第五章② ソフィー
処刑台の下、石畳には三人分の血が赤く滲んでいた。
まだ微かに熱を帯びるその光景を前に群衆のざわめきは一瞬、言葉を失ったかのように途切れる。だが、沈黙は長くは続かない。すすり泣き、怒りを含んだ声、押し殺した叫び。恐怖と混乱が入り混じり、空気は再びざわめき始める。手を震わせる者、口元を覆う者、泣き崩れる者。
三人の死は否応なく現実として、それぞれの胸に落ちていった。
来賓席でソフィーは静かに呼吸を整えていた。肩は小刻みに震え、手のひらは強く握り締められたまま。指先に残る熱と緊張を感じながら彼女は三人の顔を思い浮かべる。
「……ありがとう……」
声にはならなかった。喉の奥で震えただけのその言葉が、冷たい石を通して深く沈んでいく。
周囲の貴族や侍従たちは視線を伏せるか、硬直したまま動けずにいる。
国王陛下は平静を装っているが、その眼差しの端には拭いきれない影が落ちていた。
群衆の中では子を抱き寄せる親、顔を歪める老兵、唇を噛みしめる若者の姿が見える。
赤く染まった石畳に、それぞれが自分の過去や未来を重ね、言葉にならない痛みを抱え込んでいた。
三人の勇気と覚悟が静かな光として灯っている。
最後まで信じ、守ろうとした意志が、悲しみとともに敬意と感謝となって満ちていった。
やがてソフィーの肩の震えが少しずつ収まり、握りしめていた手をゆっくりと開く。冷え切っていた指先には微かな温もりの余韻が残っていた。目を閠じ、深く息を吸う。遠くで波の音が穏やかに揺れ、風が石畳をそっと撫でる。やがて世界はゆっくりと日常の色を取り戻していく。
ソフィーは目を開け、もう一度処刑台の方を見つめた。赤い痕、冷たい石、そして消えた命の残像。
それでも、胸に刻まれた光だけは何者にも奪われない。
「……これから、進まなきゃ」
自分に言い聞かせるようにそっと呟いた。震えはまだ残っているが、その瞳には確かな決意が宿っていた。観衆の気配は次第に遠のき、波音と風の音が重なっていく。処刑という現実と胸に残る余韻は足元の石の上で静かに交わり、刻まれていった。
三人の命が残した光と誇りは、これから先の世界のどこかで生き続けていく。
そう、静かに告げるように。
ソフィーは静かに背筋を伸ばし、深く一礼した。
「……ありがとうございました」
来賓席に座るエリオット・ド・レオパードへ向けた礼だった。そこには感謝と整理しきれない想いが混じっている。彼女が一歩、身を引こうとしたそのとき。
「ソフィー」
低く落ち着いた声が背後から届いた。振り返ると、エリオットがゆっくりとこちらを見ていた。
厳しさの奥に、言葉にしがたい重みを宿した眼差し。
エリオットの隣で、ルキフェルが静かに立ち上がる。足音はほとんどしなかった。彼は振り返ることもなく、そのまま席を離れていく。
ソフィーは一瞬だけ、彼の背中を目で追った。名前を呼びたい衝動が生まれる。けれど、それを飲み込んだ。振り返らない。それが、あの人との約束のような気がした。
エリオットは視線を戻し、静かに言った。
「少し、話がある」
言葉は短いが、拒める響きではない。ソフィーは小さく息を整え、頷いた。
エリオットに先導され、ソフィーは来賓用の執務室へ向かう。扉が閉まると外のざわめきは嘘のように遮断され、昼の光だけが穏やかに差し込んでいた。整然と並ぶ書棚と書類。戦場から切り離されたような静かな空間。その中で、エリオットは席につく前にソフィーを見て言った。
「……今日は、きつかっただろう」
ソフィーは一瞬だけ言葉に詰まり、視線を落とす。
「……はい」
それ以上、うまく言えなかった。
エリオットは深く息を吐き、椅子に腰を下ろす。その横顔には、疲労と消しきれない哀しみが滲んでいた。
「君たちが、全部背負う形になってしまった」
低く、噛みしめるような声だった。
「マクシミリアンも……リラも、ダヴィットも」
ソフィーは小さく頷いた。何かが静かにきしむ。
「だがな」
エリオットは続ける。
「君が生きている限り、彼らの存在は消えない。君が前を向くなら、それは無駄にはならん」
ソフィーの指先が膝の上でわずかに動いた。
エリオットは机に視線を落としたまま言葉を重ねる。
「……君は今、職務停止中だ。表向きには、隊に戻れない」
「……はい」
「だが、それを恥じる必要はない。今の君に必要なのは、休むことだ」
ソフィーの唇がわずかに震えた。
「……頭では、わかっています。でも……心が、追いつかなくて」
「だろうな」
エリオットの声は低いが、どこか柔らかい。
「守りたいものがある人間ほど、立ち止まるのが難しい」
ソフィーは俯いたまま絞り出すように言った。
「……私は、果たさなければいけないんです。あの人に……託されたものを」
エリオットは一度、目を閉じた。そして、静かに彼女を見据える。
「消せとは言わん。ただ、急ぐな。君が戻る場所は、私が守っておく」
その言葉に、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。
ソフィーは深く息を吐き、顔を上げる。
「……ところで、大元帥。お話とは、何でしょうか」
エリオットは一瞬だけ間を置き、はっきりと言った。
「これから君が、何を背負って生きることになるのか。その話だ」
執務室の空気がわずかに重くなる。
この先、交わされる言葉が彼女の未来を静かに形作っていくことを……この時のソフィーはまだ知らなかった。
二人のやり取りはしばらく続く。言葉の数は多くなかったが、その一つ一つは重く、時間はゆっくりと流れていった。やがてエリオットは席を立ち、窓辺へ歩み寄り、外を眺めたまま静かに口を開いた。
「君の叔父——ジャンは、今エトルタにいるんだったな」
ソフィーはわずかに息を呑み、すぐに答えた。
「はい。今も、あちらにおります」
「そうか」
エリオットは小さく頷き、穏やかな笑みを浮かべる。
「私から手紙を出しておこう。君は移動の手配だけ整えてくれればいい」
ソフィーの肩からわずかに力が抜けた。
「……ありがとうございます。すぐに準備します」
エリオットは机越しにソフィーを見つめ、声の調子を変えずに続ける。
「それから……隊員たちの処刑だが、予定より延期することになった」
ソフィーの指先が無意識に強張った。
「本来なら、明日から始まるはずだったが……急ぎ対処すべき案件が入った」
延期。その言葉に安堵がないわけではなかった。だが同時に、いつ終わるかわからない猶予を生きるという現実が、重くのしかかる。
——生きている時間が延びる。それでも、死は確実に近くにある。
その複雑な感情が整理される前に、扉を叩く音が室内に響いた。
「——失礼」
凛とした声とともに、ルキフェルが姿を現す。白い麻のシャツの袖を無造作にまくり、黒いズボンに革の編み上げブーツ。腰にはワイン色のスカーフ。剣も帯びていないその姿は、戦場や裁判の重苦しさから切り離されたように堂々としていた。エリオットは一瞥だけ彼に向け、ソフィーに視線を戻す。
「今日は、もう休め」
その声にソフィーは静かに一礼した。
「……はい」
扉へ向かい、背を向ける。閉めかけたその瞬間、彼女はふと振り返った。机の向こうに立つエリオットと、傍らのルキフェル。言葉は聞こえない。だが、二人の間に流れる空気だけで、それが重要な話であることは伝わってくる。紙をめくる音。ペンが走る、かすかな音。そして、沈黙の間に滲む緊張。置いていかれるような寂しさ。それでも、自分が今立つべき場所はここではない。
ソフィーは息を整え、扉を閉めた。足音を忍ばせて廊下を歩きながら、そっと決意を固める。
今は休む。——そして、戻るべき時に必ず戻る。
ソフィーは深く息を吐いた。目を閉じるたび、三人の顔が浮かんだ。
マクシムの最後まで背を伸ばしていた横顔。リラの恐怖を包み込むような穏やかな笑み。そしてダヴィットの燃えるような瞳。
失った痛みは、まだ確かにそこにある。けれど、エリオットが示した手立てはせめてもの救いだった。
奪われた命を取り戻すことはできない。それでも、最後の尊厳だけは守れる。
ソフィーは机に向かい、ペンを取った。叔父宛ての手紙。書くべきことは多くない。簡潔に、必要なことだけを。それでも、一文字一文字に自然と力がこもる。言葉にできない想いを、せめて行動に込めたかった。——これは、三人への礼だ。声に出せなかった「ありがとう」の代わり。
窓の外では海が穏やかに揺れている。光はゆっくりと傾き、執務室に柔らかな陰影を落としていた。ペン先が止まり、最後の一行を書き終える。封を閉じると、彼女はそっと肩の力を抜いた。
「……よし」
小さく呟く。自分に言い聞かせるように。
「これで、進める」
差し込む光が背中をそっと押してくれている気がした。
ソフィーは封を閉じた手紙を大切に抱え、執務室の奥に置かれた小さな伝令用の箱へ向かう。差し出すと侍従が静かに受け取り、封蝋を確かめた。
「エトルタへ。ジャン=バティスト・ド・ルノアール宛です」
「承知しました」
手紙が箱に収められるのを見届け、ソフィーは小さく頷く。
——これが、今の自分にできる最善。そして、三人に捧げる最後の礼。
箱が閉じられたあともしばらく鼓動はなかなか静まらなかった。
それでも一歩、前へ踏み出したのだ、とソフィーはそう感じていた。




