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第三章① ソフィー

 朝の海は静かに凪いでいた。

 潮の香りを含んだ風に髪を揺らしながら、ソフィーはブレスト城の高台から石畳を歩く。

 重苦しい戦の余韻をようやく抜け出しつつある自分を感じていた、そのとき。

「お願いします! 弟子にしてください、マテオさん!」

 やけに張りのある声が下の方から響きわたった。

 見下ろすとジョルジュが身振り手振りで食い下がっている。

 唐突な頼みにマテオはあからさまに眉をひそめた。彼は銃を肩から下ろすと鼻で笑うように言い放つ。

「……は? 誰だお前。なんでオレがわざわざそんなことしなきゃなんねえんだよ」

 ばっさり。風の冷たさよりも鋭い拒絶の言葉に、ソフィーは思わず口元を押さえた。

 ジョルジュはなおも食い下がるように一歩前へ出た。

「マテオさん! 弟子にしてください!」

「しつけえな」

「じゃあ、せめて銃を構える姿勢だけでも教えてください!」

「断る」

「走り方は!?」

「断る」

「じゃあご飯一緒に食べましょう!」

「断る。もういい、オレは帰る」

「はい! ボクも帰ります!」

「……お前の『帰る』はオレと一緒に帰るって意味か?」

「もちろんです!」

「……っざけんな」

 マテオは片眉を上げ、心底うんざりしたように肩をすくめる。

「ボク、銃の腕を上げたいんです! あんたみたいになりたい!」

「勝手に憧れんな。やめとけ」

 素っ気なく背を向けるマテオ。だがジョルジュは子犬のように必死についていく。

「お願いしますってば! 一日一発でも教えてください!」

「着いてくんな、帰れ!」

 何度振り払ってもジョルジュは全く諦めない。その押しの強さ、マテオの眉間にはますます深いしわが刻まれていった。やがてマテオは大きくあくびを噛み殺し、投げやりに言い放つ。

「……もういい。オレは寝る」

 そう言ってスタスタと歩き出す。だがジョルジュはまるで当然のようにその背中を追いかけていった。

「寝るなら一緒に番をします! ボク、根性なら誰にも負けませんから!」

「お前、ほんと鬱陶しいな」

「ボクは諦めません。弟子にしてください!」

「やだ」

「一秒で即答!? 理由を聞かせてください!」

「理由? ……お前が気に食わねえからだ」

「ひどい!!」

「だいたいガキなんて論外だ」

「ボクはガキじゃありません!見ててください、きっと役に立ちますから!」

「勝手にしろ。オレは何も教えねえからな」

「ありがとうございます!」

「いや、断ってんだろ!?」

 ソフィーは柵に寄りかかり、そんな二人を遠目に眺める。

「なんなの、あの二人。師匠と弟子っていうより、迷惑かける犬と困ってる飼い主じゃない?」

「……全くだな」

 不意に背後から声がした。振り返れば、そこに立っていたのはルキフェル。顔の傷はずっと変わらない。けれど、その眼差しは違っていた。復讐に憑かれていた頃の荒々しさは消え失せ、今はただ穏やかに光を宿している。

 ——同じ顔なのに。別人のように見える。

 ソフィーの胸が一瞬、強く縮む。けれどすぐに、心の奥から安堵が広がっていった。

「元気か、ソフィー」

 あの低く響いていた声は以前より柔らかく凛として、右腕を軽く吊るす姿勢がまだ骨折の影響を感じさせた。ソフィーは一歩近づき、息を吐くように言った。

「なんか、変わったね。初めて見る顔……でも安心」

 ルキフェルは軽く肩をすくめ、目を細める。

「俺も、やっと落ち着いた。……腕はまだ痛むが」

 片手で骨折した右腕をかばいながら、わずかに苦笑した。

「……隊長は、どうしてる?」

 ソフィーが訊くとルキフェルの瞳が少し陰を帯びる。

「牢の中でじっと耐えている。だが、あいつなら乗り越えられるだろう」

 ルキフェルの言葉には淡い安堵と信頼が混じっていた。ソフィーは小さく頷き、春の光を浴びた海を見つめる。

「……よかった。二人とも、生きてて」

 ルキフェルは笑みを浮かべ、軽く頭を振る。

「けど、俺もまだ完璧じゃない。無理は禁物だ」

 ルキフェルは海の方を見つめながらぽつりと訊いた。

「……マクシミリアンに会いに行かないのか?」

 ソフィーは小さく首を振る。

「禁止されてるから、できない」

 ルキフェルは肩をすくめ、背を向ける。

「そうか。じゃ、俺は大元帥に会ってくる」

 ルキフェルがゆっくりと高台を降り始め、ソフィーは思わず声をかけた。

「ずいぶん頼りにされてるんだね」

 ルキフェルは立ち止まり、背をソフィーに向けたまま少し黙る。そして、意味深にひと言。

「……まあな」

 その背中が視界から消えると海風だけが静かに顔を撫でた。

 ソフィーはその場に立ち尽くし、少しだけ肩の力を抜く。

 目の前の海は波音とともに淡い光を反射して揺れている。

 何も変わっていない世界の中で、でも自分の胸の内は静かで温かい。



 今日、ブレスト城の高台で久しぶりに海を見た。

 冷たい風の中でジョルジュとマテオのくだらないやり取りも目にしたけれど、あれはあれで心が少し和んだ。でも、胸に残ったのはやっぱりあの戦いのこと。

 マクシミリアン・ブーケ隊による襲撃。誰かを守れたかどうか、悔しさが胸を締めつける。

 そしてあの戦いで命を落としたグウェナエル。満身創痍になりながらも約束を覚えて果たしてくれたこと、そして私にささやいたあの言葉。彼の想いを知れたことで、少し自分に自信が持てそうな気がする。

 彼の覚悟が私の追い風になってくれる。今頃、エトルタの地で安らかに眠っているだろう。

 ルキフェルも、今日は穏やかだった。右腕はまだ骨折したままだけど、あの人の背中を見ると私まで落ち着いてくる。

 今後どうなるかなんて、正直わからない。怖いし、前に進むしかないとわかっていても心臓がぎゅっとなる。でも、こうして書き残すことで少しずつ整理できる気がする。



 ソフィーは日記を閉じると深いため息をひとつつき、ベッドに身を投げ出した。伸びをすると、肩や背中の筋肉がじわりとほぐれていく。

 静かなノック音が響いた。立ち上がり扉を開けると、そこにはアルフォンスが立っていた。いつもの穏やかな面影は残るが、どこか複雑そうな表情が浮かんでいる。

「どうしましたか?」

 ソフィーが訊ねると、アルフォンスは少し間を置いてから淡々と口を開いた。

「今すぐ荷物をまとめてください」

「え……なぜですか?」

「トゥーロンに行くことになりました。襲撃事件の関係者全員です。マクシミリアン隊、海賊たち、そして我々総司令部もトゥーロンに出向しなくてはなりません」

「トゥーロンで、何が待ち受けているんですか……?」

 ソフィーの声に微かな緊張が混じる。アルフォンスは短く一言、重みを帯びた声で告げた。

「裁判です」

 その言葉に、ソフィーの胸の奥で小さなざわめきが立ち上がった。



 海軍大元帥閣下


 このたび報告にあった襲撃事件の件に関し、王国はその重大性を深く憂慮せざるを得ない。

 襲撃事件において首謀行為を行った部隊員全員、ならびに背後に暗躍した海賊および生粋の犯罪者たちは、王国の法に照らし厳正に裁かれるべき者である。

 つきましては、閣下および海軍総司令部は王国を代表し被害者の立場に立つ者として、直ちにトゥーロンへ赴き、当該罪人たちを裁判にかけること。遅滞、あるいは履行の怠りは断じて許されぬ。


 本件は王国の治安、海軍の威信、そして法の正義に関わる重大事である。

 閣下ならびに総司令部は、最大の注意と責任をもってこれに対処されたい。


 ここに、王命として通達する。


 フランス王 ルイ二十五世

 ヴェルサイユ宮殿にて



 ブレスト城の門をくぐると、隊員たちは厳重な警備に守られながら港へと歩を進めた。

 街の石畳に響く足音は、これまでの日々の喧騒を思い起こさせるようだった。群衆は少なく、静かな朝の光が水面に反射して街を金色に染めている。

 ソフィーは振り返る。甲板に立ち、手すり越しに波間に揺れる街を目に焼き付けた。

 あの宿舎で笑った日々、中庭での小さな冒険、マクシム隊と過ごした数々の瞬間——すべてが心に染み込んでいる。

「もう、この街としばらく会えないのね」

 船が岸を離れ、風を受けて帆が膨らむ。ブレストの街はだんだんと遠ざかり、海と空の境界が柔らかく溶けていく。

「ブレスト、さよなら」

 誰に言うでもなく、呟く。

 ソフィーは深く息を吸い込んだ。正直、怖かった。それでも、甲板に吹き抜ける海風がどこかで心を落ち着けてくれる。

「怖くても、前に進むしかない」

 帆船はゆっくりと進み、ブレストの街が視界から消えても心の中に残る思い出はいつまでも色褪せないままだった。海は広く、先には未だ見ぬトゥーロンの港。新たな試練が待つその地へ、船は静かに航路を取る。

 ソフィーは牢の格子越しに揺れる三人の姿を見つめた。波の音と帆のざわめきの中、彼女は小さく声をかける。

「……みんな、元気?」

「元気って言っても、こんなとこに押し込まれてるんだから微妙だよ」

 ジョルジュが牢の奥で身を乗り出して返す。目を細めて風を浴びながらも、顔にはどこか無邪気さが残る。

「本当に微妙ね」

 アニータが小さくため息をつき、鉄格子に手を当てる。

「でもソフィー、甲板の風は気持ちいいね。牢の中でも少しだけ、海の匂いが分かる」

「はい、景色も見えますし」

 リゼーヌがじっと海を見つめながら答える。

「でもやっぱり、ここからじゃ波に手が届かないですね」

 ジョルジュが格子に顔を押し付けるようにして、ふざけて言う。

「ほら、ボクの手なら届くかも!」

 ソフィーは思わず笑いをこらえる。

「もう、ジョルジュ……大人しくしてなさい」

「だって退屈なんだ」

 ジョルジュは肩をすくめ、牢の奥でアニータとリゼーヌに向かって手を振る。

「でも、こうして話せるだけでいいかもな」

「そうね……こうして声を聞けるだけで、少し安心する」

 アニータが小さく笑った。

「五日も経てばトゥーロンね。怖いけど、みんなで乗り越えよう」

 ソフィーの声に牢の向こうの三人も小さく頷く。

 波の揺れと船の軋む音の中で甲板と牢の距離はあるものの、確かな絆が静かに交わされていた。

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