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第六章① ソフィー

【ご注意】

 本章以降の物語には、自ら命を断つことを想起させる内容が含まれます。

 直接的な描写はありませんが、登場人物同士の会話や背景として扱われるため読者によっては心理的な負担を感じる可能性があります。

 ご自身の体調や心の状態に合わせて、無理のない形でお読みください。

 庭で短剣を修理に出したあと、ソフィーは自室に戻って扉をそっと閉めた。深く息を吐く。外は相変わらず穏やかで、光も風も柔らかい。けれど胸の奥には、昨日までの出来事がまだ燻っていた。

 ——考えすぎても、今はどうにもならない。まずは、手を動かそう。

 そう決めて窓際に積まれた書類の山に向かう。折れ曲がった紙を伸ばし、種類ごとに分けて重ねる。紙が擦れる音、指先に残るざらりとした感触。単調な作業に意識を向けるたび、心の中で渦巻いていた不安や恐怖が、ゆっくり沈んでいくのが分かった。

「大丈夫……今はまだ、前に進める」

 小さく言い聞かせて、次は窓を開ける。格子を布で拭き、溜まった埃を払うと、差し込む光の中で塵がきらきらと舞った。外の空気が部屋に流れ込み、ソフィーの呼吸も自然と深くなる。

 床掃除は思ったより体力を使った。箒で石畳の砂を集め、屈んでは立ち上がる。額に汗がにじみ、腕に軽い疲れが溜まる。その感覚に集中していると、頭の中を占めていた重たい考えが、少し遠のいていく。続いて、衣類と寝具を整える。洗い上がった布を畳み、引き出しに収める。ベッドカバーを張り直すと、部屋全体がすっと落ち着いた表情になった。布の柔らかさに触れた瞬間、胸の奥がじんわりと緩む。

 仲間たちの死も処刑の光景も、消えたわけじゃない。

 けれど、今ここにある小さな日常が確彼女を支えていた。

 最後に窓辺の小さな鉢植えに水をやる。湿った土の匂いと、葉に触れる指先の感覚。ソフィーは植物を見つめながら、胸に溜め込んでいたものが少しずつ外へ流れていくのを感じる。

 気づけば昼になっていた。椅子に腰を下ろし、汗を拭いながら窓の外を見る。陽は頂点に昇り、柔らかな光が部屋を満たしている。作業の合間に仲間たちの顔や笑い声が何度も脳裏をよぎった。それでも今、心は朝よりずっと静かだった。

「……今日を、生き延びられる」

 ぽつりと呟き、背もたれに身を預ける。

「仲間のためにも、自分のためにも……まだ、前に進まなくちゃ」

 雑務はただの作業じゃない。心を整え、命を洗い直すための彼女なりの方法だった。


 庭や廊下では隊員たちもそれぞれの役割に従い、体を動かしていた。

 ジョルジュは倉庫で備品の整理に取りかかっている。重い木箱を運び、蓋を開け、中身の弾薬や工具を一つひとつ確認する。鉄の冷たい感触、木箱のきしむ音、舞い上がる埃の匂い。過酷な任務の記憶が胸を刺す瞬間もあるが、体を動かしているあいだは考えすぎずに済んだ。積み直された木箱の列を見て秩序が形になることで、心も少し落ち着いていくのを感じる。

 アニータは炊事場で火の番と下ごしらえに集中していた。鍋をかき混ぜる音、立ちのぼる香ばしい匂い、熱気に包まれる手元。切る、混ぜる、火加減を調整する。それだけの動作が仲間の死や処刑の影を一瞬、遠ざけてくれる。料理という日常が彼女の呼吸を整えていた。

 シャルルは書庫にこもり、文書の整理を進めている。古い報告書や書簡を分類し、封を整え、丁寧に積み上げていく。紙のざらつき、インクの匂い。一つひとつが胸の奥に残る不安や痛みを言葉にならないまま和らげていった。書類が整うほど頭の中も少しずつ整理されていく。

 庭ではリゼーヌとロザリーが並んで花壇の手入れをしていた。雑草を抜き、土をならし、水を注ぐ。土の湿り気、葉に触れる指先、かすかな花の香り。命がそこに在るという実感が、二人の心に穏やかな安堵をもたらす。ロザリーは無言のまま黙々と手を動かし、リゼーヌは時折花の様子を確かめながらそっと土を整えていた。

 サミュエルは補給品の点検と配布を担当している。布袋や小箱を運び、数を数え、記録をつけ、仲間に手渡す。布の感触、紙の匂い、金属の冷たさ。過去の戦場の記憶がよぎることもあるが、淡々と任務をこなすことで意識は「今」に留まった。雑務の中で、命がまだ続いていることを確かめているようだ。

 ペネロペは相変わらず面倒そうな顔をしながらも、スザンヌに促されて与えられた作業をこなしている。雑巾がけや掃除、簡単な調理の手伝い。ため息をつき、時折舌打ちをしつつも手は止めない。作業の合間、仲間たちの様子をちらりと見ては互いの存在を確かめるように視線を交わす。その時間は、彼女たちにとっても自分の居場所を確認するためのものだった。


 庭の花壇、廊下、倉庫、炊事場、書庫。それぞれの雑務は別々に見えて、実のところひとつの流れを形作っていた。道具を渡す手、火の灯り越しの視線、箱を運ぶ音に応じる気配。

 言葉は少なくても、互いを感じ取り、支え合う無言の連帯感が穏やかに空気を満たしていた。

 それは、悲しみの中でなお保たれている彼らなりの秩序だった。


 雑務をひと通り終え、ソフィーは小さく息をついた。手を洗い、顔と手を軽く清める。布巾を丁寧に畳み、テーブルの端へ置いてから食堂へ向かう。中に入ると、すでにジョルジュやアニータ、シャルル、リゼーヌ、それにスザンヌも席についていた。食器が触れ合う音、皿が木のテーブルに置かれる軽やかな響きが、静かな空間に心地よく溶け込んでいる。

「ソフィー、これ運んでくれる?」

 ジョルジュが皿を手に、気軽に声をかけてきた。

「うん、任せて」

 ソフィーは微笑んで頷き、配膳に加わる。鍋から湯気の立つ料理をよそい、肉や野菜の小皿を整えて順に並べていく。立ちのぼる匂いが鼻をくすぐり、思わず肩の力が抜けた。

 アニータは水差しを手にコップを回りながら言う。

「みんな、お疲れさま」

 リゼーヌは布巾でテーブルを拭き、控えめに笑う。

 ペネロペは面倒そうに皿を置きつつも結局はきちんと並べていた。

「……今日は、わりと平和だな」

 シャルルがぽつりと呟く。誰かが小さく笑い、食堂の空気がほんのり和らぐ。

 ソフィーは配膳を終え、ロザリーと視線を交わす。言葉はなくても、互いに無事を確かめ合うような笑みだった。

 サミュエルがコップを持ち上げる。

「お疲れ」

 ジョルジュもそれに続いて笑う。

 スザンヌは静かに食事を進めていた。その落ち着いた様子に皆どこかほっとしながらも、言葉にしない違和感を覚えていた。

「……昨日はいろいろありましたけど」

 ソフィーが小さく言う。

「こうして、同じテーブルにつけるだけで……安心します」

 誰かが頷き、短い言葉を交わす。それだけで、互いの存在を確かめ合える時間だった。食堂に満ちる穏やかな空気が、張りつめていた心をゆっくりほどいていく。ささやかな動作、控えめな挨拶、何気ない冗談、すべてまだ続いている日常を静かに教えてくれていた。


 昼食を終え、ソフィーは食器を片付けてテーブルを拭き上げる。手を洗い、窓際に立って柔らかな光を浴びながら午後の雑務を思い描いた。

 花壇の手入れ。掃除道具の整理。書類の片付け。淡々と作業をこなす中で心にぽっかりとした空白が顔を出す。ふと立ち止まり、石畳に落ちる影や風に揺れる木々を眺める。午後の庭は静かで小鳥の声や遠くの水音が時間の流れをゆるやかにしていた。作業に集中しようとするほど思い出が浮かぶ。

 マクシムの声。グウェナエルの仕草。共に過ごした時間。悲しみと安堵、そしてわずかな罪悪感が胸の中で絡み合う。

 ソフィーは手を胸に当て、かすかに息を震わせた。

「……どうして、私だけ生き残ったんだろう」

 答えはない。けれど彼らの存在が、今も自分を支えていることだけは確かだった。窓から差し込む光の中で、埃が金色に舞う。深呼吸をひとつ。

 ——今できることは、目の前の日常を丁寧に生きること。

 それが、生き残った者に与えられた最初の務めなのだと静かに思う。

 机に向かい、日記を開く。ペンを走らせながら悲しみも、寂しさも、感謝も、希望も紙の上に置いていく。外では夕暮れが庭を染め、影がゆっくりと伸びていた。ソフィーはほんのわずかに微笑む。

 雑務の一日。仲間たちとの静かな時間。そして、ひとり向き合う思考のひととき。

 それらが今の自分を支えている。


 ——ただし、胸の奥に残る一つの疑問を除いて。

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