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第五章③ ソフィーと仲間たち

 ソフィーが重い鉄の扉を押し開けて屋上へ出ると潮を含んだ風が頬を打った。遠くで船の汽笛のような音が鳴る。先客がいた。格子に背を預け、片膝を立てて座り込む影、マテオだ。

「どうせさ……オレたちも処刑だ」

 マテオは振り返りもせず、ぽつりと吐き出す。感情を削ぎ落としたような声なのに、どこか自嘲が滲んでいた。

「……三人とも、立派だったよな。でも所詮は余興だ。『次はお前らだ』って突きつけるための」

 マテオの吐き捨てるような言い方にソフィーは足を止める。すぐには言葉が出なかった。

「……あなたたちには、まだ道がある」

 静かに、選ぶように言う。

「それに、隊員たちの処刑も延期になったよ」

 マテオは肩をすくめ、空を仰いだ。

「延期、ね……首が落ちる日が明日か来週か。そんな違い、意味ねえって思おうとしたんだけどさ」

 一瞬、マテオの言葉が途切れる。

「……気づいたら、まだ時間があるって考えてた。笑えるだろ」

 彼の笑みにソフィーの胸がきしんだ。恐怖から逃げずに、ちゃんと口にしている。彼女はゆっくりと首を振った。

「ううん」

 ソフィーは間を置いて、はっきりと言った。

「それは、強さだよ」

 マテオの水色の瞳が一瞬こちらを向く。驚いたように、ほんのわずか揺れた。

「優しいな」

 マテオは小さく息を吐く。

「でもさ、オレたちは兵隊じゃねえ。大義のために死ね、なんて言われても無理だ。どうせなら……生き残る可能性に賭けたい。最後までな」

 マテオの言葉がソフィーの胸を深く突いた。

 彼らは軍人じゃない。忠誠でも正義でもなく、ただ「生きたい」と願っている。

 では、自分はどうだろう。今は職務停止中。軍服も、指揮権もない。できるのは、声を聞くことだけ。無力感が喉の奥に刺さる。それでも、マテオの言葉は小さな火を灯した。なら、自分も応えなければ。

 ソフィーは息を整え、彼の視線をまっすぐ受け止めた。

「……マテオ」

 少しだけ声が揺れる。

「必ず生き残れる。だから……諦めないで」

 そのとき、背後で鉄扉が軋んだ。

「おっと。仲良く黄昏てるところを邪魔しちまったか?」

 赤髪を風に揺らし、ジャスパーが肩をすくめて現れる。張りつめていた空気がわずかに緩んだ。

「まあ、処刑が延びたくらいで浮かれてちゃ世話ねえな。首を刎ねられるのが明日か明後日か、そんな違いだろ?」

 ジャスパーの後ろから金色の髪がひょいと覗く。

「でもさ」

 ニールが軽やかに言う。

「時間があるってことは、まだやれることが残ってるってことでしょ?」

 彼の碧眼が陽光を弾くように輝いた。最後に、手すりに身を預けていたコリンがぽつりと呟く。

「……正直、どうなるかはわかんない。でも……黙って死ぬのだけは、やだな」

 三人三様の言葉が昼下がりの屋上に落ちる。潮風がそれをさらい、短い静寂が訪れた。

 ソフィーは一度深く息を吸い込み、屋上に集まった四人の顔を順に見つめる。

「……誰一人、黙って終わらせたりしない」

 静かだが、はっきりした声だった。

 ジャスパーは片眉を上げ、ふっと息を漏らす。ニールは一瞬驚いたあと、にっと笑みを返した。コリンは唇を噛みしめ、視線を落としてから小さく頷く。その場の空気が、ほんの少しだけ変わった。

 ジャスパーがいつもの調子で肩を回す。

「いやあ、それにしてもさ。屋上で風に当たるなんて久しぶりだ。豪華な部屋に閉じ込められるより、こういう中途半端な自由のほうが贅沢だよな」

 ニールも穏やかに微笑む。

「こうして集まれるだけで、気が楽になるよ。少なくとも……一人じゃないって思える」

 コリンは手すりに体重を預け、少し斜に構えたまま言った。

「……ぼくは屋上でお茶する時間があるなら、錬金術の研究でもしたいけど」

 間を置いて、ぼそりと続ける。

「まあ、悪くはないね。こういうのも」

 マテオは三人を見渡し、肩を小さく揺らした。

「ま、どんなに短い時間でもさ。こうやって話せるなら、無駄じゃないってことだ」

 ソフィーはそのやり取りを聞きながら、わずかに口元を緩めた。彼らの言葉を受け止めることなら、今の自分にもできる。

 そのときだった。屋上の端から、静かな気配が近づいてくる。

 全員が顔を上げると、そこには神妙な表情のルキフェルが立っていた。さっきまでの軽さがすっと引く。

 ジャスパーが真っ先に口を開く。

「お、ルキフェル。お偉いさんとお話でもしてきた?」

 ルキフェルは視線を遠くにやり、苦笑する。

「……さっき、大元帥と話してきた」

 屋上に短い沈黙が落ちた。

「俺たちの裁判だが……明後日に決まったそうだ」

 ジャスパーの赤髪がぴょんと揺れる。

「は? マジか。ってことは……まだ時間あるってことだよな?」

 ルキフェルは小さく頷き、続ける。

「それと、マクシミリアン隊の処刑も延期になる」

 声は低く、確かな重みを帯びていた。

「裁判は極秘だ。出席するのは大元帥、国王命令で派遣された裁判官、イザベル、ルソー、検察官、弁護人……そして俺たち海賊だけ。外部には、一切知らされない」

 五人は言葉を失い、それぞれの思いを胸に沈めた。ニールが安堵と緊張の混じった息を吐く。

「……まだ、生きる可能性があるってことだね」

 コリンは目を細め、かすかに笑う。

「じゃあ、もう少しだけ……足掻けるってわけだ」

 マテオは何も言わず、ただ頷いた。潮風を受けながら、仲間たちの表情をひとつひとつ確かめるように。

 ソフィーもまた安堵を覚えていた。だが同時に、五人の視線に宿る緊張がこの状況の複雑さを改めて突きつけてくる。

 処刑延期という希望。そして、極秘裁判という重い現実。疲労と覚悟が静かに混じり合い、それぞれの胸に小さな決意が芽生え始めていた。

 やがて、マテオが低く声を出す。

「……じゃあ、決まったな。作戦会議だ。みんな、部屋に戻ろう」

 短い言葉だったが、そこには迷いがなかった。

 ジャスパー、ニール、コリン、ルキフェル、マテオ。五人の足音が順に階段へと吸い込まれていく。

 残されたのはソフィーひとり。潮風が吹き抜け、髪と外套を揺らした。足音が完全に消えた途端、屋上は急に広く空虚に感じられた。

 ソフィーは外套を押さえ、ゆっくりと視線を落とす。

「……また、置いていかれた」

 声は小さく、風に紛れて消えそうだった。

 ルキフェルはその中心に立つ覚悟を持っている。ジャスパーは軽口で張りつめた空気を緩め、ニールは前を向かせる。そしてマテオは、皆をまとめていた。

「私には……何もない」

 思わず胸の内が言葉になる。

「職務も、仲間も、任務も。今の自分には、何ひとつ力がない」

 軍人としての居場所を失った今、彼女に残されているのは見届けるという立場だけだった。

 裁判にも立ち会えない。明後日、彼らの運命が決まるその瞬間でさえ、自分は外側に立つしかない。胸が、ぎしりと軋む。それでも。

「……それでも、一緒にいたい。傍で、彼らが戦う姿を見届けたい。どんな結末になっても……離れたくない」

 職務も、立場もなくても。ひとりの人間として抱くこの願いだけはどうしても手放したくなかった。

 ソフィーは青空を仰ぎ、ざわめきを静かに押し込める。その眼差しには、まだ折れていない意志が宿っていた。


 夜の徒刑所はひどく静かだった。ときおり遠くで看守の足音が反響するほかは、石壁に灯された松明の炎がぱちぱちと揺れる音だけが耳に残る。

 ソフィーは渡された小さなランプを手に牢屋の並ぶ地下通路を進んでいった。やがて奥の一角から、笑い声とも、安堵の吐息ともつかない小さなざわめきが漏れ聞こえてくる。そこに、彼らがいた。

「……ソフィー!」

 最初に気づいたのはジョルジュだった。格子に駆け寄り、思わず手を伸ばす。だが鉄の棒に阻まれ、腕は空を切った。

「ちょっと、そんなに動いたら……また看守に叱られるわよ」

 後ろからアニータがたしなめると、仲間たちの間に小さな笑いが広がった。

「来てくれたか」

 落ち着いた声でそう言ったのはシャルルだった。隣ではリゼーヌが静かに目を細め、ロザリーとスザンヌは安心したように肩を寄せ合う。

 サミュエルは壁にもたれたまま皮肉げに口の端を歪めていた。

「どうやら……僕たち、まだ数日は生きていられるらしい」

 その言葉にソフィーは小さく息を吸う。

「……処刑が、延期になったって」

 そう告げると、牢の中の空気がふっと緩んだ。

「ええ。日中、司令部から正式な通達がありました」

 リゼーヌが静かに頷く。

「夜を除けば、徒刑所内は比較的自由に過ごせるそうです」

「ずいぶん親切だな」

 サミュエルが鼻で笑う。

「最後くらいは、穏やかに過ごせってことか」

「でも……こうして会えただけでも嬉しいわ」

 ロザリーがそう言うとスザンヌも大きく頷いた。

「ええ、本当に……生きてるって、こういうことなんですね」

 ペネロペが鉄格子の近くまで歩み寄り、ソフィーをまっすぐ見つめる。

「ソフィーの方は……大丈夫?」

 その問いにソフィーは一瞬、言葉に詰まった。

「……私は……」

 続けかけて唇を閉じる。

「大丈夫よ」

 そう言ってソフィーは小さく微笑んだ。

「今は……ここにいられるだけで、十分だから」

 その声に牢の中の誰もが黙って頷いた。鉄格子を隔てていても、確かに絆がそこにあると感じられた。沈黙を破ったのはシャルルだった。

「……もう、いいだろう」

 仲間たちを見回し、ゆっくりと続ける。

「皆、それぞれ……マクシムと、ライラックと、ダヴィットのことを想いたいはずだ。今夜はこの辺にしておこう」

 一様に頷きが返る。アニータはそっと目元を拭い、サミュエルは視線を床に落とした。ペネロペとリゼーヌは、互いの手を静かに握り合う。

 シャルルはソフィーへ視線を移す。

「来てくれて、ありがとう。顔を見せてくれるだけで……ぼくたちは心強い」

 ソフィーは静かに頷いた。

「……ええ。また、来ます」

 背中に仲間たちの視線を感じながらソフィーは心に誓う。

 どんな状況でも、最後まで彼らと共にいると。

 徒刑所の外へ出ると夜の空気が頬を撫でた。昼間の重苦しいざわめきは消え、トゥーロンの街には潮騒と遠くの犬の声だけが響いている。石畳を踏みしめながら、牢で見た仲間たちの顔が次々と思い浮かぶ。

 笑おうとして笑えないアニータと、黙って俯くサミュエル。皆、それぞれの仕方で哀しみを抱えていた。

「顔を見せてくれるだけで心強い」

 その言葉が静かに温もりを灯す。同時に、ずしりとした重みとなってのしかかった。

 今の自分には、何ひとつ力がない。それでも、自分にできることは、きっとある。そう信じたかった。

 暗がりの小道を抜け、宿舎へ戻る。扉を閉めた瞬間、張り詰めていた気持ちが一気にほどけた。小さな蝋燭に火を灯すと、淡い光が部屋に広がる。机の上に置かれた手帳を見つめ、ソフィーは深く息を吐いた。

「……私にできることを、探さなきゃ」

 その呟きは誰にも届かず、蝋燭の炎だけが静かに揺れていた。


 今夜も、眠れそうになかった。

 一日のうちに、あまりにも多くのことが起きすぎた。

 まず、マクシムとの最後の言葉。彼は最期まで私を気遣ってくれた。

 穏やかな笑顔で、「生きろ」と。その声と表情は、今も胸の奥に残っている。


 リラさんも、ダヴィットさんも、それぞれの覚悟を抱えて逝った。

 処刑台に立つ姿を、私は決して忘れない。


 何もできず、ただ立ち尽くしていた私に、大元帥は静かに言葉をかけてくれた。

 その背にどれほどの重みがのしかかっているのか。ほんの一端だけれど、垣間見た気がした。


 屋上で出会った海賊たちのことも思い出す。

 マテオは「まだ時間がある」と言った。

 ジャスパーも、ニールも、コリンも、ルキフェルも、それぞれの思いを胸に抱えていた。


 夜になって牢の前で隊員たちと顔を合わせた。

 皆、笑おうとして、でも深い傷を抱えたまま互いに寄り添っていた。

 私はただそこにいただけなのに、感謝の言葉を向けられた。

 シャルルさんの「今日はここまでにしよう」

 その一言に救われたのは、きっと私の方だった。


 私は今、職務を失い、何もできない。けれど、仲間や海賊たちと向き合う中で思った。

 ただ見ているだけではいられない。


 マクシム。リラさん。ダヴィットさん。

 あなたたちが残してくれたものを、私は決して無駄にしない。


 最後の一文を書き終え、ソフィーはそっとペンを置いた。蝋燭の炎が小さく揺れ、紙の上に影を落とす。瞼を閉じると、今日出会った人々の顔が次々と浮かんだ。

「……明日も、歩かなきゃ」

 その呟きは夜に溶け、部屋には蝋燭の灯だけが残る。日記を閉じ、火を吹き消すと闇が静かに満ちた。

 寝台に身を横たえたソフィーは疲れと緊張を抱えたまま、やがて意識を手放していった。


 ——夢の中で、彼女は六歳の自分に戻っていた。


 みすぼらしい服を着て、孤児院の玄関の石段に腰を下ろしている。膝を抱え、冷たい風に晒されながらただ地面を見つめていた。

 やがて、一人の男が現れる。叔父のジャン=バティストだった。差し出された手。躊躇なく引き上げられ、温かな声で「行こう」と言われる。

 連れられて入ったのは、質素な家。孤児院よりもずっと静かで、どこか安らぎを孕んでいた。

 室内には優しく微笑む叔母クラリス。

 そして——自分より少し背の高い少年が一人。暗い影を纏ったような無表情で、こちらを見ている。

 少年と視線が交わり、ソフィーは戸惑った。

 ジャンが少年に言う。

「優しくするんだぞ」

 その瞬間、少年の目が細まり、露骨に嫌そうな色を帯びる。

 ああ、と夢の中の少女は悟った。

 ——惨めで、汚いあたしが、嫌いなんだ。

 胸の奥が冷え、言葉にならない不快感が広がる。

 少女は黙り込み、心の中で決めた。

「この子のことは、忘れよう」

「早く、全部、忘れてしまいたい」

 その記憶は長い年月の中で封じられていた。けれど、夢となって蘇り再び胸を締めつける。

 馬車でクラリスと先にパリへ向かう途中。窓の外には、ジャンと少年が立っている。

 ジャンは手を振って微笑むが、少年は無表情のままだった。

 幼い自分はふと気づく。

 ——あの少年は、兄だったのかもしれない、と。

 視界が溶け、六歳の記憶は白い光に包まれる。

 その中で、マクシムの言葉が蘇った。


「僕たちは、まるで兄妹のようですね」


 あの時は理解できなかった言葉が、今は少しだけ温かく響く。

 馬車は夜の闇を抜け、夢の空間も静かに揺れる。

 ソフィーは幼い日の誤解と再会にも似た感覚を胸に抱き、ゆっくりと目を閉じた。


 ——やがて、目を覚ます。


 夜の闇に包まれた自室。窓から差し込む月光が、机の上の日記とペン先を淡く照らしている。夢の余韻に心がざわついた。

 あの少年の面影が、ふとマクシムの顔と重なりそうになる。

 けれど現実の重みがすぐに胸に落ちてくる。

「……いや。やっぱり、ありえない」

 小さく息を吐く。

「兄は消息不明で……たぶん、もう……」

 言葉は、最後まで続かなかった。

 それでも、夢で見た少年の面影とマクシムの微笑みが心の片隅に残り、胸の奥がわずかに温かくなる。

 夢と現実を行き来した心は過去と今をそっと結び、明日へ向かう覚悟を後押ししてくれていた。

 その記憶と感情は、日記には書かれない。

 ソフィー自身の胸にだけ静かに秘められたままだった。

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