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第六章③ ソフィーとルキフェル

 しばらく黙ったまま波の音だけが二人の間を満たす。

 やがてソフィーは、かすれた声で口を開いた。

「……今なら……少しだけ、わかる気がする」

 ルキフェルが彼女に視線を向ける。

「あなたが……復讐に走った理由。大切な人を奪われて……何もできなかった。守れなかった。その無力さと、残された痛み……あれは……きっと、正気でいられなくなるほど、つらかったんでしょう」

 ルキフェルの表情がわずかに揺れる。驚いたように彼女を見つめ、それから視線を落とした。月光が頬の傷を淡く照らし、沈黙が落ちる。

 ソフィーは一歩だけそっと距離を詰めた。

「……悲しかったんだよね。愛する人を失って……」

 彼女の一言にルキフェルの肩が小さく震えた。翡翠の瞳が月光を受けて潤み、いつも押し殺している感情が、ほんの一瞬だけ表に滲む。彼はしばらく何も言わず、波の砕ける音に耳を傾けていた。やがて深く息を吐き、低い声で言った。

「……ああ。悲しかった」

 短く、だが重い肯定。

「いや……悲しいなんてもんじゃない。胸を引き裂かれて、中身を全部持っていかれたみたいだった。それでも生きてる自分が……どうしようもなく、許せなかった」

 夜風に髪が揺れ、翡翠の瞳が鈍く光る。

「フランソワは、俺にとって親だった。兄貴みたいでもあって、親父みたいでもあって……船で、海で……生き方そのものだった」

 唇を噛み、彼は続ける。

「お前たち……マクシミリアンの隊が、それを奪った。俺は、その穴を抱えたまま生きることができなかった。ただ……剣を握るしかなかったんだ」

 声がわずかに震えた。穏やかな表情の奥に、焼けつくような怒りと喪失がまだ消えずに眠っている。

「だから俺は復讐に走った。憎しみだけじゃない。怒りだけでもない……どうしようもなく、失ったものの代わりを探して、暴れてただけだ」

 そう言って彼は視線を逸らし、月明かりに照らされた海を見つめた。その横顔にあるのは戦士の強さではなく、隠しきれない弱さだった。

 ソフィーは何も言わず、その言葉を受け止めていた。波の音と一緒に、彼の痛みが胸に染み込んでくる。しばらくして彼女は小さく息を吸い、震える声で言った。

「……壊れそうだったんだよね。愛する人を失って……どうしようもなく」

 波の音だけが、静かに答えるように響いていた。言葉にした瞬間、胸の奥に押し込めていたものが一気に溢れ出した。

「……グウェナエルさんを失って、心が引き裂かれて、それでも時間だけは進んでいく。どうして私だけ生き残って、あの人はいないの……って」

 ソフィーの声が震え、途中で詰まる。

「マクシムも……みんなも……みんな……!」

 夜風にさらされ、涙がこぼれ落ちた。

「生きてるのが……もう……申し訳なくて……!」

 嗚咽は波の音に溶け、闇に散っていく。

 ルキフェルはしばらく何も言わず、ソフィーを見ていた。月明かりを受けた翡翠の瞳には、深い痛みとどこか諦めに似た静けさが宿っている。

「……生きてるのが申し訳ない、か」

 低い声が波音に混じる。

「そんなふうに思ってる限り、お前はずっと縛られたままだ」

 彼は足先で砂を軽く蹴り、視線を海へ向けた。

「俺がフランソワの後を追ってたら……あいつ、どう思ったかな」

 一瞬、口元が歪む。

「たぶん怒鳴るな。『ふざけるな』って、首掴んででも止める」

 小さく息を吐き、ソフィーを見る。

「今のお前を見たら……死んでいった仲間たちのほうが悲しむ」

 責める響きはない。ただ、同じ痛みを知る者の言葉だった。

 ソフィーは小さく首を振る。

「……でも、私には……無理……」

 かすれた声が夜に溶ける。

「ルソー准将の言葉も……あなたの言葉も……頭ではわかってる。でも……」

 喉が震え、続きが細くなる。

「リー・ウェンの言ってた話が……どうしても離れないの」

 ルキフェルが、静かに問い返す。

「……どんな話だ?」

 ソフィーは一瞬ためらい、それでも押し出すように口を開いた。

「……人の縁は決まってるって。出会いも別れも、生も死も……全部、最初から決まってるって」

 月光が涙に濡れた頬を照らす。

「もしそれが本当なら……グウェナエルさんを救えなかったことも、マクシムを失ったことも、リラさんも、ダヴィットさんも、メリッサも、フェルナンドも……」

 言葉が切れ切れになる。

「全部……最初から決まってたってことになるじゃない……?」

 息を吸うたび、胸が痛む。

「そんなの……残酷すぎる……!」

 指の隙間から涙が落ちた。

「もし出会いが運命なら……私とグウェナエルさんが出会ったことも、そうだったの……?」

 震える声がさらに掠れる。

「でも……結局、彼は死んだ……どれだけ願っても、止血しても……!」

 肩が揺れ、言葉が崩れる。

「だったら……最初から出会わなければよかった……! 笑わなければ、こんなに苦しまなかった……!」

 顔を覆い、吐き捨てるように叫ぶ。

「なにが赤い糸よ……最初から結ばないでよ……そんなもの……!」

 夜風がその言葉を引き裂く。やがて、顔を上げる。

「……もし、マクシムとの出会いも運命だったなら……」

 喉の奥から声を引きずり出す。

「信じて、ついていって……最後が、あれも運命なの……?」

 涙が再び溢れる。

「それなら……やっぱり出会わなければよかった……何も背負わずに済んだのに……! ……どうして……あんなに強くて優しい人たちが……次々、いなくなるの……」

 声が割れる。

「運命なんて……残酷すぎる……! 人を選んで、奪って……こんなふうに苦しませて……!」

「——そこまでだ」

 低く、鋭い声が闇を切り裂いた。

 ソフィーは弾かれたように振り向く。

 月明かりの下、ルキフェルが立っていた。翡翠色の瞳が怒りと焦りを孕んで、まっすぐに彼女を射抜いている。

「……ルキフェル……」

「いい加減にしろ」

 吐き捨てるような声だったが、その奥に滲むのは苛立ちよりも切迫感だった。彼は一歩、また一歩と近づきながら言う。

「聞いてて胸が悪くなる。……あの法廷でお前が何を言ったか、覚えてるか?」

 ソフィーは息を詰め、胸元に手を当てる。震えを抑えきれないまま、かすれた声を絞り出した。

「……今でも……彼を、愛してる」

 ルキフェルは一瞬、視線を落とした。だがすぐに顔を上げ、強い目で彼女を見据える。

「マクシミリアンと、最後に話したか?」

 ソフィーは小さく頷く。涙が頬を伝い、月光を受けて滲んだ。

「……あいつ、何て言った?」

 冷えた問いだった。だが逃げ場はない。

 ソフィーは唇を震わせ、耐えきれずに吐き出す。

「……生きろって……。何があっても、生きろって……」

 その瞬間、ルキフェルの目が鋭く光った。

「だったら、生きろ」

 短く、強く、叩きつけるような言葉。

「それに——」

 彼は言葉を選ぶように間を置いた。

「あのグウェナエルって男を愛して、向こうもお前を愛してたんだろ」

 ソフィーの胸がきゅっと締めつけられる。

「なら、その気持ちを自分で踏み潰すようなこと、口にするな」

 低い声だった。だが一言一言が、刃のように突き刺さる。

「『最初から出会わなければよかった』なんて言葉をな……」

 彼は一歩、さらに距離を詰める。

「それを言った瞬間、お前は——人として、終わる」

 夜風が吹き抜け、二人の間に張りつめた沈黙が落ちた。

 ソフィーは言葉を失った。息ができない。

 ——人として、終わる。

 グウェナエルの笑顔が浮かぶ。からかって、励まして、本気で叱ってくれたあの人。

 マクシムが最期に残した「生きろ」という言葉。

 リラやダヴィット、メリッサとフェルナンドが命を賭して守ってくれた瞬間。

 全部……全部、自分を生かすためのものだった。それを、自分の口で否定しかけた。

「……わたし……」

 声が続かない。涙が一粒、頬を滑り落ちた。再び絶望へ沈みかけた、その瞬間。ソフィーは気づく。ルキフェルの翡翠色の瞳にあるのは、怒りじゃない。必死さだ。

「……頼むから」

 彼は低く、抑えた声で言った。

「それ以上、自分を壊すな」

 その一言が胸の奥に突き刺さる。ソフィーの肩からふっと力が抜けた。胸の奥で固く縮こまっていた何かが、ゆっくりとほどけていく。夜の海は相変わらず冷たく、波の音は絶え間ない。けれど、彼女はまだ立っていた。

 ルキフェルは一度、深く息を吐いた。荒っぽい笑みを浮かべたまま肩越しに夜の海を見やる。

「……まあ、俺の場合だけどな。絶望の底から引き上げてくれたのは、仲間だった」

 その言葉にソフィーは小さく息を吸う。

 仲間。その響きが、胸の奥に忘れかけていた安心を連れてきた。

 ルキフェルは目を細め、少しだけ楽しそうに続ける。

「甲板で四人がかりでボコボコにされたのは……今じゃ、まあ、いい思い出だ」

 思わずソフィーは目を瞬かせる。

「……そんなふうに、笑えるものなの?」

 声はまだ震えていたが、そこにはわずかな戸惑いとかすかな希望が混じっていた。

 ルキフェルは肩をすくめ、夜風に髪を揺らしながら答える。

「笑えるさ。だって、あそこで死んでたら何も残らないだろ。絶望も恐怖も、全部ひっくるめて越えた先にしか、生きる意味なんてないんだ」

 月光に照らされた翡翠の瞳が、まっすぐソフィーを捉える。その視線に、彼女は胸の奥の重さが少しずつ下りていくのを感じた。

 ルキフェルはふっと笑い、言った。

「……慰めになるかわからんが、ひとつ話してやる」

 ソフィーは言葉を挟まず、ただ静かに頷く。

「あの時、俺が最後に見たグウェナエルはな」

 記憶を掬い上げるように彼は語り始めた。

「階段の上で兵士どもを薙ぎ払って満身創痍になりながらも、先に行くマクシムを守り続けてた」

 ソフィーの胸がきゅっと縮む。

「あの姿を見て、正直思ったんだ。……『かっこいいな』って」

 一瞬、ルキフェルが言葉を選ぶように間が空く。

「腹立つ奴でもさ。守りたいもんがあって、必死になれるんだなって。あの闘志を見て……胸が熱くなった」

 ルキフェルは小さく苦笑した。

「だから対峙した時、あえて剣を抜かなかった。あいつ、ボロボロでも意外と冷静でさ。俺の話をちゃんと聞いた挙句……俺を通して、しかも俺まで守るとか言い出しやがった」

 ルキフェルの声に怒りと敬意が入り混じる。

「あの背中を見て、俺は階段を駆け上がった。復讐を止めなきゃ、あいつの命も助からない——そう思ってな」

 ソフィーは俯き、唇を噛む。怒りも悲しみも尊敬も絡み合った熱が広がっていく。

 ルキフェルは拳を握りしめ、静かに言った。

「……けど、俺が未熟だった。復讐は止められたが、結果としてあいつも死なせてしまった」

 月光に照らされた影が波間に揺れる。

「失ったもんの方が……でかすぎた」

 沈黙。潮風と波の音だけが二人の間を流れる。やがてルキフェルはゆっくりソフィーを見つめた。

「……悪かった」

 短く、しかし重い一言。

「お前の愛した人を……救えなくて」

 その声音には言い訳も自己憐憫もなかった。ただ、深い後悔と真っ直ぐな想いだけがあった。

 ソフィーの胸にずしりと感情が落ちる。しばらく、言葉が出なかった。

「……そっか……」

 やっと絞り出した声はかすかに震えている。目を閉じるとグウェナエルの笑顔、マクシムの背中が浮かび、涙が一筋、頬を伝った。

「……私、まだ……あの人たちのこと、諦められない」

 声は弱々しかったけれど、逃げてはいなかった。痛みを言葉にしても、隣に誰かがいる。その事実が胸の奥でほんの少しだけ温もりを残す。

 ルキフェルは一瞬視線を逸らし、それから静かにソフィーを見た。翡翠の瞳はさっきまでの鋭さを失い、どこか穏やかだった。

「……それでいいさ」

 低く、けれど柔らかな声だった。

「泣け。思い出せ。忘れようとするな。お前が生きてる限り、あいつらのことも、俺たちのことも、無駄にはならない」

 その言葉が、胸の奥で絡まっていたものを少しずつほどいていく。

 悲しみは消えない。けれど、押し潰される感覚は確かに薄れていた。

「……ルキフェル……ありがとう……」

 震えながらもソフィーは初めて素直にそう言った。夜の海の音が二人を包み、闇の底にかすかな光が差し込む。

 ソフィーは呼吸を整え、ふと胸元に視線を落とした。

 月明かりに照らされて、銀細工の龍と蛇が絡み合う首飾りが淡く光る。中央のアクアマリンは冷たい青を湛え、静かに存在を主張していた。

「……ラウル……」

 幼い友の面影がはっきりと浮かぶ。

 短い時間、交わした約束、笑顔。胸が締めつけられる。それでも——。

 ソフィーはそっと首飾りを握った。冷たい金属の感触が現実へと引き戻す。

「死んでいった人たちの分まで、とは言わない。でも……せめて、無駄にしないように生きたい」

 月光の下で首飾りが静かに輝く。それは決意を誇示する光ではなく、ただ消えずに残る光だった。

「これが……私と、あの人たちとの約束だから」

 海風がそっと吹き抜ける。

 その横顔を見つめながらルキフェルはしばらく黙っていた。やがて、ソフィーの胸元に視線を落とす。

「……その首飾り」

 ぽつりと呟く。

「前に、大事なもんだって言ってたな」

 ソフィーは小さく笑って頷いた。

「うん。私が真実を掴めなかったら、ルキフェルが引き取るって……前に言ってたでしょ」

「ああ。言った気がするな」

 ソフィーは首飾りを指でなぞりながら続けた。

「昔、仲の良かった友だちにもらったの」

 ルキフェルは一瞬だけ目を瞬かせ、それから苦笑した。

「……そんな高そうなもん、よく人にやるな。そいつ」

「ほんとね」

 ソフィーも小さく笑う。

「でも、約束だったから」

 その言葉にルキフェルの表情がほんの一瞬だけ揺れた。気づかれないほどの、ごく僅かな間。

「……そうか」

 短く息を吐く。

「約束、か」

 それ以上は何も言わなかった。けれど、彼の胸の奥で何かが静かに波打ったのは確かだった。

 二人はしばらく並んで海を見ていた。

 悲しみは消えない。それでも、歩き出すための足場は確かにあった。

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