第1話:王国の危機
庭の花が、少しずつ色を変え始めていた。
カトレアの十歳の誕生日から、季節がひとつ巡り、さらにいくらかの時が過ぎた。
エルフ国の国宝騒動から数えれば、およそ半年。
あれ以来、森王から「またなくした」という連絡は来ていない。
……うん。
それだけでも、平和って素晴らしいね。
私は、窓の外の花壇を眺めながら、お茶をひと口飲んだ。
今日は、久しぶりに何も予定のない日だ。
……ああ。
理想的だねぇ。
◇
「お父さん、見て!」
カトレアが、花の記録帳を抱えて駆けてきた。
十歳の誕生日に贈った、あの本だ。
最初は真っ白だったページも、今ではいろいろな色の花で埋まり始めている。
カトレアと一緒に描いたもの。
ニーナちゃんと調べて書き込んだもの。
楓に名前を聞いて、何度も確認したもの。
……うん。
少しずつ、増えてるんだよね。
「今日は、新しいお花を描いたの!」
「おお。どれどれ」
私は、開かれたページを覗き込んだ。
小さな紫色の花が、丁寧に描かれている。
「上手だね、カトレア」
「えへへ!」
……ああ。
こういう時間が、好きだなぁ。
◇
午前のお茶は、巴さんが淹れてくれたもの。
隣では、桜花が静かに読書をしている。
少し離れた場所で、楓が花壇の手入れを手伝っていた。
……うん。
いつもの屋敷。
いつもの家族。
学校も雑貨屋も、各国で順調に運営されている。
セバスのおかげで、以前より私が出ていかなければならない仕事は減った。
……いやぁ。
ようやく、本来の目的に近づいてきたんじゃない?
のんびり暮らす。
好きな人たちと過ごす。
それだけで、十分。
「リアリスちゃん、おかわりはいかが?」
「いただきます!」
私は、空になった茶器を差し出した。
……うん。
今日も、平和だね。
◇
――そのとき。
遠くから、鐘の音が聞こえた。
ごぉん。
ごぉん。
ごぉん。
……ん?
私は、茶器を持つ手を止めた。
いつもの時刻を知らせる鐘とは、鳴り方が違う。
間隔が短い。
しかも、何度も続いている。
桜花が、静かに本を閉じた。
「リアリス様」
「……うん。聞こえた」
今度は、もう少し近くで鐘が鳴った。
屋敷の外から、慌ただしい足音も聞こえる。
……おかしい。
私は、椅子から立ち上がった。
◇
「旦那様!」
廊下の向こうから、セバスが現れた。
いつも整っている姿は変わらない。
でも、声に少しだけ緊張が混じっている。
「王都より、緊急の知らせが届いております」
「……王都から?」
「はい。北側の街道で大規模な魔獣の襲撃が発生したとのことです」
…………。
魔獣の襲撃。
……また?
私は、すぐに聞き返した。
「冒険者ギルドは対応してる?」
「すでに出動しております。ですが、状況が急速に悪化しているようでございます」
桜花が、私の隣へ立つ。
「リアリス様。参りましょうか」
「……うん。でも、まず詳しいことを聞こう」
そう言い終えるより早く、部屋の奥で《映像通話》が鳴り始めた。
◇
私は、急いで通信機の前へ向かった。
画面に映ったのは、カバディ王だった。
いつもなら、少しくらい冗談を言ってくる相手。
……だけど。
今日は、顔色が違った。
「リアリス殿!」
「国王、何があったんですか?」
「……魔獣の群れが、王都へ向かっておる」
「セバスから少し聞きました。どのくらいの数です?」
国王は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……分からぬ」
…………。
「……分からない?」
「最初の報告では、数十体だった。それが、次の報告では数百。今は、先遣隊からの連絡さえ途絶えておる」
……おいおい。
それは、普通じゃない。
私は、画面へ身を乗り出した。
「誰か、現地にいるんですか?」
「冒険者と王国軍だ。だが……」
国王の声が、震えた。
◇
「Aランクの冒険者たちが、全滅した」
…………。
私は、言葉を失った。
Aランク。
この世界の冒険者ギルドでも、十分な実力者たちだ。
その人たちが。
全滅?
「……全員、ですか」
「……うむ。生きて戻った者はおらぬと、報告されている」
……ああ。
冗談じゃない。
今まで、強い魔獣なら何度も見てきた。
それでも、Aランクの冒険者たちがまとめて倒されるなんて、ただ事じゃない。
「王国軍は?」
「前線で防いでおる。だが、すでに多くの兵が倒れた。防衛線は、長くもたぬ」
国王は、そこで深く息を吸った。
「頼む、リアリス殿。王国を助けてほしい」
◇
私は、窓の外を見た。
庭では、カトレアが不安そうにこちらを見つめている。
さっきまで、花の絵を嬉しそうに見せてくれていた子だ。
そのすぐ後ろには、巴さん。
……うん。
この子たちの暮らす王国が、今、襲われている。
「分かりました。すぐに行きます」
私は、国王へ答えた。
「……本当か!」
「はい。場所を教えてください」
「王都北の街道、防壁の外だ。ギルドマスターも現場に向かっている」
…………。
「……シルベスターさんも?」
「うむ。冒険者たちの指揮を執っておると聞いている」
……ああ。
あの人なら、そうするだろうね。
私は、短く頷いた。
「すぐに状況を確認します。国王は、住民の避難を進めてください」
「……承知した。頼んだぞ」
通信が切れた。
◇
静かになった部屋で、私は桜花を見た。
「行こう」
「はい、リアリス様」
いつもと同じ返事。
でも、今はその声が頼もしかった。
私は、カトレアのところへ歩み寄った。
「お父さん、どこか行くの?」
……うん。
心配させたくはない。
でも、嘘をつくのも違うよね。
「王都の近くで、魔獣が暴れてるんだ。ちょっと止めてくるよ」
「……危ない?」
「大丈夫。桜花と一緒だからね」
カトレアは、私と桜花を交互に見た。
小さな手が、私の服を握る。
「……帰ってきてね」
私は、その手をそっと包んだ。
「うん。必ず帰ってくるよ」
……これは、約束だ。
◇
「巴さん、カトレアをお願い」
「ええ。任せてちょうだい」
巴さんは、いつもの優しい笑顔を浮かべている。
でも、その目は真剣だった。
「リアリスちゃんも、桜花ちゃんも。気をつけてね」
「うん」
「ご心配なく、巴」
桜花が、静かに一礼した。
楓も、少し離れたところからこちらを見ている。
「……行くの?」
「うん。屋敷のこと、頼んだよ」
「……任せて」
……うん。
ここには、頼れる家族がいる。
私は、二人へもう一度頷いた。
「セバス。王国邸の仕事は、任せてもいい?」
「もちろんでございます、旦那様」
「もし避難してきた人がいたら、受け入れの準備もお願い」
「かしこまりました」
……よし。
今、必要なのは。
現場へ行くことだ。
◇
私は、《映像通話》に映った国王の言葉を思い出した。
王都北の街道。
防壁の外。
すでに兵士が倒れている。
……とにかく、急ごう。
行ったことのない戦場の真ん中へ、いきなり《転移》するのは危険だ。
王都北門なら、以前に何度も通ったことがある。
そこから、様子を確かめればいい。
「桜花、手を」
「はい」
私は、差し出された手を取った。
「《転移》」
次の瞬間。
のんびりした屋敷の風景が、消えた。
◇
最初に聞こえたのは、怒鳴り声だった。
「負傷者を奥へ運べ!」
「荷車をどけろ! 道を開けるんだ!」
「誰か、治癒魔法を使える者は!」
……っ。
私は、思わず足を止めた。
王都の北門。
見慣れた場所のはずなのに、何もかも違っていた。
石畳の上には、担架。
壊れた荷車。
汚れた鎧を着た兵士たち。
門へ続く道では、大勢の人が押し合うように進んでいる。
そして、遠くの空。
黒い煙が、何本も立ち上っていた。
「……これは」
桜花も、珍しく声を落とした。
「リアリス様。負傷者が多数おります」
「……うん」
……ああ。
思っていたより、ずっとひどい。
◇
「そこの二人! 止まるな、避難するなら中へ――」
兵士がこちらへ駆け寄ってきた。
私たちの顔を見て、言葉を止める。
「……リアリス様!?」
「こんにちは、って場合じゃないですよね」
私は、すぐに尋ねた。
「怪我人は、どこに集まっていますか?」
「門の内側と、臨時の救護所です。ただ、治療が追いつかず……」
「案内してください」
「……はっ!」
兵士は、転がるように走り出した。
私は、桜花とその後を追う。
目の前を、肩を貸し合った二人の兵士が横切った。
一人は、左脚を引きずっている。
もう一人の鎧は、肩のところが大きく壊れていた。
……ああ。
まずは、あの人たちから。
◇
「《完全回復》」
私は、歩きながら魔法を使った。
兵士たちが、揃って足を止めた。
「……え?」
脚を引きずっていた兵士が、恐る恐る地面を踏みしめる。
「痛く、ない……?」
もう一人も、肩を動かしていた。
傷口が消え、呼吸が落ち着いていく。
「怪我は治しました。でも、疲れていると思うので、無理はしないでください」
私が言うと、二人は顔を見合わせた。
「ありがとうございます!」
「……助かった……!」
……うん。
よかった。
でも、まだまだ怪我人はいる。
「先に行きますね」
私は、軽く手を振って走り出した。
◇
北門の内側では、広場が臨時の救護所になっていた。
横たわる兵士。
座ったまま動けない冒険者。
治療道具を抱えた人たちが、何度も行き来している。
その中に、鎧を外された若い兵士がいた。
息をするたび、顔を歪めている。
「……この人は?」
そばにいた治癒師が、顔を上げた。
「胸の傷が深くて……回復が追いつかないんです」
……っ。
私は、すぐに近づいた。
「少し、失礼します」
胸元の傷へ目を向け、魔法を発動する。
「《完全回復》」
兵士の呼吸が、ゆっくり整った。
苦しそうに寄せられていた眉が、ほどけていく。
……よかった。
「……あれ?」
若い兵士が、目を開ける。
治癒師の女性が、その場で膝をついた。
「……助かった……」
◇
私は、救護所を見渡した。
ここだけでも、たくさんの人が苦しんでいる。
一人ずつでは、時間がかかりすぎる。
……なら。
まとめて治せばいい。
私は、救護所全体を思い浮かべた。
傷ついた人たち。
倒れている人たち。
治療を待つ人たち。
今、生きている人を、みんな治す。
「《完全回復》」
広場が、淡い光に包まれた。
横たわっていた人が、ゆっくり身体を起こす。
痛みで声を上げていた冒険者が、驚いた顔で自分の腕を見つめる。
治癒師たちが、言葉を失っていた。
……うん。
これで、ひとまず大丈夫。
でも。
私の魔法でも、できないことがある。
◇
広場の端に、白い布を掛けられた人たちがいた。
誰も、そのそばで治療を続けていない。
……ああ。
もう、間に合わなかったんだね。
私は、そちらへ一度だけ目を向けた。
胸の奥が、少し重くなる。
この人たちにも、帰りを待っていた家族がいたんだろう。
今朝は、いつもどおり家を出たのかもしれない。
……そう考えると。
つらいね。
私は、短く頭を下げた。
そして、まだ動ける兵士へ向き直る。
「もう怪我は治ったと思います。でも、ここから先は、無理に戦わないでください」
「……は、はい!」
「私が前線へ行きます。皆さんは、避難してきた人たちを守ってあげてください」
……うん。
それなら、まだできることがある。
◇
そのとき。
ごおん、と低い音が響いた。
地面が、わずかに揺れる。
救護所にいた兵士たちが、一斉に北の方を見た。
「……まただ!」
「外壁が!」
……外壁?
私は、門の向こうへ目を向けた。
遠くで土煙が上がっている。
続いて、石が崩れるような音。
……まずい。
「桜花!」
「はい」
「ここを守るよ!」
私は、王都北側の防衛線を頭に思い浮かべた。
今、守るべきなのは、人だ。
避難してくる人たち。
負傷者。
まだ戦っている兵士たちの退路。
その場所を、魔獣が簡単に踏み越えられないようにする。
「《結界》!」
◇
見えない壁が、王都北側の防衛区域を包み込んだ。
少なくとも、これ以上の魔獣が市街へなだれ込むことは防げるはずだ。
ただし、すでに防衛線の外で戦っている人たちは別だ。
そこまで全部を塞いでしまえば、戻ろうとした兵士の邪魔になってしまう。
……うん。
その人たちを、先に助けなきゃね。
近くにいた兵士が、呆然と空を見上げていた。
「……壁が、光った……?」
「王都の人たちは、ひとまず安全です」
私は、その兵士へ伝えた。
「でも、外で戦ってる人たちがいますよね?」
「……は、はい!」
「シルベスターさんは、どこですか?」
兵士の表情が、変わった。
「ギルドマスターは、北西の防衛線です!」
◇
「……北西?」
「はい! 冒険者の生き残りと、後退する兵士をまとめています!」
……ああ。
やっぱり。
あの人は、最後まで残ってるんだ。
「分かりました。ありがとう!」
私は、桜花を見た。
「行こう」
「はい、リアリス様」
私たちは、北門から外へ向かった。
街道の先には、煙と砂埃。
さっき救護所にいた人たちの傷が、頭から離れない。
……うん。
もう、これ以上は。
私は、走る速度を上げた。
◇
街道を進むにつれて、景色が変わっていった。
最初は、壊れた荷車が一台。
その先に、折れた槍。
さらに進むと、道の脇にあった木の柵が、根元から倒れていた。
……ああ。
ここも、戦場だったんだ。
普段なら商人の馬車が通り、旅人が休んでいる場所だ。
今は、誰も笑っていない。
遠くで、獣のような咆哮が響いた。
ただし、あれは普通の獣じゃない。
魔獣だ。
しかも、一体の声ではなかった。
幾重にも重なる低い鳴き声が、地面を震わせていた。
「……数が多いね」
私は、小さく呟いた。
「はい。前方に、非常に多くの気配がございます」
桜花の声も、いつもより低かった。
◇
街道の脇に、横倒しになった荷車があった。
車輪の片方が壊れ、積んでいた荷物が散らばっている。
すぐそばに、王国軍の旗。
泥に汚れ、半分ほどが破れていた。
私は、足を止めた。
……あれ。
旗の向こうで、何かが動いた。
「桜花」
「はい」
「あそこ、人がいる」
荷車の陰へ回り込むと、一人の兵士が座り込んでいた。
鎧は砕け、剣は折れている。
それでも、右手で必死に何かを押さえていた。
「大丈夫ですか!」
私が声をかけると、兵士ははっと顔を上げた。
「……ま、魔獣が……!」
「落ち着いて。私は味方です」
兵士の目が、桜花へ移った。
それから、私の顔へ戻る。
「……リアリス、様?」
「はい。まず、傷を治しますね」
◇
「《完全回復》」
魔法を使うと、兵士の表情が変わった。
押さえていた脇腹から、傷が消えていく。
「……痛く、ない……」
「無理して立たなくて大丈夫です」
私は、しゃがんで目の高さを合わせた。
「ここにいた人たちは、どこへ?」
「……北へ。防衛線を支えに……」
兵士は、言葉を切った。
それから、空になった左手を見つめる。
「俺の隊は……」
……ああ。
何となく、続きが分かった。
私は、急かさず待った。
「俺だけ、残されました。隊長が、逃げろって……」
兵士の声が、震えていた。
「……そうですか」
私には、それ以上うまく言えなかった。
◇
「今から、戻ってください」
私は、王都の方を指した。
「街道を南へ進めば、救護所があります。王都側には結界を張りました」
「……結界?」
「はい。中へ入れば、ひとまず安全です」
兵士は、驚いた顔をした。
それから、遠くの咆哮に肩を震わせる。
「でも、まだ向こうで仲間が……!」
「分かっています」
私は、できるだけ穏やかに答えた。
「だから、私たちが行きます。今は生きて戻ってください」
……うん。
この人まで倒れたら、助けを待っている人が悲しむ。
せっかく間に合ったんだ。
ここで無理をさせる必要はない。
兵士は、少しだけ唇を噛んでから立ち上がった。
「……お願いします!」
「任せてください」
◇
兵士が王都へ向かうのを見送って、私たちは再び歩き始めた。
……いや。
歩いている場合じゃないか。
「桜花。少し飛ぼう」
「かしこまりました」
「《フライ》」
身体が、ふわりと浮く。
木々の高さまで上がると、周囲が見渡せた。
…………。
私は、息を呑んだ。
街道の先。
畑と森が広がっていたはずの場所は、もう元の形を留めていない。
地面が、長くえぐれていた。
燃えた建物。
押し倒された木々。
そして。
その向こうに、黒い帯のようなものが見える。
……あれは。
魔獣?
◇
私は、目を凝らした。
黒い帯だと思っていたものが、動いている。
小さな点が、幾つも幾つも集まっていた。
四本足で走るもの。
二本足で岩を抱えるもの。
背中に硬い殻を持つもの。
姿の違う魔獣たちが、ひとつの大きな流れのように押し寄せていた。
……うわ。
数百なんて、そんなものじゃない。
どこまで続いているんだろう。
「桜花。全部見える?」
「いえ。森の奥にも、まだ相当数おります」
…………。
……なるほど。
国王が数を把握できなかったわけだ。
これじゃ、普通の軍隊だけで受け止めるのは難しい。
「リアリス様。《即死》で、この群れをまとめて殲滅なさいますか?」
桜花が、静かに尋ねた。
……ああ。
確かに、倒すだけならできると思う。
でも。
「うーん。できなくはないんだけど、この数だと《即死》の対象を絞り切れないんだよね」
「対象、でございますか?」
「うん。目の前で襲ってきてる魔獣なら狙えるけど、森の奥はどこまで続いてるかも見えないでしょ?」
あの広さをまとめて対象にしようとしたら、襲撃とは関係のない魔獣まで巻き込んでしまう。
……それは、ちょっとまずい。
「森で普通に暮らしてる魔獣まで一緒に倒したら、生態系が崩れちゃうからね」
「……承知いたしました」
桜花が、小さく頷いた。
「では、確認できる魔獣から対処いたしましょう」
「うん。まずは前線で戦ってる人たちを助けよう」
……何もかも消してしまえばいい、ってわけじゃないものね。
◇
魔獣の群れの手前には、王国軍の旗が並んでいる。
……いや。
並んでいた、という方が正しいのかな。
倒れた旗も、多い。
木の柵を組んだ即席の防壁は、あちこちで壊れていた。
その隙間を埋めるように、兵士たちが戦っている。
魔法の光が、何度か瞬いた。
その直後、甲高い悲鳴。
……っ。
私は、すぐに高度を下げた。
近くの魔獣が、傷ついた兵士へ飛びかかろうとしていた。
……そこまで!
「《完全拘束》!」
魔獣の動きが、ぴたりと止まった。
兵士は、驚いた顔でこちらを見る。
「……え?」
「少し離れてください!」
私は、動けなくなった魔獣を《即死》で倒した。
それから、兵士へ《完全回復》。
……よし。
間に合った。
でも、これで終わりじゃない。
◇
近くにいた別の兵士が、私たちへ駆け寄ってきた。
「援軍か!?」
「はい! 王都から来ました」
「……た、助かった……!」
その人は、言い終えると膝をついた。
顔色が悪い。
今にも倒れそうだった。
「落ち着いて。怪我は……」
「俺はいい! あっちを!」
兵士が、震える手で前方を指す。
大きな岩の向こう。
そこでは、数人の冒険者が盾を並べて、魔獣の群れを必死に押し返していた。
一人が、腕を押さえている。
もう一人は、仲間に肩を貸されていた。
……うん。
分かった。
「桜花、あの人たちをお願い!」
「かしこまりました」
銀色の髪が、風に揺れた。
桜花が、岩の向こうへ一気に駆けていく。
◇
私は、周囲の生きている人たちへ《完全回復》を使った。
負傷していた兵士たちが、次々に顔を上げる。
魔獣の爪から逃れた冒険者が、剣を握り直した。
「……何が起きた?」
「身体が……動く!」
……よかった。
でも、元気になったからって、また無理をしてもらうつもりはない。
「皆さん! 王都の避難路を守ってください!」
私は、できるだけ大きな声を出した。
「ここから先は、私と桜花が引き受けます!」
……すると。
一人の冒険者が、首を振った。
「まだ……ギルドマスターが前にいるんだ!」
……っ。
「シルベスターさんが?」
「ああ! 俺たちを逃がすために、ずっと……!」
◇
その人の言葉が終わる前に、遠くで激しい音がした。
地面が、大きく揺れる。
私は、音のした方へ振り返った。
森の手前。
黒い魔獣の群れが、ひときわ大きく動いた。
その前に、人影がいくつも見える。
まだ、誰かが戦っている。
……ああ。
あそこか。
「桜花!」
私は、声をかけた。
少し離れた場所にいた桜花が、こちらへ駆け戻ってくる。
「はい、リアリス様」
「シルベスターさんが、まだ向こうにいるって」
「承知いたしました」
「……急ごう」
桜花が、静かに頷く。
……うん。
今度は、迷わない。
私は、《フライ》で桜花と地面から浮き上がった。
◇
森が近づくにつれ、戦場の音がはっきりしてきた。
剣が砕ける音。
兵士の叫び声。
そして、何十もの魔獣が同時に上げる咆哮。
……ひどい。
上空から見えた防衛線は、もはや原形を留めていなかった。
組み上げられた柵は半分以上が崩れ、王国軍の旗が泥に倒れている。
動ける兵士たちは、負傷した仲間を支えながら必死に後退していた。
その中に、数人の冒険者。
あれだけの大群を迎え撃つには、あまりにも少ない人数だ。
そして、その先頭に。
「……シルベスターさん!」
見慣れた、大きな背中があった。
◇
右手に剣。
左の袖は、空のまま。
いつものシルベスターさんだ。
……いや、違う。
鎧の胸元が大きく裂けている。
脇腹から流れた血が、腰の辺りまで染み込んでいた。
額にも傷があり、左脚をかばうようにして立っている。
魔獣を一体押し返すたび、膝がわずかに沈んだ。
呼吸も荒い。
いつ倒れてもおかしくないほど、消耗している。
……これは、まずい。
シルベスターさんの剣は、まだ鋭かった。
片腕で魔獣を斬り伏せ、背後の兵士を逃がしている。
だけど、その身体が限界に近いのは、遠目にも分かった。
◇
「退け! 負傷者を先に下げろ!」
シルベスターさんの声が響いた。
「ギルドマスター! ですが、まだ敵が!」
「ここは俺が持たせる! 走れ!」
そのとき、倒れた柵を踏み越えて、大きな魔獣が飛び込んできた。
シルベスターさんが剣を振るう。
一体は倒した。
でも、続いて二体目。
彼は身体をひねって避けようとしたが、脚がもつれた。
牙が、肩のすぐ脇をかすめる。
「……ぐっ!」
シルベスターさんが片膝をついた。
さらに、別の魔獣が迫る。
……っ。
私は《フライ》で一気に降下した。
「シルベスターさん!!」
この距離なら、間に合う。
絶対に、間に合わせる。
私は、彼へ手を伸ばした。
彼の左肩へ、魔獣の牙が迫っていた。
シルベスターさんは片膝をついたまま、剣を持ち上げようとしている。
でも、腕が上がりきらない。
鎧の隙間から血が流れ、握った剣先がわずかに揺れていた。
……もう、限界だ。
私は、着地と同時に手を伸ばした。
「《完全回復》!」
光がシルベスターさんを包む。
裂けた胸元の傷が塞がり、脇腹の出血が止まる。
かばっていた左脚が、まっすぐ地面を踏みしめた。
それから、何年も空だった左袖に、腕が戻った。
肘から先、手首、五本の指。
シルベスターさんが、息を呑む。
「……おま……」
言葉が続く前に、牙が襲ってきた。
◇
「桜花! ひとまず前線の敵をお願い!」
「はい、リアリス様!」
桜花が私たちの前へ飛び出す。
刀が閃き、魔獣が一体倒れた。
続けて二体。
その向こうから、さらに五体。
桜花は踏み込みながら斬り伏せるが、砕かれた柵の隙間から別の群れがなだれ込んでくる。
……間に合うか、ぎりぎりだ。
「リアリス様! 長くは抑えられません!」
「分かった!」
桜花が作ったわずかな間。
その一瞬で、私はシルベスターさんの傍らに落ちていた盾を拾い上げた。
古い王国軍の盾だ。
表面は傷だらけでも、持ち手は無事。
「シルベスターさん!」
私は、その盾を放り投げた。
◇
シルベスターさんの新しい左手が伸びた。
がしっ。
飛んできた盾を、反射的に受け止める。
指が持ち手を握り込んだ。
一瞬、本人がいちばん驚いた顔をした。
でも、すぐにその顔が怒りへ変わる。
「リアリスッ!!」
……うん。
言いたいことは、分かってる。
昔、左腕は治さないと断られたことも覚えている。
でも、この傷で放っておけば、あと何度剣を振れたか分からない。
だから、確認しなかった。
その判断への叱責は、後で全部受けよう。
「雑な殲滅になるので、抜けた魔獣をお願いします!」
「……はあ!?」
「戦って! みんなを守って!!」
シルベスターさんの視線が、私から背後の兵士たちへ移った。
仲間を担いだまま、動けずにいる兵士。
破れた盾を持つ冒険者。
その足元へ、魔獣の影が迫っていた。
◇
シルベスターさんが、左手の盾を構えた。
その動きは、驚くほど自然だった。
右手の剣が、低い位置から持ち上がる。
「……くそっ!」
怒鳴りながら、彼は駆けた。
迫っていた魔獣へ、盾を叩きつける。
がんっ!
角が盾の縁を滑り、巨体が横へ流れた。
その首筋へ、右の剣が入る。
一体目が倒れるより早く、シルベスターさんは次の敵へ向き直っていた。
「王国兵! 冒険者! 負傷者を連れて退け!!」
「ギルドマスター! まだ敵が!」
「だから俺が残ってるんだ! 振り向かず走れ!!」
その声で、止まっていた人たちが動き始めた。
……ああ。
やっぱり、この人だ。
◇
「桜花、前へ!」
「はい!」
私は刀を抜き、桜花と前線へ踏み込んだ。
魔獣が密集している。
その奥には、また別の群れ。
後ろには味方がいる以上、まとめて吹き飛ばすような魔法は使いにくい。
ここは、間合いを切り開く。
私は、刀を振るった。
「【一閃】!」
鋭い斬撃が、正面の魔獣をまとめて斬り伏せる。
もう一歩。
「【一閃】!」
岩を抱えた魔獣が倒れ、その向こうの群れが左右へ散った。
……っ。
やっぱり、全部は捉えられない。
数が多すぎる。
私の一撃を避けて、横から防衛線へ抜けるものがいる。
でも、それを追っては前線が進まない。
私は、後ろを振り返らなかった。
◇
後方で、鈍い金属音が鳴った。
がんっ!
盾が魔獣の突進を止める。
「ここから先は通さん!」
シルベスターさんの声。
続いて、鋭い剣の音が二度。
私は、一瞬だけ横目で確かめた。
彼は、兵士たちの退路を背にして立っていた。
左の盾で牙を受ける。
相手がよろめいたところを、剣で仕留める。
次の魔獣が背後へ回ろうとすると、半歩下がって盾をぶつける。
……すごい。
あの動きに、迷いがない。
片腕になってからも、剣の鍛錬を続けてきた人だ。
戻った左腕が、その経験を支えている。
シルベスターさんは、私が漏らした魔獣を次々に倒していた。
◇
「後退路を空けろ! 倒れているやつを置いていくな!」
魔獣を斬り伏せる合間にも、シルベスターさんは叫ぶ。
「そこの三人、盾を捨てて担架を持て!」
「はっ!」
「お前は走れるな? 王都へ戻ったら、救護所に戦況を伝えろ!」
「分かりました、ギルドマスター!」
兵士も冒険者も、その指示に従った。
誰かが指揮を執らなければ、こんな状況では逃げることすら難しい。
その役目を、シルベスターさんが一人で引き受けていた。
一体倒し、命令する。
盾で防ぎ、仲間を送り出す。
また剣を振るい、退路を確かめる。
戻った腕の感触を確かめる暇なんてない。
それでも、彼は一度も立ち止まらなかった。
◇
「リアリス様、右側へ流れます!」
桜花の短い声。
私は、右へ刀を振った。
押し寄せる魔獣の先頭が崩れる。
踏み越えてくる別の群れ。
今度は、桜花がその進路へ滑り込んで斬り伏せた。
その刹那、私の背後へ小型の魔獣が飛び出す。
シルベスターさんの盾が、真正面からそれを受け止めた。
続く剣で、魔獣は倒れた。
「前だけ見てろ!」
彼が怒鳴る。
「……はい!」
私は、さらに前へ踏み込んだ。
……ああ。
背中を任せられるって、こういうことなんだね。
今、あの人は自分の剣と盾で、確かに誰かを守っている。
◇
魔獣の群れを押し戻しながら、私たちは少しずつ森の縁へ近づいた。
戦場には、何度も盾の音が響いた。
シルベスターさんの構えは、最初よりずっと安定している。
左手で盾を受け止める角度。
右の剣を振り抜くまでの間合い。
身体が、昔の動きを思い出しているのだろう。
「ギルドマスター、もう十分です! 一緒に下がってください!」
最後まで残っていた冒険者が叫んだ。
「……まだ、お前がいるだろうが!」
シルベスターさんが、その冒険者の前へ出る。
「王都まで走れ! 俺に二度言わせるな!」
「……っ、はい!」
冒険者は頭を下げると、南へ駆けていった。
その背中を追う魔獣が一体。
シルベスターさんが盾を振り上げ、進路を塞ぐ。
「お前の相手は俺だ!」
重い一撃とともに、魔獣が崩れ落ちた。
◇
しばらくして、背後から人の声が聞こえなくなった。
走っていた足音も。
仲間を呼ぶ声も。
もう、近くには残っていない。
私は、森の縁に集まる魔獣を斬り伏せながら、後方へ目を向けた。
避難する兵士たちが、遠く王都へ続く道を進んでいる。
シルベスターさんが、盾を下ろさずに最後尾を見送っていた。
やがて、一人が振り返って大きく手を振る。
彼も一度だけ剣を掲げて返した。
……全員、退いたんだ。
シルベスターさんの肩が、ほんの少しだけ下がった。
その姿を見て、私は桜花へ合図をした。
「いったん戻ろう」
「はい!」
◇
私と桜花が防衛線へ戻ると、シルベスターさんはまだ盾を構えていた。
鎧は先ほどと同じく血と泥で汚れている。
ただし、身体の傷はもうない。
そして、何より。
右手の剣と、左手の盾。
両方をしっかり握っている。
「シルベスターさん!」
彼がこちらを見る。
「魔獣はまだまだいます。行けますか? シルベスターさん?」
シルベスターさんは、呆れたように片方の眉を上げた。
「相変わらず無茶苦茶だな。誰にものを言ってる」
そして、にやりと笑った。
私は、思わず笑い返す。
桜花も、横で小さく微笑んだ。
……大丈夫。
この人は、まだ戦える。




