは一度だけ視線を伏せる。
「……愚かなことをしたのは、分かっています」
そして、彼女は再び顔を上げる。
「それでも……私が選んだことです」
誰も否定できなかった。肯定も、できなかった。
食堂に差し込む光が濡れた髪と外套を淡く照らす。床に落ちる水滴が静かな音を立てて広がっていく。さっきまで温かかった昼食の時間は、今や張り詰めた沈黙に包まれていた。
その沈黙を破ったのはサミュエルだった。眉をひそめ、戸惑いを隠せないまま問いかける。
「……だったら、なんで今ここにいる?あんな海に飛び込んで……助かるとは思えないだろ」
スザンヌは少しだけ間を置いて淡々と答えた。
「……海賊に助けられました」
その一言で皆の視線が一斉に彼女へ集まる。
「は?」
ジョルジュが思わず声を漏らす。
「ちょっと待て。助けてくれたのが、海賊ってことか?」
スザンヌは目を細め、ほんのわずかに唇をゆるめた。
「……ルキフェルです」
名前が落ちた瞬間、テーブルの周囲に小さなどよめきが走った。
ソフィーは思わず息を吐き、視線を伏せる。昨夜の月光と翡翠の瞳がよみがえった。
ジョルジュは一瞬言葉を失い、それから噛みしめるように言う。
「……あの、ルキフェル? まさかの、あいつかよ……」
スザンヌは落ち着いたまま、はっきりとうなずいた。
「はい。危険も構わず、引き上げてくれました。……そのおかげで、今こうして生きています」
ロザリーが静かに眉を上げ、複雑そうに呟く。
「……さすがね。あの人なら、やりかねない」




