第五章⑤ 元マクシミリアン隊 続き
庭のやわらかな日差しの下でソフィーたちはひと息ついていた。リー・ウェンの姿もあり、場の空気はどこか落ち着いている。その中でアニータが少しだけ声の調子を落として、ソフィーに話しかけた。
「ねえ、ソフィー……グウェナエルのこと、今、聞いても平気?」
ソフィーは一瞬だけ視線を遠くへ流し、それから小さく息を吐いて微笑んだ。
「はい。……今なら、大丈夫です」
その答えにアニータは目を瞬かせる。
「え、ほんと? じゃあ……」
アニータがにやりとした笑みを浮かべた。
「……いつから?」
「そこですか!?」
思わず声が裏返り、ソフィーは慌てて口元を押さえた。
「まさか、そこから来るとは思ってませんでした……!」
周囲からくすくすと笑い声が漏れる。
アニータは満足そうに肩をすくめた。
「だって気になるでしょ。ほら、答えて」
少し照れながらもソフィーは逃げずに視線を上げる。
「……正直に言うと、いつからってはっきり分からないんです。気づいたら、惹かれていました」
一瞬、間を置いてから続ける。
「でも……グウェナエルさんは違ったみたいで。本人から聞いたんですけど、私を見た瞬間に心を持っていかれたって」
アニータが思わず口元を押さえる。
「……一目惚れ?」
「はい。そう言ってました」
「へえ……大胆。意外と一直線なのね」
ソフィーは少し照れたように笑う。
「ええ。真っ直ぐで、優しくて……でも、ちゃんと強い人でした」
その言葉に庭の空気が一瞬、静まった。
「ふふ」
軽く肩をすくめてシャルルが口を挟む。
「やっぱりね。ぼくは最初からそうだと思ってたよ。あいつ、一目惚れした瞬間、イタリア語で口説き文句連発したらしいから」
「ちょっと、シャルルさん!」
ソフィーが慌てて抗議する。ジョルジュは吹き出し、アニータは笑いをこらえきれない。
「だって事実じゃないか」
シャルルは楽しそうに続ける。
「『彼女に伝わってないぞ』って言ったら、恥ずかしさで真っ赤になってさ。でも、それでも必死にアピールしてた」
「……聞いてませんでした、そんな話」
ソフィーは顔を覆い、苦笑する。
「今なら何でも話せるって言ったのに」
「いや、それとこれは別です……!」
アニータが意地悪く言い、ソフィーは即否定。ジョルジュが腕を組みながら穏やかに笑った。
「でも、分かる気がするな。その一目惚れがあったから、あの距離感だったんだろ」
軽やかな笑い声が庭に広がる。ソフィーは少し照れたように肩をすくめた。
「いや、ちょっと待って。たしかに私、イタリア語わかんないし、だからグウェナエルさんが何言ってるか全然理解できなかったんだけど……ちゃんと後で聞いたから。シャルルさんと、メリッサさんに」
その言葉にジョルジュがぐっと身を乗り出す。
「へえ。で、結局なんて言ってたんだ?」
そこで、シャルルがどこか得意げに胸を張った。
「まあ……意訳すると、こんな感じかな」
わざとらしく咳払いをしてから、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「『やあ、子猫ちゃん。君の美しさは、長い夜に訪れる夜明けみたいだ』」
庭の空気がぴたりと止まった。次の瞬間、耐えきれなかったようにアニータが吹き出す。
「……えっ、なにそれ! グウェナエルらしくなーい!」
リゼーヌは両手で顔を覆いながら声を弾ませる。
「やだ……想像すると、ちょっと可愛いです……!」
ジョルジュは片眉を上げ、半ば呆れたように笑った。
「いや……あの人がそんな台詞言うとか、どう考えても似合わねえだろ」
シャルルは満足そうに肩をすくめる。
「そこなんだよ。あの冷静で無口なグウェンが、だ。ギャップってやつさ」
ソフィーは頬を赤らめながら小さく息を吐く。
「……でも、そういうこと考えてたって思うと……やっぱり、彼らしいのかもしれませんね」
庭にふわりと柔らかな空気が戻る。
シャルルは庭の端で腕を組み、少し昔を思い出すように続けた。
「だからさ。ぼくとメリッサで、ちゃんと聞いたんだよ。夜の操舵中の彼を挟んで、その気持ちは何なんだって」
ジョルジュが目を丸くする。
「直接? あの人に?」
「そう」
シャルルはくすっと笑う。
「最初はね、黙ったままだった。でもさ……ああいう人ほど、根気強く待つと負けるんだ」
少しだけ声を落とす。
「最後には、ちゃんと言ったよ。……惚れた、って」
一瞬、庭に静けさが落ちる。
アニータはそっと口元を押さえ、低い声で言った。
「……やっぱり。あの人、ほんとにまっすぐね」
リゼーヌも目を輝かせて頷く。
「うん……なんだか、胸があったかくなります」
ジョルジュは照れ隠しみたいに視線を逸らす。
「想像できないけど……でも、悪くない話だな」
ソフィーは静かに頷いた。
「……ええ。だから今、こうして思い出しても……ちゃんと、落ち着けるんです」
彼の言葉も、想いも、確かにここに残っている。
ソフィーは視線を遠くに泳がせ、ゆっくりと息を吐いた。
「嵐の日……正直に言うと、あの時は少し裏切られた気がしたんです」
アニータが心配そうに身を乗り出す。
「裏切られた……?」
ソフィーは小さく頷き、指先をぎゅっと握りしめた。
「はい。あの頃の私は……彼に守られる側だって、どこかで思っていたんだと思います。だから、自分の考えとか、行動もちゃんと尊重してもらえるって、勝手に信じていて……」
言葉を探すように少し間を置く。
「でも、彼の目にはまずマクシム隊長への忠義があった。そのことに気づいた瞬間……少し、置いていかれた気がして」
シャルルが目を細め、静かに頷いた。
「なるほどな……自分より大事なものがあるって突きつけられるのは、誰だって寂しい」
ソフィーは微笑みながらも、どこか遠くを見るような目をしていた。
「今なら……あの時の彼の行動も理解できます。正義感が強くて、忠義心がまっすぐで……本当に、あの人らしい判断だったんだと思う」
少しだけ声が揺れる。
「でも……やっぱり。私よりも、マクシム隊長を優先したんだって思った瞬間は……少し、寂しかったです」
リゼーヌが小さく息をのみ、そっと言った。
「……その気持ち、今でもちゃんと覚えているんですね」
シャルルは腕を組み、柔らかく笑った。
「うん。それがソフィーのいいところだと思うよ。正直で、ちゃんと自分の気持ちから目を逸らさない」
少し照れたように肩をすくめる。
「彼の愛情表現は、一直線すぎたんだ。でも……それを受け止めて、こうして話せるようになったのは君自身の強さでもある」
ソフィーは頬に手を当て、小さく息を吸った。
「……あの時は、確かに苦しかったです。でも今は……懐かしくて、少し愛おしい思い出になりました」
庭に差し込む光を見つめながら静かに続ける。
「彼がまっすぐで、私を守ろうとしてくれたから。だからこそ、今こうして……笑えているんだと思います」
アニータは小首をかしげ、からかうように微笑んだ。
「ふふ。ほんと、ソフィー。あの人のこと、大好きだったのね」
ソフィーも小さく笑い、庭の空気を胸いっぱいに吸い込む。だが、彼女の告白にジョルジュがふっと眉をひそめた。
「……ん?」
その声には単なる疑問以上のものが滲んでいた。
嵐の中、荒れる甲板。雨と波。必死で操舵する仲間たち。そして、あの青い瞳。「寂しかった」と言ったソフィーの言葉が妙に胸に引っかかる。
……待てよ。
ジョルジュは心の中で呟く。その感情は、きっと表に出ているものだけじゃない。
アニータが振り返った。
「どうしたの、ジョルジュ?」
ジョルジュは少し間を置いてから、にやりと笑う。
「いやさ。さっきソフィー、『いつの間にか惹かれてた』って言ってたろ?」
皆の視線が集まる。
「でもさ……本当は、ソフィーも最初から心を持っていかれてたんじゃない?」
一瞬、庭の空気が止まった。
「えっ……!?」
ソフィーは目を見開き、慌てて口元を押さえる。
「ち、違う……! そこまでじゃ……!」
アニータは吹き出す。
「もう、ジョルジュ。意地悪!」
リゼーヌも目を輝かせる。
「えっ……でも、ちょっと素敵です……!」
ソフィーは顔を赤くして首を振る。
「ち、違うから! 徐々に、徐々にだから! いきなりとか……そんなの、ほんとに……!」
ジョルジュは満足そうに肩をすくめた。
「ふーん。じゃあ、気づいたらもう惹かれてたってやつか?」
シャルルが片手を挙げ、楽しそうに口を挟む。
「はは。これはもう恋愛談義というより、庭で始まる恋愛サスペンスだな!」
アニータが身を乗り出し、真剣な顔で声を張る。
「ソフィー、グウェナエルを初めて見た時のこと、覚えてる? ほら、ちゃんと思い出して!」
リゼーヌも小首をかしげ、少し意地悪そうに笑った。
「先輩。今さら隠しても無駄ですよ。あの時、どう思ったんですか?」
ソフィーは慌てて両手を胸元に当て、顔を赤くする。
「いや、だから……マクシミリアン隊と初めて会った時よ。あのイタリア語が、その……!」
言いかけて、ふっと言葉が止まる。眉間にしわを寄せたまま、ソフィーは動かなくなった。
——あれ……?
胸の奥で、何かが引っかかる。ぼんやりと、視界の端に残る記憶の断片。
淡い光。どこかで見た、深い色の瞳。嵐の港。ほんの一瞬、交わした視線。
ソフィーは小さく息を吐き、記憶の糸を手繰り寄せるように、静かに目を伏せた。
——そうか……この瞬間だったんだ。
庭には仲間たちの笑い声が満ちているのに、胸の奥だけが別の時間へと引き戻されていく。不思議な高鳴りが、今になってはっきりと輪郭を持ち始める。
ソフィーは顔を上げ、ふと思いついたようにジョルジュを見た。
「ねえ、ジョルジュ……海上実習でマクシミリアン隊に助けられた後のこと、覚えてる?」
ジョルジュは目を細め、遠くを見るように視線を泳がせた。
「ああ。元気なやつは実習船を動かせって指示が出たやつだろ。命からがら逃げてきた直後にそれ言われて、正直キレそうになった」
ソフィーは思わず笑い、頷く。
「そうそう。私も同じこと思った。でも……あの時のマクシミリアン隊の姿、すごく印象に残ってるの」
ジョルジュが眉を上げる。
「印象? あの状況で?」
シャルルが肩をすくめ、思い出すように言った。
「ああ、君たちの代だったな。部隊ができてまだ二年くらいの頃だ。救助が終わったら、ぼくたちは自分たちの船でブレストに戻ったはずだ」
アニータも小さく頷く。
「そうね。ソフィーとジョルジュも確かにいたわ」
ソフィーは少し照れたように笑う。
「ええ……生き残った人たちで必死に船を動かして。港に着いた途端、私、耐えきれなくて倒れちゃって」
その瞬間、意識は一気に過去へと引き戻された。
十八歳のソフィー。
命からがら操縦した実習船が港へ滑り込む。足取りも覚束ないまま石畳を進み、膝が限界を迎えた。
崩れ落ちる寸前、世界の音がふっと遠のく。
気配を感じて顔を上げると——そこに、青年が跪いていた。
黒い外套が潮風に揺れ、朝の光を受けた深い蒼の瞳が、まっすぐこちらを射抜く。
海の底に沈んだ光のような、その色。
息が止まった。時間が、ほんの一瞬だけ静止したように感じた。
「大丈夫か?」
低く、落ち着いた声。両肩に置かれた手の温もりが、震える身体に伝わる。心臓が胸を破りそうだった。
思わず口をついて出る。
「ああ……この目……宝石みたい……」
次の瞬間、意識は遠のく。抱きかかえられて走る感覚。石畳を踏む足音。慌てた心拍。
——あの瞬間、言葉になる前に、確かに心が動いた。
あの色は、世界の暗闇を切り裂く光のように今も記憶に焼き付いている。
恐怖と疲労で震えていたはずなのに、不思議と安心していた。
——ああ、きっと。あの時、もう奪われていたんだ。
ソフィーの視線がゆっくりと現実へ戻ってくる。
「あ……そういえば……」
独り言みたいに漏れた声に、ジョルジュがすぐ反応した。
「いや、それさ。どう考えても最初から心を奪われてたんじゃないか?」
間髪入れず、アニータが身を乗り出す。
「そうよ! 肩つかまれて、瞳が宝石みたいだなんて言ってる時点でアウトよ、ソフィー!」
「完全に恋の入口です」
リゼーヌも冷静に、でも楽しそうに追い打ちをかける。
三人に一斉に詰められて、ソフィーは目をぱちぱちさせた。
「え、いや……あれは、その……本当に疲れてて、頭がぼーっとしてただけで……」
そう言いかけて言葉が止まる。
あの一瞬、世界が止まったみたいに感じたこと。息をするのも忘れてしまった、あの瞳。
——まさか。
ソフィーはそっと目を閉じる。朝の光が頬をなぞり、庭を抜ける風が花の香りを運んでくる。
「……グウェナエルさんは、港で会った私を一目惚れしたって言ってました」
静かに、噛みしめるように続ける。
「私はてっきり、軍医としてマクシミリアン隊に顔を出した時の話だと思ってたんです。でも……」
一度、息を吸う。
「もしかしたら、あの港の時からだったのかもしれません。彼だけじゃなくて……私も」
小鳥の声と遠くの海鳴りが言葉の余白を埋める。ソフィーは小さく笑って首を振った。
「……でも、もう確かめることはできません。彼は、この世にいませんから」
空気がすっと静まった。アニータとリゼーヌは目を伏せてうなずき、ジョルジュも息をついて視線を逸らす。その中で、シャルルだけが片眼鏡の縁を指でなぞりながら低く唸った。
「……んー」
「何か思い出した?」
アニータが首を傾げると、シャルルは少し考え込む。
「港の日、グウェンが血相変えて走っていったのは覚えてる。何を抱えてたかまでは見えなかったけど……」
視線を遠くへやる。
「あの日からしばらく、あいつ、ずっと様子がおかしかった」
ソフィーの胸が小さく波打つ。
「司令部に行ったら『医務室にいる』って聞いてね。夜中になって、やっと宿舎に戻ってきた」
苦笑混じりに続ける。
「顔色は最悪。聞いても『何でもない』の一点張りさ。……何でもないわけないだろって思ったけどね」
少し間を置いてシャルルが言った。
「ソフィー。意識を取り戻した時のこと、覚えてる?」
ソフィーは眉を寄せ、記憶を探る。
「……部屋は暗かったです。でも、誰かがいるって分かって」
ゆっくりと言葉を選ぶ。
「『もう大丈夫だ』って、男の人の声がして……手と、額に触れられました」
小さく息を吐く。
「それから足音が遠ざかって……扉が閉まった音がして。……正直」
少し照れたように苦笑する。
「『え、置いていくの?』って思いました」
シャルルは肩をすくめて、やわらかく笑った。
「はは。まあ、そう思うよね」
「でも……今なら分かります」
ソフィーは目を伏せたまま続ける。
「あの人、本気で私を守ろうとしてくれてたんだって。あの夜の手の温もりも、声も……全部、私の支えでした」
ジョルジュが感心したように頷く。
「なるほどな。だから今の強さがあるわけだ」
アニータはそっとソフィーの肩に手を置く。
「そういう小さな記憶が、人を強くするのね」
ソフィーは微笑んだ。
「ええ……あの人がいてくれたから、今こうして笑えてます」
少し黙ってから、ぽつりと続ける。
「……思い返すと、あの瞬間でした。港で膝をついた時、目の前に現れたあの人に」
一度、息を吸う。
「一気に、心を持っていかれたんです」
アニータが目を丸くする。
「……それ、本当に最初から決まってたのかもしれないじゃない」
ソフィーは小さくうなずき、照れたように視線を落とす。
「はい。怖いのに、どうしようもなく引き寄せられて……」
ジョルジュがにやりと笑った。
「つまり、後から気づいたタイプってやつか?」
「そうかもしれない」
ソフィーも少し笑う。
「名前も知らなかったし、言葉も通じなかった。でも……あの瞳の真っ直ぐさだけは、ずっと胸に残ってました」
リゼーヌが感動したように呟く。
「……ほんと、小説みたいですね」
「うん」
ソフィーは静かに頷いた。
「だから、今も覚えていられる。あの瞳も、あの手の温もりも」




