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第2話:王子様の相談と学校づくり

 セバスがうちへ来てから、数日が過ぎた。


 シルク王国邸の朝は、今日も穏やかだ。


 ……ただし。


「旦那様。まずは朝食をお召し上がりください」


「……はい」


 私は、居間の机へ伸ばしかけた手を引っ込めた。


 ……うん。


 どうやら、我が家に新しい決まりができたらしい。


 朝ご飯を食べること。


 ……いや、当たり前なんだけどね!?


     ◇


 食堂には、ごま油と醤油の香ばしい匂いが広がっていた。


 今朝の献立は、巴さん特製のチャーハン。

 卵とねぎ、細かく刻んだ焼き豚が入ったご飯は、つやつやしている。

 隣には、ふんわり卵の中華スープと、きゅうりの中華風和え物。


 ……おお。

 今日は中華の朝ご飯だ!


「巴さん、すごくいい匂いだね!」


「あら、ありがとう。たまにはご飯ものもいいでしょう?」


「うん! いただきます!」


 桜花と巴さん。カトレアと楓。そして、シルク王国邸の一般メイドたち。


 いつもの顔ぶれに、セバスが加わっている。


 この屋敷で暮らす仲間たちと、いつもの食卓を囲んでいる。


 私はチャーハンをひと口頬張った。

 ぱらっとほぐれるご飯に、卵の優しい味と焼き豚の旨みが広がる。


 ……ああ、美味しい。

 朝から幸せだねぇ。


「お父さん、今日はお出かけ?」


「うーん。今のところ予定はないかな」


 私が答えると、セバスが静かに頷いた。


「本日は急ぎのご予定はございません、旦那様」


 ……おお。


 セバスのおかげで、予定が分かる。


 それは、いいんだけど。


「……やっぱり、外交のお仕事はない?」


「平穏で何よりでございます」


 ……うん。


 その返事、何回目だろうね。


     ◇


「セバス、お仕事ないの?」


 カトレアが、チャーハンをすくうスプーンを手に尋ねた。


 ……あっ。


 言っちゃった。


 セバスは、穏やかな笑みを崩さずに答える。


「外交のお仕事はございませんが、毎日楽しく過ごしておりますよ、お嬢様」


「そっか!」


 カトレアは、安心したように笑った。


「じゃあ、今日もお花見ようね!」


「喜んで」


 ……ああ。


 この二人、すっかり仲良しだね。


 隣で楓が、小さく頷く。


「……蕾」


「そう! 昨日より大きくなってたの!」


 ……うん。


 外交案件がなくても、セバスには大切な役目があるらしい。


     ◇


 朝食のあと、私は庭の長椅子へ腰を下ろした。


 桜花が、いつものように隣へ座る。


 手元には、温かい紅茶。


 花壇ではカトレアと楓が、何やら真剣に土を覗き込んでいる。


「……ああ。平和だねぇ」


「はい、リアリス様」


「今日は、のんびりできそうだよ」


 桜花が、静かに微笑んだ。


 ……こういう日が続けば、最高だね。


 そう考えた瞬間。


 玄関の方から、人の足音が近づいてきた。


 ……あれ?


     ◇


「旦那様」


 セバスが、こちらへ歩いてきた。


「コモド殿下がお見えになっております」


「……コモド君?」


「急な訪問をお詫びになり、ご都合をお尋ねでございます」


「もちろん! 案内してあげて」


「かしこまりました」


 セバスが、優雅に一礼して戻っていく。


 ……おお。


 さすがは執事。


 来客対応が、もうすっかり板についてる。


「桜花。コモド君、何か用事かな?」


「……ご相談かもしれませんね」


 ……相談。


 うん。


 そうだったら、ちゃんと聞こう。


     ◇


 しばらくすると、コモド君が庭へやってきた。


 茶色の髪を整え、少し改まった服を着ている。


 でも、私の顔を見ると、いつもの親しみやすい笑顔になった。


「こんにちは、リアリス殿」


「こんにちは、コモド君。今日はどうしたの?」


「突然伺ってしまい、申し訳ありません」


「いいよ。暇してたところだから」


 ……あっ。


 暇って言っちゃった。


 コモド君が、ふっと笑った。


「それなら、少しお時間をいただけますか」


「もちろん。まず、お茶でも飲もうか」


「ありがとうございます」


 ……うん。


 王子様相手でも、お茶から始めれば大抵何とかなる。


 ……たぶん。


     ◇


 セバスが、新しい茶器を運んできた。


「コモド殿下。お飲み物のご希望はございますか」


「ありがとうございます。いただけるもので結構です」


「かしこまりました」


 コモド君は、セバスを少し不思議そうに眺める。


「リアリス殿。こちらの方は?」


「最近うちに来てくれた執事のセバスだよ」


「セバスチャンと申します。よろしくお願いいたします、殿下」


「こちらこそ。よろしくお願いします」


 ……おお。


 ちゃんとした初対面の挨拶だ。


 私は、少し誇らしくなった。


「セバスは、外交交渉がとっても得意なんだ」


「それは心強いですね」


 ……うん。


 心強いよ。


 ……仕事はまだないけど。


     ◇


 お茶が行き渡ると、コモド君は少し真面目な顔になった。


「リアリス殿。実は、今日は相談があるのです」


「うん。聞くよ」


「最近、王都の市場や商人たちの話を聞いて回っていました」


「……商人さん?」


「はい。店を構える方も、荷馬車で各地を回る方もです」


 ……へえ。


 コモド君って、そういう話も直接聞くんだね。


「そこで、一つ気になることがありまして」


 コモド君が、ゆっくり続けた。


「新しく商売を始める人が、減っているのです」


     ◇


「……商売を始める人が?」


「はい。長く商売を続けてきた方々も、いつかは年を取ります。ところが、跡を継ぐ人が少なくて」


 ……ああ。


 それは、困るね。


「商品を揃えるお金が足りないのかな?」


「もちろん、それもあります。ですが、それだけではないのです」


 コモド君が、手元の紙を広げた。


「読み書きと、計算です」


 …………。


「……読み書き?」


「はい」


 ……そうか。


 この世界では、誰もが当たり前に学校へ通えるわけじゃないんだ。


     ◇


「商売をするには、帳面をつける必要があります」


 コモド君が、説明を続ける。


「荷札を読んだり、取引の内容を書き残したり、金額を計算したり」


「……うん」


「しかし、それが苦手な人も少なくありません」


 私は、頷いた。


 ……そうだよね。


 文字を読めないと、誰かに代わりに読んでもらうしかない。


 計算に自信がなければ、商品をいくらで売ればいいかも分からない。


「学校とか、教えてくれる場所はないの?」


「ございます。ですが、通える人は限られます」


「……そうなんだ」


「家庭で習う人もおりますし、師匠について覚える人もおります。ただ、費用を出せない家庭もありますし、家の仕事が忙しい子もいますから」


 ……なるほど。


 勉強する場所が、あるかないかだけじゃない。


 そこへ行けるかどうかも、大事なんだね。


     ◇


「ある商人の息子さんのお話です」


 コモド君が、紙へ目を落とした。


「荷物の扱いも、お客様への対応も上手なのだそうです」


「おお。いいね!」


「ですが、帳面を任せられない。文字を読むのが苦手で、計算にも自信がないそうで」


 ……ああ。


「お父様は、いつか店を継いでほしいと願っておられます。しかし、ご本人は『自分には無理だ』と」


 私は、少し黙った。


 ……つらいね。


 得意なことがあるのに。


 足りないものを学ぶ機会がないだけで、諦めるなんて。


「それで、コモド君は何とかしたいんだね」


「はい。すべての人に商人になってほしいわけではありません」


 コモド君は、私をまっすぐ見た。


「ですが、学ぶ機会がないために選べる道が減るのは、残念だと思うのです」


 ……うん。


 私も、そう思うよ。


     ◇


 コモド君が、庭の方へ目を向けた。


 その先では、カトレアが花壇にしゃがみ込んでいる。


「子どもたちが今、何を学べるかで、十年後の国も変わると思うのです」


「……十年後」


「はい。今すぐ結果が出る話ではないでしょう。それでも、何か始めたいのです」


 ……おお。


 十八歳なのに、先のことまで考えてるんだ。


 私は、少し感心した。


 ……自分が十八歳の頃、何を考えてたっけ。


 ゲームと漫画のことばかりだったような。


 ……うん。


 比べるのは、やめよう。


     ◇


「じゃあ、学校を増やすのはどうかな」


 私は、何気なく言った。


 コモド君が、顔を上げる。


「……学校、ですか」


「うん。読み書きと計算を、誰でも学べる場所」


「それができれば、ありがたいことです」


 彼は、少し考えた。


「ですが、建物、教材、教える人、運営の費用……」


 ……あっ。


 そうだよね。


 普通なら、ものすごく大変だ。


 でも。


 私は、自分の手を見下ろした。


 ……建物と教材なら。


 作れるよね?


「……うちの敷地に建てようかな」


 …………。


「……えっ?」


 コモド君が、目を瞬いた。


「リアリス殿。今から、ですか?」


「うん」


「……学校を?」


「うん」


 ……あれ。


 何か、おかしなこと言っちゃった?


     ◇


「建築には、職人と資材が……」


「あっ。そこは《想像魔法》があるから大丈夫だよ」


 コモド君が、額へ手を当てた。


「……そうでした。リアリス殿でしたね」


「……えっ」


「時々、常識を忘れそうになります」


 ……うん。


 何だか、すみません。


 桜花が、隣で口元をほんの少しだけ緩めている。


 ……あっ。


 笑ってるね?


「まあ、建物ができても、それだけで学校になるわけじゃないけど」


 私が言うと、コモド君が頷いた。


「はい。そこを一緒に考えられれば、嬉しいです」


 ……うん。


 そうしよう。


     ◇


「旦那様。少々よろしいでしょうか」


 セバスが、静かに口を開いた。


「ん? セバス、どうしたの?」


「学校の設立にあたり、確認しておきたい点がございます」


「うん。聞かせて」


 セバスは、コモド君へ丁寧に一礼した。


「殿下。こちらの敷地で教育施設を開くことについて、王国のお許しをいただくことは可能でしょうか」


「父と宰相に相談いたします。私の独断で決めることではありませんので」


 ……ああ。


 確かに。


 勝手に学校を作ればいい、ってことでもないよね。


「ありがとう、コモド君。正式に許可をもらってから作るよ」


「その方がよいと思います」


 ……うん。


 思いつきで動く前にセバスがいてくれて、助かったね。


     ◇


「対象は、どのような方をお考えでございますか」


 セバスが尋ねた。


「……そうだね。まずは、五歳から十八歳くらいまでの子どもたちかな」


「年齢の幅は広めでございますね」


「うん。年齢だけで決めないで、できるところから学べるようにしたいんだ」


 コモド君も、頷いた。


「それなら、まだ文字を習ったことのない子も通えますね」


「そうそう」


「授業の時間は、どうなさいますか」


 ……うーん。


 日本の学校みたいに、一日中?


 ……いや。


 家の仕事を手伝ってる子もいるんだった。


「最初は、一日三時間にしようかな。あとは家の事情に合わせて考えたい」


「それなら、無理なく通える方も増えると思います」


 ……よし。


 ひとつ決まったね。


     ◇


「授業料は、どうされますか」


 セバスが、続けた。


「取らないよ」


 私は、即答した。


 コモド君が、目を丸くする。


「……無料、ですか」


「うん。お金がないから勉強できない、を少しでも減らしたいからね」


 セバスが、静かに頷いた。


「建物と教材は、旦那様がご用意くださるのですね」


「そこは任せて!」


「では、日々の運営や安全確保などについて、別途整理いたしましょう」


 ……うん。


 学校は、作ったら終わりじゃない。


 ずっと使ってもらう場所なんだ。


「身分でも区別したくないな」


 私は、付け加えた。


「貴族でも商人でも、農家でも。学びたい子は、みんな一緒」


 コモド君の表情が、少し柔らかくなった。


「……それは、とても素敵だと思います」


     ◇


 そこへ、元気な足音が近づいてきた。


「お父さーん!」


「おっ、カトレア!」


 水色の短い髪が、ふわりと揺れる。


 小さな手には、白い花が一輪。


「これ、咲いたの!」


「わあ。綺麗だね!」


 私は、しゃがんで見せてもらった。


 カトレアは、隣のコモド君に気づく。


「あっ、コモドさん!」


「こんにちは、カトレア」


「こんにちは!」


 ……うん。


 相変わらず普通に話すねぇ。


 カトレアは、コモド君が第二王子だとは知らない。


 今は、庭に来る気のいいお兄さん、くらいに思ってるんだろうね。


     ◇


「コモドさんも、お花見る?」


「ぜひ見せてください」


 カトレアが、花を差し出した。


 コモド君は、そっと覗き込む。


「綺麗ですね」


「でしょ!」


 ……ああ。


 楽しそうだね。


 私は、ふと思い出した。


「そうだ、カトレア。今、学校を作ろうって話をしてたんだ」


「……がっこう?」


 カトレアが、目を丸くした。


「うん。文字や計算を、みんなで勉強するところだよ」


「お勉強?」


「そう。カトレアも、行ってみたい?」


 娘は、少し考えた。


「……お父さんも行く?」


「私も準備はするけど、授業を受けるのはカトレアたちかな」


「……そっか」


 ……あれ。


 ちょっと寂しい?


     ◇


 カトレアが、もう一度尋ねた。


「ほかのお友達も、いる?」


「うん。たくさん来てくれたら嬉しいな」


 すると。


 カトレアの顔が、ぱっと明るくなった。


「じゃあ、行きたい!」


 ……ああ。


 よかった!


「お絵描きもする?」


「きっとするよ。文字を書くのも、絵を描くのにちょっと似てるしね」


「えへへ!」


 カトレアが、嬉しそうに笑う。


 それから、楓を振り返った。


「楓お姉ちゃんも一緒?」


 ……あっ。


 そう来たか。


 楓が、静かにこちらを見ている。


「楓はお屋敷のお仕事があるからね。でも、学校が終わったらいつもどおり一緒に遊べるよ」


 カトレアの肩が、少し下がる。


 私は、そっと頭を撫でた。


「新しいお友達ができたら、楓にも紹介してあげようよ」


 楓が、小さく頷いた。


「……待ってる」


「……うん!」


 ……ああ。


 この二人、やっぱり仲良しだね。


     ◇


 コモド君は、そんな様子を見て微笑んだ。


「……リアリス殿」


「ん?」


「今のお話で、少し実感が湧きました」


「実感?」


「学校ができると、子どもたちの毎日が変わるのですね」


 ……ああ。


 そうだね。


 文字や数字を覚えるだけじゃない。


 同じくらいの年の子と知り合って、話して、遊んで。


 知らなかったことを少しずつ覚えて。


 ……うん。


 そういう時間も、きっと大切なんだ。


「コモド君のおかげで、いいことを思いつけたよ」


「いえ。考えてくださったのはリアリス殿です」


「でも、困ってる人の話を聞いてきてくれたのはコモド君でしょ?」


 彼は、少し照れたように笑った。


     ◇


 帰る前に、セバスがコモド君と手順を確認した。


「殿下。学校の目的、対象年齢、授業時間、敷地内の位置について、書面にまとめておきます」


「ありがとうございます。父と宰相へ見せます」


「正式なお返事をいただいてから、旦那様と準備を進めます」


「承知しました」


 ……おお。


 さっきまで思いつきだった話が、もう計画になってる。


 私は、セバスを見た。


 ……ついに。


 外交交渉の天才に、外交のお仕事が来た!


「セバス」


「はい、旦那様」


「よかったね……!」


 セバスは、穏やかに微笑んだ。


「何より、子どもたちのためになるお話でございます」


 ……あっ。


 そうだね!


     ◇


 コモド君を見送ったあと。


 私は、桜花とセバス、巴さんを集めて学校の話をした。


 もちろん、すぐに工事を始めるわけじゃない。


 コモド君のお返事を待ちながら、準備を進めることにする。


「学校の教室って、どのくらいの大きさがいいかな」


「最初は百名ほど収容できる教室を、一室ずつ用意されてはいかがでしょうか」


 セバスが、紙を広げた。


「百人?」


「はい。最初から百名集まらなくとも、余裕を持って使えます」


「……なるほど」


 私は、考える。


 学校なら、まずは教室。


 机。


 椅子。


 大きな黒板。


 ……何だか、日本にいた頃が懐かしいなぁ。


     ◇


「大学の講義室みたいなのはどうかな」


 私は、紙へ絵を描いた。


「大学、でございますか」


「うん。後ろの席が少し高くなっていて、どこからでも前が見える感じ」


 セバスが、覗き込む。


「なるほど。視界を確保しやすい構造でございますね」


「そう、それ!」


 私は、少し嬉しくなった。


 ……説明が通じるって、いいね。


 でも。


 百人も座ると、後ろの子は黒板が遠くないかな。


 私は、少し考える。


 ……あっ。


「机にも、黒板と同じ内容が映ればいいんじゃない?」


 桜花が、静かに目を瞬いた。


「机へ、でございますか」


「うん。薄い画面をつけて、黒板に書いた文字がそのまま映るようにするんだ」


 ……日本でいう、タブレットだね。


     ◇


「絵や映像を見せたいときにも使えるよ」


 私は、続けた。


「後ろの席の子が、前の文字を見えないってことも減ると思うんだ」


「たいへん合理的でございます」


 セバスが、頷いた。


 巴さんも、少し興味深そうに紙を見ている。


「でも、リアリスちゃん。小さい子が、難しい機械を扱えるかしら」


「……あっ」


 そうだね。


 最初から複雑だと、使いにくい。


「じゃあ、画面にはまず、先生の黒板だけ映すことにしよう。必要なときだけ、絵や映像を切り替える」


「それなら、分かりやすそうね」


 ……うん。


 せっかく便利なものを作っても、使えなかったら意味がないもんね。


     ◇


「それから、学校はどこに作るの?」


 巴さんが、屋敷の周りを見渡した。


「庭の奥、とか?」


「それだと、毎日たくさんの子どもたちが屋敷の中を通ることになるわね」


 ……あっ。


 確かに。


 うちの廊下には《簡易転移》の扉もある。


 学校へ行く途中で、違う国の邸宅に出ちゃったら大変だ。


 ……いや。


 そんなこと、起きないようにしようね。


「じゃあ、敷地の外側に近い場所かな」


「そうね。屋敷の生活する場所とは、分けた方がいいわ」


 セバスが、頷く。


「通学用の入り口と道を整え、屋敷の居住区へ入らずに教室へ向かえるようにいたしましょう」


「うん。それでお願い!」


     ◇


 私は、今の結界の範囲を思い浮かべた。


 半径五百メートル。


 屋敷を守るには十分だったけど、学校ができるとなると少し心許ない。


「結界も広げようかな」


「どの程度にされますか、旦那様」


「半径一キロメートルくらい」


 セバスが、頷いた。


「現在の倍でございますね」


「うん。子どもたちが通る場所を、できるだけ安全にしたいから」


 ……もちろん、結界は魔獣を防ぐためのもの。


 通学する人を止めてしまったら、学校にならない。


 敷地の境界や周辺の道路にも気をつけなきゃいけないね。


「周りの人が困らないように、配置も確認してくれる?」


「かしこまりました」


 ……うん。


 セバス、本当に助かるなぁ。


     ◇


「リアリスちゃん」


 巴さんが、少し考え込む。


「それで、先生はどうするの?」


 …………。


 ……あっ。


 私は、桜花を見た。


 桜花も、私を見る。


 …………。


 ……うん。


 完全に忘れてた!


「……そこは、これから考えようかな」


 巴さんが、優しく笑った。


「ふふ。建物だけあっても、お勉強はできないものね」


 ……はい。


 おっしゃるとおりです。


 セバスが、穏やかに口を開いた。


「教える方を決める前に、教材や授業の進め方を試しておくことは可能でございます」


「……そうなの?」


「はい。まずは見学会や短い試験授業を行い、先生に必要な役割を整理してはいかがでしょうか」


 ……おお。


 それ、いいね!


「じゃあ、最初の授業は、私たちでやってみよう!」


 ……うん。


 私も、ちょっと緊張してきた。


     ◇


 そして数日後。


 コモド君から、正式な連絡が届いた。


 王国として、学校の設立を認めるという知らせだ。


 もちろん、通学路の確保や利用者への案内など、守るべき条件も添えられている。


 セバスが、その内容を一つずつ確認してくれた。


「旦那様。準備を進めても差し支えないとのことでございます」


「本当?」


「はい。殿下からも、ぜひよろしくとのお言葉を頂戴しております」


 ……ああ。


 よかった!


 私は、思わず笑顔になった。


「じゃあ、学校を作ろう!」


 桜花が、静かに頷く。


「お手伝いいたします、リアリス様」


「うん。よろしくね!」


     ◇


 私たちは、屋敷の敷地の端へ向かった。


 庭の花壇や、雑貨屋からは少し離れた場所。


 新しい通学路も確保できる。


 周りは、見通しのよい草原だ。


「……ここならよさそうだね」


「はい。通学の際にも、分かりやすい位置でございます」


 セバスが、頷いた。


「じゃあ、始めようか」


 私は、ゆっくり手を伸ばした。


 想像するのは、明るい教室。


 大きな窓。


 百人が座れる机と椅子。


 少しずつ高くなる後ろの席。


 黒板と連動する、机の小さな画面。


 そして、子どもたちが安心して過ごせる場所。


「《建築》」


     ◇


 光が、草原へ広がった。


 地面の上に、淡い輪郭が現れる。


 壁。


 屋根。


 窓。


 通路。


 それらが、ゆっくりと形を取っていく。


 ……おお。


 何度やっても、建築魔法って便利だね。


 普通なら、大勢の職人さんが何日もかけて作るもの。


 それが。


 私が手を伸ばしただけで。


 ……完成しちゃった。


 目の前には、明るい色の学校が建っていた。


「……うん」


 私は、少しだけ黙った。


「……また、すごいものを作っちゃったね」


 桜花が、微笑んだ。


「立派な建物でございます」


 ……ありがとう。


 褒められると、ちょっと照れるな。


     ◇


 入り口の上には、誰にでも分かりやすい案内を用意した。


 教室へ続く道。


 手洗い場。


 休むための場所。


 具合が悪くなったときに、静かに横になれる部屋もある。


 もちろん、水洗トイレも。


 ……ここは、大事だよね。


 それから、段差で困る子がいないように、通路にも気をつけた。


 小さな子どもも、大きな子どもも、安心して歩けるように。


 ……うん。


 学校って、教室だけ作ればいいわけじゃないんだ。


 改めて思い知らされるね。


     ◇


「では、中を確認いたしましょう」


 セバスの案内で、教室へ入る。


 目の前には、大きな黒板。


 そこから後ろへ向かって、机と椅子が整然と並んでいる。


 少しずつ高くなる席。


 ……ああ。


 思っていた大学の講義室、そのものだね。


「おおっ……!」


 私は、思わず声を上げた。


 桜花も、周囲を見渡している。


「百名が着席しても、通路に余裕がございます」


「うん!」


 私は、後ろの席へ歩いてみた。


 黒板が、ちゃんと見える。


 ……でも。


 やっぱり、細かい文字は遠いかな。


     ◇


 私は、机の上を軽く指で叩いた。


 そこには、薄い板のような画面がある。


 黒板へ向かい、試しに文字を書いてみた。


『おはよう』


 すると。


 机の画面にも、同じ文字が映った。


「……おお!」


 私は、思わず笑った。


「ちゃんと動いてる!」


「問題なく連動しているようでございます」


 セバスが、頷く。


 私は、さらに小さな花の絵を描いてみた。


 画面にも、同じ花。


 ……うん。


 これなら、後ろの子にも見えるね。


     ◇


「リアリス様」


 桜花が、静かに声をかける。


「ん?」


「一番後ろからも、画面の内容が確認できました」


「よかった!」


 ……ああ。


 桜花が確かめてくれると、安心するね。


 セバスが、机の画面を操作してみる。


「映像への切り替えも、問題ございません」


 黒板に、草原の風景が映った。


 机の画面にも、同じものが現れる。


 ……おお。


 これ、勉強するのが楽しそうだなぁ。


 日本の学校にあったら、きっと授業が少し楽しくなっただろうね。


 ……いや。


 宿題が減るわけじゃないんだけど。


     ◇


 最後に、結界の設定を調整した。


 これまでの半径五百メートルから、半径一キロメートルへ。


 魔獣を遮断する条件は、そのまま維持する。


 学校へ来る人たちは、普通に通れるようにしておく。


「……よし。《結界》」


 目には見えない力が、屋敷と学校、その周囲へ広がった。


 ……うん。


 これで、守れる範囲が増えた。


「旦那様。周辺の通行にも支障はございません」


「ありがとう、セバス」


 桜花が、静かに頷いた。


「安全面の確認も、引き続き行ってまいります」


「うん。よろしくね」


 ……よし。


 少なくとも、学校の建物は完成した。


     ◇


 ただ。


 これで終わりではない。


 王国で一つ作って満足していたら、ほかの国の子どもたちは通えない。


 ……でも、各国の屋敷があるんだよね。


「セバス」


「はい、旦那様」


「これ、ほかの屋敷にも作れないかな」


「可能でございます。ただし、各国との調整が必要かと存じます」


「……うん。お願いしていい?」


「すでに、準備を進めております」


 …………。


「……えっ?」


 ……すでに?


 セバスは、穏やかに微笑んだ。


「旦那様がお考えになる可能性が高いと存じまして」


 ……おお。


 先を読まれてる!


     ◇


 セバスが用意した書類には、各国の邸宅と、学校候補地が整理されていた。


 シルク王国。


 ローズ帝国。


 フォーサイド魔法国。


 聖国。


 エルフ国。


 ジーラット獣人国。


 ドルステン魔王国。


 そして、ドワーフの統一国家、シギラ国。


 ……うん。


 全部で八つ。


 シギラ国の屋敷は一つ。


 だから学校も、一校だ。


「各国へ同じ内容をご提案し、必要な条件を確認してまいります」


「ありがとう、セバス」


 ……こういうとき、外交が得意な人がいるのって、本当にありがたいね。


     ◇


 それから、数日かけて準備を進めた。


 セバスは《映像通話》も使いながら、各国の担当者へ学校の目的を説明してくれた。


 読み書きと計算。


 子どもたちの学ぶ機会。


 無理のない授業時間。


 授業料は取らないこと。


 そして、安全と運営の責任について。


 ……うん。


 私一人だったら、「学校を作ろう!」の一言で終わっていた気がする。


 ……いや。


 きっと、そうだった。


 各国から寄せられた質問も、セバスが整理してくれる。


 私は必要なところだけ説明し、決めるべきことはちゃんと相談した。


     ◇


 ローズ帝国からは、ガラントさんを通じて話が進んだ。


 フォーサイド魔法国からは、文字や数字を教えることについて、確認事項が届いた。


 聖国も、エルフ国も、獣人国も、魔王国も。


 それぞれ、学校の立地や対象年齢、通学のことを気にしていた。


 シギラ国でも、各地の子どもが通えるようにすることを確認した。


 ……ああ。


 同じ学校でも、国が違えば事情は違うんだね。


 私は、書類を並べた机を見つめる。


 ……これ、セバスがいなかったら、かなり大変だったと思う。


「セバス。助かったよ」


「恐れ入ります、旦那様」


「やっぱり、外交のお仕事あったね」


「はい。たいへん意義のあるお話でございます」


 ……うん!


     ◇


 必要な了解が揃ったところから、私は桜花と各国の屋敷を回った。


 もちろん、屋敷同士の移動には《簡易転移》の扉を使う。


 扉を開ければ、次の屋敷。


 その国の担当メイドと、現地の条件を確かめる。


 学校へ通うための道。


 ほかの建物との距離。


 周囲の通行。


 ……全部、同じにはできない。


 でも。


 教室の仕組みは揃えられる。


 一校につき百人の教室を一つ。


 黒板と、連動する机の画面。


 そして、結界を半径一キロメートルへ。


「《建築》」


 私は、各地で同じ魔法を使った。


 ……おお。


 本当に、八つの学校が揃っちゃった。


     ◇


 ある屋敷では、窓の外に帝都の街並みが見えた。


 また別の屋敷では、遠くに森が広がっていた。


 ドワーフの大陸の学校では、空気の匂いまで少し違う。


 ……うん。


 場所は違っても、子どもたちが勉強できる場所。


 それが、八つもできたんだ。


 桜花が、隣で静かに頷いた。


「各邸の設置が完了いたしました」


「うん。みんな、ありがとう」


 ……もちろん。


 これで全部終わったわけじゃない。


 先生も、運営も。


 まだ、これから考えなきゃいけないことがある。


 でも。


 まずは、一歩だね。


     ◇


 シルク王国邸へ戻った日の夕方。


 カトレアが、玄関で待っていた。


「お父さん!」


「ただいま、カトレア」


「学校、できた!?」


「うん。できたよ」


 カトレアが、ぱっと笑顔になった。


「見たい!」


「じゃあ、行ってみようか」


「やったあ!」


 ……ああ。


 この顔を見るだけで、作ってよかったと思うなぁ。


 楓も、隣で小さく頷いた。


「……行く」


「うん。一緒に見に行こう」


     ◇


 学校の入り口へ着くと、カトレアが立ち止まった。


 大きな建物を見上げる。


 それから、ゆっくり私を見る。


「……おっきい」


「……そうだね」


 うん。


 私も、少し大きく作りすぎたかなって思ってる。


 でも、百人の教室だしね。


 ……仕方ない、仕方ない。


 カトレアは、私の袖を引いた。


「中、入っていい?」


「もちろん」


 私が扉を開けると、娘は一歩踏み出した。


 広い廊下。


 明るい窓。


 そして、大きな教室。


「……わあ!」


 カトレアの声が、弾んだ。


     ◇


 教室には、整然と机が並んでいた。


 前には、大きな黒板。


 カトレアは、一番前の席へ走ろうとして、ぴたりと止まる。


「……ここ、座っていい?」


「いいよ」


 娘が、嬉しそうに腰を下ろした。


 小さな体には、机が少し大きい。


 ……あっ。


 高さは調整できるようにした方がいいね。


 私は、そっと魔法で机と椅子の高さを合わせた。


「どう?」


「ちょうどいい!」


 ……よし。


 いい感じだね。


     ◇


「これ、なあに?」


 カトレアが、机の画面を指差す。


「黒板と同じものが映るんだよ」


「……ほんと?」


「うん。見ててね」


 私は、黒板へ花の絵を描いた。


 紫の花。


 その横に、太陽。


 すると。


 カトレアの机にも、同じ花が映った。


「……あっ!」


 娘の目が、大きくなる。


「お父さん! 同じ!」


「そうだよ」


 カトレアが、嬉しそうに画面を覗き込む。


 後ろでは、楓が静かに頷いた。


「……すごい」


 ……おお。


 楓に褒められちゃった。


 ちょっと嬉しいね。


     ◇


「お父さん、ここでお勉強するの?」


「うん。そうだよ」


「……お友達も?」


「きっと来てくれるよ」


 カトレアは、教室を見渡した。


 まだ誰も座っていない、たくさんの椅子。


 その一つ一つを、ゆっくり確かめるように見ている。


 ……ああ。


 少し、不思議な気分だね。


 これまでは、私たちのお家の中で過ごす時間が多かった。


 これからは、家の外に自分の場所が増える。


 ……少し寂しいような。


 でも。


 それ以上に、楽しみだ。


     ◇


「ねえ、お父さん」


「ん?」


「学校でお友達ができたら、お家に呼んでもいい?」


 …………。


 ……あっ。


 私は、思わず笑った。


「もちろん!」


 カトレアが、嬉しそうに笑う。


「じゃあ、みんなでお花見られるね!」


「そうだね」


 ……ああ。


 この子らしいねぇ。


 友達ができたら、まず見せたいのがお花なんだ。


 桜花が、静かに微笑んだ。


「カトレア様のお花は、きっと皆様にも喜んでいただけるかと」


「えへへ!」


 ……うん。


 今から、ちょっと楽しみだね。


     ◇


 翌日から、学校の見学と通学の申し込みが始まった。


 王国側から案内も出してもらったおかげで、少しずつ人が訪れるようになった。


 最初は、親子で恐る恐る入り口を覗く人が多かった。


 ……まあ、そうだよね。


 ついこの間まで、草原だったところに大きな学校が建ったんだもん。


 しかも、授業料は無料。


 ……怪しむ気持ちも、分かるなぁ。


 私は、セバスの隣で、訪れた人たちへ笑顔で挨拶した。


「こんにちは。見学だけでも大丈夫ですよ」


 セバスが、丁寧に続ける。


「ご不安な点がございましたら、遠慮なくお尋ねください」


 ……うん。


 この二人で説明すれば、少しは安心してもらえるかな。


     ◇


 あるお母さんが、少し遠慮がちに尋ねた。


「……本当に、お金はいらないんですか」


「うん。必要ないですよ」


 私が答えると、その人は目を瞬いた。


「でも、うちの子は、まだ文字が全然読めなくて……」


「大丈夫。そこから習うための学校だから」


 私は、笑った。


「むしろ、知らないことがあっても、気にせず来てほしいな」


 お母さんの表情が、少しだけ緩んだ。


 隣の小さな男の子は、私の後ろにある教室を見つめている。


「……あれ、何?」


 男の子が、机の画面を指差した。


「黒板と同じ文字が見られるんだよ」


「……すごい」


 ……ああ。


 カトレアと同じ反応だね。


 私は、思わず笑った。


     ◇


 別の日には、商人さんが子どもを連れてきた。


「計算を覚えたら、帳面が読めるようになりますか」


「すぐに全部は難しいと思いますけど、少しずつ練習できるようにします」


 私は、答えた。


「……そうですか」


 商人さんは、息子らしい少年へ目を向けた。


 少年は、ちょっと緊張している。


「……俺でも、いいんですか」


「もちろん」


「……年下の子より、文字が読めなくても?」


 ……ああ。


 そこ、気になるよね。


 私は、しゃがんで目線を合わせた。


「得意なことも、苦手なことも、人それぞれだから」


 少年が、私を見た。


「勉強したいって思ったなら、それで十分だよ」


 ……うん。


 少なくとも、ここではね。


     ◇


 数日後。


 最初の体験授業の日が来た。


 教室には、いくつもの親子の姿。


 入学を希望する子も、まだ迷っている子もいる。


 百人の席が、すべて埋まっているわけではない。


 でも、空っぽだった教室が、人の声で満たされている。


 ……ああ。


 ちょっと感動しちゃうね。


「お父さん」


 カトレアが、私の袖を引いた。


「ん?」


「……ちょっと、どきどきする」


 ……あっ。


 そっか。


 知らない子が、たくさんいるもんね。


 私は、娘の頭を撫でた。


「大丈夫。緊張しててもいいんだよ」


「……うん」


「分からないことがあったら、聞いていいからね」


 カトレアが、ゆっくり頷いた。


     ◇


「お嬢様」


 セバスが、静かに近づいた。


「本日は、一番前のお席をご用意しております」


「……セバス」


「はい」


「お父さんも、ここにいる?」


「旦那様は、教室の後方で見守っておいでです」


 カトレアが、振り返る。


 私は、手を振った。


「ちゃんといるよ」


「……えへへ」


 娘の肩から、少しだけ力が抜けた。


 ……うん。


 最初は、それでいいんだ。


 今日から急に、何でも一人でできるようにならなくていい。


     ◇


 体験授業の進行は、セバスが引き受けてくれた。


 まだ専任の先生は決まっていない。


 だから今日は、教室と教材を試してみる日だ。


「皆さん。本日はお越しいただき、ありがとうございます」


 セバスが、黒板の前に立った。


 ……おお。


 燕尾服と整った髭。


 大学の教授みたいにも見えるね。


「まずは、こちらの学校でできることを、ご案内いたします」


 子どもたちが、静かに耳を傾ける。


 私は、後ろから様子を見守っていた。


 桜花も、隣にいる。


「セバス、すごく似合ってるね」


「さようでございますね」


 ……うん。


 交渉の天才は、説明も上手なんだね。


     ◇


 セバスが、黒板へ大きな文字を書いた。


『あ』


 その文字が、机の画面にも映る。


 教室のあちこちから、小さな声が上がった。


「……同じだ!」


「見える!」


「すごい!」


 ……おお。


 やっぱり、この仕組みは好評みたいだね。


 セバスが、穏やかに微笑む。


「皆さんの机にも、同じ文字が映っておりますね」


 子どもたちが、頷いた。


「では、声に出してみましょう」


「あ!」


 元気な声が、教室に響いた。


 ……うん。


 いいねぇ。


     ◇


 セバスが、次に小さな絵を描いた。


 丸い果物が二つ。


 そして、もう一つ。


「こちらは、いくつになるでしょうか」


 子どもたちが、指を折り始める。


 カトレアも、机の画面を見つめていた。


「……いち、に、さん」


 小さく数えて、顔を上げる。


「三つ!」


「正解でございます、お嬢様」


 カトレアが、嬉しそうに笑った。


 近くの席の男の子も、少し遅れて答えた。


「……三つ」


 セバスが、頷く。


「そのとおりです」


 ……ああ。


 ちゃんと、どちらにも声をかけてくれるんだね。


     ◇


 休憩の時間。


 カトレアは、席を立って私のところへ来た。


「お父さん!」


「どうだった?」


「楽しい!」


 ……ああ。


 よかった!


「ねえ、あのね、隣のニーナちゃんもお花が好きなんだって!」


「そうなの?」


「うん! お家で育ててるんだって!」


 ……おお。


 もう、お話したんだね。


 カトレアが、嬉しそうに続ける。


「明日、どんなお花か教えてもらうの!」


 私は、思わず笑った。


「いいね」


 ……あっ。


 あれ?


 学校の話より、花の話の方が多い気がするなぁ。


 ……まあ、いいか。


 この子らしいもんね。


     ◇


 すると、後ろから声がした。


「……あの」


 振り向くと、さっきカトレアの隣に座っていたニーナちゃんが立っていた。

 淡い赤髪を編み込み、花のヘアピンをつけている。


 少しだけ、緊張した顔。


「……カトレアちゃん?」


「うん!」


「……一緒に、お花見てもいい?」


 ……あっ。


 カトレアの顔が、ぱっと明るくなった。


「もちろん!」


 二人は、楽しそうに話し始めた。


 私は、少し離れて見守った。


 ……ああ。


 この学校を作ってよかった。


 まだ、文字を一つ教えただけなのに。


 それだけじゃないものが、もう生まれている。


     ◇


 体験授業が終わる頃。


 教室には、子どもたちの声が残っていた。


「また来たい!」


「次は、もっと難しい字をやりたい!」


「計算も!」


 ……おお。


 みんな、元気だねぇ。


 私は、セバスの隣へ歩み寄った。


「お疲れさま、セバス」


「ありがとうございます、旦那様」


「やっぱり、先生もできそうだね」


「恐れ入ります。ただ、今後も継続して授業を行うのであれば、専任の者が必要になるかと存じます」


「……うん」


 そうだね。


 一日だけなら、みんなで何とかできる。


 でも、毎日となると話は別だ。


 私は、教室を見渡した。


 ……先生。


 そこは、ちゃんと考えないとね。


     ◇


 その日の夕方。


 シルク王国邸へ戻ると、巴さんが夕食の準備をしていた。


「お帰りなさい、リアリスちゃん」


「ただいま、巴さん」


「カトレアちゃん、学校はどうだった?」


 カトレアが、両手を広げた。


「すっごく楽しかった!」


「あら、よかったわね」


「ニーナちゃんっていう、お友達もできたの!」


 巴さんが、嬉しそうに笑った。


「まあ!」


 ……ああ。


 この報告を聞けただけでも、今日は十分だね。


 私は、思わず顔を緩めた。


     ◇


 食事の席では、カトレアが学校の話をしてくれた。


 黒板に大きな文字が映ったこと。


 机にも同じ字が出たこと。


 果物を数えたこと。


 そして。


 新しくできたニーナちゃんのこと。


 ……うん。


 最後が、一番楽しそうだね。


 楓が、静かに頷く。


「……よかった」


「うん! 明日もお話するの!」


 ……ああ。


 楓も、嬉しそう。


 表情は、ほとんど変わらないけどね。


     ◇


 食後、私は庭へ出た。


 空は、夕暮れの色になっている。


 少し離れた場所には、今日できた学校。


 ……ああ。


 あそこに、明日も子どもたちが来るんだね。


 セバスが、静かに隣へ立った。


「旦那様。本日は、お疲れさまでございました」


「ありがとう、セバス」


「各国の学校も、見学と受け入れの準備が進んでおります」


「うん。よかった」


 ……全部、一度に同じ速さで進まなくてもいい。


 その国の事情に合わせて、少しずつ。


 でも。


 もう、学ぶ場所はできたんだ。


     ◇


「セバス」


「はい、旦那様」


「コモド君から、こんなに大きな話になるとは思わなかったよ」


「大切な問題に、お気づきになられたのでしょう」


「うん……」


 私は、庭の向こうを見た。


 文字を読むこと。


 数字を数えること。


 日本にいた頃は、当たり前のように覚えた。


 でも。


 当たり前だと思っていたことが、誰にとっても当たり前とは限らない。


 ……そうだよね。


「一人でも多くの子が、やりたいことを選べたらいいな」


「そのための、最初の一歩でございます」


 ……うん。


 そうだね。


     ◇


 私は、ふとセバスを見上げた。


「……それにしても、セバス」


「はい」


「外交の仕事がないって言ってたのに、いきなり八か所の学校の交渉をお願いしちゃったね」


「はい。大変充実した数日でございました」


「……疲れてない?」


「お気遣いありがとうございます。問題ございません」


 セバスが、整った髭の下で微笑んだ。


「ただ、旦那様」


「ん?」


「学校に必要なのは、建物と教材だけではございません」


 ……あ。


 やっぱり。


 私は、ちょっと遠い目をした。


「……先生、だよね」


「そのとおりでございます」


 ……うん。


     ◇


「先生を増やすために、またホムンクルスを作る?」


 私は、ふと口にした。


 でも。


 そのまま、少し考え込む。


 今いる一般メイドたちは、みんな優秀だ。


 各邸には十人ずついて、それぞれの仕事をきちんとこなしている。


 ……うん。


 増やす前に、できることはないのかな。


 セバスが、静かに答えた。


「旦那様。まずは、現在の体制を確認されてはいかがでしょうか」


「……ああ」


 そうだね。


 何かを作る前に、考えてみよう。


「明日、巴さんとも相談しようかな」


「かしこまりました」


 ……よし。


 次の課題が決まったね。


 専任の先生が決まるまでは、セバスたちが見学会と短い体験授業を続けてくれる予定だ。


 でも、ずっと任せきりにはできない。


 ……ちゃんと、次のことを考えよう。


     ◇


 屋敷の中から、カトレアの声が聞こえた。


「お父さーん!」


「はーい!」


 私が振り返ると、娘が廊下の窓から顔を出していた。


「明日も学校、行っていい?」


 ……あっ。


 私は、思わず笑った。


「もちろん!」


「やったあ!」


 小さな声が、夕暮れの庭へ響いた。


 ……ああ。


 こんなに楽しみにしてくれるなら、作ってよかった。


 私は、セバスを見る。


「セバス。今日はありがとう」


「こちらこそ、旦那様」


 桜花が、いつものように隣へ並んだ。


「リアリス様。そろそろお戻りになられますか」


「うん。帰ろうか」


 私たちは、灯りのついた屋敷へ向かって歩き始めた。


 庭の向こうには、新しい学校。


 屋敷の中には、新しい友達の話をする娘。


 そして、明日から考えなきゃいけないことが、また一つ。


 ……うん。


 のんびり暮らしたいだけなのに。


 気がつくと、学校まで作っちゃったね。


 ……まあ、いいか。


 カトレアが楽しそうだから。


 それだけで、今日はいい日だ。

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