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第7話:温泉のその先に

 ドボロク温泉の夜は、思っていた以上ににぎやかだった。


 夕食の席では、各国の屋敷で暮らしている家族が、普段はなかなか話せないことを話していた。


 もちろん、私もその一人だ。


 私はユリ。今はフォーサイド魔法国のリアリス邸で、屋敷の仕事をしている。


 ……と言っても、同じ家族なのだから、どの屋敷にいるかという違いくらいでしかないのだけれど。


 それでも、リアリス様やカトレア様が普段過ごしているシルク王国の屋敷には、少し憧れがあった。


 そこでは、毎日どんなことが起きているのだろう。


 リアリス様は、いつもどんな顔で朝食を召し上がっているのだろう。


 桜花様は、やっぱりリアリス様の隣にいらっしゃるのだろうか。


 ……考えてみれば、知らないことばかりだ。


「ユリ、こちらのお菓子、おいしいですよ」


 同じテーブルにいたアメリアが、小さな焼き菓子を差し出してくれた。


 アメリアはローズ帝国邸で働いている。落ち着いた話し方をするけれど、食べ物の話になると少し目が輝く。


「ありがとう。……あ、本当。いい香りね」


「でしょう? こちらの国の木の実を使っているそうです」


 隣では、オリミス聖国邸のノエルが湯上がりのお茶を楽しんでいた。


 この三人でゆっくり話すのも、久しぶりだった。


 私たちはそれぞれ別の屋敷で暮らしている。


 《簡易転移》で会おうと思えば会えるけれど、仕事の時間が重なるとなかなか難しい。


「こういう旅行、またしたいですね」


 私が言うと、二人とも大きく頷いた。


「ええ。いつもと違う景色を見るだけで、気分が変わります」


「今度は海なんてどうでしょう」


 ノエルの言葉に、私は思わず笑った。


「海ですか? 素敵ですね。でも、急にそんなお休みが取れるかしら」


「……そうですよね」


 そこで、向かいに座っていた王国邸のメイドが顔を上げた。


「海でしたら、私、行ったことがありますよ」


 私たち三人の視線が、ぴたりと止まった。


     ◇


「……海へ?」


 聞き返したのは、私だったと思う。


 王国邸のメイド――エクレアは、少し照れくさそうに笑った。


「はい。以前、サフィリアという町へ」


「お休みに、ですか?」


「いいえ。私、リアリス様のお手伝いとして、巴様と一緒に海へ同行したことがあるんです」


 …………。


 私は、アメリアとノエルの顔を見た。


 二人も、私を見ていた。


 ……お手伝いとして、海へ?


「リアリス様の、お手伝い?」


「そうです。あのときは、私を含めて三人のメイドが同行しました。荷物や飲み物の用意、着替えの確認などをしていたんですよ」


「……三人も」


「はい。リアリス様が、みんなで海を楽しめるようにとおっしゃって」


 エクレアが懐かしそうに目を細める。


「カトレア様も、とても喜んでいらっしゃいました。海を見て、はしゃいでしまわれて」


「……ああ。目に浮かびます」


 私も、思わず微笑んだ。


 カトレア様が、大きな青い海を見たら。


 きっと、両手を広げて笑うだろう。


 ……素敵な光景だ。


「それで、お仕事だけをして帰ったのですか?」


 アメリアが尋ねた。


「いいえ。巴様が、交代で休憩する時間を作ってくださいました。港を歩いたり、お店を見たりしたんです」


「……港を?」


「はい。いろいろな魚が売られていて、面白かったですよ」


 …………。


 そこで私は、ほんの少しだけ考えた。


 お手伝いとして同行する。


 でも、休憩中には海を見たり、港を歩いたりできる。


 しかも、リアリス様やカトレア様と一緒の旅。


 ……それって。


 ものすごく、楽しそうでは?


「海辺では、皆様が気遣ってくださって。私たちも、ずいぶん楽しませていただきました」


 エクレアは、そう言ってお茶を飲んだ。


 ……何ということだろう。


 王国邸には、そんな素敵な出来事があるの?


「ちなみに、リアリス様は普段もよくお出かけになるのですか?」


 ノエルが、いつになく真剣な顔で尋ねた。


「お買い物にはよく出られますよ。カトレア様とお花を見に行かれることもあります」


「……そうなんですね」


「でも、私たちが同行することは、そんなに多くありませんけれど」


 ……最後の一言は、ちゃんと聞こえていた。


 聞こえていたけれど。


 正直、そのときの私は、もう海の話で胸がいっぱいだった。


     ◇


「王国邸って……いいですね」


 気づけば、私がそう呟いていた。


「え?」


 エクレアが目を瞬かせた。


「いえ、その。お仕事をしながら、リアリス様のお出かけにも同行できるなんて」


「ああ。でも、あれは特別な機会で――」


「私も、一度でいいからご一緒してみたいです!」


 今度はノエルが身を乗り出した。


 アメリアも、静かに頷く。


「そうですね。遠い国の屋敷にいると、普段の外出でお目にかかる機会は少ないですから」


 ……うん。


 そうなのだ。


 リアリス様は《転移》でいつでも来てくださる。


 突然訪ねてきて、何か困ったことはないかと尋ねてくださることもある。


 でも、私たちがリアリス様と一緒に出かける機会は、ほとんどない。


 私が今の屋敷で働いているのは、自分で望んだことだ。


 仕事が嫌なわけでも、今の暮らしが不満なわけでもない。


 ……ただ。


 ほんの少しだけ、王国邸が羨ましくなった。


「でしたら、今度こちらへ遊びにいらしてください」


 エクレアが言った。


「王国邸は、いつでもにぎやかですよ」


「遊びに、ですか……」


 ……そう言われると、また少し違う。


 私は、自分でも驚くほど真剣に考え込んでしまった。


 単に遊びに行くのではなく、いつもの暮らしの中に少しだけ加わってみたい。


 巴様のそばで仕事を覚えて、カトレア様のお世話をお手伝いして。


 リアリス様が「出かけよう!」とおっしゃったとき、もし手が空いていれば……。


 ……ああ。


 いけない。


 考えているだけで、顔が緩んでしまう。


「ユリ?」


 アメリアが、私の顔を覗き込んだ。


「……決めました」


「何をですか?」


「私、一度、王国邸で働いてみたいです」


 …………。


 ノエルが、静かに手を上げた。


「……私もです」


 アメリアも、ためらいがちに手を上げる。


「……実は、私も」


 その向かいで、エクレアが困ったように笑っていた。


 おそらく、このときの私たちは、誰一人として予想していなかった。


 この小さな会話が、あとでちょっとした騒動になるなんて。


     ◇


 翌朝。


 私は、昨夜の話を別の屋敷の子にもしてしまった。


「エクレアが、海に行ったんですって」


「海へ? いいですね」


「しかも、リアリス様のお手伝いで同行したそうなの」


「……お手伝い?」


「巴様と三人のメイドで、荷物を用意したり、交代で港を散策したりしたみたい」


「まあ……!」


 …………。


 ここまでは、正確な話だった。


 少なくとも、嘘はついていない。


 ところが、お昼ごろには。


「王国邸で働くと、リアリス様と海へ行けるらしいですね」


「……え?」


 さらに、夕方には。


「王国邸へ移れば、旅行のお手伝いに呼んでいただけるかもしれないそうですよ!」


「……ちょっと待って?」


 翌日には。


「王国邸は、時々お出かけの付き添いがあるんですって」


 …………。


 ……あれ?


 何だか、話がどんどん大きくなっていない?


 もちろん、みんなが勝手に想像していただけで、悪意なんてなかった。


 誰かが「必ず旅行に行ける」と言ったわけでもない。


 それなのに、話しているうちに期待が膨らんでしまったらしい。


 ……いや。


 その一番最初に期待を膨らませたのは、私なのだけれど。


 そんな中、ドボロク温泉旅行が終わり、私たちはいつもの屋敷へ戻った。


 王都に戻ったエクレアからは、さっそくお礼の連絡が来た。


『皆さん、お話できて楽しかったです。またお会いしましょう』


 ……うん。


 私も楽しかった。


 楽しかったのだけれど。


 帰ったあとも、頭の片隅から離れない。


 王国邸。


 リアリス様が普段暮らしている屋敷。


 そこに、私も一度だけでも勤務できたら。


 ……そんなことを考えながら掃除をしていたら、同じところを二回拭いてしまった。


 ……ああ。


 しっかりしないと。


 仕事は仕事。


 今いる屋敷も、私の大切な家なんだから。


 それでも気持ちは消えず、私は思い切って巴様に相談してみることにした。


     ◇


『ユリ。どうしたの?』


 《映像通話》の向こうで、巴様が優しく微笑んでいた。


「お忙しいところ、申し訳ありません」


『大丈夫よ。何か困ったことでもあった?』


「困ったこと、というわけではないんですけれど……」


 ……ああ。


 いざ口にしようとすると、少し緊張する。


 今の屋敷が嫌だと思われたらどうしよう。


 ほかの家族を置いていきたいと思われたらどうしよう。


「私、できれば一度、王国邸でも働いてみたいんです」


『……王国邸で?』


「はい。今のお仕事に不満があるわけではありません。こちらの屋敷も大好きです。ただ、違う屋敷での仕事も覚えてみたくて」


 ……半分は、本当だ。


 もう半分は、海の話を聞いてしまったから。


 それも、正直に伝えた。


「温泉でエクレアから海のお話を聞きまして。私も、リアリス様のお出かけのお手伝いができたら嬉しいなと思ったんです」


 巴様が、ふっと笑った。


『あら。そうだったの』


 ……怒られなかった。


 それだけで、胸の力が少し抜けた。


『ユリ。話してくれてありがとう。こういう希望は、ちゃんと聞いておきたいわ』


「ありがとうございます!」


『ただね、すぐにお返事するのは難しいの。ほかのお屋敷にも、必要なお仕事があるでしょう?』


「はい。それは、もちろん分かっています」


『一度、セバスにも相談してみるわね』


 ……ああ。


 よかった。


 話すだけでも、聞いてもらえたんだ。


 私は深く頭を下げて、通話を終えた。


 ところが。


 その日のうちに、アメリアも同じ相談をしたらしい。


 ノエルも、別の屋敷の子に話をしたという。


 さらに、ほかの国からも希望が届いた。


 ……えっ。


 これ、もしかして。


 私が思っていたより、ずっと大きな話になっているのでは?


 翌日、巴様から連絡が来た。


『ユリ。ちょっと王国邸まで来られるかしら?』


 ……は、はい!


 私は思わず背筋を伸ばした。


     ◇


 王国邸へ向かう《簡易転移》の扉を開けると、見慣れた廊下とは違う空気が流れてきた。


 ……ああ。


 ここが、王国邸。


 何度も来たことはある。


 でも、今日は何だか少し違って見えた。


 巴様に呼ばれて向かった部屋には、セバスもいた。


 私のほかに、アメリアとノエルも来ている。


「三人とも、わざわざありがとうね」


 巴様が、にこやかに迎えてくださった。


「いえ! こちらこそ、お時間をいただいてありがとうございます!」


 ……少し、声が大きくなってしまった。


 セバスが、いつもどおり穏やかな顔で頷いた。


「皆さんのご希望は、巴から伺っております」


 ……おお。


 何となく、面接みたいだ。


 ……いや。


 家族同士の相談なんだから、そんなに緊張しなくてもいいはず。


「まず、皆さんにお尋ねします」


 セバスが、静かに口を開いた。


「現在の担当先でのお仕事に、何か問題はございますか?」


「いいえ!」


 思わず、三人の声が重なった。


 ……おお。


 息が合ってしまった。


「今の屋敷のお仕事も好きです。ただ、ほかの屋敷のことも知りたくて……」


 私が答えると、アメリアも頷いた。


「各国で扱う品物や、来客の対応にも違いがありますから」


「それに……」


 ノエルが、少し言いにくそうに視線を落とした。


「リアリス様やカトレア様と、もう少し一緒に過ごしてみたいんです」


 ……ああ。


 そうだよね。


 結局、私たち三人の気持ちは、そこにある。


 巴様は、そんな私たちを見て優しく笑った。


「ふふ。そうなのね」


 セバスも、驚いた様子は見せなかった。


「承知いたしました。でしたら、問題は勤務先のご希望そのものではなく、業務の引き継ぎでございますね」


 …………。


 ……えっ?


 いま、何と?


「各邸の業務が滞らず、引き継ぎを行えるのであれば、問題はございません」


 ……おお!


 思わず、アメリアの手を握ってしまった。


 彼女も、目を輝かせている。


「ただし、当然ながら、すべての希望を同時に叶えることはできません」


 ……はい。


 それは、分かっております。


 王国邸へ全員で押しかけたら、ほかの屋敷が大変なことになってしまう。


「各邸の人数と仕事量を確認し、順番に交代できるようにいたしましょう。私も調整を手伝います」


 ……ああ。


 セバスって、本当にすごい。


 まだ正式に決まっていないのに、もう解決の道筋が見えてきた気がした。


     ◇


「一つだけ、気をつけてほしいの」


 巴様が、穏やかな声で続けた。


「王国邸へ来るために、今いる屋敷のお仕事を急いで終わらせようとしたり、無理に交代したりしないでね」


「もちろんです」


 私は、すぐに答えた。


「今のお仕事も、最後まできちんと引き継ぎます」


 アメリアもノエルも頷いた。


「それなら、安心ね」


 セバスが、机に置かれた紙を指した。


 そこには、各邸で行っている仕事が整理されていた。


 食事の支度や部屋の手入れ、庭の管理。


 雑貨屋の補充や、お客さんへの対応。


 ……ああ。


 こうして並べてみると、思っていた以上にたくさんある。


 私たちホムンクルスは、リアリス様に造っていただいた家族だ。


 できることは多い。


 でも、どの屋敷にもその屋敷の日常があって、顔なじみのお客様もいる。


 仕事の順番や、ちょっとした習慣だって違うのだ。


「最初は、同じ仕事を担当する者同士で引き継ぐのがよいでしょう」


 セバスの言葉に、巴様が頷く。


「ええ。大きく入れ替えるんじゃなくて、少しずつね」


「学校で教えている家族は、今回の交代には含めません。子供たちの授業もございますので」


 ……それも、そうだ。


 アンナたちのように、各国の学校を任されている家族まで急に交代したら、子供たちが困る。


 ……うん。


 何より、あの子たちはあの子たちの仕事がある。


 私たちの相談に巻き込む必要はない。


「各邸の護衛と通常業務を維持しつつ、順番に経験していただく形にいたしましょう」


「ありがとうございます!」


 私たちは、揃って頭を下げた。


 ……おお。


 これなら、希望が叶うかもしれない。


 しかも、ほかの屋敷の仕事も覚えられる。


 ただ遊びに行くだけじゃなく、ちゃんと新しい経験にもなるんだ。


 そう考えたら、ますます楽しみになってきた。


「では、最後に旦那様のご了解をいただきましょう」


 …………。


 ……あっ。


 そうだった。


 そもそも、リアリス様にはまだ話していなかったんだ。


     ◇


 それからしばらくして。


 私たちは、王国邸の食堂でリアリス様を待つことになった。


 ……緊張する。


 仕事の相談なら、普段から何度もしている。


 でも、今日は少し違う。


 何しろ、私たちの希望を直接聞いていただくのだ。


 隣で、ノエルが小さく息を吐いた。


「……大丈夫でしょうか」


「きっと、大丈夫よ」


 アメリアが静かに励ます。


 ……うん。


 私も、そう思う。


 だけど、胸がどきどきするのは止められなかった。


「お待たせしましたー!」


 明るい声とともに、リアリス様が食堂へ入ってきた。


 桜花様も、その隣にいらっしゃる。


「巴さん、セバス。相談があるって聞いたけど……あれ?」


 リアリス様が、私たちを見た。


「ユリたちも来てたんだ。こんにちは!」


「こ、こんにちは、リアリス様!」


 ……おお。


 名前を呼んでいただいただけで、嬉しい。


 落ち着いて。


 今日は、ちゃんと説明しなきゃ。


 巴様が、これまでの経緯を話してくださった。


 温泉旅行で、以前の海への同行の話が広まったこと。


 王国邸で働いてみたいと希望する子が増えたこと。


 セバスと相談し、各国の屋敷で仕事をローテーションする案を考えたこと。


 リアリス様は、真剣に聞いていた。


 ところどころで頷き、時折「なるほど」と呟く。


 ……ああ。


 ちゃんと、私たちの希望として受け止めてくださっている。


「それで、リアリスちゃん。みんなの勤務先を交代できるようにしてもいいかしら?」


「うん! みんながそれを望んでるなら、もちろんいいですよ!」


 …………。


 ……えっ。


 思っていたより、あっさり!


「お仕事の引き継ぎは大丈夫そう?」


「はい、旦那様。そこは私と巴で調整いたします」


「じゃあ、問題ないね!」


 リアリス様が、にっこり笑った。


「同じ家族なんだから、どこの屋敷で働いてもいいと思うよ。無理しないで、みんなの希望を聞いてあげてください」


 ……ああ。


 やっぱり、リアリス様だ。


 私たちは顔を見合わせ、揃って頭を下げた。


「ありがとうございます!」


「どういたしまして!」


 ……うん。


 こんなに簡単に認めていただけるなら、もっと早く相談してもよかったのかもしれない。


 ……いや。


 そもそも海の話を聞くまでは、思いつかなかったんだけどね。


     ◇


 ところが。


「ところで、王国邸で働くと、海に行けるって噂なんだよね?」


 リアリス様が、少し不思議そうに首を傾げた。


 …………。


 ……あっ。


 その話も、全部伝わっていた!


「えっと……はい。エクレアから、サフィリアの話を聞きまして……」


「そっかぁ。でも、あれはたまたま海へ行くことになったからで、そんなに毎回旅行に行ってるわけじゃないんだよね」


 …………。


 ……そう、ですよね。


「この間も温泉に行ったばかりだし、次に泊まりがけで出かけるのがいつになるかは、分からないかな」


 ……はい。


 分かっていた。


 分かっていたのだけれど。


 少しだけ、胸がしゅんとした。


 隣を見ると、ノエルも同じような顔をしている。


 アメリアは、相変わらず落ち着いていたけれど、手元の指がほんの少し止まっていた。


「……あの」


 私は、そっと手を上げた。


「ん?」


「もちろん、毎回連れていっていただけるとは思っておりません。王国邸でのお仕事を経験できるだけでも、嬉しいです」


「そっか。ならよかった!」


 リアリス様が、安心したように笑った。


 ……ああ。


 この方は、私たちが何か不満を抱いていると思われたのかもしれない。


 そんなつもりは、少しもない。


 今の屋敷も、家族も、仕事も大切だ。


 ただ。


 たまには、リアリス様たちと同じ景色を見たい。


 それだけなのだ。


「もしお手伝いが必要になったら、よろしくね」


「はい!」


 ……それだけで、十分。


 私たちは、嬉しくなって頷いた。


 そうして話は、ひとまずまとまった。


 ……はずだった。


 けれど。


 巴様は、私たちの小さな落胆を、見逃していなかった。


     ◇


「リアリスちゃん。もう一つ、お願いしてもいい?」


 巴様が、少し考えるように口を開いた。


「はい。何でしょう?」


「危なくない場所へお散歩やお買い物に行くとき、メイドを一人、お世話係として連れていってあげられないかしら」


 …………。


 ……えっ。


 私は、思わず顔を上げた。


「お世話係?」


 リアリス様が、首を傾げる。


「ええ。カトレアちゃんも一緒に行けるような、安全なお出かけだけでいいの」


「……なるほど」


「荷物を持ったり、買い物を手伝ったり。そういう小さなことでも、みんなにはいい気分転換になるでしょう?」


 …………。


 ……ああ。


 巴様。


 そこまで、考えてくださっていたんだ。


 私たちは、何も言えずに耳を傾けた。


「もちろん、外に出るときは仕事を調整して、戻ったあとも無理がないようにするわ。せっかくなら、行った先のお店を見たり、お茶を飲んだりする時間も作ってあげたいの」


 リアリス様が、ぱっと顔を明るくした。


「それ、いいですね!」


 ……おお。


 即答!


「カトレアも、お散歩は大好きだし。みんなと一緒なら、もっと楽しいかもしれないね」


「そうでしょう?」


 巴様が、嬉しそうに頷いた。


 ……ああ。


 このお二人の会話、聞いているだけで胸が温かくなる。


「それとね。カトレアちゃんとお泊まりで出かけるときは、三人くらい連れていってあげられないかしら」


「三人ですか?」


「ええ。着替えや荷物の準備もあるし、交代で休めるでしょう? 一人だけに任せるより、みんなも楽しめると思うの」


 リアリス様は、少しだけ考えてから頷いた。


「うん。いいと思います! みんながそれを望んでるなら、ぜひ!」


 …………。


 ……ええっ!?


 お泊まりも?


 三人で?


 私たちは、思わず顔を見合わせた。


 海の旅行と、同じだ。


 ……いや。


 海の旅行の話を聞いて始まったのだから、当然なのかもしれない。


 それでも。


 まさか、こんなに早く話が決まるなんて!


     ◇


「ただし、危ない場所は今までどおり桜花と私で行くからね」


 リアリス様が、きちんと言葉を付け加えた。


「冒険者の仕事とか、魔獣がいるところに連れていくわけじゃないよ。カトレアが安心して行けるお散歩やお買い物、それから安全な旅行だけ」


「もちろんです!」


 私は、勢いよく返事をしてしまった。


 ……あっ。


 少し大きすぎたかな。


 でも、嬉しい。


 私たちだって、危険な仕事に無理についていきたいわけじゃない。


 楽しい時間を、少しだけ一緒に過ごしてみたいだけなのだ。


「セバス。そういう形で、お願いしてもいい?」


「かしこまりました、旦那様。同行者は各邸の業務を確認したうえで、希望者の中から選ぶようにいたします」


「ありがとう!」


「また、移動先での休息も確保いたしましょう。あくまで、ご負担の少ない外出に限ります」


「うんうん。せっかくなら、みんなにも楽しんでもらいたいしね」


 ……ああ。


 嬉しい。


 思わず笑ってしまった。


 ノエルも、今度は隠さずに喜んでいる。


 アメリアは少しだけ目を細め、私の手をそっと握った。


 ……よかったね。


 そんな気持ちが、指先から伝わってきた。


「……でも」


 リアリス様が、そこで小さく首を傾げた。


「そんなに頻繁にお出かけするわけでもないのに、みんなで希望すると大変じゃない?」


 …………。


 ……あっ。


 確かに。


 今回、王国邸で働きたいと希望した子は、思っていた以上に多い。


 そこへ、日帰りなら一人、お泊まりなら三人。


 ……人数が合わない。


 どう考えても、希望者の方が多い。


 セバスは落ち着いた表情を崩さなかった。


「そこは、こちらで公平に調整いたします」


 ……おお。


 さすが。


 このときの私は、まだ知らなかった。


 その「公平な調整」という言葉が、あとでどんな光景を生み出すのかを。


     ◇


 最初のローテーションが始まったのは、それから少ししてのことだった。


 私は、自分の希望が通って、王国邸へ移ることになった。


 ……おお。


 いよいよだ!


 もちろん、すぐに荷物を持って移動したわけではない。


 フォーサイド邸の仕事を、交代する子へ引き継ぐ必要がある。


 使っている道具の場所。


 お客様から頼まれることの多い品物。


 日々の掃除の順番。


 料理の準備で気をつけていること。


 ……うん。


 いつも当たり前にやっていた仕事って、こうして人に説明すると意外と多いものだ。


「こちらの棚は、補充する順番が決まっているのよ」


「分かりました。先に使うものが手前なんですね」


「そう。あと、この時間はお客様がいらっしゃることが多いから――」


 ……おお。


 ちゃんと伝えなきゃ。


 自分がいなくなったあと、困る人がいたらいけないものね。


 交代する子も、真面目に話を聞いてくれた。


 その姿を見て、少しだけ寂しくなった。


 私は今まで、この屋敷で暮らしてきた。


 いつも一緒に働いていた家族もいる。


 慣れた廊下や、窓から見える景色だって好きだ。


「ユリ。王国邸でも、楽しんできてくださいね」


 引き継ぎの最後に、交代する子が笑った。


「……ありがとう。こっちのこと、よろしくね」


「はい!」


 ……うん。


 大丈夫。


 どこの屋敷へ行っても、私たちは家族だ。


 《簡易転移》の扉で、またいつでも会える。


 それでも、その日、少しだけ胸が熱くなったのは本当だった。


     ◇


 王国邸での仕事は、思っていたよりずっと忙しかった。


 ……いや。


 忙しいというより、にぎやか、と言った方が近いだろうか。


 朝はカトレア様が元気に挨拶してくださる。


 桜花様は、いつもリアリス様のそばにいらっしゃる。


 巴様の料理の香りが食堂に広がり、セバスは落ち着いた声で一日の予定を確認している。


 そして。


「おはよう、ユリ!」


 リアリス様が、私の名前を呼んでくださった。


「お、おはようございます!」


 ……ああ。


 これだ。


 王国邸に来てよかった。


 ……いやいや。


 もちろん、仕事をするために来たんだから!


 私は、急いで気持ちを切り替えた。


 掃除の手順を教わり、食事の支度を手伝う。


 雑貨屋へ届ける品物の確認もある。


 思いのほか覚えることが多くて、初日はあっという間に過ぎた。


「ユリ。疲れていない?」


 夕方、巴様が声をかけてくださった。


「大丈夫です! とても勉強になります」


「そう。よかったわ」


 巴様が笑った。


「お仕事を覚えるのも大切だけど、張り切りすぎないでね」


「はい!」


 ……うん。


 どこの屋敷でも、巴様は巴様だ。


 優しくて、頼りになる。


 そして、少しだけお母さんみたい。


 ……あっ。


 これは、本人には言わないでおこう。


 その夜。


 王国邸のメイドたちが集まる部屋で、私はエクレアに再会した。


「ユリ! とうとう来られたんですね!」


「うん。まだ仕事を覚えている途中だけど」


「どうです? 王国邸は」


「……毎日が新鮮よ」


 エクレアが、嬉しそうに笑った。


 ……ああ。


 この子の海の話から、全部始まったんだった。


「それでね、ユリ」


「ん?」


 エクレアが、急に声をひそめた。


「実は、少しだけ大事な話があります」


 …………。


 ……大事な話?


     ◇


 エクレアに連れていかれたのは、王国邸のとある部屋だった。


 中には、何人かのメイドが集まっている。


 みんな真剣な顔をしていた。


 ……えっ。


 何かの会議?


「今日の候補者は、こちらの方々です」


 エクレアが、静かに言った。


「……候補者?」


「はい。今度、リアリス様がカトレア様と王都へ買い物に行かれるそうなんです」


 …………。


 ……おお!


 いよいよ、あの話が!


「そのときの、お世話係を一人決めます」


「……一人」


「そうです。希望する方が、何人かいまして」


 部屋の中を見る。


 ……いる。


 確かに、何人もいる。


 しかも、全員がものすごく真剣だ。


「セバスからは、まず仕事の予定を確認して、無理のない方の中で公平に決めるようにと」


 ……うん。


 それは、当然だ。


「それで、どうやって決めるの?」


 私が尋ねると、エクレアが微笑んだ。


「じゃんけんです」


 …………。


 ……えっ?


「じゃんけん?」


「はい。リアリス様が以前、遊び方を教えてくださったんです。公平ですし、すぐに決まりますから」


 ……なるほど。


 確かに、誰でも同じ条件で勝負できる。


 ……いや。


 待って。


 この部屋の空気、何だか普通のじゃんけんじゃないぞ。


 私がそう思ったとき。


「では、始めます」


 エクレアが、すっと手を上げた。


 ほかのみんなも、背筋を伸ばす。


「最初は――」


 …………。


「グー!」


 何人もの声が、揃って響いた。


「じゃんけん!」


「ぽん!」


 …………。


 ……おおお!?


 こんなに気合いの入ったじゃんけん、初めて見た!


 勝った子が小さく拳を握り、負けた子がその場で肩を落とす。


 でも、次の瞬間にはみんな笑っていた。


 ……ああ。


 真剣だけど、楽しいんだね。


「ユリも、参加します?」


 エクレアが尋ねた。


 私は、自分の手を見た。


 ……参加。


 つまり、勝てば。


 リアリス様のお買い物に、一緒に行ける。


「……もちろん!」


 私は、勢いよく手を上げた。


     ◇


 結果から言うと。


 ……負けた。


 しかも、あっさり。


 最初の勝負では勝ったのに、次で見事に負けてしまった。


 ……ああ。


 残念。


 もう少し、いけると思ったんだけどなぁ。


「ユリ、惜しかったですね」


 エクレアが慰めてくれた。


「うん。でも、勝った子は?」


 部屋の向こうでは、ひとりのメイドが両手で口元を押さえていた。


「……私、ですか?」


 周りのみんなが、笑顔で頷く。


「おめでとう!」


「いってらっしゃい!」


「お土産話、聞かせてくださいね!」


 勝った子は、何度も頭を下げていた。


「ありがとうございます! お仕事も、ちゃんと頑張ります!」


 ……ああ。


 よかったね。


 少し羨ましいけれど、嫌な気持ちはなかった。


 私も、もし勝っていたら同じように喜んでいたと思う。


 それに、今回負けたからといって、次の機会がなくなるわけじゃない。


 仕事の予定が合えば、また希望できる。


 ……うん。


 楽しみが増えたと思えばいいよね。


 ところが。


 翌朝、廊下でリアリス様に会ったとき。


「おはよう、ユリ!」


「おはようございます!」


「今度のお買い物、一人メイドさんが来てくれるんだってね」


「はい!」


「せっかくだし、お菓子でも食べて帰ろうと思ってるんだ。みんなが喜んでくれるといいなぁ」


 …………。


 ……ああ。


 やっぱり、行きたかった!


 私は、何とか笑顔を保った。


「きっと、とても喜ばれると思います」


「そうだといいな!」


 リアリス様は、何も知らずに笑っていた。


 ……そう。


 あの部屋で、あんなに熱い勝負があったことを。


 きっと、想像もしていらっしゃらない。


 ……ふふ。


 それはそれで、少し面白かった。


     ◇


 買い物に同行した子が戻ってきたのは、その日の夕方だった。


 もちろん、きちんとお仕事を終えてから。


 そして、私たちはさっそく話を聞いた。


「どうだった?」


「何を買ったの?」


「リアリス様とカトレア様は、楽しそうでした?」


 ……あっ。


 質問が多い!


 自分で聞いておいて、少し笑ってしまう。


「皆様、とてもお元気でしたよ。お花のお店に行って、カトレア様が新しい種を選ばれたんです」


「……お花!」


「そのあと、お菓子のお店にも寄りました。リアリス様が、みんなで好きなものを選ぼうっておっしゃって」


 …………。


 ……やっぱり。


 楽しそうだ!


「もちろん、荷物を持ったり、買ったものをまとめたりもしました。でも、途中でお茶を飲む時間もいただけて」


「……お茶まで」


「はい。カトレア様が、私にもお菓子を選んでくださったんです」


 その子が、小さく微笑んだ。


「『一緒に食べようね』って」


 ……ああ。


 胸が、ふわっと温かくなる。


 カトレア様らしい。


 リアリス様も、きっと嬉しそうに見守っていらしたのだろう。


「それで、帰りにリアリス様が『今日はありがとう』って」


 …………。


 ……ああ。


 駄目だ。


 羨ましい。


 羨ましいけど、ものすごく嬉しい話でもある。


「よかったね」


 私が言うと、その子は大きく頷いた。


「はい! 本当に!」


 エクレアが、手元の予定表へ小さく印をつけた。


「では、次の機会は、まだ同行していない希望者を優先できるようにしましょう」


 ……おお。


 ちゃんと考えてくれてるんだ。


「もちろん、お仕事が調整できる方からですが」


「うん。それでいいと思う」


 私は、素直に頷いた。


 勝ち負けで笑うのも楽しい。


 でも、誰か一人だけが何度も出かけてしまったら、ほかのみんなが寂しい。


 ……それは、何だか違う気がする。


 みんな、同じ家族なんだから。


     ◇


 それから少しして。


 私は、王国邸での仕事にすっかり慣れてきた。


 最初は教えてもらってばかりだったけれど、今では自分から次の仕事を探せるようになった。


 ……うん。


 嬉しい。


 ローテーションをお願いして、本当によかった。


 別の国から来た子とも、いろいろ話せる。


 フォーサイド邸では知らなかったお客様の好みも覚えた。


 何より、カトレア様が私の名前を覚えてくださった。


「ユリ!」


「はい、カトレア様」


「このお花、知ってる?」


 小さな手の中には、庭で見つけた花があった。


「……見たことはありますけれど、名前までは」


「そっか! じゃあ、一緒に調べよう!」


 …………。


 ……ああ。


 こんなことが、日常になるんだ。


 カトレア様は、私の返事を待たずに花の記録帳を開いた。


 そばには、楓が静かに立っている。


「楓、この前のお花、どこに描いたっけ?」


 楓が、ページの端を指さした。


「……ここ」


「ありがとう!」


 ……うん。


 仲がいいなぁ。


 私は、二人の邪魔をしないように、少しだけ離れて見守った。


 そこへ、リアリス様がやってきた。


「カトレア、何してるの?」


「ユリと楓と、お花調べてる!」


「おお、いいね!」


 リアリス様が、私にも微笑んだ。


「ユリも付き合ってくれてありがとう」


「いえ。私も、とても楽しいです」


「そっか! それならよかった」


 ……ああ。


 こんな何気ないやり取りだけで、満足してしまいそう。


 この屋敷には、旅行とはまた違う楽しみがある。


 そんなことを、少しずつ知り始めていた。


 ……とはいえ。


 あのじゃんけん大会への参加を、やめるつもりはなかったけれど。


     ◇


 ある日のこと。


 巴様から、新しい知らせがあった。


「今度、リアリスちゃんたちが一泊だけお出かけすることになったの」


 …………。


 私は、手に持っていた布巾を落としかけた。


 ……一泊!?


「カトレアちゃんも一緒だから、メイドを三人お願いする予定よ」


 …………。


 ……三人!


 私は、何とか平静を保った。


「ど、どちらへ行かれるのですか?」


「王国内の、湖のそばにある小さなお宿よ。危ない場所を通る予定もないし、リアリスちゃんと桜花ちゃんが一緒だから安心ね」


 ……ああ。


 湖!


 宿!


 お泊まり!


 ……これは。


 どう考えても、参加したい。


「お仕事の都合がつく子の中から、三人選ぶことになっているわ」


「はい!」


「でもね、無理はしないでね。今の仕事をきちんと終えてからよ」


「もちろんです!」


 ……うん。


 ちゃんとお仕事をしてから。


 それが、最初の約束だもの。


 私は急いでその日の予定を確認し、必要な仕事を整理した。


 ……よし。


 特に急ぎの仕事はない。


 引き継ぎもできる。


 ほかの子へ無理をさせる必要もなさそうだ。


 ……つまり。


 私は、希望者として手を挙げられる!


 その夜。


 例の部屋に、再び希望者が集まった。


 前回より少しだけ、人数が多い。


 ……あれ?


 みんな、どこで聞いたんだろう。


「今回は、三人です」


 エクレアが、静かに言った。


 部屋に、緊張が走る。


「前回、同行した方は、今回の候補からは外れていただいています。お仕事の調整ができる方の中で、三人を決めましょう」


 ……うん。


 公平。


 それはいい。


 でも。


 ……勝ちたい。


 ものすごく、勝ちたい!


     ◇


 並んだ私たちは、互いの顔を見合わせた。


 普段なら、何でも助け合う家族だ。


 忙しい子がいれば、手伝う。


 困っている子がいれば、声をかける。


 仕事の失敗を責めることなんてない。


 ……それなのに。


 今だけは。


 負けられない!


「準備はよろしいですか?」


 エクレアが、にっこり笑った。


「はい!」


 ……おお。


 返事が、見事に揃った。


「それでは、始めます」


 誰かが、ごくりと息を呑む。


 私も、手を握った。


「最初は、グー!」


「じゃんけん!」


「ぽん!」


 …………。


 ……あっ!


 私は、自分の手を見た。


 ……勝った!


 最初の勝負を、勝ち抜けた!


「おめでとうございます、ユリ!」


 近くの子が、小さく拍手してくれる。


 ……まだ。


 まだ、終わっていない。


 次がある。


 私は、そっと深呼吸した。


 反対側の子が、手を開いたり握ったりしている。


 ……何だろう。


 お互い、ものすごく真剣だ。


 でも、顔を見合わせた瞬間、二人とも笑ってしまった。


「……頑張りましょうね」


「うん。お互いに」


 ……ああ。


 こういうの、好きだなぁ。


 真剣なのに、嫌な気持ちにならない。


 勝った人を、ちゃんと喜べる。


 負けても、また次がある。


 それでも。


「じゃんけん!」


「ぽん!」


 …………。


 ……おおお!


 また勝った!


 もう少し!


 私は、思わず手を握りしめた。


 そして、最後の勝負。


 相手は、少し前に王国邸へ移ってきた子だった。


 互いに、目を合わせる。


「……いきますよ」


「……うん」


「最初は、グー!」


「じゃんけん!」


「ぽん!」


 …………。


 私は、自分の手を見つめた。


 それから、相手の手を見る。


 …………。


 ……勝った?


 ……勝った!


「……やったぁ!」


 思わず、声が出てしまった。


 周りのみんなが、拍手をしてくれる。


「おめでとう!」


「楽しんできてください!」


「お土産話、お願いします!」


 ……ああ。


 何だろう。


 胸がいっぱいだ。


 たかが、じゃんけん。


 ……いや。


 私たちにとっては、されどじゃんけん、なのだ。


     ◇


 こうして、私は三人の同行者の一人に選ばれた。


 あとの二人も、じゃんけんで決まった。


 全員、仕事の引き継ぎが済んでいる。


 ……よし。


 準備は万全!


 それでも、出発の前日は少し落ち着かなかった。


「ユリ。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」


 エクレアが笑った。


「だって、初めてのお泊まりなのよ?」


「そうですね。でも、リアリス様は普段どおりだと思います」


「……そうかな」


「ええ。サフィリアでも、みんなが楽しんでいるか、ずっと気にかけてくださっていました」


 ……ああ。


 そんなお話を聞いたから、私たちは憧れたんだった。


 きっと、大丈夫。


 私はもう一度、荷物の確認をした。


 カトレア様のお着替え。


 小さな手拭い。


 飲み物。


 花の記録帳を入れるための袋。


 ……あっ。


 モフ太のことも忘れてはいけない。


 カトレア様と一緒に、どこへでも行こうとするあの小さな熊。


 旅行でも、きっとぴったりくっついているのだろう。


 翌朝。


 王国邸の庭に集まった私たちを、リアリス様が元気よく迎えてくださった。


「おはよう! みんな、準備はできた?」


「はい!」


 桜花様は、いつものようにリアリス様の隣に立っていた。


 カトレア様は、楽しそうに荷物を抱えている。


「お父さん、湖って大きいの?」


「うん。海ほどじゃないけど、とっても綺麗だって!」


「見たい!」


 ……ああ。


 本当に、楽しそう。


 私は、そっと微笑んだ。


 そのとき、カトレア様が私へ振り向いた。


「ユリも楽しみ?」


「はい、とても!」


「じゃあ、一緒だね!」


 …………。


 ……ああ。


 もう、それだけで十分幸せかもしれない。


 ……いや。


 まだ、出発もしていないのだけれど。


     ◇


 湖畔の宿までは、リアリス様の《転移》で移動した。


 目の前の景色が切り替わった瞬間、私は思わず息を呑んだ。


 ……綺麗。


 広い湖の向こうに、穏やかな山並みが見える。


 風が吹くたび、水面が小さく揺れていた。


「わあっ!」


 カトレア様が、嬉しそうに声を上げた。


「お父さん、お水がきらきら!」


「本当だね!」


 リアリス様も、楽しそうに笑っていらした。


 桜花様は、その二人を静かに見守っている。


 私たち三人は、荷物をまとめ、宿の方へ挨拶をした。


 ……うん。


 ちゃんと、お手伝い。


 荷物を部屋へ運び、飲み物の用意を確認する。


 カトレア様がお着替えを必要とされれば、すぐに出せるようにする。


 でも、それが済むと。


「ユリたちも、ちょっと休もうよ!」


 リアリス様が、私たちを呼んだ。


「えっ。でも、まだ何か――」


「もう大丈夫だよ! せっかく来たんだから、一緒に景色を見よう!」


 ……ああ。


 やっぱり。


 エクレアの話は、本当だった。


 私たちは、カトレア様と一緒に湖のほとりを歩いた。


 桜花様が足元を確認し、リアリス様は水辺に近づきすぎないように声をかけている。


 モフ太も、カトレア様のそばで小さな足を動かしていた。


「ユリ! 見て!」


 カトレア様が、道端に咲く小さな花を指さした。


「可愛いお花ですね」


「うん! 記録帳に描く!」


「では、お持ちいたしますね」


「ありがとう!」


 ……ああ。


 この子と、同じ景色を見られる。


 それが、こんなに嬉しいことだったなんて。


 お昼には、宿で用意してくださった料理を、みんなでいただいた。


 リアリス様が、私たちにも好きなものを選ぶようにとおっしゃる。


「お手伝い、ありがとう! 午後はゆっくりしてね」


「ありがとうございます、リアリス様」


 ……私は、たぶん少し笑いすぎていた。


 でも、今日は許してほしい。


 だって、ずっと楽しみにしていたのだから。


     ◇


 一泊だけの小さな旅は、あっという間だった。


 夜はカトレア様のお着替えを手伝い、翌朝は荷物の確認をした。


 三人で仕事を分けられたので、一人がずっと動き続けることもなかった。


 空いた時間には、宿の庭や湖を眺めた。


 カトレア様が見つけた花の話を聞いて、桜花様と一緒に笑った。


 リアリス様は、私たちにもお菓子を分けてくださった。


 ……本当に、これでいいのだろうか。


 そう思うくらい、楽しい時間だった。


 帰る前に、カトレア様が私の袖を引いた。


「ユリ。楽しかった?」


「はい! とっても楽しかったです」


「よかった! また一緒に行こうね!」


 …………。


 ……ああ。


 もう。


 こんなことを言っていただいたら。


 次のじゃんけん大会にも、絶対に参加したくなってしまうじゃないですか。


 私は、笑って頷いた。


「ぜひ、ご一緒したいです」


 そのあと、リアリス様が私たちへ声をかけてくださった。


「荷物の準備とか、いろいろありがとう。三人とも、楽しめた?」


「はい!」


 ……今度は、三人の声が揃った。


 リアリス様が、少しだけ驚いた顔をする。


「おお。よかった!」


 桜花様も、口元を緩めた。


「リアリス様。皆様、とても楽しんでおられたご様子でございます」


「うん。そうだね!」


 ……ああ。


 私たちも、嬉しい。


 こんなに自然に、家族の時間へ入れていただけることが。


 こうして旅が終わり、私たちは王国邸へ戻った。


 帰ったあとも、湖のきらきらした水面が、しばらく頭から離れなかった。


     ◇


 帰宅した日の夜。


 私は、さっそくみんなに旅の話をすることになった。


 ……あれ。


 何だか、温泉でエクレアの話を聞いたときと、同じ光景だ。


 私の周りには、王国邸で働くメイドたちが集まっていた。


「どうでした?」


「カトレア様は、何を見ていらしたんですか?」


「リアリス様と、どんなお話を?」


 …………。


 ……おお。


 質問が、止まらない。


 私は、できるだけ丁寧に答えた。


 湖がとても綺麗だったこと。


 カトレア様が花を見つけて喜ばれたこと。


 桜花様が、いつもどおり二人を優しく見守っていらしたこと。


 荷物の用意をしたあと、私たちも休ませていただいたこと。


 そして。


「リアリス様が、三人とも楽しめたかと聞いてくださったんです」


 …………。


 ……ああ。


 また、空気が変わった。


「……いいですね」


「私も、いつか」


「次の機会は、ぜひ……!」


 …………。


 ……あっ。


 これは。


 あのときと同じだ。


 今度は、私が海の話をしたエクレアのようになっている。


 私は、思わず笑ってしまった。


「でも、毎回旅行に行けるわけじゃないのよ?」


「分かっています!」


「お仕事があるときは、そちらが先ですものね」


「それでも、一度はご一緒してみたいです」


 ……ああ。


 そうだよね。


 私も、そうだった。


 同じ気持ちだから、よく分かる。


 そのとき、部屋の入口にいたエクレアが、小さく手を上げた。


「皆さん。ちょっとよろしいですか?」


 …………。


 ……あれ。


 また、何か?


     ◇


「次のお散歩について、予定が入りそうなんです」


 …………。


 部屋が、一瞬で静かになった。


「まだ正式には決まっていませんけれど、カトレア様がお花のお店へ行きたいとおっしゃっているそうで」


 ……おお。


 もう次の機会?


 エクレアが、にっこり笑った。


「もちろん、先にお仕事の予定を確認します。同行できるのは、一人だけですからね」


 …………。


 ……一人。


 私は、自分の手を見た。


 今回、私はお泊まりに同行したばかり。


 だから、次はまだ同行していない子に譲ろう。


 そう考えたとき。


「ユリ。今度は、見守っていてくださいね」


 エクレアが、少し楽しそうに言った。


「ええ。もちろん!」


 ……うん。


 分かってる。


 ちゃんと分かっているけれど。


 みんなの顔を見ると、何だか少しだけ笑えてきた。


 あの真剣な表情。


 袖を整える手。


 そして、全員の目が、エクレアへ向けられている。


「では、希望者の皆さん。準備はよろしいですか?」


「はい!」


 ……おお。


 また始まる。


 私は、そっと壁際へ下がった。


 今度は、見守る側だ。


「最初は、グー!」


「じゃんけん!」


「ぽん!」


 …………。


 ……ああ。


 やっぱり、すごい迫力。


 誰かが小さく拳を握り、誰かが悔しそうに肩を落とす。


 でも、最後にはみんな笑っている。


 ……うん。


 こうして、私たちの間に新しい楽しみが増えた。


 もちろん、リアリス様には知られていない。


 たぶん、ご本人は、ただのお買い物だと思っていらっしゃる。


 私たちにとっては、ひとつひとつが大切な機会なのに。


 ……ふふ。


 それも、何だかリアリス様らしい。


     ◇


 翌朝、私はいつもの仕事へ戻った。


 食堂の窓からは、庭で遊ぶカトレア様の姿が見える。


 楓がそばにいて、モフ太は小さな体を丸めていた。


 桜花様が、リアリス様と何か話していらっしゃる。


 ……ああ。


 いつもの王国邸だ。


 旅行が終わっても、特別なことがなくても。


 ここには、みんなの毎日がある。


 私は、この屋敷で覚えた仕事を、次に交代する子へ伝えるつもりだ。


 そして、いつかまたフォーサイド邸へ戻ったら、王国邸で見たことも話してあげよう。


 ……海の話だけじゃなくて。


 カトレア様が花を大切にしていること。


 リアリス様が、名前を呼んで挨拶してくださること。


 桜花様が、いつもその隣で穏やかに微笑んでいらっしゃること。


 巴様が、私たちの小さな希望まで聞いてくださること。


 セバスが、誰にも無理が出ないように仕事を整えてくださること。


 そんな、何気ないことを。


「ユリ、おはよう!」


 廊下の向こうから、リアリス様の声がした。


「おはようございます、リアリス様!」


「今日はいい天気だね。カトレアとちょっと散歩に行こうと思ってるんだ」


「そうなんですね!」


「うん。お花のお店も見たいって言ってたし」


 ……あっ。


 昨日の、あの予定だ。


 私は、思わず口元を緩めた。


「どうしたの?」


「いえ。きっと、楽しいお散歩になりますね」


「うん! そうだといいな!」


 リアリス様は、何も知らずに笑っている。


 ……ああ。


 本当に、何も知らないんだ。


 あの扉の向こうで、すでに壮絶な勝負が繰り広げられたことも。


 今日の同行者が、どれほど楽しみにしているかも。


 ……ふふ。


 まあ、知らないままでいいのかもしれない。


 私たちは、仕事も、家族も、大切にする。


 そのうえで、たまに訪れる小さなお楽しみを、全力で取りにいく。


 ……それくらいの秘密があったって、いいでしょう?


 こうして。


 温泉旅行をきっかけに始まった、各国の屋敷を行き来する新しい日常。


 そして、王国邸のメイドたちだけが知っている、もうひとつの恒例行事。


 ――壮絶なじゃんけん大会。


 それは、これからもひっそりと続いていくことになる。


 ……もちろん。


 次の次くらいには、私もまた参加するつもりだけれど。

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