第11話:新しいメイドが来ました
あれから、さらに数日が過ぎた。
シルク王国邸の朝は、今日も平和だ。
……たぶん。
「お父さん、ここ、何色がいいかな?」
食堂の一角で、カトレアが画用紙を広げていた。
描かれているのは、小さな紫の花。
ローズ帝国邸でエーデルさんへ贈った、あの花だ。
「葉っぱなら緑かな」
「それは分かってるよぉ」
「……あれ」
私が首を傾げると、カトレアが頬を膨らませた。
「お空の色だよ!」
「……ああ、そっちね」
……うん。
ごめん。お父さん、全然分かってなかった。
◇
テーブルには、色とりどりの絵筆と絵の具。
その横に、花壇から持ってきた小さな花が一輪置かれている。
楓が、いつの間にか隣に立っていた。
「……薄い青」
「そうかな?」
「……うん」
カトレアが、青い絵の具を少しだけ水で薄める。
紙の上に、柔らかな空の色が広がった。
「わあ、綺麗!」
楓が小さく頷いた。
……おお。
さすが楓。
私の出番、完全になかったね。
◇
「リアリスちゃん。朝ご飯を食べてからにしましょうね」
巴さんが、焼きたてのパンを運んできた。
「あっ。もうそんな時間?」
「もう、じゃないわよ。カトレアちゃんと二人で、ずっと絵を眺めていたでしょう」
「……はい」
その通りです。
桜花が、隣の椅子を引いてくれる。
「リアリス様。お食事の準備が整っております」
「ありがとう、桜花」
私たちは、いつものようにみんなで食卓を囲んだ。
楓と、シルク王国邸の一般メイドたちも一緒。
パンを取り分ける人もいれば、スープをおかわりする人もいる。
……うん。
こういう朝が、一番落ち着くね。
◇
「カトレア。その絵は、エーデルさんへ?」
「うん! この前、また来ていいって言ってくれたから」
「そっか」
エーデルさんは、少しずつ食事を取れるようになっている。
杏子からの報告では、昨日は自分から窓を開けたそうだ。
たったそれだけのこと。
でも、あの部屋で座ったままだった姿を思い出すと、私には大きな変化に思えた。
「エーデルさん、喜んでくれるといいね」
「うん!」
カトレアが、嬉しそうに頷いた。
……ああ。
今日も、お花の絵を届けに行こうかな。
そう考えたときだった。
◇
私の目の前に、呼び出し用の画面が現れた。
……えっ。
今?
表示されている相手の名前を見て、私は少し嫌な予感がした。
「……皇帝?」
桜花が、静かに私を見る。
「ヴァリロッサ皇帝陛下でございますか」
「うん」
私は、呼び出しに応じた。
『おう、リアリス!』
画面いっぱいに、灰色の短髪の男性の顔が映る。
……近い。
近いよ、皇帝。
「おはよう、皇帝」
『はっはっは! 元気そうだな!』
「おかげさまで」
……さて。
どうして朝から、そんなに嬉しそうなんだろう。
◇
『リアリス。約束を覚えているか?』
……あっ。
嫌な予感、当たった。
「……約束?」
『俺との手合わせだ!』
……やっぱり!
私は、思わず額へ手を当てた。
ゴゾーラ子爵の事件を調べていたとき。
皇帝から、事件が片づいたら手合わせをしろと言われた。
私も、確かに了承した。
……したけど。
まさか、朝食の時間に催促されるとは思わなかったよ。
「皇帝。まだ帝国の調査は続いてるよね?」
『無論だ。そちらはガラントたちが進めている』
「じゃあ、まだ――」
『保護した者たちの当面の処遇も決まった! お前も一息つける頃だろう!』
……うん。
そういうことじゃないと思うんだけどなぁ。
◇
画面の横から、見慣れた片眼鏡の男性が現れた。
『リアリス殿。朝早くから失礼いたします』
「おはよう、ガラントさん」
『陛下が、ここ数日ずっと手合わせの日程を気になさっておりまして』
『当然だろう! 俺は楽しみにしていたんだぞ!』
『……存じております』
ガラントさんが、遠い目をした。
……ああ。
今日も大変そうだね。
『ただし、リアリス殿。安全の確保が難しいようでしたら、延期していただいて構いません』
「……そうだね」
私は、隣の桜花を見た。
桜花は静かに頷く。
「リアリス様。わたくしも同行いたします」
「……うん。お願い」
……今回は、特に気をつけよう。
◇
私は画面へ向き直った。
「皇帝。約束したからには、ちゃんと行くよ。でも、条件があるんだ」
『おお! 言ってみろ!』
「真剣は使わない。周りに人がいない場所で、怪我をさせない。私も力を抑える。それでいい?」
『無論だ!』
……即答だ。
今度は、本当に分かってるかな。
『俺は遊びのつもりではない! だが、命の取り合いをしたいわけでもないからな!』
……なるほど。
そこは、ちゃんとしてるんだね。
「それなら、午後にローズ帝国邸へ行くよ。そこからお城へ向かうね」
『よし! 待っているぞ!』
皇帝は、満足そうに笑った。
画面が消える直前、ガラントさんのため息が聞こえた気がした。
◇
「……リアリスちゃん」
巴さんが、私を呼んだ。
……あ。
これは、怒られる流れだ。
「はい」
「手合わせ、するのね?」
「……うん。約束したから」
巴さんは、じっと私を見た。
桜花の方へも視線を向ける。
「桜花ちゃんも、しっかり見ていてね」
「承知しております」
「リアリスちゃん」
「はい」
「強いことを見せるために、無理をする必要はないのよ」
私は、少しだけ黙った。
……そうだね。
前は、それをちゃんと分かっていなかった。
「うん。今度は、絶対に気をつけるよ」
巴さんが、柔らかく頷いた。
「それならいいわ。帰ってきたら、美味しい夕ご飯を用意しておくからね」
「……うん!」
……ああ。
楽しみが一つ増えたね。
◇
「お父さん、皇帝のおじさんと遊ぶの?」
カトレアが、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「……遊ぶ、っていうのかな」
「剣で?」
「うん。でも危なくないようにするよ」
カトレアは少し考えた。
「じゃあ、勝ったらお菓子もらえる?」
……えっ。
勝ったご褒美?
「どうだろう。皇帝なら、何かくれるかもしれないね」
「やった!」
「……いや、まだ勝ってないよ?」
カトレアは、にこにこと笑った。
桜花が、ほんの少しだけ口元を緩める。
……うん。
できれば、平和に終わるといいな。
◇
昼食を終えてから。
私は、桜花と一緒にローズ帝国邸へ向かった。
もちろん、使うのは《簡易転移》の扉だ。
シルク王国邸の廊下で扉を開き、二人でくぐる。
次の瞬間には、ローズ帝国邸の廊下。
……うん。
何度使っても、便利だね。
杏子が、私たちを迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、リアリス様。桜花様」
「ただいま、杏子」
「本日は帝城へ向かわれると伺っております」
「うん。皇帝との約束なんだ」
杏子は、静かに一礼した。
「ご無事のお帰りをお待ちしております」
……あっ。
ちょっとだけ、声が真剣だ。
「大丈夫。無茶はしないよ」
「……はい」
その返事に、まだ少し心配が残っているように聞こえた。
◇
玄関へ向かう途中、私は足を止めた。
「そうだ、杏子。カトレアがエーデルさんへ絵を描いてるんだ」
「まあ」
「できあがったら持ってくると思うから、そのときはよろしくね」
「かしこまりました」
杏子が、小さく微笑んだ。
「エーデル様も、先日お贈りいただいたお花を大切にしておられます」
「そうなんだね」
「はい。朝はご自身で窓辺の鉢を確かめていらっしゃいました」
……ああ。
よかった。
「無理しないように、見てあげてね」
「もちろんでございます」
私は頷いて、桜花とともに屋敷を出た。
◇
帝城へは、事前に手配してもらった馬車で向かった。
通りには、人が行き交っている。
荷を積んだ馬車。
店先で話す人たち。
道の端で遊ぶ子どもたち。
以前、帝都へ来たときより、少し落ち着いて景色を眺められる気がした。
……うん。
ここで起きた事件は、まだ調査が続いている。
でも、町の暮らしも同じように続いているんだ。
桜花が、窓の外を見つめる私へ尋ねた。
「リアリス様。ご緊張なさっておいでですか」
「……少しだけ」
「陛下のお強さを、気になさっているのでしょうか」
「ううん。そこじゃないんだ」
私は、自分の手を見た。
「今度は、ちゃんと力を止められるかなって」
◇
桜花が、静かに答えた。
「リアリス様」
「……ん?」
「わたくしは、リアリス様がどれほどお強いか、よく存じ上げております」
「……うん」
「ですが、強いことと、すべての力を使うことは同じではございません」
私は、桜花を見た。
彼女は、いつもどおり穏やかな顔をしている。
「本日は、陛下のお相手をなさるのでしょう?」
「うん」
「でしたら、陛下がお怪我をなさらないよう、必要な分だけお使いになればよろしいかと」
……必要な分だけ。
簡単なようで、今の私には少し難しい言葉だった。
「……そうだね」
私は、息を吐く。
「ちゃんと、そうするよ」
桜花が、微笑んだ。
「はい」
◇
帝城の門前では、兵士が待っていた。
事前に連絡が通っていたらしく、私たちの姿を見るとすぐに案内してくれる。
「リアリス殿、桜花殿。こちらへどうぞ」
「ありがとうございます」
石造りの廊下を進む。
広い中庭を抜け、さらに奥へ。
やがて、見覚えのある訓練場が見えてきた。
……ああ。
ここだね。
前に桜花が、皇帝と模擬戦をした場所。
あのときも、皇帝はものすごく楽しそうだったっけ。
……今も、だろうなぁ。
そんなことを考えた瞬間。
「リアリス!」
向こうから、大きな声が響いた。
◇
「待っていたぞ!」
ヴァリロッサ皇帝が、豪快に笑っていた。
灰色の短い髪。
大きな体。
筋肉質の腕。
その隣には、片眼鏡のガラントさん。
……うん。
いつもの二人だね。
「こんにちは、皇帝。ガラントさんも」
「リアリス殿。ようこそお越しくださいました」
「はっはっは! ついに約束の日だな!」
「……そうだね」
皇帝は、嬉しそうに拳を握った。
……あの。
本当に楽しみにしてたんだね。
私は、少しだけ笑ってしまった。
◇
訓練場には、数人の近衛兵がいた。
観戦者は遠くの安全な場所に集められ、立ち入りを制限するための印が地面に置かれている。
ガラントさんが、確認書を開いた。
「今回の手合わせは、以前の桜花殿との模擬戦と同じく、安全を最優先とします」
「うん。お願いします」
「急所への攻撃、相手の命にかかわる力の行使は禁止。勝敗は降参、武器の喪失、または私の停止宣言で決定いたします」
皇帝が、腕を組んだ。
「分かった!」
「陛下。お一人で勝手に規則を変更することも禁止です」
「……分かっている!」
……あれ。
今、少し間があったよね?
ガラントさんも、気づいているみたいだった。
◇
「まずは、武器を持たずに身体を動かそう!」
皇帝が、そう言った。
「……えっ」
「いきなり剣を交えるより、お互いの動きを見ておきたい」
……おお。
ちゃんと考えてるんだ。
「分かった。じゃあ、軽くね」
「望むところだ!」
皇帝が、ゆっくり前へ出る。
……うん。
この人の構え、やっぱり綺麗だね。
肩の力が抜けているのに、どこからでも攻撃できそうだ。
以前、桜花と戦ったときにも思ったけど。
S級の剣士というのは、伊達じゃないんだろう。
私は、少しだけ足を開いた。
「じゃあ、お願いします」
皇帝が、にやりと笑った。
◇
「――始め!」
ガラントさんの声。
皇帝の姿が、視界の中で動いた。
……早い。
一般の人なら、何が起きたか分からないだろう。
それくらい速かった。
でも。
私には、ゆっくりに見える。
皇帝の拳が、こちらへ伸びる。
私は、体をほんの少し横へずらした。
拳が、空を切る。
……あ。
これ、手を出さずに避け続けてもいいんじゃないかな。
そう思ったのが、まずかった。
◇
「どうした、リアリス! 遠慮するな!」
皇帝が、笑いながら次の一撃を放った。
……ええ。
遠慮するなって言われても。
私は、咄嗟に指を曲げた。
親指で、中指を軽く押さえる。
そう。
ただの、デコピン。
額にちょんと触れるくらいなら、危なくないと思ったんだ。
皇帝が、ほんの一瞬だけ隙を見せる。
……今かな。
私は、中指を弾いた。
ぱちん。
乾いた音がした。
◇
「――ぐおっ!?」
……えっ。
皇帝の体が、後ろへ跳ねた。
足が地面を滑り、数歩。
そのまま、仰向けに倒れる。
どさっ。
…………。
……あれ?
「……皇帝?」
返事がない。
ガラントさんが、一瞬だけ固まった。
「……陛下?」
皇帝は、空を見つめたまま動かない。
……えっ。
嘘でしょ。
私は、慌てて駆け寄った。
「皇帝! 大丈夫!?」
◇
近づいて確かめると、呼吸も脈も正常だった。
……よかった。
けれど、完全に気を失っている。
……えええ。
デコピンだよ!?
しかも、ほんの少しだけしか力を入れてないつもりだったのに。
「ガラントさん、ごめん! すぐに治す!」
私は、皇帝へ《完全回復》を使った。
……あ。
額の赤みが消えた。
でも、皇帝は目を開けない。
ガラントさんが、長いため息をついた。
「……リアリス殿」
「……はい」
「陛下のお怪我がないことは確認できました」
「……うん」
「ですから、落ち着いてください」
……はい。
おっしゃるとおりです。
◇
近衛兵たちは、呆然としていた。
「……今、何をされたんだ?」
「……指を、弾いたように見えたが」
「まさか……」
……ああ。
見られちゃった。
皇帝をデコピンで気絶させたところ。
……これ、外交問題になったりしないよね?
そう考えていると、皇帝が動いた。
「……む」
大きな体が、ゆっくり起き上がる。
「……何が起きた」
「……あの、皇帝」
私は、正座しそうな気分になった。
「……ごめんなさい」
皇帝が、私の顔を見た。
「……お前が謝るようなことか?」
「……えっと」
……いや。
あると思う。
◇
事情を説明すると、皇帝はしばらく黙っていた。
それから。
「……デコピン?」
「……うん」
「指一本で?」
「……そう」
沈黙。
……怒るかな。
当たり前だよね。
私は、少し身構えた。
しかし。
「……はっ」
皇帝の口元が、ゆっくり持ち上がる。
「はっはっはっは!」
……あれ?
「面白い! 実に面白いぞ、リアリス!」
大きな笑い声が、訓練場へ響いた。
……よかった。
怒ってないみたいだね。
いや、よかったのかな?
◇
「やはり、桜花よりさらに上というわけか!」
皇帝が、嬉しそうに立ち上がった。
「剣でも試したい!」
……えっ。
まだやるの?
「皇帝。さっき気絶したばかりだよ?」
「怪我はないのだろう!」
「……そうだけど」
「ならば問題ない!」
……いや。
問題、あるような気がするよ。
ガラントさんが、片眼鏡に手を添えた。
「陛下。これ以上の手合わせは――」
「ガラント! 俺は元気だ!」
「陛下が元気かどうかだけの問題ではありません」
……ああ。
この人の苦労、本当に尽きないね。
◇
結局、もう一度だけ手合わせすることになった。
ガラントさんの許可が下りたのは、皇帝に怪我がなく、本人が強く希望したから。
ただし、条件は増えた。
武器は訓練用。
大きな攻撃魔法は使わない。
周囲に衝撃を及ぼさない。
危険だと判断したら、即座に中止。
……うん。
今度こそ、ちゃんとしよう。
私は、刀の形をした訓練用の武器を用意した。
刃を潰してあり、斬るためのものではない。
それでも、鞘から抜く動きは普段の刀と同じようにできる。
皇帝も、訓練用の剣を手に取った。
「今度は、剣だな!」
「……本当に、無理しないでね」
「それは俺の台詞だ!」
……そうなんだ。
◇
皇帝が剣を構える。
私は、刀を鞘に収めたまま立った。
「……抜かないのか?」
「うん。使いたい技があるんだ」
皇帝の目が、鋭くなる。
「ほう」
……お。
さっきまでの笑顔が消えた。
これは、本気だ。
皇帝は、強い。
それは間違いない。
でも。
力の差も、はっきりしている。
だから、私は一つだけ決めた。
……絶対に、体を斬らない。
皇帝の剣を落とすところまで。
それ以上は、しない。
◇
ガラントさんが、右手を上げた。
「両者、準備はよろしいですね」
「いつでも!」
「うん」
風が、訓練場を通り抜けた。
皇帝の重心が、わずかに下がる。
さすが、S級の剣士。
どこから来るか、分かっているんだろう。
皇帝が、剣を前へ向ける。
私は、鞘に手を添えた。
……落ち着いて。
必要な分だけ。
桜花の言葉を、思い出した。
「――始め!」
次の瞬間。
◇
私は、踏み込んだ。
【一閃】。
鞘から刀を抜き放つ。
いつものように、ただ速く。
でも、力は限りなく抑えて。
狙うのは、皇帝の剣。
刃ではなく、剣の根元に近い場所。
こつん。
……小さな音。
皇帝の剣が、宙へ舞った。
それから。
私は、皇帝のすぐ横を通り抜け、静かに刀を鞘へ戻した。
……よし。
今度こそ、怪我はさせてない。
◇
かん、と訓練用の剣が地面へ落ちた。
皇帝は、動かなかった。
目を大きく開き、前を見つめている。
「……皇帝?」
返事がない。
……えっ。
今度は、何も当ててないよ?
皇帝の視線が、私へ向いた。
口が、ゆっくり開く。
「……今のが……」
そこで、言葉が途切れた。
ぐらり。
大きな体が、傾く。
……あっ。
「ちょ、ちょっと!」
私は、慌てて駆け寄った。
間に合わず、皇帝はその場に膝をつき――
そのまま、前へ倒れた。
◇
…………。
…………。
「……皇帝!?」
返事がない。
私は、もう一度呼吸と脈を確かめた。
正常。
傷もない。
……うん。
完全に気絶してるね。
今度は剣すら当ててないのに。
「……ガラントさん」
私は、恐る恐る振り返った。
ガラントさんは、片眼鏡を直していた。
それから、深く息を吸った。
「……リアリス殿」
「……はい」
「お怪我はありませんね?」
「うん。見た限り、大丈夫だよ」
「……では」
ガラントさんが、静かに言った。
「本日の手合わせは、これにて終了といたします」
……はい!
異議ありません!
◇
訓練場にいた兵士たちは、誰も声を出さなかった。
やがて、一人が小さく呟く。
「……今のは、剣が飛んだのか?」
「……いや。見えなかった」
「……陛下が、二度も……」
……ああ。
そうだよね。
帝国最強クラスの剣士が。
デコピンと、たった一度の抜刀で気絶したんだから。
……いやいや。
やっぱり、まずかったかな。
私は、うつ伏せの皇帝を見た。
……ごめん、皇帝。
せめて、気持ちよく終わらせてあげたかったんだけど。
◇
少しして、皇帝が再び目を開けた。
「……む」
「皇帝、大丈夫?」
私は、顔を覗き込んだ。
皇帝は、しばらく空を眺めていた。
それから、勢いよく起き上がる。
「……はっはっは!」
……ああ。
今日、何回目だろう。
「見えんかった!」
「……うん」
「まったく見えんかったぞ!」
「……そっか」
「桜花のときも驚いたが、お前はさらに速い!」
皇帝の顔は、嬉しそうだった。
……本当に。
この人って、戦うことが好きなんだね。
「皇帝。怪我は、ない?」
「ない!」
「気分は?」
「最高だ!」
……いや、最高なの?
◇
ガラントさんが、一歩前へ出た。
「陛下」
「何だ?」
「本日は、これでおしまいです」
「分かっている」
「次回の手合わせを、その場でお約束なさることもお控えください」
……えっ。
そこまで先回りするんだ。
皇帝が、少し不満そうに眉を寄せた。
「……一度くらいなら」
「陛下」
「……分かった!」
私は、思わず吹き出しそうになった。
……すごい。
この人、皇帝を一言で止められるんだね。
ガラントさんの方が、よほど強いんじゃないかな。
……政治的な意味で。
◇
片づけを終え、私たちは訓練場の脇にある休憩室へ案内された。
温かな紅茶。
小さな焼き菓子。
窓の外には、先ほどの訓練場が見える。
皇帝は、椅子へどっかりと座った。
「いやあ、面白かった!」
「……そう言ってもらえるなら、よかったよ」
「次は、もっと鍛えてから挑むぞ!」
……あ。
全然諦めてない。
隣では、ガラントさんが書類を確認している。
「陛下。その前に、執務室へお戻りください」
「少しくらい休ませろ!」
「すでに、十分休んでおられます」
……うん。
いつものやり取りだね。
私は、クッキーを一枚取った。
……あっ。
これ、美味しいな。
◇
「リアリス」
皇帝が、不意に真面目な声を出した。
「……ん?」
「先日の一件、ガラントから報告を受けている」
私は、手を止めた。
ゴゾーラ子爵の事件。
……うん。
「調査は続ける。子爵と関係者をどう裁くかも、帝国の責任だ」
「……ありがとう」
皇帝が、静かに頷く。
「お前が保護した者たちも、今後困ることがあれば知らせろ」
「うん。必要なときは、お願いするよ」
皇帝は、しばらく私を見ていた。
そして。
「……今日は、ちゃんと力を抑えていたな」
……えっ。
「……分かったの?」
「当然だ」
皇帝が、笑った。
「俺も剣を使う男だ。全力であれば、あれでは済まんと分かる」
私は、静かに頷いた。
「……もう、同じことは繰り返したくないから」
「そうか」
皇帝は、それ以上尋ねなかった。
◇
帰り際、ガラントさんが私を呼び止めた。
「リアリス殿」
「ん?」
「本日は、お越しいただきありがとうございました」
「こちらこそ。色々と準備してくれてありがとう」
ガラントさんは、少しだけ微笑んだ。
「陛下は、お強い方に出会うと、どうにも歯止めが利かなくなられまして」
「……うん。見てたら分かるよ」
「……次回がございましたら、事前にご相談ください」
「もちろん」
私は、思わず笑った。
「でも、しばらくはお休みでいいかな」
「……ぜひ、そうなさってください」
……ああ。
心からのお願いだね、これは。
◇
帝城を出て、帰りの馬車に乗る。
桜花が、私の隣へ座った。
「リアリス様。お疲れさまでございました」
「ありがとう、桜花」
私は、窓の外を見た。
「……ちょっと、やりすぎたかな」
「どちらも、お怪我はございませんでした」
「……うん」
「ただ、陛下が二度気を失われたのは、想定外でございましたね」
……そうなんだよね。
桜花は、ほんの少し首を傾げた。
「初めの一撃は、なお一層の加減が必要であったかと存じます」
「……はい」
……反論できない。
「でも、二回目は?」
「二回目は、陛下が動きに驚かれたのでございましょう」
……ああ。
衝撃じゃなくて、驚きで?
……そんなこと、あるんだね。
◇
桜花は、私を見た。
「リアリス様は、約束をお守りになりました」
「……うん」
「誰も傷つけず、訓練場も壊さず、陛下のご希望にお応えしました」
私は、少し笑った。
「気絶はさせちゃったけどね」
「……はい」
桜花の口元が、わずかに緩む。
「そこは、次回の課題かと存じます」
「……次回は、できれば遠慮したいなぁ」
桜花が、小さく微笑んだ。
……うん。
でも。
今日はちゃんと、桜花が隣にいる。
それが、何より嬉しかった。
◇
ローズ帝国邸へ戻ったのは、夕方近くのことだった。
玄関をくぐると、杏子が迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、リアリス様」
「ただいま、杏子」
杏子の視線が、私と桜花を順番に確かめる。
「お怪我は、ございませんか」
「うん。大丈夫だよ」
「……皇帝陛下も?」
「……うん。怪我はないよ」
……気絶はしたけど。
杏子は、少しだけ首を傾げた。
「……何かございましたか?」
「……後で話すね」
……できれば、あまり詳しく聞かないでほしいなぁ。
◇
廊下を進もうとしたとき、杏子が声をかけた。
「リアリス様。少し、お時間をいただけますでしょうか」
「もちろん。どうしたの?」
杏子は、ほんの少し考えるように言葉を選んだ。
「エーデル様から、お話があると伺っております」
「……エーデルさんから?」
「はい。先ほど、ご自身からわたくしへお申し出がございました」
私は、思わず足を止めた。
……エーデルさんが、自分から。
何か、困ったことがあったのかな。
「体調は大丈夫?」
「はい。お食事も、少しずつ召し上がれるようになっております」
「そっか。じゃあ、会ってもいいか聞いてくれる?」
「すでに、ご本人からお会いしたいとのお言葉をいただいております」
……あっ。
そうなんだ。
「……うん。お願い」
◇
私たちは、エーデルさんの部屋へ向かった。
数日前に、カトレアと訪れた部屋。
廊下を歩いていると、私はあの日のことを思い出した。
ハランという名前。
涙で震えていた声。
カトレアが、エーデルさんを抱きしめたこと。
……あれから、少しずつ変わっているんだね。
でも。
それだけで、何もかもよくなったわけじゃない。
……何の話だろう。
私は、扉の前で立ち止まった。
杏子が、静かに声をかける。
「エーデル様。リアリス様がお見えになりました」
少しして、返事が聞こえた。
「……はい。どうぞ」
◇
部屋へ入ると、エーデルさんは椅子から立ち上がっていた。
長い黒髪が、背中へ落ちている。
顔色は、先日よりずいぶんよくなっていた。
それでも、まだ少し痩せている。
……うん。
焦らず、元気になってほしいね。
「こんにちは、エーデルさん」
「……こんにちは、リアリス様」
エーデルさんが、静かに頭を下げる。
私は、空いている椅子を示した。
「座って話そうか。立ってなくていいよ」
「……ありがとうございます」
エーデルさんが、ゆっくり腰を下ろした。
私も向かいに座る。
桜花と杏子は、少し離れたところに立っていた。
◇
窓辺には、紫の花が置かれている。
カトレアが贈った、小さな鉢植え。
土は、ほどよく湿っていた。
……おお。
ちゃんとお世話してくれてるんだ。
「お花、元気そうだね」
私が声をかけると、エーデルさんは窓辺を見た。
「……はい」
小さく頷く。
「杏子様に、水のやり方を教えていただきました」
「そうなんだ」
「……枯らしたく、なかったので」
その声が、少しだけ柔らかくなった。
「カトレア様が……選んでくださったお花ですから」
私は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
……カトレアが聞いたら、喜ぶだろうなぁ。
◇
「それで、今日はどうしたの?」
私は、なるべく普段どおりに尋ねた。
エーデルさんは、膝の上で両手を重ねている。
少し緊張しているみたいだった。
「……あの」
「うん」
「私……ずっと、お世話になってばかりで……」
……あっ。
もしかして、出ていかなきゃいけないと思ってる?
私は、すぐに首を横に振った。
「エーデルさん。ここにいることで、気にしなくていいんだよ」
エーデルさんが、顔を上げる。
「お金も、今は心配しなくていいからね。まだ休んでいていいんだ」
「……はい」
小さな返事。
でも、エーデルさんは首を横に振った。
「……そうでは、ないんです」
……えっ。
◇
エーデルさんは、ゆっくり息を吸った。
「ここへ来てから、ずっと考えていました」
私は、黙って聞いた。
「夫とハランを失って……もう、私には帰る場所がないと思っていました」
……うん。
あの日、そう言っていたね。
「何をしても、二人は戻ってこない。生きていても、意味がないと……」
エーデルさんは、そこで言葉を止めた。
私は、続きを急がせなかった。
「……でも、カトレア様が来てくださって」
その目が、窓辺の花へ向く。
「お話をして、お花をいただいて……」
微かに、唇が震えた。
「……私の話を、聞いてくださいました」
「……うん」
「ハランの名前を、口にすることもできなかったのに。あの日は、最後まで話せたんです」
その声には、まだ深い悲しみがあった。
でも。
もう、どこか遠くへ消えてしまいそうな声ではなかった。
◇
「……泣いたあと、少し眠れました」
エーデルさんが続ける。
「目を覚ましたとき、窓の外が明るくて……」
私は、静かに頷いた。
「紫のお花が、目に入ったんです」
エーデルさんが、ほんの少し微笑んだ。
「……水をあげなくては、と思いました」
……ああ。
「それで、杏子様にお願いして……」
彼女は、自分の手を見た。
「……久しぶりに、自分から何かをしたいと思ったんです」
私は、何も言えなかった。
花に水をやる。
それだけのことが。
この人にとっては、どれほど大きな一歩だったのだろう。
◇
「……今でも、つらいです」
エーデルさんが、静かに言った。
「朝、目を覚ますと、夫が帰ってくる気がします」
私は、目を伏せた。
「廊下で子どもの声が聞こえると、ハランかもしれないと思ってしまいます」
……うん。
「……会いたいんです」
一粒、涙がこぼれた。
「何度でも、会いたいんです」
私は、静かに頷いた。
「……そうだね」
それしか言えなかった。
でも、今はそれでいいと思った。
エーデルさんは、そっと涙を拭った。
「……忘れたく、ありません」
「うん。忘れなくていいよ」
私は、迷わず答えた。
「忘れる必要なんて、ないと思う」
エーデルさんは、しばらく私を見つめていた。
◇
「……ありがとうございます」
小さな声だった。
それから、エーデルさんは背筋を伸ばした。
「……それで、お願いがございます」
「うん。何かな?」
エーデルさんが、両手を膝の上で揃える。
「私を……こちらで、働かせていただけないでしょうか」
…………。
……えっ?
私は、目を瞬いた。
「……働く?」
「はい」
エーデルさんが、頷く。
「このお屋敷の……メイドとして」
……えええ。
ちょっと待って。
……メイド?
エーデルさんが?
◇
「……それって、誰かに頼まれたの?」
私は、思わず尋ねた。
エーデルさんは、首を横に振る。
「いいえ」
「杏子から?」
「いいえ。杏子様は、まだ休んでいてよいと……」
杏子が、静かに一礼した。
「ご本人から、初めて伺いました」
……そっか。
私は、エーデルさんへ向き直った。
「じゃあ、どうしてメイドになろうと思ったの?」
エーデルさんは、少しだけ考えた。
それから、窓辺の花を見る。
「……ここには、温かいご飯があって」
ゆっくり言葉を選んでいる。
「毎日、誰かが声をかけてくださいます」
私は、黙って聞いた。
「皆様は、私に何かを返すよう求めませんでした」
……うん。
そうだね。
「だからこそ……」
エーデルさんが、私を見る。
「……私も、誰かのために何かをしたいと思いました」
◇
私は、少しだけ目を伏せた。
……ああ。
お礼をするためじゃなくて。
自分で、そう思ったんだね。
エーデルさんは、続けた。
「私は、特別なことはできません。体も、まだ十分には戻っておりません」
「……うん」
「でも、家のことなら……以前は、ずっとやっていました」
ふと、少しだけ笑う。
「夫の帰りが遅い日は、温かいものを残しておいたり。ハランの具合がよい日は、一緒にお菓子を作ったり……」
そこで、言葉が途切れた。
悲しそうな顔。
でも、さっきまでとは違った。
懐かしいものを、大切に思い出しているようだった。
「……私は、誰かが家へ帰ってきたときに、ほっとできるようなことがしたいんです」
……ああ。
いいな。
その気持ち、よく分かるよ。
◇
「ただ……」
エーデルさんが、少し俯く。
「こちらには、優秀なメイドの皆様が、大勢いらっしゃいます」
……うん。
確かにね。
「私のような者が、必要なのかどうか……」
「それは、心配しなくていいと思うよ」
私は、そう答えた。
エーデルさんが、驚いたように顔を上げる。
「うちには、仕事ができる人がたくさんいるけど、それって新しく誰かが来ちゃいけない理由にはならないから」
「……ですが」
「それに、私はみんなに、競争してほしいわけじゃないんだ」
私は、少し笑った。
「できることを、できる範囲でやってくれれば十分だよ」
……あれ。
何だか、すごく偉そうなこと言っちゃったかな。
でも、本当にそう思うんだ。
◇
エーデルさんは、静かに私を見ていた。
私は、もう一つだけ確認する。
「ただね。働くとなったら、ちゃんと決めなきゃいけないこともあるんだ」
「……はい」
「お給料も払うし、お休みも取ってもらう。体調が悪い日は、無理をしなくていい」
エーデルさんが、目を瞬いた。
「……お給金まで……」
「もちろん。仕事だからね」
私は、頷いた。
「ここに住み続けるための条件として、働かせるつもりはないよ」
エーデルさんの表情が、少し変わる。
「……働かなくても、ここにいてよいのでしょうか」
「うん。今は保護してるんだから」
私は、はっきり答えた。
「働きたくないなら、無理に働かなくていい。働いてみて違うと思ったら、辞めたっていいんだ」
……そこは、絶対に大事だ。
◇
私は、少し考えてから続けた。
「あとね、うちのメイドたちには、ちょっと特別な子が多いんだ」
「……特別、でございますか」
「うん。桜花も杏子も、みんなホムンクルスなんだ」
エーデルさんが、杏子を見た。
「……そう、なのですか」
杏子が、静かに頷く。
「はい。わたくしは、リアリス様にお作りいただいたホムンクルスでございます」
「……あっ」
エーデルさんが、驚いたように目を見開く。
……まあ。
見ただけじゃ、分からないよね。
「だから、同じように動こうとしなくていいんだよ」
私は、エーデルさんへ向き直った。
「エーデルさんは普通の人間なんだから、休むことも、体を大切にすることも、ちゃんと考えなきゃいけない」
「……はい」
「無理に頑張って倒れちゃったら、私も心配になるしね」
エーデルさんが、ほんの少し微笑んだ。
◇
桜花が、静かに口を開いた。
「エーデル様」
「……はい」
「メイドとして働かれるのであれば、お仕事の内容は巴と杏子がご案内いたします」
エーデルさんが、姿勢を正す。
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
杏子も、丁寧に頭を下げた。
「お体のご様子を見ながら、少しずつ慣れていただければと存じます」
「……ありがとうございます」
エーデルさんの表情が、少しだけ緩んだ。
……うん。
よかった。
でも。
最後にもう一度、確かめたい。
◇
「エーデルさん」
「はい」
「本当に、エーデルさん自身がそうしたいんだね?」
私は、まっすぐ尋ねた。
エーデルさんは、一瞬だけ目を伏せた。
それから、顔を上げる。
「……はい」
その声は、まだ小さかった。
でも、はっきりしていた。
「私は、自分で……ここで働きたいと思いました」
……ああ。
よかった。
私は、自然に笑っていた。
「じゃあ、よろしくお願いします。エーデルさん」
エーデルさんの目が、大きくなった。
「……よろしいの、ですか」
「もちろん!」
私は、頷く。
「ローズ帝国邸の新しいメイドとして、歓迎するよ」
エーデルさんが、ゆっくり立ち上がった。
そして、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
◇
私は、慌てて立ち上がる。
「そんなに深く頭を下げなくていいよ」
エーデルさんは、それでもすぐには顔を上げなかった。
「……私……」
声が、少し震えていた。
……あ。
泣きそう。
私は、何も言わずに待った。
「……もう一度、誰かの帰りを待ってもいいのですね」
その言葉を聞いた瞬間。
私は、胸の奥が温かくなった。
「……うん」
静かに答える。
「待ってくれる人がいたら、帰ってくる側も嬉しいよ」
エーデルさんは、顔を上げた。
目元が、少し濡れている。
でも、その口元には。
確かに、小さな笑みが浮かんでいた。
◇
エーデルさんのことを、まずは巴さんへ連絡することにした。
《映像通話》の画面が開く。
『リアリスちゃん? どうしたの?』
「巴さん。ちょっと相談があるんだ」
『あら。何かしら』
「実はね、エーデルさんがここで働きたいって言ってくれて」
巴さんが、ぱちぱちと目を瞬かせる。
『……まあ』
「本人が希望してくれたんだ。ローズ帝国邸のメイドとして迎えようと思うんだけど、いいかな?」
巴さんは、少しだけ考えた。
それから、優しく微笑んだ。
『もちろんよ。でも、最初は無理をさせないでね』
「うん。そのつもり」
『それなら、私も一度お話ししに行くわね。生活のことも、お仕事のことも、きちんと相談しましょう』
「ありがとう、巴さん」
『それにしても……』
巴さんが、嬉しそうに笑った。
『新しい家族が増えるのね』
……あ。
そう言われると、なんだか照れるな。
◇
通話を終えたあと、私はエーデルさんへ向き直った。
「今の話、聞こえた?」
「……はい」
「巴さんは、うちのメイド長なんだ。とっても頼りになるよ」
エーデルさんが、静かに頷く。
「……先日、少しだけお話しさせていただきました」
「そうなんだね」
「……温かい方でした」
……うん。
そうでしょう。
ただし。
ご飯を抜くと、かなり怒られるんだよね。
……今は、言わなくていいか。
私は、ちょっとだけ笑った。
◇
杏子が、確認するように尋ねる。
「リアリス様。エーデル様のお部屋は、当面そのままでよろしいでしょうか」
「うん。慣れるまでは、今の部屋がいいと思う」
「かしこまりました」
「それと、しばらくは短い時間だけお仕事をして、休む時間を多くしてね」
「承知いたしました」
エーデルさんが、申し訳なさそうに眉を下げた。
「……私、そんなに気を遣っていただかなくても……」
「だめだよ」
私は、思わず即答した。
「……え?」
「体を壊したら、お仕事どころじゃなくなるからね」
……あ。
巴さんみたいなこと言っちゃった。
桜花の口元が、少しだけ緩んだ。
……笑ってるね?
◇
それから、ガラントさんへも連絡を入れた。
エーデルさんは、帝国の事件で保護された人だ。
だから、就労することになった経緯は、きちんと伝えておきたい。
画面が開くと、ガラントさんが少し疲れた顔で応じた。
『……リアリス殿』
「ガラントさん。今日はお疲れさま」
『……陛下が、たいへん満足しておられます』
……ああ。
まだ言ってるんだね、皇帝。
「それならよかった……のかな」
『……ひとまず』
……うん。
何だか、含みがあるなぁ。
◇
「それでね。エーデルさんが、うちで働きたいって言ってくれたんだ」
ガラントさんの表情が変わった。
『……エーデル殿が、ですか』
「うん。本人の希望だよ。今までの保護とは別に、ちゃんと雇用するつもり」
『……承知いたしました』
ガラントさんは、机上の書類を一枚取り出す。
『事件に関する保護記録には、その旨を追記いたします。必要な身分上の確認と、就労に伴う手続きはこちらでご案内しましょう』
「ありがとう。助かるよ」
『ご本人の意思を尊重していただけるのであれば、帝国として異存はございません』
「うん。そこは絶対に守るよ」
ガラントさんが、静かに頷く。
『……よかった』
その一言には、少しだけ安堵が混じっていた。
◇
連絡を終えた私は、窓の外を見た。
陽が、少しずつ傾いている。
……そろそろ、シルク王国邸へ帰ろうかな。
そう思ったとき。
ふと、今朝のカトレアを思い出した。
紫の花の絵。
青い空。
楓が選んでくれた、薄い青色。
……あっ。
そうだ。
「エーデルさん」
「はい」
「カトレアにも、今のお話をしていいかな?」
エーデルさんが、少し驚いたように顔を上げた。
「……カトレア様に、でございますか」
「うん。きっと、喜ぶと思うんだ」
エーデルさんは、しばらく考えていた。
それから。
「……はい。ぜひ」
初めて、自分からそう答えてくれた。
◇
私は、シルク王国邸へ《映像通話》をつないだ。
相手は、巴さん。
『リアリスちゃん。どうしたの?』
「カトレア、今お家にいる?」
『いるわよ。お花の絵を仕上げているところ』
……おお。
ちょうどよかった。
「エーデルさんが、カトレアに会ってもいいって言ってくれてね。今から一緒に来られるかな」
『分かったわ。私もお話ししたいから、一緒に行くわね』
「ありがとう!」
……うん。
これで、みんなに紹介できるね。
◇
しばらくして。
ローズ帝国邸の《簡易転移》の扉が開いた。
「お父さーん!」
カトレアが、元気よく駆け寄ってくる。
「おかえり、カトレア」
「ただいま!」
……あれ。
ここでも、ただいまなんだね。
まあ、どっちもお家だからいいか。
カトレアの後ろには、巴さん。
手には、完成した花の絵。
「リアリスちゃん。お待たせ」
「ありがとう、巴さん」
巴さんは、私の顔をじっと見た。
「……怪我は?」
「大丈夫!」
「皇帝陛下は?」
「……怪我はないよ」
……あ。
また、この質問だ。
巴さんが、少しだけ目を細めた。
「……詳しくは、あとで聞くわね」
……はい。
覚悟しておきます。
◇
エーデルさんの部屋へ入ると、カトレアが絵を持って歩み寄った。
「エーデルさん!」
エーデルさんが、立ち上がる。
「……カトレア様」
「これ、描いたの!」
カトレアが、画用紙を差し出した。
紫の花。
柔らかな青い空。
その下には、小さな家が描かれている。
……あれ。
家も描いたんだ。
今朝は、花と空だけだったのに。
「綺麗な空だね。お家も描いたの?」
「うん! お花が寂しくないようにしたんだ」
……ああ。
そういうことね。
◇
エーデルさんは、絵を受け取ったまま動かなかった。
小さな家。
花。
青い空。
その目が、少しだけ潤んだ。
「……ありがとうございます」
カトレアが、嬉しそうに笑う。
「飾ってくれる?」
「……はい。大切にします」
エーデルさんは、ゆっくり頷いた。
巴さんが、静かに二人を見守っている。
私は、一度だけ息を吸った。
「カトレア。実はね、嬉しいお知らせがあるんだ」
「えっ、なあに?」
娘が、顔を上げた。
◇
「エーデルさんがね、これからこのお家で働いてくれることになったんだ」
カトレアが、目を丸くした。
「……ほんと?」
「うん。ローズ帝国邸の新しいメイドさんだよ」
一瞬の沈黙。
それから。
「……やったあ!」
カトレアが、ぱっと笑顔になった。
エーデルさんが、驚いたように目を瞬かせる。
「……カトレア様?」
「じゃあ、また会えるんだね!」
カトレアが、嬉しそうに言った。
「今度、一緒にお花を見ようね!」
エーデルさんは、しばらく何も言えなかった。
それから。
「……はい」
小さく。
でも、確かに笑ってくれた。
◇
カトレアが、エーデルさんの手を取った。
「ねえ、エーデルさん」
「……はい」
「お花、育てるの好き?」
エーデルさんが、少し考える。
「……はい。好き、だったと思います」
「じゃあ、また一緒に育てよう!」
カトレアが、にっこり笑う。
「私、いろんなお花の育て方、知ってるんだよ」
「……そうなのですか」
「うん! 楓お姉ちゃんも詳しいんだ」
……あ。
楓のことも、ちゃんと宣伝してるんだね。
私は、思わず笑った。
エーデルさんは、手を握られたまま、少しだけ目を伏せた。
「……よろしく、お願いいたします」
その声は、もう震えていなかった。
◇
巴さんが、エーデルさんの隣へ座った。
「エーデルさん。改めてよろしくね」
「……こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「無理をしないこと。困ったことがあれば、すぐに相談すること。お仕事は、元気になってから少しずつ覚えていきましょう」
……うん。
いつもの巴さんだ。
「それから、ちゃんとご飯を食べるのよ」
「……はい」
エーデルさんが、小さく頷いた。
私は、思わず苦笑する。
「……巴さん、それ、私にも言うよね」
「リアリスちゃんにも必要でしょう?」
「……はい」
カトレアが、くすくす笑う。
エーデルさんも。
ほんの少しだけ、笑った。
◇
杏子が、静かに声をかけた。
「エーデル様。よろしければ、後日お仕事用のお洋服をご用意いたします」
エーデルさんが、頷く。
「……ありがとうございます」
「ただ、お体が本調子に戻るまでは、普段のお洋服でお過ごしくださいませ」
「はい」
私は、二人のやり取りを聞いていた。
……ああ。
いきなりメイド服を着て働くより、その方がいいね。
エーデルさんは、普通の人間なんだから。
仕事ができるようになるまで、ちゃんと休んでもらおう。
私たちの家に来たからといって、何かを急ぐ必要はない。
◇
窓辺の花に、夕日が差し込んでいた。
エーデルさんは、カトレアの描いた絵を、鉢植えの隣へそっと立てかけた。
その小さな家を、長いあいだ見つめている。
私は、少し離れた場所から眺めていた。
……エーデルさん。
きっと、これからもつらい日がある。
夫のことを思い出して、涙が出ることも。
ハランの名前を呼びたくなる夜も。
でも。
それでも、ここで暮らしていきたいと思ってくれた。
誰かの帰りを待ちたいと、自分で選んでくれた。
……うん。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
「……リアリス様」
エーデルさんが、こちらへ向き直った。
「ん?」
「本当に……ありがとうございます」
私は、首を横に振った。
「こちらこそ、よろしくね」
エーデルさんは、少しだけ困ったように微笑んだ。
「……はい」
カトレアが、隣から声をかける。
「エーデルさん!」
「はい、カトレア様」
「これから、よろしくね!」
エーデルさんが、ゆっくり頷く。
「……はい。こちらこそ」
その声は、まだ少し控えめだった。
けれど。
前よりずっと、温かく聞こえた。
◇
私は、部屋の中を見渡した。
桜花。
巴さん。
杏子。
カトレア。
そして、エーデルさん。
みんな、それぞれ違う。
得意なことも。
できないことも。
抱えている思いも。
……それで、いいんだよね。
私は、静かに笑った。
「じゃあ、改めて」
みんなの視線が、こちらへ向く。
「エーデルさん。リアリス邸へ、ようこそ!」
カトレアが、嬉しそうに手を叩いた。
桜花と杏子が、静かに頭を下げる。
巴さんは、優しく微笑んだ。
エーデルさんの目元に、また小さな涙が浮かんだ。
でも。
その涙は、先日のものとは少しだけ違っていた。
◇
帰り際。
カトレアが、私の手を握った。
「お父さん」
「ん?」
「今日、いい日だったね!」
……あっ。
そうだね。
皇帝を二回も気絶させちゃったけど。
……うん。
そこは、今は考えないでおこう。
「そうだね。いい日だったよ」
私は、娘の頭を撫でた。
カトレアが、嬉しそうに笑う。
私たちは、《簡易転移》の扉へ向かった。
扉の向こうには、いつものシルク王国邸。
そして。
背後のローズ帝国邸にも。
今日から、新しい家族が一人増えた。
……ああ。
家が増えるたびに、面白いことが起きると思っていたけれど。
家族まで増えていくんだね。
私は、扉を開けた。
……うん。
明日も、きっといい日になる。
そんな気がした。




