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第四章③ マクシム

 石畳の廊下をマクシムは一歩ずつ踏みしめていく。

 冷たい朝の光が窓から差し込み、埃を含んだ空気を淡い金色に染めていた。足音は重く、だが規則正しく響き、やがて静かな空間に溶けて消える。胸の奥には不思議なほどの静けさがあった。恐怖がないわけではない。けれどそれは、澄み切った感覚に近かった。視界の先に処刑場へ続く木製の門が見える。硬く、沈黙を抱えたまま立つその門の周囲にはまだ人影は少ない。

 マクシムは肩の力を抜き、ゆっくりと呼吸を整えた。思考は自然と仲間たちへ向かう。

 リラとダヴィットの、ほんのかすかな笑顔。揺るがぬ意志を宿したグウェナエルの瞳。

 そして——ソフィーの、あの温かな眼差し。すべてが、今も彼を前へ進ませていた。

「……ここで終わる。それでも、おれは歩く」

 胸に込み上げるものを押し込み、静かに拳を握る。石畳の冷たさが指先に伝わり、奇妙な安定感をもたらした。風が通り抜け、衣擦れの音がわずかに響く。

 振り返っても、もう牢獄は見えない。ソフィーの姿もない。それでも、彼女は胸の奥に確かにいた。

 門の向こうには処刑場の広場が広がっている。鉄と石の匂い。遠くで準備を進める人々の気配。まだ観衆のざわめきは届かず、ただ澄んだ朝の光と空気だけが満ちていた。

 マクシムは深く息を吸い、吐き出す。

 仲間を巻き込み、世界を渡り、戦いに身を投じてきた日々。

 そのすべてが、今の一歩に凝縮されている。

 歩みは止まらない。誰にも阻まれず、ただ自分の意志だけを信じて。静かに広場の中心へと向かう。

「……おれは、恐れていない」

 そのとき、胸の奥で何かが弾けた。牢獄で見た、あの笑顔。

 光に透ける波のように柔らかく、それでいて鋭く胸を貫く表情が脳裏を埋め尽くす。


 「隊長の覚悟、ちゃんと見届けます」


 その言葉が、胸を震わせた。嗚咽と微笑が絡み合い、理性はあっさりと崩れ落ちる。手のひらが震え、頬を伝った涙が唇を濡らした。

「……はは……結局、言えなかったな」

 嗚咽を押し殺すように笑う。喜びと痛み、愛情と後悔が胸の中で激しくぶつかり合う。

 ふと、ソフィーが「マクシム」と呼んでくれた、あの声が蘇る。

「言えるわけ、ないか…………おれが、」


 ——君の兄だってこと。


 アントワーヌ・ド・ルノアール。

 かつて捨てた名前。


 胸の奥で言えなかった真実が疼く。

 守りたかった人に、兄として。戦友として。隊長として。そして、愛する者として。

 涙は止まらない。

 それでも……あの笑顔の光だけは、確かに胸に残っていた。

 揺るがぬ、深い光として。


 マクシムは嗚咽をかき消すように大きく息を吐く。

 痛みも、後悔も、愛も、すべてを抱えたまま再び歩き出す。

 それは恐怖でも覚悟でもない。胸の奥に残った、たったひとつの光。

 ソフィーの笑顔を抱いて、すべてを受け入れるための静かな行進だった。

 マクシムの思考は自然と過去へ。

 かつての自分、アントワーヌという名の少年へと遡っていく。



 家と名前、そして家族を捨てた、あの日のことだ。

 ルノアール家という重圧。叔父夫婦の厳しさ。

 そして、ヴール・レ・ロズで出会った、妹のような少女。

「優しくしなさい」と言われた瞬間、胸に走ったのは戸惑いではなく、なぜ自分が背負うのかという言いようのない憤りだった。

 甘えたくても甘えられない年頃に、参謀官の別荘で過ごさせられた日々。

 そして、偶然目にしてしまったゼフィランサスとラウルの絆。


 選ばれたのはラウル。自分ではなかった。


 胸を刺すような痛みを抱えたまま迎えた、あの夜。

 血に染まったゼフィランサスが黄金の瞳で振り返り、「来るか?」と問いかけてきた瞬間。

 衝撃とともに、考えるより先に彼について行った自分がいた。

「おれは攫われたんじゃない。選んで、ここに来た」

 心の中でアントワーヌは静かにその言葉を繰り返す。

 誇りのようでいて、同時にそれは選んだのに報われなかった少年の孤独でもあった。

 選んだはずの道が、なぜ自分の居場所を奪ったのか。

 その問いは、石畳を踏みしめる足音ひとつひとつに、重く絡みついてくる。

 それでも。胸の奥では、ソフィーの言葉と笑顔が静かに光を放っていた。



 海軍に入って間もない頃。

 二つ下の代の入学者名簿を目にしたときのことだ。視線の先に見覚えのある姓があった。


 ——ルノアール。ソフィー・ド・ルノアール。


 信じられなかった。否定と期待が頭の中でせめぎ合う。

 だが、整列した入学者の中にひときわ凛とした少女の姿を見つけた。

 名を呼ばれ、はっきりと返事をし、敬礼する。

 亜麻色の髪。あの日のままの眼差し。

 ボロボロだった、あの少女だと確信するには……十分すぎた。



 時は流れ、部隊発足から二年ほど経ったある日。

 海上実習中の訓練船が海賊に襲われ、消息不明との知らせが届く。

 もし、あの少女が乗っていたら。

 胸が凍るような思いで、即座に出動の準備を整えた。

 訓練船は決死の逃避行の末、無事に発見された。

 船尾で倒れている彼女の姿を目にした瞬間、もし死んでいたらという想像が全身を貫いた。

 だが、彼女は生きていた。あの日ほど、見えないものに感謝した日はない。



 広場のざわめきは、まだ遠い。響くのは、自分の足音だけだ。

 胸の奥に残る、あの海の匂い。波の音。そして、少女のかすかな息遣い。

 それらすべてが今、処刑への道を進むマクシムの足を押し、心を静かに満たしていた。



 あの海上実習の事件を境に、ソフィーは留年という選択を厭わず軍医への道を選んだ。

 やがて彼女は軍医となり、マクシムはその歩みを誰にも気取られぬよう静かに追い続けていた。

 意識せずとも情報は自然と彼のもとに集まってくる。目を離せなかっただけだ。

 そして、マクシミリアン隊が新規隊員の募集をかけたとき。

 志願者名簿の中にその名を見つけた瞬間、胸の奥がかすかにざわめいた。

 目の前に立つのは、あの亜麻色の髪の少女。

 けれど同時に、今は自分と同じ戦場に立つ、れっきとした軍医でもあった。

 本当のことを打ち明けるべきか。いや、まだ早い。

 そう自分に言い聞かせながら、それでも彼は思い切って問いを投げた。

「ソフィー・ド・ルノアールくん、君はパリにある割と上流貴族の出にも関わらず出身がノルマンディー地方となっていますが、その理由は話せるでしょうか?」

 だが、彼女の口から返ってきたのは予想とはまるで違う言葉だった。

「マクシミリアン隊長。出自とか血筋って、そんなに重要でしょうか?」

 静かな驚きが胸を満たし、しばし沈黙が二人の間に落ちた。

「そんな僕も、本当は世間から讃えられるような人間じゃないんです。それでも部隊を持つぐらいには伸し上がった。君も、自分の実力を認められたいと思っているんじゃないですか?」

「ええ、常日頃から思っていることです。私は、自分が求められるところで存在意義を見出したいのです」

 その声にマクシムは小さく頷いた。理解されるという感覚が胸の奥をじんわりと温める。

「うん、その気持ちよくわかります」

 彼は一度、自分の差し出した手を見つめ、それから静かに言葉を継いだ。

「ソフィー。あなたが士官学校時代から僕は君に目をつけていたが、あの日のこと、そして今この瞬間、僕は君と一緒にいたいと思っています。僕のことはマクシムと呼んでも構いません」

 差し出された手を握ったときの、ソフィーの体温。

 その温もりは、今も胸の奥に深く刻まれている。

 互いに見つめ合う視線の中にあったのは、静かな喜びと確かな信頼。

 そして、決して口にできない真実だった。

「ソフィー、僕たちはまるで兄妹のようですね。死と隣り合わせの世界だけど、僕は貴女に生きていてほしい、何故かそう思わせられる」


 生きていてほしい。

 ずっと、ずっと、それだけを願ってきた。


 幼い頃、兄でありながら彼女のそばにいることができなかった。

 自分の我儘が、無力が、あの子をひとりにした。

 本来なら後継であるはずだった自分が消えたせいで、ソフィーがルノアール家の重圧を背負い、海軍へと追いやられたのではないか。そんな悔いが、何度も何度も胸を抉った。

 せめて、生きていてほしい。

 兄として果たせなかった務めに対する、唯一の償いだった。



「ソフィー、あの子は危険ですよ」

 あの日、シャルルに告げられた言葉が脳裏に蘇る。

「危険? どこがだ」

「あの子は正義を信じすぎている。軍人としては当然ですが、隊長にとっては邪魔になります」

 否定できなかった。彼女の真っ直ぐな正義感は、時に自分の選択を、存在そのものを脅かす刃になり得る。



 ルキフェルと初めて対峙した、あの嵐の日。

 血まみれで立てない自分を、彼女が必死に支えていた。

 その彼女が敵の前へ飛び出そうとした瞬間、喉が裂けるほど叫んだ。

「ソフィー、待ってくれ!」

 伸ばした手は空を掴み、恐怖が胸を貫いた。

 ——今度こそ、失うのか。

 嵐の中、シャルルとグウェナエルに立ち向かう彼女を見たときも同じだった。

 だから決めた。

 どんな手を使ってでも、ソフィーをこの部隊から遠ざける。

 彼女を死地から解放する。

 それが、兄として果たす最後の務めだと。


 ——そして今。荒れ狂う嵐の甲板で。


 びしょ濡れの髪から水滴を落としながら彼女を見下ろす。

 ソフィーの瞳はまっすぐに自分を捉え、必死に訴えていた。

「隊長は、私のことを見捨てませんよね? 期待してるって……そう言ってくれたじゃないですか……!」

 ——ああ。そんな顔をするな。その顔を向けられて、どうして真実を言える?

 心が、張り裂けそうだった。

「あなたに……ここは似合わない」

 わざと冷酷に。呪いのように、吐き捨てた。ソフィーの表情が凍りつく。

 一歩踏み出し、両腕で彼女を抱きしめた。

 嵐の轟音の中で、ほんの一瞬だけ。冷たい雨の中、その温もりを胸に刻む。

 ——もう二度と抱けないと知っている者のように。

「許してほしい。君には……ここにはない、別の人生を生きてほしいんだ」

 声は震えていた。

 次の瞬間、その温もりごと彼女を突き放した。

 甲板に叩きつけられる衝撃。ソフィーの視界が暗く沈んでいく。遠ざかる意識の中で、なおも彼女は手を伸ばしていた。自分に向かって、必死に。

 ……だが、届くはずがない。

 マクシムはその瞬間まで見届けた。そして、背を向けた。

 胸に残る温もりと、痛みだけを抱えたまま。嵐は轟き、海は荒れる。

「……バカだな、おれは」

 告げるべきことを、最後まで言えなかった。

 兄だと名乗ることも、守りたいと叫ぶことも。

 ただ突き放し、傷つけ、そして——ひとり残された。

 笑うしかなかった。

 嗚咽のような笑いが零れ、やがて震える涙に変わる。


 誰も見ていない闇の中で、そのすべてが彼を押し潰していった。

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