第五章④ 元マクシミリアン隊
薄明かりが自室に差し込む。
石造りの壁や床に淡く反射する光が、昨日までの緊張を静かに溶かしていった。
ソフィーは布団の端で小さく身体を伸ばし、ゆっくりと目を覚ます。枕元の水差しで手を濡らし、顔を洗う。ひやりとした水が頬を撫で、眠気とともに残っていた疲労を連れ去っていく。髪を指で軽く梳き、襟元を整える。石の床に裸足を下ろすと、布団の温もりとの対比が、身体を確かに現実へ引き戻す。
昨日までの張り詰めた時間とは違う朝の気配だった。着替えを整えながら、胸の奥に昨日の光景がよみがえる。処刑台の冷たさ。仲間たちの覚悟。その記憶が痛みとともに、温かさとして胸を満たしていた。
小さな机に用意された朝食に向かい、そっと手を合わせる。焼きたてのパンの香ばしさ。温められたスープの湯気。柔らかな朝の光に映える金属の器。
窓越しに目をやると、庭では数名の隊員たちが日の光を浴びながら軽く身体を動かしていた。交わされる笑い声が静かに耳に届く。その音に、胸の奥で張りつめていた糸が少しずつ緩んでいくのがわかった。
ソフィーは肩を伸ばし、腕を大きく回す。窓から差し込む光を受けながら、心の中でそっとつぶやく。
「……今日も、平穏な日でありますように」
布団を整え、髪をまとめ、簡単な身支度を終える頃には、身体も心もゆっくりと日常のリズムを取り戻していた。
庭に出ると数名の隊員たちが集まり、体をほぐしたり、ぽつぽつと言葉を交わしたりしていた。朝の空気にはわずかな温度が戻っている。
「みんな、おはよう」
ソフィーの声にジョルジュが被っていた帽子を取り、にっと笑った。
「おう、ソフィー。よく眠れたか?」
「……正直に言うと、あんまり。でも、体は大丈夫」
そう答えて軽く頭を下げると、アニータが石畳に腰を下ろしたまま、手帳を閉じた。
「わかるわ。昨日のこと、まだ頭の中が追いつかないもの……でもさ」
少し空を見上げて息を吐く。
「こうして朝を迎えられただけで、救われた気がするのよね」
リゼーヌが静かに頷いた。
「ええ……私も。同じです」
沈黙を破るように、シャルルが穏やかな声で続ける。
「だからこそ、今ここにいるんだろう。彼らの想いを、無駄にしないためにも」
ジョルジュが腕を組み、真剣な表情で頷いた。
「そうですね。あの三人だけじゃない。グウェナエルさんが守り抜いたものも、これからはボクたちが背負う番だ」
庭の空気が静かに引き締まる。互いの視線が交わり、言葉にしなくても支え合っている感覚が伝わってきた。そのときだった。遠くから、馬の蹄が砂利を踏む音が響いてくる。規則正しく、重たいリズム。
「……来る」
誰かが呟いた直後、黒い馬に乗った人物がゆっくりと庭に近づいてきた。
「リー・ウェン……!」
ソフィーが思わず声を上げる。馬を止めたリー・ウェンは、淡い笑みを浮かべて地面に降り立った。
「皆さん、ご無事で何よりです」
穏やかな声で一礼する。
「わたしも、しばらくここに滞在することになりました。少しでも力になれればと」
その言葉にソフィーの胸がじんわりと温かくなる。
「ありがとう……本当に、心強いよ」
ジョルジュが軽く笑い、興味深そうに首を傾げた。
「なあ、ひとつ聞いていいか?」
ちらりとソフィーを見てからリー・ウェンに向き直る。
「リー・ウェンと隊長って、どうやって知り合ったんだ?」
リー・ウェンは一瞬視線を落とし、遠い記憶を辿るように口を開いた。
「何年か前のことです。当時、わたしはエル・イエロ島に滞在していました」
少し間を置いて続ける。
「そのとき、偶然マクシムさんと出会ったのです」
アニータが目を丸くする。
「そんな前から?」
「ええ。彼が軍人になる前から知っていました」
柔らかな微笑を浮かべながら。
「エル・イエロでの出会いが、交流と……その後の取引のきっかけになりました」
シャルルが感心したように息を漏らす。
「なるほどな……」
リゼーヌも静かに言葉を添える。
「その頃から、隊長は人との信頼を大切にしていた、ということですね」
リー・ウェンはゆっくりと頷いた。
「はい。その信頼が、後に大きな協力関係を生みました。今日のような連携に繋がっているのも、その積み重ねです」
ソフィーは視線を落とし、胸の奥でそっと噛みしめる。
人を信じ、絆を大切にしてきたこと。そして、グウェナエルの姿がふと脳裏をよぎる。
「……そうだったんだ」
ソフィーは小さく呟いた。
「隊長はずっと仲間や、信頼できる人を大切にしてきたんですね」
ジョルジュがぽん、と軽く彼女の肩を叩き、冗談めかして笑う。
「そりゃあ、あれだけ人望が集まるわけだな」
朝の庭にほんの少しだけ穏やかな空気が戻っていた。
リー・ウェンはくすりと笑い、少し間を置いてから口を開いた。
「そういえば……今日は、ちょっとした土産を持ってきたんです」
その一言に隊員たちの視線が一斉に集まる。
ジョルジュが身を乗り出し、声を弾ませた。
「土産? こんな状況で? いや、気になるけどさ……何だよ」
リー・ウェンは黒い外套の裾を整え、懐から小さな箱を取り出す。
「シャルルさん、これはあなたに。東洋の職人に頼んで作らせた、新品です」
呼ばれたシャルルは一瞬きょとんとしたあと思わず目を見開いた。
「……え、ぼくに?」
箱を受け取り、そっと蓋を開ける。中には、磨き上げられた金属枠の片眼鏡が収まっていた。繊細な文様が刻まれ、光を受けて静かに輝いている。
「……本物、だよね……?」
半ば呆然としたままシャルルはそれを手に取った。そっと目元に当ててみると、仲間たちから小さなどよめきが起こる。
「似合ってるじゃない」
アニータが肩をすくめながら言う。
「でもさ、眼鏡なくても十分格好いいと思うけど?」
シャルルは片眼鏡を外さず、少し得意げに笑った。
「ありがとう。でもね……ぼくは、このオレンジ頭と片眼鏡が揃って、ようやく完成なんだ」
「はいはい、あなたの美学ね」
アニータは半ば呆れたように、けれどどこか優しく笑う。
シャルルは改めて片眼鏡をかけ直し、仲間たちを見回した。
「これで、戦場以外でも多少は様になるかな」
ジョルジュが腕を組み、くくっと笑う。
「なるほど。ますます様になるわけですね」
だが、リゼーヌは少し首を傾げた。
「……戦闘中に片眼鏡って、邪魔になりません?」
シャルルは一瞬言葉に詰まり、照れたように視線を逸らす。
「……そこは、まあ。否定できないかな」
その様子に場の空気がふっと和らぐ。
リー・ウェンは静かに微笑み、続けた。
「それでも、あなたにはよく似合うと思ってね。戦うときだけじゃなく、そうでない時間も大切にしてほしかったんです」
ソフィーも小さく頷く。
「……こういう時間があるだけで、気持ちが救われる」
庭を渡る風が木々の葉を揺らす。
リー・ウェンはシャルルを見て穏やかに言った。
「大事に使ってください。ここにいる間は、できる限り力になります」
シャルルは片眼鏡に触れ、小さく頷いた。
「ありがとう、リー・ウェン。本当に……大切にするよ」
ソフィーはそっとシャルルの肩に手を伸ばし、橙色の髪飾りに視線を落とした。指先でそれを軽くつまみながら微笑む。
「……じゃあ、それ、もう必要ないんじゃないですか?」
その髪飾りには、かつて戦闘で砕けた片眼鏡の一部が精巧に再加工されて組み込まれている。
ソフィーの視線に気づいたシャルルは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それから少し誇らしげに笑った。
「いや。これはこれからも使うよ」
そう言って、彼は前髪を軽くかき上げる。左右非対称に分けられた髪を整え、飾りで束ねられた橙色の長い髪を肩へ流した。
「君が教えてくれた、この髪型と一緒にね」
片眼鏡の奥でシャルルが軽くウィンクをし、ソフィーは思わず小さく笑った。
戦場でも、こうして何気ない日常でも。
互いの想いが形として残ることが彼にとっての誇りであり、支えなのだと自然に伝わってくる。
そのとき、ソフィーの胸にふと別の記憶がよぎった。
——グウェナエルの短剣。戦場で傷ついたまま、自室に置いてある彼の形見。
「……リー。あの、この辺に、刀鍛冶みたいな人っている?」
ソフィーの言葉にリー・ウェンは少し首を傾げ、間を置いてから穏やかに笑った。
「刀鍛冶、ですか。ええ、この街には腕のいい職人がいますよ」
シャルルが興味を隠さず身を乗り出す。
「何をするつもりだい?」
ソフィーは自室の窓の方へ視線を向けたまま静かに答える。
「グウェナエルさんの短剣。遺品で……でも少し傷がついていて。きれいにしてあげたいんです」
シャルルはそっとソフィーの肩に手を置き、柔らかい声で言った。
「……そっか。大事にしてるんだね」
ジョルジュも頷き、庭の向こうを見やりながら口を開く。
「短剣一つにも、あの人との時間が詰まってるってことか」
リー・ウェンは静かに微笑み、ソフィーを見つめた。
「でしたら、わたしから職人に話を通しましょう。きっと、あなたの望む形に仕上げてくれます」
「……ありがとう」
ソフィーは小さく笑い、短剣のことを思い浮かべながらそっと頷いた。
短剣は今、手元にない。それでも、その想いは確かにここにある。
ふと、ソフィーは思い出したように口を開いた。
「そういえば……」
リー・ウェンが顔を上げる。
「グウェナエルさんの葬儀のこと、叔父さんから聞いたよ。エトルタに着いたと思ったらすぐに立ち去ったって。思わず笑っちゃった」
リー・ウェンはわずかに肩をすくめ、苦笑気味に微笑んだ。
「まあ……そういう性分でして。形式に縛られるより、動いていた方が落ち着くんです」
ソフィーは目を細め、くすりと笑う。
「ほんと、相変わらずね」




