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第四章② マクシムとソフィー

 朝の光はまだ柔らかく、牢獄の小窓から床に細長い影を落としていた。

 マクシムは処刑用の黒い制服に身を包み、肩を正し、手首を重ねて石畳に腰を下ろしている。

 片耳のイヤリングはもう手元にはなく、胸の奥でゼフィランサスの面影とあの風のような記憶だけが静かに息づいていた。

 扉が静かに開く。足音は忍び足のように抑えられていた。

 マクシムは顔を上げ、淡い光に縁取られた影の中にソフィーの姿を見つける。彼女は迷いなく近づき、しばらく何も言わずに彼を見つめていた。

「……ソフィー」

 マクシムの声に震えはない。その瞳に宿っているのは恐怖でも怒りでもなく、深く沈んだ覚悟だけだ。

 ソフィーは一歩、距離を詰める。

「……会いに来ました」

 それだけ告げて言葉を切る。けれど、すぐには続けられなかった。視線を伏せてから彼女はゆっくりと息を吸う。

「……その前に。謝らせてください」

 ソフィーの言葉に、マクシムがわずかに眉を動かす。

「私……あなたの復讐も、復讐心も、理解しようとしていました。あれだけ大きなことを言っておきながら……襲撃の時も……裁判の場でも……私は感情的になって、罪の重さをあなたにぶつけた。怒って、責めて……理解するって言ったはずなのに」

 ソフィーは顔を上げ、まっすぐに彼を見る。

「……ごめんなさい」

 マクシムは即座に首を振る。

「……謝るな。謝るのは……おれのほうだ」

 彼はわずかに目を細め、続けた。

「ソフィー……君には、随分と嫌な思いをさせてしまったな。嵐の日のことも……部隊に戻ってきた後の、あの態度も……守るつもりで、傷つけた。剣を向けて……閉じ込めたことも」

 一呼吸置き、マクシリアンの瞳に深い影が落ちる。

「それから……グウェナエルのことだ。彼を死なせてしまった。あれだけは……本当に、取り返しがつかない」

 言葉に詰まり、胸に手を当てる。

「彼の……君への想いは察していた。でも、君も彼を想っていたなんて……」

 ソフィーは揺るがぬ眼差しで彼を見つめ返す。

「ええ。全部、覚えています。でも……だからといって、今さら責めるつもりはありません」

 マクシムはその言葉にわずかに肩を落とした。

「……未熟で、身勝手だった」

 小さく息を吐く。

「処刑になって当然だな」

 沈黙が訪れ、石壁に反射する朝の光が二人の足元を淡く照らしている。

 その沈黙を破ったのはマクシムだった。

「……どうせ君のことだ」

 ふっとかすかな笑みが浮かぶ。それは諦観でも皮肉でもなく、どこか懐かしむような笑いだった。

「ここに来たのは、謝るためだけじゃないだろう」

 ソフィーが一瞬、息を呑む。

「言いたいことがあるって顔をしてる。……ずっと、そうだった」

「……っ」

 ソフィーは思わず言葉に詰まり、視線を泳がせる。

「そ、それは……」

 ソフィーの声は小さいが、マクシムの瞳をまっすぐ見据えて告げる。

「最期に、お礼を伝えたくて」

 マクシムの表情がわずかに和らいだ。ソフィーはそんな彼の様子を見てると、次第に心が解けていった。

「隊長。あの頃のあなたは、私にとって……頼れる先輩でした」

 マクシムの目が一瞬だけ光を取り戻す。

「……支えだった、と?」

「はい。少なくとも、私にとっては」

 ソフィーは微かに目を伏せ、喉を鳴らすようにして吐息をつく。

「だから、今こうしてお会いできたことを……私は、ありがたく思っています。処刑を前にしたあなたに、どうしても伝えておきたかったんです」

 マクシムは黙って聞いていた。

「……君がいてくれてよかった。迷惑ばかりかけたのに……それでも来てくれた」

 言葉が途切れ、二人の間には静寂が訪れる。

 ソフィーはしばらく沈黙を保ったままマクシムの顔を見つめていた。

「隊長。ひとつ、覚えていらっしゃいますか?」

 マクシムは顔を少し傾け、薄く眉を寄せた。

「あの……海上実習のときか?」

「はい。船尾に倒れていた私を、見つけてくださったときです」

 マクシムは何も言わず、耳を傾ける。

「隊長は迷わず、『助けられる命を、見捨てる理由がありますか』って、言ってくださいました」

 ソフィーは胸の前でそっと手を握る。

「あの言葉……私は、今でも忘れていません」

「……そうか」

 マクシムはふっと口元を緩めた。

「……でもソフィー。正直、その後の話を聞いたときは驚いたよ」

 ソフィーは顔を上げ、黙って彼を見る。

「軍医を目指すために、留年したって。教官から『ソフィーは留年しました』って聞かされて……あの時は、正直まだ君の覚悟を量りかねていた」

 マクシムはゆっくりと息を吐く。

「でも、今こうして君を見ていると……あれが君なりの答えだったんだって、よく分かる」

 ソフィーは何も言わず彼の隣に腰を下ろした。冷たい石の感触に朝の光が淡く重なる。

「……まさか、本当に貫くとはな」

 マクシムの呟くような声には、驚きと素直な感心が混じっていた。

「部隊に来た初日も、随分と緊張していたな」

 自嘲気味にマクシムは微笑む。

「それでも……血筋だとか、立場だとか、そういうものに甘えず自分で道を選んだ。その時、思ったんだ。君となら、どんな現場でもやっていけるって。本当に……君は、ここまで戦ってきた」

 低く、噛みしめるような声だった。

「自分の力で、進む道を決めたこと。おれは、それを……誇りに思ってる」

 ソフィーはマクシムの言葉に耳を傾けていたが、ふと声を上げた。

「……そういえば」

 彼女の声に、微かにいたずらっぽい響きが混じる。

「隊長、士官候補生の面接のとき……前から目をつけていた、っておっしゃってましたよね。あれは……なぜですか?」

 マクシムは窓から差し込む朝日を眺めた後、視線を落として言葉を紡いでいく。

「……海上実習の君が、あの状況で生き延びた姿がどうにも頭から離れなかった。それで……気づいたら、追っていた」

 彼は照れ隠しのように肩をすくめる。

「それに…女性隊員はだいたい、うちに回ってくるから」

 マクシムの軽い冗談めいた調子にソフィーは思わず息をつく。

「なるほど……そういうことだったんですね」

 小さく笑い、視線を戻す。牢の薄暗さの中で、二人の間に過去と今が静かに重なっていた。

「……グウェナエルは、どうだった」

 マクシムの声は低い。揺れはない。知りたいという気持ちだけがまっすぐに滲んでいた。

 ソフィーは小さく息を整える。

「隊長。彼は……最後まで、自分の信念を通しました」

「仲間を守って……おれのことも、考えていたのか」

「ええ。隊長とルキフェルを守り抜いて、それから……私との約束も、果たしてくれました」

 マクシムは小さく息を吐き、拳を握る。

「……やはり、強かったか」

「はい。最後まで、自分を曲げませんでした」

「……おれは、最期を見届けられなかった」

「でも……隊長。彼は、満足していたと思います。守るべきものを守って、信じたものを貫いた。私たちは、それをちゃんと見届けました」

 マクシムは目を閉じ、胸の奥でかつての戦友の姿をなぞる。

「……ところで」

 少しだけ、声が和らぐ。

「グウェナエルと、どんな約束をしたんだ」

「……私の元に帰ってくることを、生きる目標にしてほしいと。そんなことを言いました」

「彼は……それを、覚えていた」

「ええ。満身創痍でも……それでも帰るんだって、言っていました」

「……そうか……」

 窓から差し込む淡い光が石壁に反射し、牢の中を柔らかく満たす。マクシムの肩から少しずつ力が抜けていく。ソフィーもまた自然と背筋を伸ばして座っていた。沈黙は重くない。後悔も、痛みも、静かに抱えたまま、今この瞬間の温もりだけがあった。

「……そういえば、グウェナエルのことだが」

 マクシムの一言でソフィーの呼吸がわずかに変わる。だが、マクシムはそれを見逃さなかった。

「……どうした。さっきから少し様子がおかしい。言いづらいことか?」

「……隊長に、正直にお話ししてもいいでしょうか」

 ソフィーの言葉にマクシムは黙って頷き、背筋を正す。

「グウェナエルさん……最期に、私にだけ、ずるいことを言ったんです」

「ずるい? 最期だぞ。まさか、意地の悪い冗談でも——」

「……そうですね」

 ソフィーは小さく笑う。

「いじわる、と言えば……いじわるかもしれません」

「……なんだそれ。どういう意味だ」

 ソフィーは一度だけマクシムを見上げ、それから少し距離を詰める。

「……聞いてしまっても、後悔しませんか。彼の秘密です」

「構わない。聞かせてくれ」

 ソフィーはそっと身を乗り出した。

「では……耳を」

 マクシムは無言で顔を傾ける。——そして。

「……?」

 声にならない音が喉の奥で止まった。そのまま、固まる。まるで、宇宙の真理に触れた猫のように。

 ソフィーはその横顔を見て思わず小さく息をつく。

「……隊長?」

 返事がない。

「……動揺、してます?」

 ようやくマクシムがゆっくりと息を吐いた。

「…………」

 否定も肯定もできない顔だった。

「……あいつ……」

 言葉が続かない。マクシムは目を閉じ、もう一度、深く息を吸った。耳元に残る温度を、記憶として胸にしまうように。

「……ありがとう、ソフィー。……それを、教えてくれて」

 ソフィーは、静かに頷く。

「隊長には……知っていてほしかったんです。あの日の彼の想いも。それを受け取った、私の気持ちも」

「……あいつも……君も……本当に、強かったんだな。……少し、救われた気がする」

 ソフィーは何も言わず、そばにいる。

 マクシムはふっと笑みを漏らした。次の言葉は、本心からのものだった。

「……あいつ、やりやがったな。でも……ソフィーも、よく耐えた」

「はい……でも私、嬉しかったんです。隊長にも知ってほしくて」

「……そうか。それで、ウェナエルの遺体はどうなった」

「私たちが引き取りました。驚くほど穏やかな顔で……今は、ルノアール家のもとで眠っています」

「そうか。……君たちが、代わりに最後まで見てくれたんだな」

「隊長の代わり、なんて思っていません。ただ……彼を、一人にはしませんでした」

「……それで、十分だ」

 マクシムはゆっくりと肩の力を抜き、息を整える。

「……こうして話せる時間も、長くはないだろうな」

 マクシムの声には覚悟が滲んでいた。ソフィーは何も言わず、ただ視線を受け止める。

「……ありがとう。ここに来てくれて」

 マクシムは少しだけソフィーに身を寄せる。肩が触れる、その距離。

「……ここを出たら、どうするつもりだ」

「家族のもとに戻ります。隊を離れたあと……できるだけ早く」

「そうか。家族のこと……大切にしてやってくれ」

「はい」

「隊長が、そう教えてくれました。家族は……血よりも、心だって」

「……覚えていてくれたか」

 鉄格子も運命も、その間には入り込めない。触れるほど近い距離で、二人は静かに同じ時間を生きていた。

「隊長……処刑、怖くないんですか?」

「……怖くない、って言ったら嘘だな」

 マクシムは苦笑して続ける。

「でも……不思議と、今は落ち着いてる。逃げ回るより、受け入れたほうが楽だってだけだ」

「それ、結局どっちなんですか」

「両方だよ。怖いし……でも、それだけに縛られたくない」

「だから、そんなに静かなんですね」

「……ああ」

 マクシムは目を閉じ、一度深く息を吸う。それから彼はゆっくりと目を開け、ソフィーの顔を見据えた。

「でもな……君が来てくれて、助かった」

「私が……?」

「ここに誰かがいるだけで違う。覚悟は変わらないけど……一人じゃないって思える」

 ソフィーは小さく頭を下げた。

「そう言ってもらえて、よかったです。隊長の覚悟、ちゃんと見届けます」

 それから、ソフィーはしばしマクシムを見つめた後、ふと視線を落とした。

「あの……私、まだ、諦めきれなくて」

「……何を?」

「前に……メリッサが言ってたこと」

 その名にマクシムの表情がほんの少し硬くなる。

「『復讐は嫌い。憎しみの連鎖は、もうたくさん。どうか……仲良くしてほしい』って。それから……フェルナンドの処刑のあとも」

 ソフィーは胸元にそっと手を当てる。

「民衆が熱狂して……誰かの死を、見世物みたいにして……私、怖くて、ずっと震えてました」

 マクシムは答えなかった。でも、その沈黙だけで十分だった。

「でも私は……復讐を力にするんじゃなくて、未来につなげる第三の道を探したい、って。隊長が命を奮い立たせて人を救ってきた姿も、ちゃんと見てきました。同時に……憎しみを糧にしないと、生きられなかったあなたの姿も。——世界は、やっぱり残酷です。それでも、人の心の中にある可能性を信じる努力だけはやめたくないんです。諦めたくない」

「……ああ。第三の道、か」

 マクシムの声には懐かしさと、ほんの少しの寂しさが混じっていた。

「メリッサの願いと一緒に……君は、これからもその道を探すんだな。その道に……おれはいないけど」

「あなたみたいに苦しむ人をこれ以上つくらないためです。……どうしても、諦めきれません」

「……手遅れだな、おれは。だからこそだ。その希望……ちゃんと持って行け。おれが行けなかった場所まで」

 牢獄の中で二人はそれ以上言葉を交わせなかった。

 終わりと始まりが静かに重なり合う、その場所で。

 その時、重い足音が近づき、監視官の声が響いた。

「……時間だ。準備しろ」

 マクシムは小さく頷き、静かに立ち上がる。ソフィーは彼を見守りながら、一歩下がってその背を受け止めるように視線を送った。彼は静かに足を踏み出し、牢獄の重い扉へと向かう。彼の背中は揺るぎない覚悟で満たされていた。しかし、ソフィーはその一歩一歩を見送ることができず胸の奥に込み上げる感情を抑えきれなかった。

「隊長——!」

 ソフィーの声が震えて、牢内に響いた。マクシムがゆっくりと振り返ると、ソフィーは一気に駆け寄って彼に抱きついた。一瞬の驚きのあと、マクシムは静かに腕を回した。

「……ソフィー」

「……無理でした。行くのを、黙って見てるなんて……」

 マクシムは彼女の背を優しく撫でて息を吐く。

「ソフィー……ひとつだけ頼みがある」

 マクシムの声は震えていない。けれど胸の奥に秘めた切実な想いが、言葉の端々に滲む。

「……生きてくれ。それだけは、絶対だ」

 ソフィーは唇をかみ、しばらく沈黙してから答えた。

「……私は、隊長に生きてほしかったです。もっと…世界を見てほしかった」

 彼女の声は震えて、でも真摯で胸の内にある率直な願いがそのまま伝わる。

 マクシムは小さく首を振って語る。

「あの嵐の日、君を突き飛ばしたのは巻き込みたくなかったからだ。君には……海軍じゃなくても、生きられる未来があるって思いたかった」

「だったら……そう言ってください」

「……悪かった。ほんとに……すまない」

 マクシムは深く息を吸い込み、もう一度強く抱きしめる。

「ソフィー。この先、何があっても生きろ」

 その言葉は命令じゃなく、祈りだった。

 ソフィーは涙をこぼしながら、それでも微笑んだ。胸の奥が不思議なほど静かに満たされていく。しばらく彼の胸に顔を埋めたまま、やがてゆっくりと顔を上げる。

「……もし、天国とか地獄とかがあって、あなたがどこか下のほうに行っちゃったとしても……そのときは、私が引っ張り上げますから。だから……心配しないでください。私、ちゃんと覚えてます。あなたのこと。最後まで……信じてます。……ありがとう。隊長……じゃなくて」

 ソフィーは少し迷って、彼の瞳をまっすぐ見つめてから口にする。

「マクシミリアン」

 マクシムの喉がわずかに鳴った。

「……『マクシム』でいい」

 ソフィーは一瞬、目を見開いてからゆっくり微笑む。

「……うん。マクシム」

 ソフィーの一言で彼の心は音を立てて崩れた。マクシムはそっと距離を詰め、ソフィーの前髪を払って額に軽く唇を触れさせる。

「……ありがとう、ソフィー」

 マクシムは少し照れながらも、真剣に言葉を紡ぐ。

「その言葉があれば……もう十分だ。君がどこかで生きてると思えるなら、おれは……ちゃんと歩ける。君が生きてる限り、おれの心は自由だ」

 ソフィーは涙を拭わず、そのまま微笑んだ。

「じゃあ……また、どこかで会いましょう。そのときは、ちゃんと笑って」

 マクシムは彼女の手を握る。

「……生きろ、ソフィー。何があっても。絶対にだ」

「……うん。ちゃんと、生きます」

 その瞬間、監視官が近づいてきて低い声を落とした。

「時間だ。離れろ」

 引き離される直前、二人は互いの名前を呼ぶ。

「ソフィー!」

「マクシム!」

 次の瞬間、腕を掴まれ、無情に距離が生まれる。廊下へ押し出されながら、マクシムは振り返らずに言った。

「……一人で歩ける」

 監視官が力を緩める。マクシムは深く息を吸い、まっすぐ前を向いて歩き出した。冷たい床。反響する足音。孤独はある。だが、もう折れない。

 牢に残されたソフィーは壁に手をつき、静かに背筋を伸ばす。

 ——見届ける。

 怖くても、目を逸らさない。

「……忘れません。隊長……マクシムのこと」

 声は震えていたが、逃げてはいなかった。

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