第5話:みんなそろって温泉へ
数日後。
ついに、この日がやってきた。
……温泉旅行!
朝から、シルク王国邸の庭がにぎやかだ。
各国の屋敷につながる《簡易転移》の扉から、家族が次々と集まってくる。
普段は別々の国で過ごしているみんなが、一度に顔を揃えることなんて、そうそうない。
……うん。
何だか、これだけでもう楽しいね。
「お父さーん!」
振り向くと、カトレアが大きな荷物を両手で抱えていた。
……大きい。
というか、前が見えてないんじゃないかな、それ。
「カトレア、ちょっと待って。何をそんなに持っていくの?」
「お着替えと、お花の記録帳と、お菓子と……あと、これ!」
荷物の上から、猫のぬいぐるみの耳がひょっこり飛び出した。
……ああ。
あの大きなぬいぐるみまで連れていくつもりだったのか。
「カトレア、別荘にもお布団はあるよ?」
「でも、一緒に寝たいの!」
「……そっか」
うん。
それなら仕方ないね!
私がぬいぐるみを受け取ろうとすると、カトレアの足元にいたモフ太が、すっと顔を上げた。
「カトレア。私も一緒に参りますよ」
「うん! モフ太も一緒!」
「……では、そのぬいぐるみは必要なのでしょうか」
…………。
あっ。
もしかして、張り合ってる?
「モフ太も大好きだよ!」
カトレアが、空いた方の腕でモフ太を抱き上げた。
もふっとした小さな熊の体が、嬉しそうに揺れる。
「……恐縮です」
……うん。
よかったね、モフ太。
それにしても、元は全長五メートルの魔獣なのに、今は抱っこされて満足しているんだよね。
人生……いや、熊生って分からないものだなぁ。
◇
「リアリスちゃん、お弁当は要らないのよね?」
玄関から出てきた巴さんが、私に尋ねた。
「はい。ミゲイルさんが、向こうで食事も用意してくださるそうです」
「そう。それなら、今日はお料理のことを考えずに出かけましょうか」
……おお!
巴さんから、そんな言葉が聞けるとは!
「……あら。何か言いたそうね?」
「い、いえ! 何でもありません!」
危ない危ない。
嬉しさが顔に出ていたらしい。
巴さんは小さく笑ってから、庭にいるみんなへ目を向けた。
「それにしても、こうして集まると、本当に大勢ねぇ」
「そうですね。でも、誰もお留守番しなくていいと思うと、嬉しいです」
「ふふ。リアリスちゃんらしいわ」
そのとき、セバスが手元の予定表を閉じた。
「旦那様。各邸の戸締まりと《結界》の設定変更は、すべて確認が済んでおります。雑貨屋と美容サロン、学校の休業案内についても、予定どおりでございます」
「ありがとう、セバス」
「また、先ほどミゲイル様の別荘へ人数の最終連絡を済ませました。お迎えの用意も整っているそうです」
……完璧だね。
というか。
旅行に出発する前から、ずいぶん働いてもらっちゃったな。
「セバス、今日はここから先、なるべく仕事しないでね」
「かしこまりました」
……あれ?
今の返事、妙に素直だったぞ。
「ただし、皆様が快適にお過ごしになれるよう、必要な確認だけは――」
「セバス」
「……失礼いたしました」
……うん。
やっぱり、そう簡単には休んでくれないみたいだ。
◇
庭の向こうでは、フラワーズの八人が集まっていた。
楓、藤、杏子、蘭、牡丹、撫子、菖蒲、朝顔。
普段はそれぞれの屋敷で頑張ってくれているから、八人が並んでいる光景はちょっと珍しい。
みんな、いつものように表情はあまり変わらない。
だけど、何となく距離が近い。
小さな声で何か話したり、誰かの荷物を持ってあげたり。
……うん。
嬉しいんだろうな。
「楓。みんな揃って、よかったね」
近くにいた楓へ声をかけると、こくりと頷いた。
「……うん」
……それだけ?
まあ、楓だしね。
でも、少しだけ私の袖をつまんだところを見ると、機嫌はよさそうだ。
私は、その頭をぽんぽんと撫でた。
楓は何も言わず、袖をつかむ指に少しだけ力を込める。
……可愛い。
その横から、杏子がすっと近づいてきた。
「リアリス様」
「ん?」
「……私も」
…………。
……ああ。
そういうことか。
杏子の頭も撫でてやると、今度は蘭と牡丹がこちらを見る。
さらに、藤、撫子、菖蒲、朝顔まで。
……えっ。
全員?
気づけば、私は八人の頭を順番に撫でることになっていた。
……うん。
まあ、いいか。
旅行はまだ始まってもいないのに、すでに幸せそうな時間だし。
「リアリス様。皆様、お揃いでございます」
桜花が、少し離れた場所から声をかけてきた。
「はーい!」
……よし。
そろそろ出発しよう!
◇
出発の前に、私はもう一度屋敷を振り返った。
玄関は閉まっている。
門のそばには、巴さんが用意してくれた小さな札。
『家族旅行中』
……うん。
何だか、いい言葉だね。
こうして札に書くと、ちょっと照れくさいけど、やっぱりこれが一番しっくりくる。
ここにいるのは、全員、私の家族なんだから。
キャッツも、エーデルさんも。
学校で子供たちに勉強を教えてくれているみんなも。
あちこちの屋敷やお店で頑張ってくれているみんなも。
もちろん、モフ太だって。
……うん。
誰ひとり置いていかない。
「それじゃあ、出発します!」
「はーい!」
カトレアの元気な返事が、庭に響いた。
ほかのみんなも、それぞれに頷く。
私は、ミゲイルさんから教えてもらった別荘の庭を思い浮かべた。
前もって場所を確認しておいたから、移動先に間違いはない。
「《転移》」
私の近くに集まっていたみんなと一緒に、景色が切り替わる。
目の前に現れたのは、緑に囲まれた広い庭。
その奥には、大きな建物が建っていた。
……おお!
これが、ミゲイルさんの別荘!
私が事前に見に来たときも思ったけど、やっぱり大きいなぁ。
石造りの建物には木の飾りがあしらわれ、窓の外には花が咲いている。
山から吹いてくる風は、王都より少し涼しい。
そして。
……あっ。
ほんのり、温泉らしい匂いがする!
「お父さん! 山がいっぱい!」
カトレアが目を輝かせた。
「本当だね。景色がいいなぁ」
「ご主人様。よいところでございますね」
モフ太も、小さな鼻をひくひくさせている。
……うん。
気に入ってくれたみたいだ。
間もなく、セバスが次の一団を連れて現れた。
続いて私も王国邸へ戻り、残っていたみんなを順番に迎えに行く。
何度か《転移》を繰り返すうちに、庭はだんだんにぎやかになっていった。
普通なら馬車を何十台も用意するところなんだろうけど。
……まあ、我が家だしね。
そうして。
「旦那様。全員、到着いたしました」
セバスが、穏やかに報告してくれた。
「ありがとう!」
私は庭を見回した。
誰も欠けていない。
誰も留守番をしていない。
……ああ。
ようやく、本当にみんな揃ったんだね。
◇
「リアリス殿のご一行でいらっしゃいますね」
建物の入口から、年配の男性が出てきた。
ミゲイルさんから話を聞いていた、別荘の管理を任されている方らしい。
「はい! 今日はお世話になります」
「こちらこそ。ミゲイル様から、皆様にごゆっくりお過ごしいただくよう申しつかっております」
深々と頭を下げられて、思わず私も頭を下げる。
……おお。
何だか、すごくちゃんとしたお宿に来た気分だ。
いや、実際には別荘なんだけど。
「お部屋のご案内をいたします。お荷物はお預かりできますので、どうぞお気軽に」
「ありがとうございます」
ところが、そう言った途端。
「お父さん! 私、自分の荷物は自分で持つ!」
カトレアが、また大きな袋を抱え直した。
「無理しなくていいよ?」
「だいじょうぶ!」
……いや。
今、袋の向こうからぬいぐるみの耳しか見えてないけど。
エーデルさんがそっと近づき、荷物の底を支えてくれた。
「カトレア様。こちら側を、少しお持ちいたしますね」
「ありがとう、エーデルさん!」
カトレアが嬉しそうに笑う。
エーデルさんも、柔らかな笑顔を返した。
……うん。
こういう光景を見ると、本当に一緒に来てよかったと思う。
エーデルさんには、これまで辛いことがたくさんあった。
だからこそ、今日は何も気にせず楽しんでほしいな。
「エーデルさんも、荷物は預けて大丈夫ですよ」
「ありがとうございます、リアリス様。ですが、カトレア様のお手伝いくらいは」
「ふふ。それなら、二人で仲良くお願いします」
「はい」
……ああ。
その笑顔が見られただけで、十分だね。
◇
中へ入ると、さらに驚いた。
広い廊下。
ゆったりした談話室。
大きな窓の向こうには、山並みが見える。
そして何より、案内してもらった客室の数がすごい。
「……ここ、何人泊まれるんでしょう」
思わず口から出てしまった。
案内してくれた方が、微笑む。
「今回の皆様に合わせて、お部屋の準備を整えております。どうぞご安心ください」
……おお。
さすがミゲイルさん。
本当に大人数でも問題ないんだ。
各部屋へ荷物を運ぶ前に、私はみんなへ声をかけた。
「部屋は、できるだけ一緒に過ごしたい人同士で使ってください。せっかくの旅行だし、普段会えない子ともおしゃべりしてほしいな」
すると、あちこちで小さな相談が始まった。
「久しぶりに同じ部屋で寝ませんか?」
「いいですね。夜もお話ししましょう!」
「この間の学校のこと、聞きたいです!」
……うん。
楽しそう。
普段は別々の国で暮らしているから、話したいこともたまっているんだろうね。
そんな中、フラワーズの八人は、すでにひとかたまりになっていた。
「みんな、一緒がいいの?」
私が尋ねると、八人の視線がそろってこちらを向く。
……おお。
息ぴったり。
楓が、小さく答えた。
「……一緒」
「そっか。じゃあ、そうしよう!」
ほかのみんなも、こくりと頷く。
……うん。
何だか嬉しいな。
普段は各国の屋敷を交代で守ってくれているから、こうして八人だけでのんびりできる時間も大切だよね。
「リアリス様」
今度は桜花が、私のそばへ来た。
「カトレア様は、巴とエーデル、それから私とご一緒のお部屋をご希望でございます」
「えっ、四人で?」
「はい。お部屋の広さは十分だそうです」
……おお。
カトレア、欲張りだなぁ。
まあ、みんな大好きなんだろうね。
「いいと思うよ。カトレアが楽しいなら」
「ありがとうございます」
桜花が、ほんの少し口元を緩める。
……あれ。
桜花も、嬉しそうだ。
それなら、なおさらよかった。
◇
「リアリス様!」
廊下の向こうから、キャッツが小走りでやってきた。
「ん? どうしたの、キャッツ?」
「お料理のことを聞いたんですけど、ここの町、お魚も美味しいそうなんです!」
「へえ! そうなんだ!」
「はい! 川のお魚だそうで!」
……おお。
キャッツ、目がきらきらしている。
いや。
温泉の話よりも、魚の話の方が嬉しそうじゃない?
「でも、キャッツ。今日はお料理を作らなくていいんだよ?」
「分かってます! 食べる方を頑張ります!」
…………。
……ああ。
そっちだったか。
何だか、安心したよ。
普段から巴さんに、つまみ食いで叱られてるしね。
「食べすぎて、お腹を壊さないようにね?」
「それは大丈夫です!」
……本当かなぁ。
近くを通りかかった巴さんが、すかさず口を挟む。
「キャッツちゃん。お食事の前に、お菓子をたくさん食べたりしないでね?」
「……はい」
返事が、小さくなった。
……うん。
お母さんには勝てないね。
◇
部屋へ荷物を置いたあと、私は別荘の案内をしてもらうことにした。
談話室の先には、外を眺めながらくつろげる広い場所がある。
窓の向こうに見える山の緑が、気持ちいい。
「こういうところで、お茶を飲むだけでも最高だなぁ」
「リアリス様、お茶をご用意いたしましょうか」
隣の桜花が、いつもの調子で言った。
「桜花。今日は用意してもらう側だよ」
「……失礼いたしました」
……あはは。
桜花も、なかなか休むのが苦手なんだね。
まあ、私のそばにいるのが普段の役目みたいになってるからなぁ。
「じゃあ、一緒に座ろうか」
「はい。喜んで」
私たちは、窓際の椅子に腰を下ろした。
しばらく、何も話さずに外を眺める。
遠くで鳥が鳴いている。
風に揺れる木々。
王都のにぎやかさとは違う、静かな時間だ。
……ああ。
こういうのが、欲しかったんだよね。
「リアリス様」
「ん?」
「皆様、とても楽しそうでございます」
「うん。そうだね」
桜花が庭の方へ目を向ける。
外では、カトレアがモフ太と何やら話していた。
少し離れたところでは、エーデルさんがその様子を見守っている。
「……こうして、皆様で過ごせるのは、よいことでございますね」
「本当にね。もっと早く、みんなで休む時間を作ればよかった」
桜花は、そっと首を振った。
「今日、この日が迎えられたことが、何よりでございます」
……ああ。
うん。
それも、そうだね。
◇
そして。
いよいよ、待ちに待った温泉だ!
「リアリス様。お湯の準備が整ったそうでございます」
「おお! 行こう!」
私は、勢いよく立ち上がった。
……あれ。
何だか、今までで一番元気かもしれない。
浴場は、男女で分かれているらしい。
ということは。
男湯に行くのは、私とセバスとモフ太。
……うん。
思った以上に、少人数だなぁ。
「お父さん! 桜花とエーデルさんと巴さんと入ってくるね!」
「うん。ゆっくり楽しんでおいで」
「はーい!」
カトレアが嬉しそうに駆けていく。
そのあとを、モフ太が当然のようについていった。
……あれ?
「モフ太は男の子でしょ?こっちだよ」
私は、小さな体をひょいっと抱き上げた。
「……えっ!?」
モフ太が、腕の中で目を丸くする。
「ご、ご主人様。私はカトレアの護衛でございますので……」
「お風呂には桜花も巴さんたちもいるし、大丈夫だよ」
「……さようでございますか」
モフ太の耳が、しゅんと下がった。
視線は、まだカトレアの背中を追っている。
……ああ。
そんなに残念そうな顔しなくても。
カトレアが振り返り、笑顔で手を振った。
「モフ太! あとで一緒に遊ぼうね!」
「……はい、カトレア」
……うん。
あとでたっぷり甘えておいで。
でも、せっかくだし男湯も楽しもうね。
すぐあとを桜花が追い、エーデルさんも笑いながら歩いていった。
「カトレアちゃん、廊下では走らないのよ」
巴さんの声が聞こえる。
「はーい!」
……うん。
いつものやり取りだ。
場所が変わっても、我が家は我が家だね。
◇
男湯へ向かうと、湯気がふわりと漂っていた。
石で囲まれた大きな湯船。
湯面の向こうには、山の景色が広がっている。
……おおお。
これは、すごい。
「旦那様。見事な眺めでございますね」
セバスも、感心したように言った。
「でしょ! ここを借りられてよかったよ!」
モフ太は、湯船の手前で小さな体をふるふるさせている。
「ご主人様。こちらは温かいお湯なのでございますね」
「そうだよ。まずは体を洗おうね」
「承知いたしました」
……うん。
もともと森で暮らしていた大きな熊と、温泉に入る日が来るとは。
さすがに、前世の私には想像もつかなかったなぁ。
体を洗ってから、ゆっくり湯船に入る。
肩まで浸かると、体中の力が抜けていく。
「……ああああ……」
思わず、声が出た。
……最高。
これだよ、これ。
前世でも、温泉に来るとつい同じ声を出してた気がする。
セバスも湯に入り、静かに息を吐いた。
「……実に、心地よいものでございますね」
「でしょ! セバスも、今日はのんびりしようね」
「はい、旦那様」
……おお。
今度こそ、本当に休んでくれているみたいだ。
……いや。
油断はできないけど。
「モフ太も、おいで」
「失礼いたします」
モフ太が、そろそろと湯へ入った。
小さな熊の体が、湯の中へ沈んでいく。
耳がぴくりと動いた。
「……これは、よいものですね」
「気に入った?」
「はい。カトレアにも、ぜひ楽しんでいただきたいです」
「もう、向こうで楽しんでると思うよ」
「それは何よりでございます」
……ああ。
モフ太、どこまで行ってもカトレアのことばっかりだなぁ。
まあ、頼もしい護衛でもあるんだけどね。
……それにしても。
温泉でくつろぐ熊って、なかなか見られない光景じゃない?
……ふふ。
何だか、笑えてきた。
◇
しばらく、湯船の中で山を眺めていた。
青い空。
ゆっくり流れていく雲。
鳥の声。
……平和だ。
本当に、平和だね。
少し前まで、王国は大騒ぎだった。
壊れた街道を直したり、避難してきた人たちを助けたり。
私も、家族も、ずっと忙しくしていた。
もちろん、まだ復興の途中だ。
それでも。
今日は、休んでもいいよね。
「旦那様」
セバスが、静かに口を開いた。
「はい?」
「このたびのご旅行、誠にありがとうございます」
「……えっ?」
「皆、普段はそれぞれの場所で過ごしております。こうして顔を合わせ、同じ時間を楽しめる機会は、たいへん貴重でございます」
……ああ。
そうだね。
「私も、みんなが喜んでくれて嬉しいよ」
「旦那様がお決めになったおかげでございます」
「いやいや。準備してくれたのは、セバスや巴さんたちだし」
セバスは、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「では、皆で実現した旅でございますね」
……おお。
それ、いい言葉だなぁ。
「うん。そういうことにしよう!」
モフ太も、湯の中で小さく頷く。
「私も、そのように思います」
……ふふ。
男湯、三人だけだけど。
これはこれで、いい時間だね。
◇
その頃。
シルク王国の屋敷では、ひとりの来客が門の前で足を止めていた。
「……あら?」
金色の短い髪を揺らして、ライラが首を傾げる。
いつもなら、庭から誰かの声が聞こえてくる。
今日は、妙に静かだった。
「カトレアちゃーん? お花、見に来たわよー?」
返事はない。
門は閉まっている。
その脇には、小さな札が掛けられていた。
『家族旅行中』
「……家族旅行中?」
ライラは、札をもう一度読む。
「……えっ? みんなどこに行っちゃったの?」
しばらく、門の前に立ち尽くした。
誰も出てこない。
当たり前だ。
この屋敷の家族は、今、ひとり残らず温泉を楽しんでいるのだから。
「……旅行、かぁ」
ライラは、少しだけ頬を膨らませた。
「今度は先に教えてほしいわね」
それから、もう一度だけ札を見上げる。
「……でも、みんな一緒なら、楽しそうね」
そう呟くと、ライラはくるりと背を向けた。
……次に来たときは、カトレアに旅の話を聞こう。
そう決めて、王都の通りへ歩いていった。
◇
……はぁ。
いいお湯だった!
私は、湯上がりの廊下を歩きながら大きく伸びをした。
体が軽い。
頭の中まで、すっきりしている気がする。
……温泉、恐るべし。
「旦那様。お着替えはこちらでございます」
セバスが、きれいに畳まれた浴衣を指した。
「ありがとう。……って、セバス、もう着替えたの?」
「はい」
……早いなぁ。
しかも、濃い紺色の浴衣が、びっくりするほど似合っている。
……渋い!
「セバス、かっこいいね」
「恐れ入ります」
……うん。
何を着ても、きちんとして見える人だね。
私は、用意されていた浴衣に袖を通した。
落ち着いた青色。
帯を結んで、鏡を見てみる。
……おお。
たまには、こういう格好もいいね。
「ご主人様。私も、そろそろ乾いたでしょうか」
横を見ると、モフ太が体をぶるりと震わせた。
……あっ。
そうだった。
湯上がりの熊って、毛が大変なんだ。
ちゃんと拭いたつもりだったけど、まだ少しふわふわが湿っている。
「もうちょっと、しっかり乾かそうか」
「よろしくお願いいたします」
……うん。
お風呂に入れて終わり、というわけにはいかないね。
まあ、モフ太だけ浴衣を着る予定もないし。
ふわふわに戻してあげれば、それで十分だろう。
◇
談話室へ戻ると、すでに何人かが浴衣姿で集まっていた。
……おお。
いいねぇ!
見慣れた家族が、いつもと違う服を着ている。
それだけで、旅行に来たって感じがする。
「あっ! お父さん!」
カトレアが、ぱっと駆け寄ってきた。
淡い水色の浴衣。
いつものおかっぱ頭も、きれいに整えてもらっている。
「どう? 似合う?」
「すっごく似合うよ!」
「えへへ!」
……ああ。
可愛い。
うちの娘、本当に可愛い。
「桜花が選んでくれたの!」
「そうなんだ。さすが桜花!」
後ろにいた桜花が、静かに頭を下げる。
「恐れ入ります」
桜花は白に近い淡い色の浴衣を着ていた。
銀色のおかっぱ頭に、よく似合っている。
「桜花も、すごく似合ってるよ」
「ありがとうございます、リアリス様」
……うん。
何だか、普段と雰囲気が違って見えるなぁ。
その隣には、巴さんとエーデルさん。
巴さんは落ち着いた色の浴衣で、いつもの優しい笑顔。
エーデルさんは、柔らかな薄紫色の浴衣を着ていた。
「リアリスちゃん、みんな可愛いでしょう?」
「はい。本当に!」
巴さんが、嬉しそうに頷いた。
「エーデルさんも、とても似合ってますよ」
「……ありがとうございます」
エーデルさんは、少し照れたように目を伏せた。
「カトレア様が、選んでくださったんです」
「エーデルさん、これがいいと思ったの!」
「ふふ。ありがとう、カトレア」
……ああ。
いいなぁ。
特別なことは何もしていないのに、何だか胸が温かくなる。
エーデルさんが、こんなふうに笑ってくれる。
それだけで、連れてきた甲斐があったね。
◇
「リアリス様! 見てください!」
今度はキャッツが、勢いよくやってきた。
明るい色の浴衣が、猫の顔によく似合っている。
「どうですか!」
「うん。似合ってる!」
「やった!」
そこへ、モフ太を抱いたカトレアがやってきた。
カトレアはキャッツの顔を見て、ぱっと笑う。
「お風呂に入ってモッフモフだね!」
「えへへ! ありがとうございます!」
カトレアがキャッツの頬に触れると、ふわっとした毛が指の間に広がった。
……おお。
確かに、湯上がりで毛並みがふんわりしてるね。
……ん?
カトレアの腕の中で、モフ太の耳がぴんと立った。
「……カトレア。私も先ほど、温泉に入ってまいりました」
「うん! そうだね!」
「……毛並みも、しっかり乾かしていただきました」
声はいつもどおり丁寧だ。
だけど、その小さな目はキャッツをじっと見つめている。
……あれ?
もしかして、キャッツだけ褒められたのが気に入らない?
……静かに怒ってるね、これ。
「モフ太もモッフモフだよ!」
カトレアがぎゅっと抱きしめると、モフ太の耳がすっと戻った。
「……ありがとうございます、カトレア」
……うん。
機嫌、直ったね。
熊の嫉妬って、何だか新鮮だなぁ。
キャッツは、そんなことには気づかず、今日も元気だ。
「それで、リアリス様!」
「うん?」
「お夕食は、もうすぐでしょうか!」
…………。
……そこに戻るんだ!?
「まだ少し先だと思うよ」
「そうですか……」
見るからに残念そうだ。
……いや、キャッツ。
さっきまで温泉に入ってたばかりじゃない。
「それまで、みんなとおしゃべりしたら?」
「……そうします!」
キャッツは、ぱっと顔を上げた。
……うん。
立ち直りが早い。
素晴らしいことだね。
◇
窓際では、フラワーズの八人も浴衣に着替えていた。
みんな、それぞれ気に入った色を選んだらしい。
普段はよく似た服装をしているから、並ぶと色とりどりで面白い。
……おお。
可愛いなぁ。
「みんな、浴衣似合ってるね!」
私が声をかけると、何人かが小さく頷いた。
杏子が、自分の袖を少し持ち上げる。
「……軽い」
「動きやすい?」
「……うん」
それを見て、蘭もそっと袖を広げた。
「……好き」
「そっか。気に入ってくれてよかった!」
楓は、いつもどおり無表情のまま立っていた。
「楓も、似合ってるよ」
「……ありがと」
……うん。
短い返事だけど、少しだけ私の方へ寄ってくる。
私は、そっと頭を撫でた。
すると。
ほかの七人が、またこちらを見る。
…………。
……えっ。
また?
……ああ。
今日は、何回頭を撫でることになるんだろう。
でも、まあ。
みんなが嬉しいなら、いくらでも撫でてあげよう。
◇
ふと、部屋の奥へ目を向けると、学校で子供たちに勉強を教えてくれている家族が集まっていた。
アンナ、オリアナ、カレン、サーシャ、ホリー、ナターシャ、シェリル、ラナ。
その周りにも、何人かが輪になって座っている。
みんな浴衣姿で、お茶を飲みながら楽しそうに話していた。
「休みの日は、どうしているの?」
「こちらでは、子供たちが自主的に集まることもありますよ」
「まあ、それは素敵ですね」
……あっ。
お休みなのに、学校の話してる。
仕事熱心だなぁ。
でも、表情を見れば分かる。
今はきっと、好きなことを話しているんだろうね。
私が近づくと、アンナが立ち上がろうとした。
「リアリス様」
「今日はそのまま座ってていいよ。せっかくのお休みだし」
「……ありがとうございます」
「みんな、楽しんでる?」
「はい。普段なかなか顔を合わせられませんから」
……うん。
それなら、よかった。
「学校の話もいいけど、ちゃんと温泉も楽しんでね」
そう言うと、ナターシャがおっとりと微笑んだ。
「はぁい。もう、たっぷり楽しませていただきましたぁ」
……おお。
話し方まで、なんだか温泉みたいにのんびりしている。
近くにいたカレンが、少し恥ずかしそうに笑った。
「私、浴衣の帯を結ぶのに手間取ってしまって……」
「ふふ。似合ってるから大丈夫だよ」
「ありがとうございます!」
……うん。
みんな、ちゃんと楽しんでくれてるみたいだ。
それが、何より嬉しいね。
◇
夕方。
外の山が、少しずつ夕焼け色に染まり始めた。
談話室には、あちこちで笑い声が響いている。
カトレアはエーデルさんの膝の近くで、今日見つけた花の話をしていた。
桜花がその横で頷き、巴さんはお茶を飲みながら二人を見守っている。
キャッツは、窓の向こうを眺めていた。
……いや。
たぶん、景色じゃなくて夕食のことを考えてるんだろうなぁ。
セバスも、ようやく椅子に座ってくれている。
……よし。
今日は、ちゃんと休んでもらえてるね。
そして、フラワーズの八人。
みんな、窓際に集まって、静かにおしゃべりしている。
誰かが何か言うたびに、ほかのみんなが小さく頷く。
……ああ。
こういう時間って、いいなぁ。
私は、窓辺に立って、夕焼けを眺めた。
少し前まで、王国の人たちを助けるために走り回っていた。
叙勲されて、街を歩けば声をかけられるようにもなった。
……うん。
思っていたのんびり生活とは、ちょっと違うかもしれない。
でも。
こうして家族みんなで温泉に入って、好きな色の浴衣を着て。
夕食までの時間を、何も気にせず過ごす。
……ああ。
私が欲しかった暮らしって、こういうことなのかもしれないね。
「お父さん!」
カトレアが、私の手を握った。
「今日、楽しいね!」
「うん。すごく楽しいよ」
「明日も楽しい?」
「もちろん!」
カトレアが、にっこり笑った。
その顔を見ていると、私も自然に笑ってしまう。
……よかった。
本当に、来てよかったね。
ちょうどそのとき、廊下から声が聞こえた。
「皆様。まもなく夕食のご用意が整います」
……おっ。
いよいよ、ご飯だ!
「お父さん! ご飯だって!」
「うん!」
キャッツの耳が、ぴくりと動いた。
……あはは。
やっぱり聞き逃さないんだね。
私は、みんなの方を振り返った。
「それじゃあ、みんな! ご飯に行こうか!」
あちこちから、楽しそうな返事が返ってくる。
……うん。
何だか、もう十分幸せだ。
だけど。
この旅の楽しみは、まだ始まったばかり。
……さあ。
次は、温泉の町のごちそうだ!




