第六章② ソフィー
夜風は冷たく、月光が石畳を淡く銀に染めていた。
ソフィーは自室の明かりを落とし、ベッドの端に腰を下ろしたまま胸の内でリー・ウェンの言葉を何度も反芻していた。
——人の縁は、決まっている。必然の出逢いだ。
その言葉が頭の中をゆっくりと巡る。
もし、縁が最初から定められているのだとしたら——
「……それなら……人の生死も、最初から決まってるってこと……?」
呟きは闇に吸い込まれるように小さかった。同時に胸の奥に冷たいものが広がっていく。
医者として。仲間として。私は、何をしてきたのだろう。
努力は、意味を持っていたのか。必死に手を伸ばしたあの瞬間は、本当に誰かを救えていたのか。
そして、最も耐えがたい問いが胸を強く締めつけた。
「……あの人が、あそこで死ぬのも……運命だったの……?」
声にならない言葉が喉の奥で震える。
ひどすぎる。残酷すぎる。
グウェナエルの笑顔。深い瞳。触れた手の温もり。すべて、もう戻らない。
もし運命という名の糸が彼を奪ったのだとしたら、どうしてそんなものが許されるのだろう。
思考は止まらない。
あの日。あの瞬間。もし、違う選択をしていたら……いや、もう「もし」など意味がない。
それでも、どうしても浮かんでしまう。
——私が生きていても、あの人は……。
その現実が、胸を鋭く抉る。無力感。怒り。悔恨。絡み合った感情が一気に押し寄せ、心臓を締めつけた。
ソフィーは立ち上がり、素足で冷たい床を踏みしめる。胸の奥で渦巻く悲しみと怒り、後悔と無力感が身体を震わせる。
「……考えちゃ、いけない……」
分かっている。でも、止まらない。
「……どうしても……」
抑えきれず、彼女は自室の扉を押し開けた。夜風が一気に吹き込み、髪を乱す。冷たい空気が肺を満たし、潮の匂いが鼻腔をくすぐった。
理性はまだ背中から手を伸ばしている。だが心は、波のように打ち寄せる絶望にすでにさらされていた。
海岸沿いを歩く足取りは早かった。胸に溜まった重さを、波打ち際に置き去りにしようとするみたいに。月光を映した海は銀色に輝いている。息をのむほど美しいはずの光景なのに、今は何の慰めにもならなかった。
——もし、すべてが運命で決まっているなら。
「……私が生きていることも、救った命も、守った仲間も……意味はあるの……?」
声は夜の海に吸い込まれて消えた。胸の奥では、グウェナエルの笑顔が冷たい現実と絡み合って離れない。
「なんで……なんで、彼だけ……こんなにも簡単に……」
指先が震える。怒りが、熱を帯びて突き上がる。
「運命なんてものが、人の命を奪えるの……? もっと何かできたんじゃないの……? それとも……何をしても、無駄だった……? あの人を助けられなかった私は……何のために、生きてるの……?」
ソフィーは月光の下で立ち止まり、両手で顔を覆った。絶望、怒り、悔恨が絡まり合い、解けない糸のように胸を締めつける。
「……でも……生きる意味を……見つけたい……あの人のために……私が、生きる意味を……」
小さな呟きは潮風にさらわれる。疑念も恐怖も、まだ消えてはくれない。冷たい砂の上に足を止める。
「……もし、出会ったことも運命なら……あんな別れも……運命だったってこと……?」
声は震え、波音に溶けていく。
「……グウェナエルさんも……マクシムも……リラさんも……ダヴィットさんも……メリッサも……フェルナンドも……」
名前を呼ぶたび、喉が締めつけられた。
信じていた人たちが、一人、また一人と去っていく。
それなのに、自分だけが生き残ってしまったという事実が重くのしかかる。
「……生き残る意味なんて……もう……わからない……」
砂浜に座り込み、膝を抱える。額を伏せると波の音が心に直接触れてくる。
「……どうして……私は、生きてるんだろう……意味なんてないなら……こんな世界……全部、壊れてしまえばいい……」
拳を砂に打ちつけ、小石を拾って投げる。けれど、夜の静寂はその小さな音さえ飲み込んでしまう。
「……でも……あの人たちの死が……こんなにも重いのに……私は……生きて……いる……」
嗚咽が喉を塞ぐ。膝を抱えたまま冷たい砂に額を押し付けると、ふいにあの言葉が胸に浮かんだ。
——生き残った者には、残された者を守る義務がある。それは、恥でも罪でもない。
ルソー准将の声。分かっている。理性では、分かっている。それでも——
「……無理……今は……無理……」
砂に拳を突き立てる。
グウェナエル。マクシム。リラ。ダヴィット。メリッサ。フェルナンド。
失われた命の重さが胸を押し潰す。
「……生き残って……しまって……ごめんなさい……」
かすれた声は夜風に消えた。涙が砂に落ち、冷たさが孤独を深くする。月光に照らされた海は、ただ静かにそこにある。慰めも答えも与えずに。
耐えきれず彼女は立ち上がり、砂を蹴るように歩き出した。潮の匂いと波の音が、恐怖や疑念をかき回す。どれだけ進んでも、胸の重さは振り払えない。
「……なんで……どうして……」
掠れた声が漏れる。顔を覆い、嗚咽を必死に押し殺す。月明かりに照らされた砂浜は静かに輝き、波は淡々と岸に打ち寄せていた。その規則正しさが、かえって今の心の乱れを浮き彫りにしている。
そのとき、波音に混じって確かな足音が聞こえた。砂を踏みしめる、人の気配。
振り返ると、月光の中から一つの影が近づいてくる。
傷だらけの顔に月の光が当たり、翡翠の瞳が静かに輝いている。
ルキフェルだった。
いつもの凶暴な戦士の気配はなく、そこにいたのは戦場の男ではなく、ただの人だった。彼の瞳には、押し潰されそうなソフィーを気遣う色がはっきりと宿っている。
「ソフィー……こんな時間に、どうした」
低く、抑えた声。責めるでもなく、問い詰めるでもない。ただ、そこにいることを伝える声音だった。
ソフィーは涙で滲む視界の中、彼を見上げる。言葉は出ず、代わりに肩が小さく震えた。
ルキフェルは一歩だけ距離を詰める。手を伸ばすことはせず、ただ同じ月明かりの下に立つ。
——逃げなくていい。そんな気がした。
「……どうしても……受け入れられなくて……」
ソフィーのか細い声がようやく零れる。
ルキフェルは静かに頷いた。
「……それでいい」
短い一言だけど、迷いのない声だった。
「簡単に受け入れられる方がおかしい。俺だって、死んだ人間を忘れられたことなんてない」
少し間を置き、彼は続ける。
「無理に強がらなくていい。今は……一歩も進めなくていい」
ソフィーは嗚咽を押さえながら、かすかに頷いた。
ルキフェルは月明かりの海に視線を向け、静かに口を開く。
「俺も、同じだった」
ソフィーが顔を上げる。
「フランソワを失った。……親がいなかった俺にとって、育ての親だった」
少しだけ言葉を選ぶように間を置く。
「兄貴みたいでもあってさ。時には、親父みたいな存在でもあった」
翡翠の瞳がほんのわずかに揺れる。
「あいつがいなくなった時……正直、世界が全部ひっくり返った気がした。何を信じて生きればいいのか、分からなくなった」
ルキフェルは砂を軽く蹴り、波打ち際に視線を落とす。月光に照らされた顔は傷だらけだが、その瞳には柔らかな光が宿る。
「だから、お前の今の気持ちは否定しない。泣いていい。怒っていい。立ち止まっていい」
一彼はソフィーをまっすぐに見た。
「それでも——」
声が、ほんの少しだけ強くなる。
「生きてるお前には、まだできることがある」
ソフィーの喉が鳴る。
「お前が生き延びること。それ自体が、あの人たちの死を無駄にしない唯一の道だ」
波音の中、ルキフェル言葉が静かに胸に落ちていく。
ソフィーはまだ涙を止められない。
月明かりの下、翡翠の瞳が確かにそこにあった。
胸の奥ではまだ絶望がくすぶっている。それでも、暗闇に確かに火が灯った。




