第四章④ マクシム
回想の余韻が霧のように散っていく。
気づけば足は、すでに広場の石段を踏みしめていた。鎖の重みが両腕に食い込み、背に吹きつける風は凍りつくほど冷たい。
——そうだ。これは夢ではない。
「……」
マクシムは一段、また一段と処刑台へ歩を進めた。
群衆の視線が突き刺さる。嘲笑、怒号、憐れみ、恐怖やらが渦を巻き、背中を押し立てる。
それでも彼は顔を上げた。濡れた石畳に染みついた血の匂いを嗅ぎながら、ただ真っ直ぐに。
処刑台の頂に辿り着いた瞬間、広場のざわめきがふっと凍りついた。
マクシムの姿を、群衆が息を呑んで見上げたのだ。両脇を固めていた兵士たちが無言のまま一歩、後ろへ下がる。黒衣の宣告官が壇上に進み出て、巻物を高らかに広げた。
「マクシミリアン・ブーケ! この男は、フランス王国海軍のブレスト司令部を襲撃し、混乱に陥れた! さらに、大元帥エリオット・ド・レオパード殿に刃を向け、暗殺を企てた! その行いにより多くの兵士を死に至らしめ、市民に恐怖と混乱を与えた!
かかる罪、もはや弁明の余地なく——国家に仇なす反逆の徒である!」
声が広場に響き渡るたび、群衆の反応は三つに割れていく。罵声を浴びせ、腕を振り上げる者。恐怖に縛られたように表情を固め、ただ立ち尽くす者。そして、ごくわずかだが憐れみを帯びた眼差しで彼を見つめる者たち。かつて士官として、英雄として讃えられた男が今は鎖に繋がれ、壇上に立たされている。その落差に言葉を失っていた。
宣告官は巻物を閉じ、鋭く声を放つ。
「よってここに、この者を——国家反逆罪により、死刑に処す!」
——ああ……これで、ようやく終わるんだな。
不思議と胸は軽かった。何年も背負い続けてきたものが、ここで一斉に剥がれ落ちていくような感覚。鎖の冷たさも、群衆の罵声も、今はどうでもよかった。代わりに彼の視線はただひとつを探し求め、群衆の中を彷徨っていた。
——ソフィー……どこにいる。どこで、見ている……ほんの一瞬でいい。最後に、あの瞳を見つけたい。きっと来ている。どんなに辛くても、あの子は背けず、見届けるはずだ。そう、信じられた。
「国家に仇なす反逆の徒である!」
宣告官の声が再び広場を震わせる。それでもマクシムは微笑を浮かべたまま視線を止めなかった。
ざわめく群衆の向こう、壇上に設けられた来賓席が目に入る。
金糸で縁取られた制服を纏う男、海軍大元帥エリオット・ド・レオパード。
彼の隣には、無表情で座るルキフェルの姿もあった。
マクシムの視線は、ふっと二人をかすめる。だが、そこに留まることはない。ただ……視線をゆっくりと滑らせる。
来賓席の端。群衆のざわめきに呑まれそうになりながらも、まっすぐ前を見据えて立つ一人の女性。
ソフィー。
彼女は拳を固く握りしめ、唇を噛み、涙を必死に堪えていた。けれど、その眼差しだけは揺らがない。ただ真っ直ぐに、彼を見ている。
——ああ……やっと、見つけた。
胸の奥が熱に焼かれるように満ちていく。罵声も、鎖の重みも、すべて消えた。
安堵。生きていてくれた、これだけは確かだ。
誇り。逃げも逸らしもしない、その立ち姿。
切なさ。もう二度と、手を伸ばすことはできない。
そして——愛おしさ。幼い頃、兄として傍にいられなかった後悔が、今になってようやく形を持って迫ってくる。
すべて、ひとつの光となって胸の奥で広がっていく。彼女の唇の端に、ほんのわずかに浮かぶ微笑み。
笑っているのか、泣いているのか……もう判別はつかない。
「……ああ、もう……ここにいるんだな」
呟きは、誰に聞かせるでもなく胸の内に落ちた。
監視官の声が空気を切り裂く。
「最後に、言いたいことはありますか」
無数の視線が処刑台の上の男に突き刺さる。だが、マクシムは口を閉ざした。
言葉は……もう、必要ない。
目を閉じれば、そこにあるのはただひとつ。
ソフィーの笑顔。その光に背中を押されるように、彼は静かに胸を張った。
背筋をなぞる風が、まるで自由を告げるかのように静かに吹き抜けた。視線を遠くへと泳がせる。そして、脳裏をよぎるひとつの言葉。
——「 」
グウェナエルがただひとりソフィーに向けて告げた、真っ直ぐな言葉。
その瞬間、マクシムは理解する。
ソフィーは確かに……誰かに、深く、真に愛されていたのだと。
一方通行ではない。互いに想い合い、支え合っていたのだ、と。
——嬉しい。
ただそれだけの感情が、これほどまでに心を満たすものなのか。
彼女も言っていた。少し照れたように、それでいて満ち足りた表情で。
怒りも、悲しみも、恐怖も置き去りにした、あの顔で。
あの二人が互いを見つけ、今も支え合っている。
その事実だけで、この瞬間まで生きてきたすべてが報われる気がした。
思わず、心の中で苦笑まじりに呟いく。
「……あいつ、やりやがったな。でも……二人とも、よく辿り着いたな」
胸の奥が熱くなり、涙と笑いが同時に押し寄せる。
そして、ふと脳裏に浮かぶ黄金の瞳。
——「愛を知らないお前が、誰かを愛せるはずがない」
マクシムは心の中で静かに刃を振るう。
——違う。
「ソフィーは……おれの妹だ。愛を教えてくれた。おれに『守りたい』という感情をくれた、ただひとりの——愛おしい存在だ」
そして誰にも届かぬ場所で、そっと囁く。
「ソフィー……愛している」
それは告白ではない。赦しでも、願いでもない。ただ、事実だった。
「……さあ、行こう」
背筋を伸ばし、一歩、また一歩。鼓動は速い。けれど不思議なほど静かで、むしろ自分を支えている。
断罪の剣の前に立つ、その瞬間。マクシムは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
——もう、迷わない。最後まで守る。この秘密を抱えたまま。
刃が頭上に揺れる。冷たい鉄の重みが、空気ごと世界を押し潰す。
その瞬間、風の音も、群衆の息遣いも、すべてが遠のいた。視界の光は滲み、輪郭を失い、色彩は溶け合うように薄れていく。
脳裏に浮かぶのは、来賓席の端でまっすぐこちらを見つめていたソフィーの姿。
微笑み。揺るがぬ強さ。あの、確かな眼差し。
胸の奥で、あの言葉が鮮やかに蘇る。
「……もし、天国とか地獄とかがあって。あなたが、どこか下のほうに行っちゃったとしても……そのときは、私が引っ張り上げますから」
言葉は波のように胸を満たし、悲しみも、恐怖も、痛みも、すべて溶かしていく。
その混沌の底に、確かな光があった。
守るべき者を想う、その一点だけがすべてを貫いている。
記憶が次々と溢れ出す。
幼い頃、初めて対面した時。
夜明けの船尾で、倒れていた肩にそっと触れた瞬間。
留年してまで学び続けた、あの背中。
ともに支え合い、強大な敵に立ち向かった時間。
すべてが、刹那の光として胸に焼き付く。
刃が、今にも落ちる。
心の奥で、マクシムは静かに宣言した。
「おれは、天国にも地獄にも行かない」
わずかに、微笑む。
「君のそばで、守り続ける」
刃が落ちる。
世界が一瞬、静止した。
耳に残るのは、遠くで旗を揺らす風の音と群衆の息遣い。そして、自分自身の鼓動だけ。
ソフィーの微笑み。揺るがぬ決意。
すべて光となり、一度に弾けた。
涙と笑い、悲しみと安堵が混ざり合い、全身を貫いていく。
心は崩れながらも、清らかに満たされている。
——ソフィー、ありがとう。
すべてを、君に託す。
やがて、世界はゆっくりと回り始める。
光と影、歓声とざわめきが戻ってくる。
それでも——心に残った温かさと、記憶の輝きは消えない。
悲しみも、涙も、笑いも。
——すべてがひとつの清らかな旋律となって。
マクシミリアンの魂を満たしたまま、永遠に刻まれていった。




