表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/51

第五章② ソフィー

 処刑台の下、石畳には三人分の血が赤く滲んでいた。

 まだ微かに熱を帯びるその光景を前に群衆のざわめきは一瞬、言葉を失ったかのように途切れる。だが、沈黙は長くは続かない。すすり泣き、怒りを含んだ声、押し殺した叫び。恐怖と混乱が入り混じり、空気は再びざわめき始める。手を震わせる者、口元を覆う者、泣き崩れる者。

 三人の死は否応なく現実として、それぞれの胸に落ちていった。

 来賓席でソフィーは静かに呼吸を整えていた。肩は小刻みに震え、手のひらは強く握り締められたまま。指先に残る熱と緊張を感じながら彼女は三人の顔を思い浮かべる。

「……ありがとう……」

 声にはならなかった。喉の奥で震えただけのその言葉が、冷たい石を通して深く沈んでいく。

 周囲の貴族や侍従たちは視線を伏せるか、硬直したまま動けずにいる。

 国王陛下は平静を装っているが、その眼差しの端には拭いきれない影が落ちていた。

 群衆の中では子を抱き寄せる親、顔を歪める老兵、唇を噛みしめる若者の姿が見える。

 赤く染まった石畳に、それぞれが自分の過去や未来を重ね、言葉にならない痛みを抱え込んでいた。

 三人の勇気と覚悟が静かな光として灯っている。

 最後まで信じ、守ろうとした意志が、悲しみとともに敬意と感謝となって満ちていった。

 やがてソフィーの肩の震えが少しずつ収まり、握りしめていた手をゆっくりと開く。冷え切っていた指先には微かな温もりの余韻が残っていた。目を閠じ、深く息を吸う。遠くで波の音が穏やかに揺れ、風が石畳をそっと撫でる。やがて世界はゆっくりと日常の色を取り戻していく。

 ソフィーは目を開け、もう一度処刑台の方を見つめた。赤い痕、冷たい石、そして消えた命の残像。

 それでも、胸に刻まれた光だけは何者にも奪われない。

「……これから、進まなきゃ」

 自分に言い聞かせるようにそっと呟いた。震えはまだ残っているが、その瞳には確かな決意が宿っていた。観衆の気配は次第に遠のき、波音と風の音が重なっていく。処刑という現実と胸に残る余韻は足元の石の上で静かに交わり、刻まれていった。

 三人の命が残した光と誇りは、これから先の世界のどこかで生き続けていく。

 そう、静かに告げるように。

 ソフィーは静かに背筋を伸ばし、深く一礼した。

「……ありがとうございました」

 来賓席に座るエリオット・ド・レオパードへ向けた礼だった。そこには感謝と整理しきれない想いが混じっている。彼女が一歩、身を引こうとしたそのとき。

「ソフィー」

 低く落ち着いた声が背後から届いた。振り返ると、エリオットがゆっくりとこちらを見ていた。

 厳しさの奥に、言葉にしがたい重みを宿した眼差し。

 エリオットの隣で、ルキフェルが静かに立ち上がる。足音はほとんどしなかった。彼は振り返ることもなく、そのまま席を離れていく。

 ソフィーは一瞬だけ、彼の背中を目で追った。名前を呼びたい衝動が生まれる。けれど、それを飲み込んだ。振り返らない。それが、あの人との約束のような気がした。

 エリオットは視線を戻し、静かに言った。

「少し、話がある」

 言葉は短いが、拒める響きではない。ソフィーは小さく息を整え、頷いた。

 エリオットに先導され、ソフィーは来賓用の執務室へ向かう。扉が閉まると外のざわめきは嘘のように遮断され、昼の光だけが穏やかに差し込んでいた。整然と並ぶ書棚と書類。戦場から切り離されたような静かな空間。その中で、エリオットは席につく前にソフィーを見て言った。

「……今日は、きつかっただろう」

 ソフィーは一瞬だけ言葉に詰まり、視線を落とす。

「……はい」

 それ以上、うまく言えなかった。

 エリオットは深く息を吐き、椅子に腰を下ろす。その横顔には、疲労と消しきれない哀しみが滲んでいた。

「君たちが、全部背負う形になってしまった」

 低く、噛みしめるような声だった。

「マクシミリアンも……リラも、ダヴィットも」

 ソフィーは小さく頷いた。何かが静かにきしむ。

「だがな」

 エリオットは続ける。

「君が生きている限り、彼らの存在は消えない。君が前を向くなら、それは無駄にはならん」

 ソフィーの指先が膝の上でわずかに動いた。

 エリオットは机に視線を落としたまま言葉を重ねる。

「……君は今、職務停止中だ。表向きには、隊に戻れない」

「……はい」

「だが、それを恥じる必要はない。今の君に必要なのは、休むことだ」

 ソフィーの唇がわずかに震えた。

「……頭では、わかっています。でも……心が、追いつかなくて」

「だろうな」

 エリオットの声は低いが、どこか柔らかい。

「守りたいものがある人間ほど、立ち止まるのが難しい」

 ソフィーは俯いたまま絞り出すように言った。

「……私は、果たさなければいけないんです。あの人に……託されたものを」

 エリオットは一度、目を閉じた。そして、静かに彼女を見据える。

「消せとは言わん。ただ、急ぐな。君が戻る場所は、私が守っておく」

 その言葉に、張り詰めていた糸が少しだけ緩んだ。

 ソフィーは深く息を吐き、顔を上げる。

「……ところで、大元帥。お話とは、何でしょうか」

 エリオットは一瞬だけ間を置き、はっきりと言った。

「これから君が、何を背負って生きることになるのか。その話だ」

 執務室の空気がわずかに重くなる。

 この先、交わされる言葉が彼女の未来を静かに形作っていくことを……この時のソフィーはまだ知らなかった。

 二人のやり取りはしばらく続く。言葉の数は多くなかったが、その一つ一つは重く、時間はゆっくりと流れていった。やがてエリオットは席を立ち、窓辺へ歩み寄り、外を眺めたまま静かに口を開いた。

「君の叔父——ジャンは、今エトルタにいるんだったな」

 ソフィーはわずかに息を呑み、すぐに答えた。

「はい。今も、あちらにおります」

「そうか」

 エリオットは小さく頷き、穏やかな笑みを浮かべる。

「私から手紙を出しておこう。君は移動の手配だけ整えてくれればいい」

 ソフィーの肩からわずかに力が抜けた。

「……ありがとうございます。すぐに準備します」

 エリオットは机越しにソフィーを見つめ、声の調子を変えずに続ける。

「それから……隊員たちの処刑だが、予定より延期することになった」

 ソフィーの指先が無意識に強張った。

「本来なら、明日から始まるはずだったが……急ぎ対処すべき案件が入った」

 延期。その言葉に安堵がないわけではなかった。だが同時に、いつ終わるかわからない猶予を生きるという現実が、重くのしかかる。

 ——生きている時間が延びる。それでも、死は確実に近くにある。

 その複雑な感情が整理される前に、扉を叩く音が室内に響いた。

「——失礼」

 凛とした声とともに、ルキフェルが姿を現す。白い麻のシャツの袖を無造作にまくり、黒いズボンに革の編み上げブーツ。腰にはワイン色のスカーフ。剣も帯びていないその姿は、戦場や裁判の重苦しさから切り離されたように堂々としていた。エリオットは一瞥だけ彼に向け、ソフィーに視線を戻す。

「今日は、もう休め」

 その声にソフィーは静かに一礼した。

「……はい」

 扉へ向かい、背を向ける。閉めかけたその瞬間、彼女はふと振り返った。机の向こうに立つエリオットと、傍らのルキフェル。言葉は聞こえない。だが、二人の間に流れる空気だけで、それが重要な話であることは伝わってくる。紙をめくる音。ペンが走る、かすかな音。そして、沈黙の間に滲む緊張。置いていかれるような寂しさ。それでも、自分が今立つべき場所はここではない。

 ソフィーは息を整え、扉を閉めた。足音を忍ばせて廊下を歩きながら、そっと決意を固める。

 今は休む。——そして、戻るべき時に必ず戻る。


 ソフィーは深く息を吐いた。目を閉じるたび、三人の顔が浮かんだ。

 マクシムの最後まで背を伸ばしていた横顔。リラの恐怖を包み込むような穏やかな笑み。そしてダヴィットの燃えるような瞳。

 失った痛みは、まだ確かにそこにある。けれど、エリオットが示した手立てはせめてもの救いだった。

 奪われた命を取り戻すことはできない。それでも、最後の尊厳だけは守れる。

 ソフィーは机に向かい、ペンを取った。叔父宛ての手紙。書くべきことは多くない。簡潔に、必要なことだけを。それでも、一文字一文字に自然と力がこもる。言葉にできない想いを、せめて行動に込めたかった。——これは、三人への礼だ。声に出せなかった「ありがとう」の代わり。

 窓の外では海が穏やかに揺れている。光はゆっくりと傾き、執務室に柔らかな陰影を落としていた。ペン先が止まり、最後の一行を書き終える。封を閉じると、彼女はそっと肩の力を抜いた。

「……よし」

 小さく呟く。自分に言い聞かせるように。

「これで、進める」

 差し込む光が背中をそっと押してくれている気がした。

 ソフィーは封を閉じた手紙を大切に抱え、執務室の奥に置かれた小さな伝令用の箱へ向かう。差し出すと侍従が静かに受け取り、封蝋を確かめた。

「エトルタへ。ジャン=バティスト・ド・ルノアール宛です」

「承知しました」

 手紙が箱に収められるのを見届け、ソフィーは小さく頷く。

 ——これが、今の自分にできる最善。そして、三人に捧げる最後の礼。

 箱が閉じられたあともしばらく鼓動はなかなか静まらなかった。

 それでも一歩、前へ踏み出したのだ、とソフィーはそう感じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ