第1話:交渉の天才、仕事はありません
ローズ帝国の奴隷売買事件が終わり、エーデルさんがうちのメイドとして働くことになってから、数日。
私は、シルク王国邸の居間で、一枚の紙とにらめっこしていた。
……うん。
平和だね。
とても、平和だ。
窓の外では、鳥が鳴いている。
庭ではカトレアが花に水をやっている。
近くには楓がいて、何やら小さな声で話しているようだった。
桜花は、いつものように私の隣。
そして私の前には、たった一枚の紙。
「……どうしたものかな」
「リアリス様。何かお困りでございますか」
「うん。ちょっとね」
私は、紙をもう一度見つめた。
……何も書いてないんだけど。
◇
「……白紙、でございますね」
桜花が、静かに言った。
「そうなんだよ」
「……何かお書きになるご予定で?」
「うん。これからの予定を整理しようと思ったんだ」
私は、筆記具を持ち直す。
やること。
そう書こうとして、手が止まった。
……あれ?
何から書けばいいんだろう。
「ほら、最近は色々あったでしょ。シギラ国のことも、海へ行ったことも、帝国の事件も」
「はい」
「各国の偉い人と話すことも増えたし、今後のことを少し考えておこうかなって」
桜花が頷く。
「よろしいお考えかと存じます」
……うん。
そうだよね。
でも。
私は、真っ白な紙を見下ろした。
「……何から手をつければいいのか、分からないんだよね」
◇
思い返せば、転生してから色々な国へ行った。
シルク王国。
ローズ帝国。
フォーサイド魔法国。
聖国。
魔王国。
エルフ国。
獣人国。
そして、ドワーフの二つの国。
……おお。
ずいぶん行ったねぇ。
おまけに、偉い人たちと話す機会がやたら多かった。
国王。
皇帝。
教皇。
魔王。
……普通に考えたら、すごい顔ぶれだよね。
私は、どちらかというと、庭でお茶を飲んでいる方が好きなんだけど。
「桜花。外交って、難しいよね」
「……外交、でございますか」
「うん。言葉一つで、相手の受け取り方が変わるし」
私は、少し遠い目をした。
「私、たぶん向いてないんだよ」
◇
桜花は、少しだけ首を傾げた。
「ですが、リアリス様は各国の方々と良好な関係を築いておられます」
「それは、みんなが話の分かる人だったからじゃないかな」
「……そうでしょうか」
「まあ、ちょっと話の分からない人もいたけどね」
……特に。
皇帝。
あの人は、話の途中で何度も手合わせを求めてきた。
しかも、約束を果たした結果、二回も気絶した。
……うん。
思い出さないでおこう。
桜花が、私の顔を見た。
「……陛下のことをお考えで?」
「……何で分かったの?」
「お顔に出ておいででした」
……えっ。
そんなに?
◇
「それに、人魔和平のときも大変だったでしょ」
私は、白紙の上に小さな線を引いた。
魔王と人間の国々。
ずっと対立していた相手同士が、同じ場所へ集まって話をした。
結果として和平が成立したのは、本当によかった。
でも、あのときの私は、ほとんど成り行きで動いていた気がする。
「今にして思えば、専門家みたいな人がいてくれたら助かっただろうなぁ」
「専門家、でございますか」
「交渉が上手で、礼儀作法も知っていて、各国の事情に詳しい人」
私は、指を折りながら続ける。
「難しい話を整理してくれて、必要なら私の代わりに説明してくれるような人がいたら……」
そこで、手が止まった。
…………。
……あれ?
「……作れるよね」
桜花が、静かに微笑んだ。
「はい」
◇
そうだった。
私には《ホムンクルス作成》がある。
これまでに桜花や巴さん、フラワーズや一般メイドたちを作ってきた。
容姿や得意なこと、性格だって、ある程度は想像で決められる。
ならば。
外交交渉を得意とする人も、作れるのでは?
「……執事」
私は、ぽつりと呟いた。
「執事、でございますか」
「うん。何となく、こういう仕事ができそうな人って、執事のイメージなんだよね」
……いや。
かなり偏ったイメージかもしれない。
でも、日本にいた頃から、物語に出てくる優秀な執事って、たいてい何でもできたでしょう?
礼儀正しくて。
仕事が早くて。
主の意図を先回りしてくれて。
時には、とんでもなく強かったりもする。
……うん。
憧れたこと、あるよね。
◇
「桜花。どう思う?」
「リアリス様が必要とお考えでしたら、よろしいかと存じます」
「……そっか」
「ただ、一つだけ申し上げてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
桜花が、私をまっすぐ見た。
「お作りになる方にも、ご自身のお考えがございます」
私は、頷いた。
「……うん」
そうだね。
みんな、私が作ったからって、道具じゃない。
桜花も巴さんも、それぞれ自分で考え、喜んだり、怒ったり、好きなことを見つけたりしている。
……楓だって、カトレアと一緒に花壇へ行くのが好きみたいだしね。
「外交が得意な人を作っても、それだけさせるつもりはないよ」
「はい」
「一緒に暮らして、楽しく過ごしてくれたら嬉しいな」
桜花が、穏やかに微笑む。
「でしたら、わたくしも賛成でございます」
……うん。
決まりだね。
◇
私は、居間から立ち上がった。
「じゃあ、早速――」
「リアリスちゃん?」
背後から声がした。
……あ。
この声は。
「巴さん」
振り返ると、茶色い三つ編みの女性が立っていた。
手には、お茶の用意。
いつもの優しい笑顔。
だけど、その視線が、私の手元へ向く。
「また、何か思いついたのね?」
「……あれ。どうして分かるの?」
「その顔をしているときは、大抵そうでしょう?」
……うん。
否定できない。
桜花が、そっと目を伏せた。
……笑ってる?
◇
私は、巴さんへ考えを説明した。
これまでの外交。
人魔和平のときの苦労。
今後、各国との間で難しい話が出てきたときの備え。
そして、交渉が得意な執事を新しく迎えたいこと。
巴さんは、最後まで黙って聞いていた。
それから。
「いいんじゃないかしら」
「……えっ。いいの?」
「もちろんよ。新しい仲間が増えるのは嬉しいもの」
……ああ。
よかった。
「ただし」
巴さんが、人差し指を立てた。
……はい。
「リアリスちゃん。その人に任せたいことは、ちゃんと考えてある?」
「……外交?」
「今すぐ、外交のお仕事があるの?」
…………。
……えっ。
私は、白紙の紙を見た。
……そういえば。
◇
「……今すぐは、ないかも」
「でしょう?」
「でも、将来的には必要になると思うんだ」
「そうね。それは私も分かるわ」
巴さんが、優しく頷いた。
「だったら、普段のお仕事や暮らし方も、一緒に考えてあげましょう」
……ああ。
確かに。
何もないときに、ただ仕事が来るのを待ってもらうのも変だよね。
「うん。分かった」
「よかった」
巴さんは、温かなお茶を机へ置いた。
「それに、執事さんが増えてくれたら、私も嬉しいわ」
「……そうなの?」
「ええ。八つのお屋敷のこと、みんなで頑張っているけれど、相談できる人が増えるのは心強いもの」
……なるほど。
そういうこともあるんだね。
私は、ゆっくり頷いた。
◇
「じゃあ、外交もできて、お家のことも分かる人がいいかな」
「ふふ。欲張りね」
「……だよね」
「でも、リアリスちゃんらしいわ」
……褒められてる、のかな。
私は、少し考えた。
今までは、女の子のホムンクルスが多かった。
桜花も巴さんも、フラワーズも一般メイドたちも、みんな女性。
なら。
「今回は、男性にしようかな」
桜花が、少しだけ目を瞬かせた。
「男性のホムンクルスでございますか」
「うん。年配の、落ち着いた執事さん」
私は、頭の中に姿を思い描く。
白い短髪。
背筋が伸びた長身。
整った髭。
黒い燕尾服。
そして、穏やかな笑顔。
……おお。
すごく執事っぽい。
◇
「体格は……少しがっしりしてる方がいいかな」
私は、想像を重ねる。
背丈は百八十センチくらい。
年齢は、六十歳くらいに見える男性。
姿勢がよくて、仕草が上品。
いつも笑みを絶やさないけれど、何かあればすぐに判断できる人。
外交交渉は、天才的。
言葉の使い方を知っていて、相手の立場も理解できて、必要な情報を整理できる。
屋敷の管理や、みんなの仕事の調整も得意。
……そして。
誰かが私たち家族を侮辱するようなことがあれば、決して見過ごさない。
……うん。
なかなか、いいんじゃないかな。
「名前は……セバスチャン」
私は、口に出した。
…………。
……王道だねぇ。
◇
「セバスチャン、でございますか」
桜花が繰り返した。
「うん。何だか、すごく似合う気がする」
巴さんが、笑う。
「素敵な名前ね」
「そうかな?」
「ええ。では、迎える準備をしましょうか」
私は、思わず首を振った。
「あっ、そんなに大げさにしなくていいよ。居間で作るから」
「ふふ。じゃあ、お茶をもう一人分用意しておくわね」
……ああ。
それは、ありがたい。
私は、居間の中央に十分な空間があることを確かめた。
最初に桜花を作ったときは、ものすごく緊張したっけ。
……今でも少し緊張する。
新しい命を作るんだからね。
何度やっても、慣れていいことじゃない気がする。
◇
私は、もう一度だけ頭の中で確認する。
白い短髪。
手入れの行き届いた、整った髭。
約六十歳の外見。
百八十センチほどの長身。
がっしりした体格。
燕尾服の似合う、穏やかな紳士。
優秀な交渉役。
頼れる執事。
そして、私たちと一緒に暮らしてくれる、新しい仲間。
……よし。
「《ホムンクルス作成》」
手を伸ばす。
淡い光が、居間の中央へ集まった。
床の上に、ゆっくりと人影が浮かび上がる。
頭。
肩。
長い腕と、しっかりした脚。
……おお。
これは……。
思っていたより、大きいね。
◇
光が、静かに消えていく。
そこに立っていたのは、一人の男性だった。
白い短髪は、きっちりと整えられている。
口元には、手入れの行き届いた髭。
黒い燕尾服は、肩幅のある体にぴったり合っていた。
少し年齢を重ねた顔立ちには、穏やかな笑みが浮かんでいる。
ただ、立っているだけなのに。
……何だろう。
すごい。
執事の中の執事、という感じがする。
男性は、私の方へゆっくり向き直った。
そして、胸へ手を添える。
「初めまして、旦那様」
深く、優雅な一礼。
「セバスチャンと申します。今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます」
……おおお。
完璧だ。
◇
「……初めまして。リアリスです」
私は、少し慌てて頭を下げた。
……あれ。
こっちまで礼儀正しくしちゃった。
セバスチャンは、優しく微笑む。
「存じ上げております、旦那様」
「そ、そっか」
……旦那様。
そう呼ばれるの、何だかくすぐったいね。
桜花が、静かに一礼した。
「桜花と申します。リアリス様の相棒を務めております」
「お話は承知しております。桜花様、どうぞよろしくお願いいたします」
……おお。
すごく自然に話してる。
巴さんも、にこにこと近づいた。
「私は巴よ。お家のことを取りまとめているの。よろしくね、セバスチャンさん」
「こちらこそ、巴様。お力になれることがございましたら、何なりとお申し付けください」
「あら、セバスチャンさん。その『様』は要らないわよ」
巴さんが、優しく微笑んだ。
「……と、おっしゃいますと?」
「私たちは、同じ屋敷で暮らして働く仲間でしょう? 桜花ちゃんにも、楓ちゃんにも、ほかのメイドたちにも様付けはしなくていいの。普通に名前で呼んでちょうだい」
……ああ、なるほど。
私も、みんな同じ家の仲間だと思っている。
だから、必要以上に上下関係を作ることもないよね。
「ただし、リアリスちゃんは旦那様。カトレアちゃんは『カトレア様』か『お嬢様』でお願いね」
「承知いたしました」
セバスは、二人へ改めて向き直った。
「では、桜花、巴。これからどうぞよろしくお願いいたします」
「ええ、こちらこそ」
「よろしくお願いいたします」
桜花も、静かに頷いた。
……うん。
もう、うまくやっていけそうだね。
◇
「そうだ。セバスチャン」
「はい、旦那様」
「長い名前だから、普段はセバスって呼んでもいいかな?」
セバスチャンが、目を細めた。
「もちろんでございます。旦那様のお好きなようにお呼びください」
「ありがとう、セバス」
「恐れ入ります」
……うん。
言いやすい。
それに、何だか少し親しみがわくね。
「じゃあ、セバス。まずは、このお家のことを色々知ってもらおうかな」
「かしこまりました」
返事と同時に、セバスはすっと姿勢を正した。
……おお。
何をお願いしても、完璧にこなしてくれそう。
いや。
まだ何もお願いしてないんだけどね。
◇
「その前に、一ついいかな」
「何なりと、旦那様」
私は、セバスを見上げた。
……やっぱり、背が高いなぁ。
「セバス。今から、必要な魔法を渡すね」
「承知いたしました」
新しく生まれたセバスにも、万一に備えて守りの魔法を与えておきたい。
《不老不死》。
《状態異常無効》。
そして、《絶対防御》。
……今は、この三つの重みをよく知っている。
桜花を傷つけてしまった、あのとき。
《不老不死》がなかったら。
私は、いまだにそう考えることがある。
だからこそ。
守れるように、できることはしておこう。
「……セバス」
「はい」
「大切な家族なんだから、危ない目には遭ってほしくないんだ」
セバスは、静かに頭を下げた。
「旦那様のお心遣い、ありがたく存じます」
◇
私は、《想像魔法》で三つの魔法を永続的に付与した。
さらに、いざというとき自分で動けるように、いくつかの魔法も与える。
《完全拘束》。
《転移》。
《映像通話》。
《完全回復》。
《収納》。
《全能力強化》。
《状況把握》。
必要な場面で使えるようにして、消費する魔力はなし。
……うん。
これなら、私がいないときにも対応できる。
「使い方は、分かる?」
「はい。問題ございません、旦那様」
セバスは、少し考えてから続けた。
「ただし、必要のない場面では力を振るわず、まずは状況を把握することを優先いたします」
……おお。
そう言ってもらえると、安心するね。
「うん。よろしくお願いします」
◇
セバスは、穏やかな笑みを浮かべた。
「旦那様。差し出がましいようですが、一点よろしいでしょうか」
「もちろん」
「わたくしには、外交交渉と屋敷管理の役目をお考えと伺っております」
「……うん。そうだよ」
「では、現在の案件と、各邸の運営状況を拝見してもよろしいでしょうか」
……おっ。
いきなり、お仕事モードだ。
「もちろん。あっ、今まとめてるところなんだけどね」
私は、机の上の紙を差し出した。
セバスが、静かに受け取る。
そして。
白紙を、じっと見つめた。
…………。
…………。
「……旦那様」
「……はい」
「こちらは、白紙でございますね」
……はい。
その通りです。
◇
私は、少し気まずくなって笑った。
「何から書けばいいか、迷ってたんだよ」
「なるほど」
セバスが、優しく頷く。
……怒らないんだね。
「では、現在承っておられるご用件を、順にお聞かせください」
「うん」
私は、椅子へ座り直した。
セバスも、向かいへ腰を下ろす。
隣には桜花。
巴さんは、お茶を一人分追加して戻ってきてくれた。
「お口に合うといいけれど」
「ありがとうございます、巴。大変よい香りでございます」
セバスが、丁寧に杯を受け取る。
……ああ。
新しい家族が、普通にお茶を飲んでる。
何だか、ちょっと嬉しいね。
◇
「まずは、シルク王国との外交案件ですね」
セバスが、紙へ文字を書き始めた。
「うーん。王様とは、最近は普通にお茶を飲むくらいかな」
「正式な協議のご予定は?」
「……ないね」
「承知いたしました」
さらさら、と筆が動く。
「続いて、ローズ帝国は」
「皇帝との手合わせは終わったよ。ガラントさんが事件の調査を進めてくれてるけど、私に今すぐお願いされてることはないかな」
「外交上の交渉を要する件は?」
「……ないね」
「承知いたしました」
……うん。
手際がいいね。
それにしても。
この人、字まで綺麗だなぁ。
◇
「フォーサイド魔法国につきましては」
「特にないかな」
「聖国は」
「教皇さんからは、たまに連絡があるけど、今は何もないよ」
「魔王国は」
「和平が成立してからは、落ち着いてるね」
「エルフ国は」
「……ああ。国宝のこと?」
「はい。何か懸案が?」
「一度盗まれたものは取り返したし、今は大丈夫なはず」
……たぶん。
いや。
大丈夫だよね?
セバスが、静かに頷く。
「承知いたしました」
「獣人国も、特にはないかな。ドワーフの二つの国とも、今は落ち着いてるよ」
「かしこまりました」
セバスが、筆を置いた。
◇
「旦那様」
「ん?」
「確認させていただいた範囲では、現在、外交交渉を必要とする案件はございません」
…………。
「……そうなんだよね」
「はい」
……うん。
気づいてた。
途中から、気づいてたよ。
私は、頭を抱えた。
「……あれ?」
セバスが、少し首を傾げる。
「いかがなさいましたか、旦那様」
「……もしかして、今、外交の専門家って必要なかった?」
桜花が、口元をわずかに緩めた。
巴さんが、優しく笑う。
セバスは。
実に落ち着いた声で答えた。
「現時点では、そのようでございます」
……あああ。
やっぱり!
◇
私は、椅子の背にもたれた。
……何ということだろう。
外交交渉の天才を作った。
とても頼りになる執事さんを作った。
なのに。
外交のお仕事が、一つもない。
……えっ。
何、この状況。
「……私、何か大切なことを忘れてた気がする」
「今後の備えというお話でしたから、間違いではないかと存じます」
桜花が、静かに慰めてくれる。
「……そうかな」
「はい」
……うん。
ありがとう、桜花。
でも。
今の私には、その優しさが少しだけ沁みるよ。
◇
「リアリスちゃん」
巴さんが、お茶を置いた。
「だから、先にお仕事を考えてあげましょうって言ったでしょう?」
「……言われました」
「ふふ」
……ああ。
完全に、その通りだった。
「でも、将来必要になると思ったんだよ」
「ええ。それは悪いことじゃないわ」
巴さんが、少しだけ首を傾げる。
「ただ、新しい仲間が来てくれたんだから、今の暮らしの中でも、できることを一緒に探せばいいのよ」
……うん。
そうだね。
私は、セバスを見た。
「セバス。ごめんね」
セバスは、静かに微笑んだ。
「何をお詫びになることがございましょう」
「せっかく交渉が得意なのに、仕事を用意できてなくて」
「旦那様」
少し低い、落ち着いた声。
「わたくしは、仕事があるからここにいるのではございません」
……えっ。
◇
「旦那様のお役に立つことを望んでおりますが、役目は一つに限られません」
セバスが、丁寧に続ける。
「それに、今は平穏であるということ。何より喜ばしいことではございませんか」
私は、目を瞬かせた。
……ああ。
そっか。
事件が起きないと出番のない人を作ったからって、事件が起きてほしいわけじゃない。
平和なら、その方がいいに決まっている。
……うん。
こんな簡単なことに気づかなかったなんて。
「セバス、いいこと言うね」
「恐れ入ります」
「外交の仕事は、必要になったときにお願いするよ」
「かしこまりました」
セバスは、一礼した。
「それまでは、旦那様のお屋敷でお力になれることを見つけたく存じます」
……うん。
頼もしいなぁ。
◇
「それにしても……」
私は、ふと思い出した。
「人魔和平の前にセバスを作っておけばよかったなぁ」
桜花が、私を見た。
「人魔和平の前、でございますか」
「うん。あのとき、参加する国の人たちと色々話したでしょ」
今さらだけど。
ああいう会談って、事前の準備が大変なんだよね。
誰がいつ来るのか。
どこへ案内するのか。
どんな言葉で話し始めるのか。
それから、相手が怒ったときにどう収めるのか。
……ああ。
考えるだけで、ちょっと疲れてきた。
「セバスがいたら、うまく進められたんじゃないかな」
「恐れ入ります、旦那様」
セバスが、少しだけ微笑む。
「ですが、その場におりませんでしたわたくしが、過去の出来事を変えることはできません」
「……まあ、そうだよね」
「そして、和平は成立したのでございましょう?」
「うん」
「でしたら、その成果は旦那様と、関わられた皆様のものでございます」
……おお。
何だか、すごく綺麗にまとめられちゃった。
◇
私は、少しだけ感心してセバスを見る。
「……やっぱり交渉が上手そうだね」
「恐れ入ります」
「もう少し早く会いたかったよ」
「旦那様」
「ん?」
「今こうしてお会いできたことを、わたくしは嬉しく存じます」
……あっ。
……うん。
そう言われると、弱いなぁ。
私は、思わず笑った。
「私もだよ。これからよろしくね、セバス」
「はい、旦那様」
桜花が、静かに頷く。
巴さんも、嬉しそうに笑った。
……うん。
これで、いいんだよね。
◇
そのとき。
廊下から、小さな足音が近づいてきた。
「お父さーん!」
……あ。
カトレアだ。
私は、入り口へ目を向けた。
水色の短い髪が、ひょこりと現れる。
「お父さん、見て! お花が――」
そこまで言って。
カトレアが、ぴたりと止まった。
目の前には、見知らぬ長身の男性。
真っ白な髪。
整った髭。
黒い燕尾服。
……うん。
驚くよね。
「……だあれ?」
カトレアが、私を見た。
◇
「ああ、紹介するね」
私は、カトレアへ手を差し出した。
「この人は、セバスチャン。新しくうちに来てくれた執事さんだよ」
「……しつじ?」
「うん。色々なことを手伝ってくれる人なんだ」
カトレアは、セバスを見上げた。
……おお。
身長差が、すごい。
九歳のカトレアからしたら、かなり大きく見えるだろうね。
セバスは、ゆっくり片膝をついた。
視線の高さを、少しでも近づけるように。
「初めまして、カトレア様。セバスチャンと申します」
穏やかな声。
「どうぞ、セバスとお呼びください」
カトレアが、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「……セバス?」
「はい」
セバスが、微笑む。
「……お髭、きれいだね」
…………。
……あっ。
そこ?
◇
セバスは、少しも表情を崩さなかった。
「お褒めいただき、光栄でございます」
カトレアが、嬉しそうに笑う。
「おじいちゃんみたい!」
……あ。
初対面で、それ言っちゃう?
私は、慌てて口を開こうとした。
でも、セバスは穏やかなままだった。
「そのように親しみを感じていただけるのでしたら、嬉しく存じます」
……おお。
余裕が違う。
私は、少しだけ感動した。
「セバスは、色々な国のことも詳しいんだよ」
「……いろんな国?」
「うん」
カトレアの目が、きらきらした。
「じゃあ、遠くのお花のことも知ってる?」
……えっ。
外交から、お花へ?
◇
セバスは、少し考えた。
「地域によって、咲く花の種類も、育て方も異なります。ご興味がおありでございますか」
「うん!」
「でしたら、旦那様とご相談の上、見られる場所や書物をお探しいたしましょう」
「ほんと!?」
「もちろんでございます」
カトレアが、私の方を向いた。
「お父さん! セバスって、すごいね!」
「……そうだね」
私は、少し笑った。
……あれ。
生まれて間もないのに、もう娘の心を掴んでる。
これが、交渉の天才。
……いや。
これは外交じゃなくて、普通の会話だよね。
◇
カトレアの後ろから、楓が静かに現れた。
……あ。
一緒に庭にいたんだね。
楓は、セバスをじっと見上げた。
「……新しい人」
「うん。セバスっていうんだ」
私が紹介すると、セバスは丁寧に一礼した。
「楓。セバスチャンと申します。よろしくお願いいたします」
楓は、少しだけ頷く。
「……楓」
「お名前は存じ上げております」
「……よろしく」
それだけ言って、カトレアの隣へ戻った。
……うん。
楓らしいね。
セバスも、特に困った様子はなかった。
「静かで、落ち着いた方でございますね」
「うん。すごく頼りになる子だよ」
楓が、ほんの少しだけ目を細めた。
……あっ。
照れてるのかな。
◇
カトレアが、ふと思い出したように手を叩いた。
「あっ、そうだ! お花!」
「ん?」
「新しい蕾が出たの! 見に来て!」
私が返事をする前に、カトレアがセバスの袖を見つめた。
「セバスも、来る?」
……おお。
初めて会ったのに、もうお誘いだ。
セバスは、私へ目を向けた。
「旦那様。少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「もちろん。行っておいで」
「ありがとうございます」
カトレアは、セバスの大きな手を見た。
それから、おずおずと自分の手を差し出す。
「……一緒に行こう?」
セバスが、優しくその手を取った。
「喜んで」
……ああ。
何だか、いい光景だね。
◇
二人は、庭へ向かって歩き始めた。
楓も、静かについていく。
居間には、私と桜花、巴さんが残った。
私は、思わず息を吐く。
「……すごいねぇ」
「何がかしら?」
「セバス。もうカトレアと仲良くなってる」
巴さんが、にこりと笑った。
「カトレアちゃん、人懐っこいもの」
「うん。それもあるけど」
私は、庭の方を見た。
大きな背中の隣を、小さな娘が歩いている。
……うん。
よかった。
「優しそうな人で、安心したよ」
桜花が、静かに頷いた。
「リアリス様のお考えが、きちんと伝わっているのでございましょう」
「……そうかな」
「はい」
……うん。
だったら、嬉しいな。
◇
少しして、セバスたちが庭から戻ってきた。
カトレアは、すっかりご機嫌だ。
「お父さん、セバス、お花の名前いっぱい知ってる!」
「おお、そうなんだ」
「楓お姉ちゃんも知ってた!」
……うん。
そっちは知ってる。
楓が、小さく頷いた。
「……きれい」
「うん!」
カトレアが、嬉しそうに笑う。
セバスは、丁寧に手を離した。
「お嬢様。ご案内、ありがとうございました」
「また行こうね!」
「もちろんでございます」
……ああ。
この二人、仲良くなれそうだね。
私は、ほっとした。
◇
昼食の時間になった。
シルク王国邸の食堂には、いつもの顔ぶれが集まっている。
私。
桜花。
巴さん。
カトレア。
楓。
そして、シルク王国邸の一般メイドたち。
今日は、そこにセバスが加わった。
「セバス。こっちに座って」
私は、空いている椅子を示した。
「恐れ入ります、旦那様」
セバスが、一瞬だけ周囲を見た。
「ですが、給仕は……」
「それは、食べ終わってからでいいよ」
私は、笑った。
「うちでは、みんな一緒に食べるんだ」
……もちろん。
ここにいるみんな、という意味でね。
八つのお屋敷の人たちが、毎日全員集まっているわけじゃない。
◇
セバスが、静かに腰を下ろした。
「承知いたしました」
巴さんが、スープをよそってくれる。
「たくさん食べてね、セバスチャンさん」
「ありがとうございます、巴」
カトレアが、隣から顔を覗かせた。
「セバス、パンもおいしいよ!」
「それは楽しみでございます」
……うん。
すっかり馴染んでる。
私は、スープを一口飲んだ。
……ああ。
美味しい。
今日も、巴さんの料理は最高だね。
「お父さん、セバス、おかわりするかな?」
「どうだろう。聞いてみようか」
カトレアが、にっこり笑う。
「セバス、おかわりする?」
「ありがとうございます。では、少しいただきましょう」
……おお。
すごく自然に受け答えしてる。
◇
食事の途中で、私はふと気づいた。
セバスの姿勢が、ずっと綺麗なのだ。
スプーンを持つ手。
背筋。
椅子の座り方。
まるで、どこかの高級な食事会みたい。
……いや。
ここは、うちの食堂なんだけど。
「セバス。そんなにかしこまらなくてもいいよ」
「……と申しますと」
「ここはお家なんだから、もう少し気楽にしてね」
セバスが、少しだけ微笑む。
「旦那様。これが、わたくしにとって自然な姿勢でございます」
……あっ。
そうなんだ。
人それぞれ、落ち着く姿勢ってあるもんね。
「それなら、無理に変えなくていいよ」
「恐れ入ります」
……うん。
気楽にしてって言った私の方が、気にしすぎだったかな。
◇
昼食を終えると、セバスは巴さんへ声をかけた。
「巴。よろしければ、お屋敷の管理についてお話を伺えますでしょうか」
「もちろんよ」
「現在の役割分担を把握した上で、わたくしにできることを考えたく存じます」
巴さんが、嬉しそうに頷く。
「それなら、少し書類を見てもらおうかしら」
……お。
早速、お仕事が始まるんだね。
私も、ついていくことにした。
「リアリスちゃんも来るの?」
「うん。ちょっと気になるし」
巴さんが、柔らかく笑った。
「ふふ。じゃあ、一緒に考えましょう」
……うん。
こういう相談なら、私にもできそうだね。
たぶん。
◇
巴さんが案内してくれたのは、屋敷の仕事を整理している部屋だった。
机の上には、各邸から届いた連絡や、雑貨屋の運営状況をまとめた書類。
……あっ。
こんなにあるんだ。
「……巴さん。これ、いつも見てるの?」
「ええ。必要なものだけよ」
……必要なものだけ、って。
十分多いと思うんだけど。
八つの屋敷。
それぞれに暮らすメイドたち。
雑貨屋と美容院。
お客さんの対応や備品の確認。
私は、普段ほとんど任せきりだ。
……ああ。
ちょっと申し訳なくなってきた。
◇
「こちらが、各邸の連絡事項ね」
巴さんが、書類を並べた。
「普段の仕事は、それぞれの担当の子たちがちゃんと進めてくれるわ」
私は、頷いた。
そうだよね。
杏子たちも、各国の邸をしっかり守ってくれてる。
「だから、私が全部指示しているわけじゃないのよ」
「そうなんだ」
「ただ、連絡の内容を確認したり、必要なら相談に乗ったりしているの」
セバスが、静かに頷いた。
「なるほど。各邸の裁量を尊重し、重要事項のみ共有する仕組みでございますね」
「そうね。その方が、みんな動きやすいもの」
「合理的でございます」
……おお。
もう、話が通じてる。
◇
セバスは、書類を一枚ずつ確かめていった。
何かを大きく変えようとはしない。
まず、現状を把握する。
気になることがあれば、巴さんへ尋ねる。
そのたびに、巴さんが答える。
……うん。
見ていて、安心するね。
しばらくして、セバスが口を開いた。
「巴。ご負担を一つ、お引き受けしてもよろしいでしょうか」
「あら。何かしら」
「各邸からの報告を、必要に応じて整理し、旦那様へお伝えする役目でございます」
巴さんが、少し考えた。
「それなら助かるわね」
「もちろん、各邸の判断を勝手に変更することはいたしません」
「ええ。分かったわ」
……おお。
早速、役割が決まった。
◇
「それと、旦那様」
「ん?」
「各国の来客対応につきましては、わたくしにお任せいただければと存じます」
私は、少し目を瞬いた。
「……来客?」
「はい。事前の確認、日程の調整、お迎えする準備などでございます」
……ああ。
それなら、確かに必要だね。
私のところには、たまに王族や偉い人が来る。
しかも、予告なしのこともある。
……思い出したら、少し頭が痛くなってきた。
「もちろん、お客さんを断ったり、私の予定を勝手に決めたりはしないでね」
「無論でございます」
セバスが、穏やかに頷く。
「旦那様のご意向を最優先に、必要な確認を行うのみでございます」
「うん。それならお願い」
「かしこまりました」
……ああ。
すごく頼りになるなぁ。
◇
「でも、セバス。雑貨屋の商品とかは、自動で補充できるようになってるんだよ」
私は、念のため説明した。
「承知しております」
「だから、そこまで細かく管理しなくても大丈夫かも」
セバスが、柔らかく微笑んだ。
「品物の補充自体は、現在の仕組みを維持なさればよろしいでしょう」
「……うん」
「わたくしは、困りごとや、各邸からのご相談を整理するお役目を考えております」
……なるほど。
何でも自分でやるんじゃなくて、必要なところを手伝うんだ。
私は、少し感心した。
「……セバス、すごいね」
「恐れ入ります」
「巴さんのお仕事も、邪魔しないように考えてくれてるし」
セバスが、静かに頭を下げた。
「すでに整っているものを、理由なく変える必要はございませんので」
……おお。
そういう人、好きだなぁ。
◇
巴さんが、セバスを見た。
「それじゃあ、私はこれからもみんなの生活とお仕事の様子を見て、セバスチャンさんには連絡や予定の整理をお願いしようかしら」
「かしこまりました」
「困ったことがあったら、遠慮しないで相談してね」
「ありがとうございます、巴」
私は、二人のやり取りを見守った。
……うん。
これなら、安心して任せられる。
とはいえ。
「巴さん。無理に全部セバスに渡さなくていいからね」
「分かってるわよ」
「セバスも、仕事を増やしすぎないでね」
「心得ております、旦那様」
……よし。
これで大丈夫。
……たぶん。
◇
午後。
私は、庭の長椅子へ腰を下ろした。
桜花が隣。
少し離れた場所では、カトレアと楓が花壇を眺めている。
……ああ。
平和だねぇ。
セバスは、巴さんと一緒に屋敷の中を見て回っている。
新しい家族が増えたのに、屋敷の雰囲気はいつもどおり。
……うん。
いいことだね。
「桜花」
「はい、リアリス様」
「セバス、ちゃんと馴染めるかな」
「すでに、馴染んでおられるように見受けられます」
「……そうかな」
「カトレア様とも楽しそうにお話しされておりました」
……うん。
そうだったね。
私は、少し笑った。
◇
「でも、私って、つい新しいことを思いついて動いちゃうんだよね」
私は、庭を見つめた。
屋敷も、雑貨屋も、美容院も。
最初は、自分がのんびり暮らすためだった。
それが、気づいたら各国へ広がって。
フラワーズが増えて。
新しい仲間が加わって。
人魔和平なんて、大きな話にも関わって。
……ああ。
普通の異世界スローライフって、どこへ行っちゃったんだろう。
「リアリス様」
桜花が、穏やかに声をかける。
「ん?」
「今も、のんびりなさっておいででは?」
……えっ。
私は、庭の長椅子を見た。
手元にはお茶。
隣には桜花。
庭では娘が花を育てている。
……あ。
確かに。
「……言われてみれば、そうだね」
桜花が、微笑んだ。
◇
そのとき、少し離れた場所から声がした。
「旦那様」
……あっ。
セバスだ。
振り返ると、黒い燕尾服の男性が立っていた。
白い短髪と整った髭。
穏やかな笑み。
……うん。
庭の風景に、ものすごく似合ってる。
「セバス。どうしたの?」
「本日の各邸からの連絡を確認いたしました」
「おっ。早速?」
「はい」
セバスが、手元の紙を見た。
「ただし、差し迫った外交案件は、やはりございません」
…………。
……うん。
知ってる。
◇
「……そうだよねぇ」
私は、長椅子の背へもたれた。
セバスは、涼しい顔で続ける。
「現在、予定されているご来客も、特別な交渉を必要とする方はいらっしゃいません」
「……そっか」
「平穏な状態が続いているようで、何よりでございます」
……ああ。
前向きだねぇ。
私は、思わず笑ってしまった。
「……セバス。やっぱり、外交の仕事、なくてごめんね」
「旦那様」
セバスが、ゆっくり首を横に振る。
「何度でも申し上げますが、謝られる必要はございません」
「……うん」
「本日だけでも、新しいご家族の皆さんとお会いできました」
……あっ。
そうだね。
◇
「カトレア様には、お花をご案内いただきました」
セバスが続ける。
「楓には、静かな時間を楽しむことを教えていただきました」
……おお。
楓に?
私は、少し驚いた。
楓って、そんなに話す子じゃないんだけど。
「……何て言ってたの?」
「少しの間、花壇の前でご一緒に立っておりました」
「……うん」
「すると、楓がひと言」
セバスは、わずかに目を細めた。
「『……きれい』と」
……ああ。
それだけなんだ。
でも。
うん。
楓らしいね。
「それだけで、十分に伝わってまいりました」
セバスの声は、穏やかだった。
……ああ。
この人、ちゃんと分かってくれるんだね。
◇
「それから、巴には、多くのことを教えていただきました」
「うん」
「各邸の皆さんが、すでに大変よい仕事をなさっていることも」
……ああ。
そうだね。
セバスが、丁寧に一礼した。
「わたくしは、そのお仕事を妨げることなく、支えてまいりたいと存じます」
私は、静かに頷いた。
「うん。お願い」
「かしこまりました、旦那様」
……うん。
新しい仲間を作ってよかった。
外交の仕事は、なかったけどね。
◇
夕方。
食堂から、いい匂いが漂ってきた。
巴さんが、夕食の準備を進めている。
カトレアは、庭から戻って手を洗っていた。
桜花が、私の隣を歩いている。
セバスは、玄関のそばに立っていた。
……あれ。
どうしたのかな。
「セバス。何してるの?」
「旦那様のお帰りをお待ちしておりました」
「……えっ」
私は、思わず目を瞬いた。
「……いや、私、庭にいただけだよ?」
「存じ上げております」
セバスが、優雅に一礼した。
「お帰りなさいませ、旦那様」
…………。
……ああ。
なるほど。
これが、執事。
◇
「……ただいま、セバス」
私が答えると、セバスの笑みが少し深くなった。
「お食事の準備が整っております」
「うん。ありがとう」
私は、廊下を歩きながら考えた。
外交の天才。
交渉の専門家。
何でもできそうな執事。
……その人が、今は私の帰りを待ってくれている。
それって。
何だか、すごく贅沢なことかもしれない。
桜花が、私を見た。
「リアリス様。嬉しそうでございますね」
「……うん」
私は、素直に頷いた。
「新しい家族が増えたからね」
◇
夕食の席では、セバスがすっかりカトレアのお話し相手になっていた。
「それでね、楓お姉ちゃんが教えてくれたの!」
「なるほど。たいへん興味深いお話でございます」
「今度、セバスも一緒にお花育てようね!」
「喜んでお手伝いいたします」
……ああ。
楽しそう。
私は、巴さんへ目を向けた。
「巴さん」
「なあに、リアリスちゃん」
「セバス、いい人だね」
「ええ。とても素敵な方ね」
巴さんが、優しく微笑む。
「明日からは、私も色々助けてもらえそうだわ」
「……うん。無理しないでね、二人とも」
「もちろんよ」
……よかった。
◇
食事が終わり、みんながそれぞれの時間を過ごし始めた頃。
私は、居間へ戻った。
机の上には、今朝の白紙。
……あ。
そういえば、予定を整理しようとしてたんだっけ。
手に取ると、裏側に小さな文字が書かれていた。
……えっ。
いつの間に?
そこには、綺麗な字で、一行だけ。
『今後のご相談事項が生じた場合は、セバスチャンへ』
…………。
……おお。
すごい。
見ただけで、安心できる。
私は、思わず笑った。
これなら、今後何かあっても、相談できるね。
◇
「旦那様」
振り返ると、セバスが立っていた。
「……あっ。セバス。これ、書いてくれたの?」
「はい。差し出がましいことをいたしましたでしょうか」
「ううん。ありがとう」
私は、紙を見せた。
「すごく助かるよ」
「そうおっしゃっていただけるのでしたら、何よりでございます」
私は、少しだけ考えた。
「セバス。改めて、よろしくね」
「はい、旦那様」
「外交のことも、家のことも。でも、一番は、一緒に楽しく暮らそう」
セバスの目が、穏やかに細くなる。
「……ありがたきお言葉でございます」
私は、首を横に振った。
「そんなに畏まらなくていいんだよ」
「恐れ入ります」
……うん。
これは、直らなさそうだね。
◇
私は、窓の外を見た。
庭には、夕闇が降りている。
屋敷の中からは、カトレアの笑い声。
少し離れた廊下では、巴さんが誰かへ声をかけていた。
桜花は、いつものように私のそば。
そして、今日からセバスもいる。
……ああ。
何だか、安心するなぁ。
外交の天才を作ったのに、外交案件はない。
……まあ、いいか。
仕事がないなら、平和ってことだもんね。
それに。
いつか難しい話が出てきたとき。
私は、一人で抱え込まなくていい。
……そう考えると、かなり心強い。
◇
「では、旦那様。明日のご予定について、お伺いしてもよろしいでしょうか」
セバスが、静かに尋ねた。
「明日?」
「はい」
……そういえば。
明日は、何をするんだっけ。
私は、少し考えた。
各国の屋敷は落ち着いている。
外交案件は、ない。
急ぎのお仕事も、今のところはない。
……うん。
「明日は、のんびりしようかな」
セバスが、微笑んだ。
「かしこまりました」
「お庭でお茶を飲んで、カトレアと遊んで……」
「よろしゅうございます」
「夕方には、みんなで美味しいご飯を食べて」
「すばらしいご予定でございます」
……おお。
全肯定だ。
私は、思わず笑った。
◇
ところが。
「ただし、一点だけ確認させてくださいませ」
セバスが、穏やかに続けた。
「……ん?」
「旦那様は、本日、朝食前に何かをなさるおつもりでいらっしゃいましたか」
…………。
……えっ。
朝食前?
……あ。
そういえば。
予定を書こうと思って、居間へ来たんだよね。
朝ご飯は、その後だった。
セバスが、微笑んだまま続ける。
「巴より、お食事を抜かれがちなことがあると伺っております」
……あああ。
もう情報が共有されてる!
「ですので、明日のご予定には、まず朝食を入れさせていただきたく」
…………。
私は、桜花を見た。
桜花は、静かに頷く。
「賛成でございます」
……あれ。
逃げ道がない。
◇
「……分かった。ちゃんと食べるよ」
「ありがとうございます、旦那様」
セバスが、丁寧に一礼した。
「それでは、明日は朝食から始める一日ということで」
「……はい」
……うん。
外交の天才。
交渉の天才。
私の言葉を聞いて、必要なことを見極める執事。
その最初の交渉相手は。
まさかの。
……私だった。
しかも。
あっさり負けた。
私は、遠い目をした。
「……セバス」
「はい、旦那様」
「もしかして、交渉の仕事、もう見つかった?」
セバスは、整った髭の下で、穏やかに微笑んだ。
「はい。旦那様のお食事を、きちんと確保することでございます」
…………。
……それ、外交じゃないよね!?
桜花の口元が、ほんの少しだけ緩む。
廊下の向こうから、巴さんの楽しそうな笑い声が聞こえた。
……ああ。
また一人。
私の家に、とても頼もしい人が増えたようだ。
……うん。
明日からも、のんびり暮らせるといいなぁ。
……今のところ、予定は朝ご飯だけだけどね。
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