第五章① ダヴィット
広場には、まだ死の余韻が漂っていた。
処刑台の木材にはつい先ほどまでそこにあった命の痕跡が沈殿するように残っている。
血の匂いと鉄の冷たさに、群衆は押し殺したざわめきを繰り返しながらも誰一人として視線を逸らせずにいた。鐘は鳴らない。音楽もない。ただ港から届く波音と風の音だけが淡々と空間を満たしている。
やがて短い号令が響き、再び鎖の音が石畳を渡った。
リラとダヴィット。二人の影が、冷たい朝の光の中で長く伸びる。彼らの足取りは静けさをまとい、まっすぐに処刑台へと向かっていた。
二人に血のつながりはない。けれど、すべてを失った幼い少年を拾い上げたあの日からリラは姉であり、ダヴィットは弟だった。その絆がある限り、彼らは家族だった。
先に名を呼ばれたのはリラ。鎖が外され、両腕を縛る縄へと替えられる。彼女は短く息を吸い込んだ。冷たい空気が肺に満ちる。
「姉さん……死んだあとも、一緒だからな」
ダヴィットの声にリラの瞳がわずかに潤む。だが涙は落ちず、代わりに静かで確かな笑みが浮かんだ。
彼女は振り返り、処刑台の下から見上げるダヴィットと視線を重ねる。その表情には揺らぎも諦めもなく、ただ深い慈しみだけがあった。姉と弟の間に言葉を超えた一瞬が流れる。
「うん。先に行ってるね」
風に紛れるほど小さな声。それでも、ダヴィットの耳には確かに届いた。兵の手が動く前に、彼は小さく頷く。
やがて、刃が振り下ろされる。群衆の中から短い悲鳴が漏れた。
だが、リラの最後の表情は弟へ向けた、あの微笑のままだった。
処刑台に残された鎖の音が冷たく耳に残る。
リラの姿が消えた空白を前にしても、ダヴィットは目を逸らさなかった。胸の奥で何かが震えていたが、それ以上に静かな誇りが満ちていく。兵に腕を取られ、彼はゆっくりと台へ上った。群衆のざわめきが波のように寄せては引く。顔色は蒼白だったが、眼差しはまっすぐ前を向いていた。瞼の裏には、まだリラの最後の笑みが焼き付いている。
「先に行ってるね」
——その声が、灯火のように胸を温めていた。
「……姉さん、待ってろよ」
呟きは誰にも届かず、風に乗って空へ溶けていった。
処刑人が合図を受け、刃を構える。
刹那、ダヴィットは顔を上げ、青空を仰いだ。その瞳にあったのは、恐怖でも怨嗟でもない。ただ、静かに定まった覚悟だった。
刃が振り下ろされる、その瞬間。彼の胸にあった想いは、ただひとつ。
——もう一度、姉さんと一緒に生きる。
群衆のどよめきが広場を包む。彼の最後の表情は静かで、まるで深い眠りに落ちるかのように安らかだ。
少年が目を開けると、頭上にはどこまでも澄んだ青空が広がっていた。頬を撫でる風はやわらかく、草の匂いを含んでいる。身体の下には、ふわりとした草の感触。いつの間にか彼は広い草原に横たわっていたらしい。
「……ここは……」
声に出した瞬間、自分の声が驚くほど穏やかであることに気づく。恐怖も、焦りもない。ただ、深い静けさだけが胸に満ちていた。
そのとき、ふいに視界に影が落ちた。誰かが、目の前に立っている。差し出されたのは、小さな手。
顔を上げると、そこには可憐なドレスを纏った少女。陽光を受けて揺れる髪。
懐かしい、その微笑み。彼女は何も言わず、静かに手を差し伸べている。
——あの日と同じように。
すべてを失い、泣き崩れていたあの時。
声も出せず、世界から置き去りにされたように感じていたあの日と同じ仕草だった。
けれど、今は違う。胸にあるのは喪失でも後悔でもない。
長い旅を終えたあとに訪れるような温かさだった。
少年は小さく笑い、迷うことなくその手を取った。指先が触れ合った瞬間、確かめ合うような温もりが伝わる。
「行こう」
声に出したかどうかは分からない。けれど次の瞬間、二人は自然と走り出していた。
草原を駆ける。風を切り、光を追い、並んで、どこまでも。
振り返る必要はなかった。背後に残すものは、もう何もない。
やがて、眩い光が二人を包み込む。境界は溶け、輪郭は淡くほどけていく。
そして——二人の姿は光の中へと静かに溶け、消えていった。




