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第六章④ ソフィーとルキフェル 続き

 ルキフェルは月明かりに照らされたソフィーを見下ろし、少しだけ口の端を上げた。

「そういやさっき、運命がどうこうって言ってたな」

 ソフィーは小さく頷く。

「……人の生き死にも、最初から決まってるんじゃないかって」

 ルキフェルは鼻で短く笑った。

「相変わらず、重たいこと考えるな」

 潮風が二人の間を抜けていく。しばらく黙ったまま、彼は海を見つめていたが、やがて低い声で続けた。

「じゃあ、その考えをぶち壊す話をしてやる」

 ソフィーが顔を上げる。

 ルキフェルは一歩近づき、月光を背にして立った。傷だらけの顔に翡翠の瞳が静かに光る。

「運命だの、生死だの……そんなもんに縛られるな」

 声は荒くない。だが、揺るぎがなかった。

「信じなくていい。誰かが決めた未来なんて、俺は信用しない」

 砂を踏みしめ、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「決めるのは、いつだって今だ。俺がどう動くか、何を選ぶか。それだけだ」

 潮の匂いが強くなる。波の音が言葉の隙間を埋めていく。

「生きる意味なんてのはな、後からついてくるもんだ。今、この瞬間に何を選んだか。それだけが残る」

 ルキフェルの視線がソフィーに戻る。

「今この瞬間、自分で選べ。それで十分だ」

 その言葉が波音と一緒に胸に落ちてくる。ソフィーの中で絡まっていた恐怖や絶望が、ぱきりと音を立てて崩れた。彼女はしばらく黙っていたが、ふと胸元に手を当てて小さく息を吐いた。

「……でも、今この瞬間を選べって……それってさ」

 ソフィーは言葉を探すようにゆっくり続けた。

「周りから見たら…怠けてるとか、立ち止まってるって思われるんじゃないかな」

 月明かりに照らされた彼女の表情にはまだ拭いきれない不安が滲んでいる。

「逃げてるって思われるのが……怖い」

 ルキフェルは一瞬、きょとんとしたような顔をしたあと鼻で小さく笑った。

「……ああ、なるほど。そう来たか」

 彼は少しソフィーの方へ体を向け、声の調子を落とした。

「勘違いしてる。『今を選べ』ってのは、何も考えずに楽な方に流れろって意味じゃねえ」

 翡翠の瞳が真っ直ぐソフィーを捉える。

「今この瞬間に、自分ができることを選んで、ちゃんと動けって話だ。しかも全力で、だ」

 低く、噛みしめるように言う。

「今を選ぶってのは、手を抜く免罪じゃない。逃げ道がない分、覚悟が要る」

 ルキフェルは海の方へ視線を投げ、続けた。

「だから言ってる。迷うくらいなら、今できることを選べ。それができて初めて『選んだ』って言える」

 ソフィーは息を呑み、胸の奥で何かがかちりと音を立てるのを感じた。

「……楽をする話じゃ、ないのね」

「当たり前だ」

 ルキフェルは短く笑う。

「楽な道なら、俺は最初から勧めねえよ」

 ソフィーはしばらく黙り込み、やがて小さく、でもはっきり頷いた。

「……そっか」

 胸に手を当てる。

「今を選ぶって……覚悟を決めるってことなんだ」

 それでも、運命に縛られていた心にふっと風が通り抜けた気がした。重たく絡みついていた何かが、少しだけほどける。ソフィーは胸に手を当て、月明かりを受けて淡く光る首飾りを握りしめる。

「……自由だね」

 月光に照らされたルキフェルを見つめながら、ソフィーは気づいていた。

 彼はもう、海賊でも、海の化身でも、炎や風の象徴でもない。

 ただ自分で選び、自分で動く。その強さを持った人間だ。

「あなた、何者かになろうとしてるんじゃないんだね。全部背負ったまま、動く人なんだ。……だから、私も。私も、自由でいていいんだよね。自分で選んで、生きていい」

 ルキフェルは海に視線を向けたまま、低く呟く。

「自由、か。……俺も、決めた」

 ルキフェルは振り返らずに、静かに続ける。

「自分の道を。選択を。もう、迷わない」

 ソフィーは少しだけ首を傾げる。

「ルキフェルも……悩んでたの?」

「……どうありたいか、だな」

 彼はそう答え、目を細める。

「でも、もう大丈夫だ」

「……やっぱり。ルキフェルは、自由な人だ」

 ソフィーは噛みしめるように言う。

「海でも、炎でも、風でもない。今のあなたは……ただの人間。でも、すごく強い」

 ルキフェルは横目でそれを見て、かすかに口元を緩める。

「……いい覚悟だ」

「ありがとう、ルキフェル。あなたがそう言ってくれるなら……私、ちゃんと前を向ける」

 夜風が二人の間を吹き抜ける。

「じゃあ、俺は行く。お前も、早く休め」

 そう言ってルキフェルは背を向け、砂を踏みしめて歩き出す。

 ——その背中を、行かせたくなくて。

「ルキフェル、待って!」

 ソフィーは思わず声を張り上げると、彼は足を止めてゆっくり振り返った。少しだけ眉を上げたその表情には、警戒よりも「何だ?」という静かな問いがあった。

「……覚えてる? なんで私たちが海軍で、あなたたちが海賊なのかって話」

 ルキフェルは短く頷いた。

「私、あの時……もう二度と会いたくないって言った。でも、あなたは言ったよね。私が海軍で、あなたたちが海賊でいる限り、また巡り合うって……本当に、その通りになった」

 ソフィーは小さく息を吐き、言葉を続ける。

「それに……マクシムの復讐を止めるために、あなたたちは戦ってくれた。私にはできなかったことを、あなたたちがやってくれた。……ありがとう。本当に」

 ルキフェルは肩をすくめ、皮肉めいた笑みを浮かべた。

「感謝される筋合いはねぇよ。俺たちは、俺たちの都合で動いただけだ」

 だがソフィーは視線を逸らさず、静かに首を振る。

「そんなふうには思えない。あんな怪我をしてまで、マクシムを止めたのよ。そこに……覚悟がなかったなんて、言わせない」

 ルキフェルは何も言わずしばらく沈黙したあと、ほんのわずかに頷いた。

「……全部は教えてくれないんだね」

 それでも、ソフィーの言葉は止まらなかった。

「でも……これだけは、伝えたい」

 胸元の首飾りに指が触れる。絡み合う銀の龍と蛇。淡く輝くアクアマリン。

「また巡り逢えたこと……嬉しい。今この瞬間、こうして出会えたことだけは……私の中で、大切な意味を持ってる。あなたがこの世界にいてくれたから……私は、自由に息ができた」

 彼女の言葉に、ルキフェルは振り返らず低く答えた。

「勘違いするな。俺の決断は、歩いてきた道と背負ってきたものの結果だ」

 彼は少し間を置き、続ける。

「信じるのは運命じゃない。今、この瞬間だ」

 ルキフェルはそのまま闇の中へ消えていった。

 残されたソフィーは夜の波音に耳を澄ませ、砂浜をゆっくり歩き出す。冷たい砂が足裏に広がり、確かな感触として伝わってくる。

 グウェナエル。マクシム。リラ。ダヴィット。メリッサ。フェルナンド。

 頬を伝う涙は止まらない。けれど、それはもう絶望の涙じゃなかった。

 感謝と覚悟が混じった涙だった。

 砂浜の端に近づいたところでソフィーは立ち止まり、空を見上げる。

 夜空に瞬く星。海に映る月の光。すべてが、静かにそこにある。

 胸元に手をやり、首飾りに触れる。淡い青の宝石が静かに光り、仲間たちとの約束をもう一度胸に刻み直す。

「……自由な心で、今を生きていく」

 砂浜に残る足跡は、誰かに決められたものじゃない。

 それは、ソフィー自身が選んだ道の証だった。


 ——運命がどこへ導こうとも。

 彼女は選ぶ。今この瞬間に芽生えた自由を抱きしめ、自分の意志で生きる道を。

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