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第11話:新しいメイドが来ました

 あれから、さらに数日が過ぎた。


 シルク王国邸の朝は、今日も平和だ。


 ……たぶん。


「お父さん、ここ、何色がいいかな?」


 食堂の一角で、カトレアが画用紙を広げていた。


 描かれているのは、小さな紫の花。


 ローズ帝国邸でエーデルさんへ贈った、あの花だ。


「葉っぱなら緑かな」


「それは分かってるよぉ」


「……あれ」


 私が首を傾げると、カトレアが頬を膨らませた。


「お空の色だよ!」


「……ああ、そっちね」


 ……うん。


 ごめん。お父さん、全然分かってなかった。


     ◇


 テーブルには、色とりどりの絵筆と絵の具。


 その横に、花壇から持ってきた小さな花が一輪置かれている。


 楓が、いつの間にか隣に立っていた。


「……薄い青」


「そうかな?」


「……うん」


 カトレアが、青い絵の具を少しだけ水で薄める。


 紙の上に、柔らかな空の色が広がった。


「わあ、綺麗!」


 楓が小さく頷いた。


 ……おお。


 さすが楓。


 私の出番、完全になかったね。


     ◇


「リアリスちゃん。朝ご飯を食べてからにしましょうね」


 巴さんが、焼きたてのパンを運んできた。


「あっ。もうそんな時間?」


「もう、じゃないわよ。カトレアちゃんと二人で、ずっと絵を眺めていたでしょう」


「……はい」


 その通りです。


 桜花が、隣の椅子を引いてくれる。


「リアリス様。お食事の準備が整っております」


「ありがとう、桜花」


 私たちは、いつものようにみんなで食卓を囲んだ。


 楓と、シルク王国邸の一般メイドたちも一緒。


 パンを取り分ける人もいれば、スープをおかわりする人もいる。


 ……うん。


 こういう朝が、一番落ち着くね。


     ◇


「カトレア。その絵は、エーデルさんへ?」


「うん! この前、また来ていいって言ってくれたから」


「そっか」


 エーデルさんは、少しずつ食事を取れるようになっている。


 杏子からの報告では、昨日は自分から窓を開けたそうだ。


 たったそれだけのこと。


 でも、あの部屋で座ったままだった姿を思い出すと、私には大きな変化に思えた。


「エーデルさん、喜んでくれるといいね」


「うん!」


 カトレアが、嬉しそうに頷いた。


 ……ああ。


 今日も、お花の絵を届けに行こうかな。


 そう考えたときだった。


     ◇


 私の目の前に、呼び出し用の画面が現れた。


 ……えっ。


 今?


 表示されている相手の名前を見て、私は少し嫌な予感がした。


「……皇帝?」


 桜花が、静かに私を見る。


「ヴァリロッサ皇帝陛下でございますか」


「うん」


 私は、呼び出しに応じた。


『おう、リアリス!』


 画面いっぱいに、灰色の短髪の男性の顔が映る。


 ……近い。


 近いよ、皇帝。


「おはよう、皇帝」


『はっはっは! 元気そうだな!』


「おかげさまで」


 ……さて。


 どうして朝から、そんなに嬉しそうなんだろう。


     ◇


『リアリス。約束を覚えているか?』


 ……あっ。


 嫌な予感、当たった。


「……約束?」


『俺との手合わせだ!』


 ……やっぱり!


 私は、思わず額へ手を当てた。


 ゴゾーラ子爵の事件を調べていたとき。


 皇帝から、事件が片づいたら手合わせをしろと言われた。


 私も、確かに了承した。


 ……したけど。


 まさか、朝食の時間に催促されるとは思わなかったよ。


「皇帝。まだ帝国の調査は続いてるよね?」


『無論だ。そちらはガラントたちが進めている』


「じゃあ、まだ――」


『保護した者たちの当面の処遇も決まった! お前も一息つける頃だろう!』


 ……うん。


 そういうことじゃないと思うんだけどなぁ。


     ◇


 画面の横から、見慣れた片眼鏡の男性が現れた。


『リアリス殿。朝早くから失礼いたします』


「おはよう、ガラントさん」


『陛下が、ここ数日ずっと手合わせの日程を気になさっておりまして』


『当然だろう! 俺は楽しみにしていたんだぞ!』


『……存じております』


 ガラントさんが、遠い目をした。


 ……ああ。


 今日も大変そうだね。


『ただし、リアリス殿。安全の確保が難しいようでしたら、延期していただいて構いません』


「……そうだね」


 私は、隣の桜花を見た。


 桜花は静かに頷く。


「リアリス様。わたくしも同行いたします」


「……うん。お願い」


 ……今回は、特に気をつけよう。


     ◇


 私は画面へ向き直った。


「皇帝。約束したからには、ちゃんと行くよ。でも、条件があるんだ」


『おお! 言ってみろ!』


「真剣は使わない。周りに人がいない場所で、怪我をさせない。私も力を抑える。それでいい?」


『無論だ!』


 ……即答だ。


 今度は、本当に分かってるかな。


『俺は遊びのつもりではない! だが、命の取り合いをしたいわけでもないからな!』


 ……なるほど。


 そこは、ちゃんとしてるんだね。


「それなら、午後にローズ帝国邸へ行くよ。そこからお城へ向かうね」


『よし! 待っているぞ!』


 皇帝は、満足そうに笑った。


 画面が消える直前、ガラントさんのため息が聞こえた気がした。


     ◇


「……リアリスちゃん」


 巴さんが、私を呼んだ。


 ……あ。


 これは、怒られる流れだ。


「はい」


「手合わせ、するのね?」


「……うん。約束したから」


 巴さんは、じっと私を見た。


 桜花の方へも視線を向ける。


「桜花ちゃんも、しっかり見ていてね」


「承知しております」


「リアリスちゃん」


「はい」


「強いことを見せるために、無理をする必要はないのよ」


 私は、少しだけ黙った。


 ……そうだね。


 前は、それをちゃんと分かっていなかった。


「うん。今度は、絶対に気をつけるよ」


 巴さんが、柔らかく頷いた。


「それならいいわ。帰ってきたら、美味しい夕ご飯を用意しておくからね」


「……うん!」


 ……ああ。


 楽しみが一つ増えたね。


     ◇


「お父さん、皇帝のおじさんと遊ぶの?」


 カトレアが、ぱちぱちと目を瞬かせた。


「……遊ぶ、っていうのかな」


「剣で?」


「うん。でも危なくないようにするよ」


 カトレアは少し考えた。


「じゃあ、勝ったらお菓子もらえる?」


 ……えっ。


 勝ったご褒美?


「どうだろう。皇帝なら、何かくれるかもしれないね」


「やった!」


「……いや、まだ勝ってないよ?」


 カトレアは、にこにこと笑った。


 桜花が、ほんの少しだけ口元を緩める。


 ……うん。


 できれば、平和に終わるといいな。


     ◇


 昼食を終えてから。


 私は、桜花と一緒にローズ帝国邸へ向かった。


 もちろん、使うのは《簡易転移》の扉だ。


 シルク王国邸の廊下で扉を開き、二人でくぐる。


 次の瞬間には、ローズ帝国邸の廊下。


 ……うん。


 何度使っても、便利だね。


 杏子が、私たちを迎えてくれた。


「お帰りなさいませ、リアリス様。桜花様」


「ただいま、杏子」


「本日は帝城へ向かわれると伺っております」


「うん。皇帝との約束なんだ」


 杏子は、静かに一礼した。


「ご無事のお帰りをお待ちしております」


 ……あっ。


 ちょっとだけ、声が真剣だ。


「大丈夫。無茶はしないよ」


「……はい」


 その返事に、まだ少し心配が残っているように聞こえた。


     ◇


 玄関へ向かう途中、私は足を止めた。


「そうだ、杏子。カトレアがエーデルさんへ絵を描いてるんだ」


「まあ」


「できあがったら持ってくると思うから、そのときはよろしくね」


「かしこまりました」


 杏子が、小さく微笑んだ。


「エーデル様も、先日お贈りいただいたお花を大切にしておられます」


「そうなんだね」


「はい。朝はご自身で窓辺の鉢を確かめていらっしゃいました」


 ……ああ。


 よかった。


「無理しないように、見てあげてね」


「もちろんでございます」


 私は頷いて、桜花とともに屋敷を出た。


     ◇


 帝城へは、事前に手配してもらった馬車で向かった。


 通りには、人が行き交っている。


 荷を積んだ馬車。


 店先で話す人たち。


 道の端で遊ぶ子どもたち。


 以前、帝都へ来たときより、少し落ち着いて景色を眺められる気がした。


 ……うん。


 ここで起きた事件は、まだ調査が続いている。


 でも、町の暮らしも同じように続いているんだ。


 桜花が、窓の外を見つめる私へ尋ねた。


「リアリス様。ご緊張なさっておいでですか」


「……少しだけ」


「陛下のお強さを、気になさっているのでしょうか」


「ううん。そこじゃないんだ」


 私は、自分の手を見た。


「今度は、ちゃんと力を止められるかなって」


     ◇


 桜花が、静かに答えた。


「リアリス様」


「……ん?」


「わたくしは、リアリス様がどれほどお強いか、よく存じ上げております」


「……うん」


「ですが、強いことと、すべての力を使うことは同じではございません」


 私は、桜花を見た。


 彼女は、いつもどおり穏やかな顔をしている。


「本日は、陛下のお相手をなさるのでしょう?」


「うん」


「でしたら、陛下がお怪我をなさらないよう、必要な分だけお使いになればよろしいかと」


 ……必要な分だけ。


 簡単なようで、今の私には少し難しい言葉だった。


「……そうだね」


 私は、息を吐く。


「ちゃんと、そうするよ」


 桜花が、微笑んだ。


「はい」


     ◇


 帝城の門前では、兵士が待っていた。


 事前に連絡が通っていたらしく、私たちの姿を見るとすぐに案内してくれる。


「リアリス殿、桜花殿。こちらへどうぞ」


「ありがとうございます」


 石造りの廊下を進む。


 広い中庭を抜け、さらに奥へ。


 やがて、見覚えのある訓練場が見えてきた。


 ……ああ。


 ここだね。


 前に桜花が、皇帝と模擬戦をした場所。


 あのときも、皇帝はものすごく楽しそうだったっけ。


 ……今も、だろうなぁ。


 そんなことを考えた瞬間。


「リアリス!」


 向こうから、大きな声が響いた。


     ◇


「待っていたぞ!」


 ヴァリロッサ皇帝が、豪快に笑っていた。


 灰色の短い髪。

 大きな体。

 筋肉質の腕。


 その隣には、片眼鏡のガラントさん。


 ……うん。


 いつもの二人だね。


「こんにちは、皇帝。ガラントさんも」


「リアリス殿。ようこそお越しくださいました」


「はっはっは! ついに約束の日だな!」


「……そうだね」


 皇帝は、嬉しそうに拳を握った。


 ……あの。


 本当に楽しみにしてたんだね。


 私は、少しだけ笑ってしまった。


     ◇


 訓練場には、数人の近衛兵がいた。


 観戦者は遠くの安全な場所に集められ、立ち入りを制限するための印が地面に置かれている。


 ガラントさんが、確認書を開いた。


「今回の手合わせは、以前の桜花殿との模擬戦と同じく、安全を最優先とします」


「うん。お願いします」


「急所への攻撃、相手の命にかかわる力の行使は禁止。勝敗は降参、武器の喪失、または私の停止宣言で決定いたします」


 皇帝が、腕を組んだ。


「分かった!」


「陛下。お一人で勝手に規則を変更することも禁止です」


「……分かっている!」


 ……あれ。


 今、少し間があったよね?


 ガラントさんも、気づいているみたいだった。


     ◇


「まずは、武器を持たずに身体を動かそう!」


 皇帝が、そう言った。


「……えっ」


「いきなり剣を交えるより、お互いの動きを見ておきたい」


 ……おお。


 ちゃんと考えてるんだ。


「分かった。じゃあ、軽くね」


「望むところだ!」


 皇帝が、ゆっくり前へ出る。


 ……うん。


 この人の構え、やっぱり綺麗だね。


 肩の力が抜けているのに、どこからでも攻撃できそうだ。


 以前、桜花と戦ったときにも思ったけど。


 S級の剣士というのは、伊達じゃないんだろう。


 私は、少しだけ足を開いた。


「じゃあ、お願いします」


 皇帝が、にやりと笑った。


     ◇


「――始め!」


 ガラントさんの声。


 皇帝の姿が、視界の中で動いた。


 ……早い。


 一般の人なら、何が起きたか分からないだろう。


 それくらい速かった。


 でも。


 私には、ゆっくりに見える。


 皇帝の拳が、こちらへ伸びる。


 私は、体をほんの少し横へずらした。


 拳が、空を切る。


 ……あ。


 これ、手を出さずに避け続けてもいいんじゃないかな。


 そう思ったのが、まずかった。


     ◇


「どうした、リアリス! 遠慮するな!」


 皇帝が、笑いながら次の一撃を放った。


 ……ええ。


 遠慮するなって言われても。


 私は、咄嗟に指を曲げた。


 親指で、中指を軽く押さえる。


 そう。


 ただの、デコピン。


 額にちょんと触れるくらいなら、危なくないと思ったんだ。


 皇帝が、ほんの一瞬だけ隙を見せる。


 ……今かな。


 私は、中指を弾いた。


 ぱちん。


 乾いた音がした。


     ◇


「――ぐおっ!?」


 ……えっ。


 皇帝の体が、後ろへ跳ねた。


 足が地面を滑り、数歩。


 そのまま、仰向けに倒れる。


 どさっ。


 …………。


 ……あれ?


「……皇帝?」


 返事がない。


 ガラントさんが、一瞬だけ固まった。


「……陛下?」


 皇帝は、空を見つめたまま動かない。


 ……えっ。


 嘘でしょ。


 私は、慌てて駆け寄った。


「皇帝! 大丈夫!?」


     ◇


 近づいて確かめると、呼吸も脈も正常だった。


 ……よかった。


 けれど、完全に気を失っている。


 ……えええ。


 デコピンだよ!?


 しかも、ほんの少しだけしか力を入れてないつもりだったのに。


「ガラントさん、ごめん! すぐに治す!」


 私は、皇帝へ《完全回復》を使った。


 ……あ。


 額の赤みが消えた。


 でも、皇帝は目を開けない。


 ガラントさんが、長いため息をついた。


「……リアリス殿」


「……はい」


「陛下のお怪我がないことは確認できました」


「……うん」


「ですから、落ち着いてください」


 ……はい。


 おっしゃるとおりです。


     ◇


 近衛兵たちは、呆然としていた。


「……今、何をされたんだ?」


「……指を、弾いたように見えたが」


「まさか……」


 ……ああ。


 見られちゃった。


 皇帝をデコピンで気絶させたところ。


 ……これ、外交問題になったりしないよね?


 そう考えていると、皇帝が動いた。


「……む」


 大きな体が、ゆっくり起き上がる。


「……何が起きた」


「……あの、皇帝」


 私は、正座しそうな気分になった。


「……ごめんなさい」


 皇帝が、私の顔を見た。


「……お前が謝るようなことか?」


「……えっと」


 ……いや。


 あると思う。


     ◇


 事情を説明すると、皇帝はしばらく黙っていた。


 それから。


「……デコピン?」


「……うん」


「指一本で?」


「……そう」


 沈黙。


 ……怒るかな。


 当たり前だよね。


 私は、少し身構えた。


 しかし。


「……はっ」


 皇帝の口元が、ゆっくり持ち上がる。


「はっはっはっは!」


 ……あれ?


「面白い! 実に面白いぞ、リアリス!」


 大きな笑い声が、訓練場へ響いた。


 ……よかった。


 怒ってないみたいだね。


 いや、よかったのかな?


     ◇


「やはり、桜花よりさらに上というわけか!」


 皇帝が、嬉しそうに立ち上がった。


「剣でも試したい!」


 ……えっ。


 まだやるの?


「皇帝。さっき気絶したばかりだよ?」


「怪我はないのだろう!」


「……そうだけど」


「ならば問題ない!」


 ……いや。


 問題、あるような気がするよ。


 ガラントさんが、片眼鏡に手を添えた。


「陛下。これ以上の手合わせは――」


「ガラント! 俺は元気だ!」


「陛下が元気かどうかだけの問題ではありません」


 ……ああ。


 この人の苦労、本当に尽きないね。


     ◇


 結局、もう一度だけ手合わせすることになった。


 ガラントさんの許可が下りたのは、皇帝に怪我がなく、本人が強く希望したから。


 ただし、条件は増えた。


 武器は訓練用。


 大きな攻撃魔法は使わない。


 周囲に衝撃を及ぼさない。


 危険だと判断したら、即座に中止。


 ……うん。


 今度こそ、ちゃんとしよう。


 私は、刀の形をした訓練用の武器を用意した。


 刃を潰してあり、斬るためのものではない。


 それでも、鞘から抜く動きは普段の刀と同じようにできる。


 皇帝も、訓練用の剣を手に取った。


「今度は、剣だな!」


「……本当に、無理しないでね」


「それは俺の台詞だ!」


 ……そうなんだ。


     ◇


 皇帝が剣を構える。


 私は、刀を鞘に収めたまま立った。


「……抜かないのか?」


「うん。使いたい技があるんだ」


 皇帝の目が、鋭くなる。


「ほう」


 ……お。


 さっきまでの笑顔が消えた。


 これは、本気だ。


 皇帝は、強い。


 それは間違いない。


 でも。


 力の差も、はっきりしている。


 だから、私は一つだけ決めた。


 ……絶対に、体を斬らない。


 皇帝の剣を落とすところまで。


 それ以上は、しない。


     ◇


 ガラントさんが、右手を上げた。


「両者、準備はよろしいですね」


「いつでも!」


「うん」


 風が、訓練場を通り抜けた。


 皇帝の重心が、わずかに下がる。


 さすが、S級の剣士。


 どこから来るか、分かっているんだろう。


 皇帝が、剣を前へ向ける。


 私は、鞘に手を添えた。


 ……落ち着いて。


 必要な分だけ。


 桜花の言葉を、思い出した。


「――始め!」


 次の瞬間。


     ◇


 私は、踏み込んだ。


 【一閃】。


 鞘から刀を抜き放つ。


 いつものように、ただ速く。


 でも、力は限りなく抑えて。


 狙うのは、皇帝の剣。


 刃ではなく、剣の根元に近い場所。


 こつん。


 ……小さな音。


 皇帝の剣が、宙へ舞った。


 それから。


 私は、皇帝のすぐ横を通り抜け、静かに刀を鞘へ戻した。


 ……よし。


 今度こそ、怪我はさせてない。


     ◇


 かん、と訓練用の剣が地面へ落ちた。


 皇帝は、動かなかった。


 目を大きく開き、前を見つめている。


「……皇帝?」


 返事がない。


 ……えっ。


 今度は、何も当ててないよ?


 皇帝の視線が、私へ向いた。


 口が、ゆっくり開く。


「……今のが……」


 そこで、言葉が途切れた。


 ぐらり。


 大きな体が、傾く。


 ……あっ。


「ちょ、ちょっと!」


 私は、慌てて駆け寄った。


 間に合わず、皇帝はその場に膝をつき――


 そのまま、前へ倒れた。


     ◇


 …………。


 …………。


「……皇帝!?」


 返事がない。


 私は、もう一度呼吸と脈を確かめた。


 正常。


 傷もない。


 ……うん。


 完全に気絶してるね。


 今度は剣すら当ててないのに。


「……ガラントさん」


 私は、恐る恐る振り返った。


 ガラントさんは、片眼鏡を直していた。


 それから、深く息を吸った。


「……リアリス殿」


「……はい」


「お怪我はありませんね?」


「うん。見た限り、大丈夫だよ」


「……では」


 ガラントさんが、静かに言った。


「本日の手合わせは、これにて終了といたします」


 ……はい!


 異議ありません!


     ◇


 訓練場にいた兵士たちは、誰も声を出さなかった。


 やがて、一人が小さく呟く。


「……今のは、剣が飛んだのか?」


「……いや。見えなかった」


「……陛下が、二度も……」


 ……ああ。


 そうだよね。


 帝国最強クラスの剣士が。


 デコピンと、たった一度の抜刀で気絶したんだから。


 ……いやいや。


 やっぱり、まずかったかな。


 私は、うつ伏せの皇帝を見た。


 ……ごめん、皇帝。


 せめて、気持ちよく終わらせてあげたかったんだけど。


     ◇


 少しして、皇帝が再び目を開けた。


「……む」


「皇帝、大丈夫?」


 私は、顔を覗き込んだ。


 皇帝は、しばらく空を眺めていた。


 それから、勢いよく起き上がる。


「……はっはっは!」


 ……ああ。


 今日、何回目だろう。


「見えんかった!」


「……うん」


「まったく見えんかったぞ!」


「……そっか」


「桜花のときも驚いたが、お前はさらに速い!」


 皇帝の顔は、嬉しそうだった。


 ……本当に。


 この人って、戦うことが好きなんだね。


「皇帝。怪我は、ない?」


「ない!」


「気分は?」


「最高だ!」


 ……いや、最高なの?


     ◇


 ガラントさんが、一歩前へ出た。


「陛下」


「何だ?」


「本日は、これでおしまいです」


「分かっている」


「次回の手合わせを、その場でお約束なさることもお控えください」


 ……えっ。


 そこまで先回りするんだ。


 皇帝が、少し不満そうに眉を寄せた。


「……一度くらいなら」


「陛下」


「……分かった!」


 私は、思わず吹き出しそうになった。


 ……すごい。


 この人、皇帝を一言で止められるんだね。


 ガラントさんの方が、よほど強いんじゃないかな。


 ……政治的な意味で。


     ◇


 片づけを終え、私たちは訓練場の脇にある休憩室へ案内された。


 温かな紅茶。


 小さな焼き菓子。


 窓の外には、先ほどの訓練場が見える。


 皇帝は、椅子へどっかりと座った。


「いやあ、面白かった!」


「……そう言ってもらえるなら、よかったよ」


「次は、もっと鍛えてから挑むぞ!」


 ……あ。


 全然諦めてない。


 隣では、ガラントさんが書類を確認している。


「陛下。その前に、執務室へお戻りください」


「少しくらい休ませろ!」


「すでに、十分休んでおられます」


 ……うん。


 いつものやり取りだね。


 私は、クッキーを一枚取った。


 ……あっ。


 これ、美味しいな。


     ◇


「リアリス」


 皇帝が、不意に真面目な声を出した。


「……ん?」


「先日の一件、ガラントから報告を受けている」


 私は、手を止めた。


 ゴゾーラ子爵の事件。


 ……うん。


「調査は続ける。子爵と関係者をどう裁くかも、帝国の責任だ」


「……ありがとう」


 皇帝が、静かに頷く。


「お前が保護した者たちも、今後困ることがあれば知らせろ」


「うん。必要なときは、お願いするよ」


 皇帝は、しばらく私を見ていた。


 そして。


「……今日は、ちゃんと力を抑えていたな」


 ……えっ。


「……分かったの?」


「当然だ」


 皇帝が、笑った。


「俺も剣を使う男だ。全力であれば、あれでは済まんと分かる」


 私は、静かに頷いた。


「……もう、同じことは繰り返したくないから」


「そうか」


 皇帝は、それ以上尋ねなかった。


     ◇


 帰り際、ガラントさんが私を呼び止めた。


「リアリス殿」


「ん?」


「本日は、お越しいただきありがとうございました」


「こちらこそ。色々と準備してくれてありがとう」


 ガラントさんは、少しだけ微笑んだ。


「陛下は、お強い方に出会うと、どうにも歯止めが利かなくなられまして」


「……うん。見てたら分かるよ」


「……次回がございましたら、事前にご相談ください」


「もちろん」


 私は、思わず笑った。


「でも、しばらくはお休みでいいかな」


「……ぜひ、そうなさってください」


 ……ああ。


 心からのお願いだね、これは。


     ◇


 帝城を出て、帰りの馬車に乗る。


 桜花が、私の隣へ座った。


「リアリス様。お疲れさまでございました」


「ありがとう、桜花」


 私は、窓の外を見た。


「……ちょっと、やりすぎたかな」


「どちらも、お怪我はございませんでした」


「……うん」


「ただ、陛下が二度気を失われたのは、想定外でございましたね」


 ……そうなんだよね。


 桜花は、ほんの少し首を傾げた。


「初めの一撃は、なお一層の加減が必要であったかと存じます」


「……はい」


 ……反論できない。


「でも、二回目は?」


「二回目は、陛下が動きに驚かれたのでございましょう」


 ……ああ。


 衝撃じゃなくて、驚きで?


 ……そんなこと、あるんだね。


     ◇


 桜花は、私を見た。


「リアリス様は、約束をお守りになりました」


「……うん」


「誰も傷つけず、訓練場も壊さず、陛下のご希望にお応えしました」


 私は、少し笑った。


「気絶はさせちゃったけどね」


「……はい」


 桜花の口元が、わずかに緩む。


「そこは、次回の課題かと存じます」


「……次回は、できれば遠慮したいなぁ」


 桜花が、小さく微笑んだ。


 ……うん。


 でも。


 今日はちゃんと、桜花が隣にいる。


 それが、何より嬉しかった。


     ◇


 ローズ帝国邸へ戻ったのは、夕方近くのことだった。


 玄関をくぐると、杏子が迎えてくれた。


「お帰りなさいませ、リアリス様」


「ただいま、杏子」


 杏子の視線が、私と桜花を順番に確かめる。


「お怪我は、ございませんか」


「うん。大丈夫だよ」


「……皇帝陛下も?」


「……うん。怪我はないよ」


 ……気絶はしたけど。


 杏子は、少しだけ首を傾げた。


「……何かございましたか?」


「……後で話すね」


 ……できれば、あまり詳しく聞かないでほしいなぁ。


     ◇


 廊下を進もうとしたとき、杏子が声をかけた。


「リアリス様。少し、お時間をいただけますでしょうか」


「もちろん。どうしたの?」


 杏子は、ほんの少し考えるように言葉を選んだ。


「エーデル様から、お話があると伺っております」


「……エーデルさんから?」


「はい。先ほど、ご自身からわたくしへお申し出がございました」


 私は、思わず足を止めた。


 ……エーデルさんが、自分から。


 何か、困ったことがあったのかな。


「体調は大丈夫?」


「はい。お食事も、少しずつ召し上がれるようになっております」


「そっか。じゃあ、会ってもいいか聞いてくれる?」


「すでに、ご本人からお会いしたいとのお言葉をいただいております」


 ……あっ。


 そうなんだ。


「……うん。お願い」


     ◇


 私たちは、エーデルさんの部屋へ向かった。


 数日前に、カトレアと訪れた部屋。


 廊下を歩いていると、私はあの日のことを思い出した。


 ハランという名前。


 涙で震えていた声。


 カトレアが、エーデルさんを抱きしめたこと。


 ……あれから、少しずつ変わっているんだね。


 でも。


 それだけで、何もかもよくなったわけじゃない。


 ……何の話だろう。


 私は、扉の前で立ち止まった。


 杏子が、静かに声をかける。


「エーデル様。リアリス様がお見えになりました」


 少しして、返事が聞こえた。


「……はい。どうぞ」


     ◇


 部屋へ入ると、エーデルさんは椅子から立ち上がっていた。


 長い黒髪が、背中へ落ちている。


 顔色は、先日よりずいぶんよくなっていた。


 それでも、まだ少し痩せている。


 ……うん。


 焦らず、元気になってほしいね。


「こんにちは、エーデルさん」


「……こんにちは、リアリス様」


 エーデルさんが、静かに頭を下げる。


 私は、空いている椅子を示した。


「座って話そうか。立ってなくていいよ」


「……ありがとうございます」


 エーデルさんが、ゆっくり腰を下ろした。


 私も向かいに座る。


 桜花と杏子は、少し離れたところに立っていた。


     ◇


 窓辺には、紫の花が置かれている。


 カトレアが贈った、小さな鉢植え。


 土は、ほどよく湿っていた。


 ……おお。


 ちゃんとお世話してくれてるんだ。


「お花、元気そうだね」


 私が声をかけると、エーデルさんは窓辺を見た。


「……はい」


 小さく頷く。


「杏子様に、水のやり方を教えていただきました」


「そうなんだ」


「……枯らしたく、なかったので」


 その声が、少しだけ柔らかくなった。


「カトレア様が……選んでくださったお花ですから」


 私は、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 ……カトレアが聞いたら、喜ぶだろうなぁ。


     ◇


「それで、今日はどうしたの?」


 私は、なるべく普段どおりに尋ねた。


 エーデルさんは、膝の上で両手を重ねている。


 少し緊張しているみたいだった。


「……あの」


「うん」


「私……ずっと、お世話になってばかりで……」


 ……あっ。


 もしかして、出ていかなきゃいけないと思ってる?


 私は、すぐに首を横に振った。


「エーデルさん。ここにいることで、気にしなくていいんだよ」


 エーデルさんが、顔を上げる。


「お金も、今は心配しなくていいからね。まだ休んでいていいんだ」


「……はい」


 小さな返事。


 でも、エーデルさんは首を横に振った。


「……そうでは、ないんです」


 ……えっ。


     ◇


 エーデルさんは、ゆっくり息を吸った。


「ここへ来てから、ずっと考えていました」


 私は、黙って聞いた。


「夫とハランを失って……もう、私には帰る場所がないと思っていました」


 ……うん。


 あの日、そう言っていたね。


「何をしても、二人は戻ってこない。生きていても、意味がないと……」


 エーデルさんは、そこで言葉を止めた。


 私は、続きを急がせなかった。


「……でも、カトレア様が来てくださって」


 その目が、窓辺の花へ向く。


「お話をして、お花をいただいて……」


 微かに、唇が震えた。


「……私の話を、聞いてくださいました」


「……うん」


「ハランの名前を、口にすることもできなかったのに。あの日は、最後まで話せたんです」


 その声には、まだ深い悲しみがあった。


 でも。


 もう、どこか遠くへ消えてしまいそうな声ではなかった。


     ◇


「……泣いたあと、少し眠れました」


 エーデルさんが続ける。


「目を覚ましたとき、窓の外が明るくて……」


 私は、静かに頷いた。


「紫のお花が、目に入ったんです」


 エーデルさんが、ほんの少し微笑んだ。


「……水をあげなくては、と思いました」


 ……ああ。


「それで、杏子様にお願いして……」


 彼女は、自分の手を見た。


「……久しぶりに、自分から何かをしたいと思ったんです」


 私は、何も言えなかった。


 花に水をやる。


 それだけのことが。


 この人にとっては、どれほど大きな一歩だったのだろう。


     ◇


「……今でも、つらいです」


 エーデルさんが、静かに言った。


「朝、目を覚ますと、夫が帰ってくる気がします」


 私は、目を伏せた。


「廊下で子どもの声が聞こえると、ハランかもしれないと思ってしまいます」


 ……うん。


「……会いたいんです」


 一粒、涙がこぼれた。


「何度でも、会いたいんです」


 私は、静かに頷いた。


「……そうだね」


 それしか言えなかった。


 でも、今はそれでいいと思った。


 エーデルさんは、そっと涙を拭った。


「……忘れたく、ありません」


「うん。忘れなくていいよ」


 私は、迷わず答えた。


「忘れる必要なんて、ないと思う」


 エーデルさんは、しばらく私を見つめていた。


     ◇


「……ありがとうございます」


 小さな声だった。


 それから、エーデルさんは背筋を伸ばした。


「……それで、お願いがございます」


「うん。何かな?」


 エーデルさんが、両手を膝の上で揃える。


「私を……こちらで、働かせていただけないでしょうか」


 …………。


 ……えっ?


 私は、目を瞬いた。


「……働く?」


「はい」


 エーデルさんが、頷く。


「このお屋敷の……メイドとして」


 ……えええ。


 ちょっと待って。


 ……メイド?


 エーデルさんが?


     ◇


「……それって、誰かに頼まれたの?」


 私は、思わず尋ねた。


 エーデルさんは、首を横に振る。


「いいえ」


「杏子から?」


「いいえ。杏子様は、まだ休んでいてよいと……」


 杏子が、静かに一礼した。


「ご本人から、初めて伺いました」


 ……そっか。


 私は、エーデルさんへ向き直った。


「じゃあ、どうしてメイドになろうと思ったの?」


 エーデルさんは、少しだけ考えた。


 それから、窓辺の花を見る。


「……ここには、温かいご飯があって」


 ゆっくり言葉を選んでいる。


「毎日、誰かが声をかけてくださいます」


 私は、黙って聞いた。


「皆様は、私に何かを返すよう求めませんでした」


 ……うん。


 そうだね。


「だからこそ……」


 エーデルさんが、私を見る。


「……私も、誰かのために何かをしたいと思いました」


     ◇


 私は、少しだけ目を伏せた。


 ……ああ。


 お礼をするためじゃなくて。


 自分で、そう思ったんだね。


 エーデルさんは、続けた。


「私は、特別なことはできません。体も、まだ十分には戻っておりません」


「……うん」


「でも、家のことなら……以前は、ずっとやっていました」


 ふと、少しだけ笑う。


「夫の帰りが遅い日は、温かいものを残しておいたり。ハランの具合がよい日は、一緒にお菓子を作ったり……」


 そこで、言葉が途切れた。


 悲しそうな顔。


 でも、さっきまでとは違った。


 懐かしいものを、大切に思い出しているようだった。


「……私は、誰かが家へ帰ってきたときに、ほっとできるようなことがしたいんです」


 ……ああ。


 いいな。


 その気持ち、よく分かるよ。


     ◇


「ただ……」


 エーデルさんが、少し俯く。


「こちらには、優秀なメイドの皆様が、大勢いらっしゃいます」


 ……うん。


 確かにね。


「私のような者が、必要なのかどうか……」


「それは、心配しなくていいと思うよ」


 私は、そう答えた。


 エーデルさんが、驚いたように顔を上げる。


「うちには、仕事ができる人がたくさんいるけど、それって新しく誰かが来ちゃいけない理由にはならないから」


「……ですが」


「それに、私はみんなに、競争してほしいわけじゃないんだ」


 私は、少し笑った。


「できることを、できる範囲でやってくれれば十分だよ」


 ……あれ。


 何だか、すごく偉そうなこと言っちゃったかな。


 でも、本当にそう思うんだ。


     ◇


 エーデルさんは、静かに私を見ていた。


 私は、もう一つだけ確認する。


「ただね。働くとなったら、ちゃんと決めなきゃいけないこともあるんだ」


「……はい」


「お給料も払うし、お休みも取ってもらう。体調が悪い日は、無理をしなくていい」


 エーデルさんが、目を瞬いた。


「……お給金まで……」


「もちろん。仕事だからね」


 私は、頷いた。


「ここに住み続けるための条件として、働かせるつもりはないよ」


 エーデルさんの表情が、少し変わる。


「……働かなくても、ここにいてよいのでしょうか」


「うん。今は保護してるんだから」


 私は、はっきり答えた。


「働きたくないなら、無理に働かなくていい。働いてみて違うと思ったら、辞めたっていいんだ」


 ……そこは、絶対に大事だ。


     ◇


 私は、少し考えてから続けた。


「あとね、うちのメイドたちには、ちょっと特別な子が多いんだ」


「……特別、でございますか」


「うん。桜花も杏子も、みんなホムンクルスなんだ」


 エーデルさんが、杏子を見た。


「……そう、なのですか」


 杏子が、静かに頷く。


「はい。わたくしは、リアリス様にお作りいただいたホムンクルスでございます」


「……あっ」


 エーデルさんが、驚いたように目を見開く。


 ……まあ。


 見ただけじゃ、分からないよね。


「だから、同じように動こうとしなくていいんだよ」


 私は、エーデルさんへ向き直った。


「エーデルさんは普通の人間なんだから、休むことも、体を大切にすることも、ちゃんと考えなきゃいけない」


「……はい」


「無理に頑張って倒れちゃったら、私も心配になるしね」


 エーデルさんが、ほんの少し微笑んだ。


     ◇


 桜花が、静かに口を開いた。


「エーデル様」


「……はい」


「メイドとして働かれるのであれば、お仕事の内容は巴と杏子がご案内いたします」


 エーデルさんが、姿勢を正す。


「どうぞ、よろしくお願いいたします」


「こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 杏子も、丁寧に頭を下げた。


「お体のご様子を見ながら、少しずつ慣れていただければと存じます」


「……ありがとうございます」


 エーデルさんの表情が、少しだけ緩んだ。


 ……うん。


 よかった。


 でも。


 最後にもう一度、確かめたい。


     ◇


「エーデルさん」


「はい」


「本当に、エーデルさん自身がそうしたいんだね?」


 私は、まっすぐ尋ねた。


 エーデルさんは、一瞬だけ目を伏せた。


 それから、顔を上げる。


「……はい」


 その声は、まだ小さかった。


 でも、はっきりしていた。


「私は、自分で……ここで働きたいと思いました」


 ……ああ。


 よかった。


 私は、自然に笑っていた。


「じゃあ、よろしくお願いします。エーデルさん」


 エーデルさんの目が、大きくなった。


「……よろしいの、ですか」


「もちろん!」


 私は、頷く。


「ローズ帝国邸の新しいメイドとして、歓迎するよ」


 エーデルさんが、ゆっくり立ち上がった。


 そして、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


     ◇


 私は、慌てて立ち上がる。


「そんなに深く頭を下げなくていいよ」


 エーデルさんは、それでもすぐには顔を上げなかった。


「……私……」


 声が、少し震えていた。


 ……あ。


 泣きそう。


 私は、何も言わずに待った。


「……もう一度、誰かの帰りを待ってもいいのですね」


 その言葉を聞いた瞬間。


 私は、胸の奥が温かくなった。


「……うん」


 静かに答える。


「待ってくれる人がいたら、帰ってくる側も嬉しいよ」


 エーデルさんは、顔を上げた。


 目元が、少し濡れている。


 でも、その口元には。


 確かに、小さな笑みが浮かんでいた。


     ◇


 エーデルさんのことを、まずは巴さんへ連絡することにした。


 《映像通話》の画面が開く。


『リアリスちゃん? どうしたの?』


「巴さん。ちょっと相談があるんだ」


『あら。何かしら』


「実はね、エーデルさんがここで働きたいって言ってくれて」


 巴さんが、ぱちぱちと目を瞬かせる。


『……まあ』


「本人が希望してくれたんだ。ローズ帝国邸のメイドとして迎えようと思うんだけど、いいかな?」


 巴さんは、少しだけ考えた。


 それから、優しく微笑んだ。


『もちろんよ。でも、最初は無理をさせないでね』


「うん。そのつもり」


『それなら、私も一度お話ししに行くわね。生活のことも、お仕事のことも、きちんと相談しましょう』


「ありがとう、巴さん」


『それにしても……』


 巴さんが、嬉しそうに笑った。


『新しい家族が増えるのね』


 ……あ。


 そう言われると、なんだか照れるな。


     ◇


 通話を終えたあと、私はエーデルさんへ向き直った。


「今の話、聞こえた?」


「……はい」


「巴さんは、うちのメイド長なんだ。とっても頼りになるよ」


 エーデルさんが、静かに頷く。


「……先日、少しだけお話しさせていただきました」


「そうなんだね」


「……温かい方でした」


 ……うん。


 そうでしょう。


 ただし。


 ご飯を抜くと、かなり怒られるんだよね。


 ……今は、言わなくていいか。


 私は、ちょっとだけ笑った。


     ◇


 杏子が、確認するように尋ねる。


「リアリス様。エーデル様のお部屋は、当面そのままでよろしいでしょうか」


「うん。慣れるまでは、今の部屋がいいと思う」


「かしこまりました」


「それと、しばらくは短い時間だけお仕事をして、休む時間を多くしてね」


「承知いたしました」


 エーデルさんが、申し訳なさそうに眉を下げた。


「……私、そんなに気を遣っていただかなくても……」


「だめだよ」


 私は、思わず即答した。


「……え?」


「体を壊したら、お仕事どころじゃなくなるからね」


 ……あ。


 巴さんみたいなこと言っちゃった。


 桜花の口元が、少しだけ緩んだ。


 ……笑ってるね?


     ◇


 それから、ガラントさんへも連絡を入れた。


 エーデルさんは、帝国の事件で保護された人だ。


 だから、就労することになった経緯は、きちんと伝えておきたい。


 画面が開くと、ガラントさんが少し疲れた顔で応じた。


『……リアリス殿』


「ガラントさん。今日はお疲れさま」


『……陛下が、たいへん満足しておられます』


 ……ああ。


 まだ言ってるんだね、皇帝。


「それならよかった……のかな」


『……ひとまず』


 ……うん。


 何だか、含みがあるなぁ。


     ◇


「それでね。エーデルさんが、うちで働きたいって言ってくれたんだ」


 ガラントさんの表情が変わった。


『……エーデル殿が、ですか』


「うん。本人の希望だよ。今までの保護とは別に、ちゃんと雇用するつもり」


『……承知いたしました』


 ガラントさんは、机上の書類を一枚取り出す。


『事件に関する保護記録には、その旨を追記いたします。必要な身分上の確認と、就労に伴う手続きはこちらでご案内しましょう』


「ありがとう。助かるよ」


『ご本人の意思を尊重していただけるのであれば、帝国として異存はございません』


「うん。そこは絶対に守るよ」


 ガラントさんが、静かに頷く。


『……よかった』


 その一言には、少しだけ安堵が混じっていた。


     ◇


 連絡を終えた私は、窓の外を見た。


 陽が、少しずつ傾いている。


 ……そろそろ、シルク王国邸へ帰ろうかな。


 そう思ったとき。


 ふと、今朝のカトレアを思い出した。


 紫の花の絵。


 青い空。


 楓が選んでくれた、薄い青色。


 ……あっ。


 そうだ。


「エーデルさん」


「はい」


「カトレアにも、今のお話をしていいかな?」


 エーデルさんが、少し驚いたように顔を上げた。


「……カトレア様に、でございますか」


「うん。きっと、喜ぶと思うんだ」


 エーデルさんは、しばらく考えていた。


 それから。


「……はい。ぜひ」


 初めて、自分からそう答えてくれた。


     ◇


 私は、シルク王国邸へ《映像通話》をつないだ。


 相手は、巴さん。


『リアリスちゃん。どうしたの?』


「カトレア、今お家にいる?」


『いるわよ。お花の絵を仕上げているところ』


 ……おお。


 ちょうどよかった。


「エーデルさんが、カトレアに会ってもいいって言ってくれてね。今から一緒に来られるかな」


『分かったわ。私もお話ししたいから、一緒に行くわね』


「ありがとう!」


 ……うん。


 これで、みんなに紹介できるね。


     ◇


 しばらくして。


 ローズ帝国邸の《簡易転移》の扉が開いた。


「お父さーん!」


 カトレアが、元気よく駆け寄ってくる。


「おかえり、カトレア」


「ただいま!」


 ……あれ。


 ここでも、ただいまなんだね。


 まあ、どっちもお家だからいいか。


 カトレアの後ろには、巴さん。


 手には、完成した花の絵。


「リアリスちゃん。お待たせ」


「ありがとう、巴さん」


 巴さんは、私の顔をじっと見た。


「……怪我は?」


「大丈夫!」


「皇帝陛下は?」


「……怪我はないよ」


 ……あ。


 また、この質問だ。


 巴さんが、少しだけ目を細めた。


「……詳しくは、あとで聞くわね」


 ……はい。


 覚悟しておきます。


     ◇


 エーデルさんの部屋へ入ると、カトレアが絵を持って歩み寄った。


「エーデルさん!」


 エーデルさんが、立ち上がる。


「……カトレア様」


「これ、描いたの!」


 カトレアが、画用紙を差し出した。


 紫の花。


 柔らかな青い空。


 その下には、小さな家が描かれている。


 ……あれ。


 家も描いたんだ。


 今朝は、花と空だけだったのに。


「綺麗な空だね。お家も描いたの?」


「うん! お花が寂しくないようにしたんだ」


 ……ああ。


 そういうことね。


     ◇


 エーデルさんは、絵を受け取ったまま動かなかった。


 小さな家。


 花。


 青い空。


 その目が、少しだけ潤んだ。


「……ありがとうございます」


 カトレアが、嬉しそうに笑う。


「飾ってくれる?」


「……はい。大切にします」


 エーデルさんは、ゆっくり頷いた。


 巴さんが、静かに二人を見守っている。


 私は、一度だけ息を吸った。


「カトレア。実はね、嬉しいお知らせがあるんだ」


「えっ、なあに?」


 娘が、顔を上げた。


     ◇


「エーデルさんがね、これからこのお家で働いてくれることになったんだ」


 カトレアが、目を丸くした。


「……ほんと?」


「うん。ローズ帝国邸の新しいメイドさんだよ」


 一瞬の沈黙。


 それから。


「……やったあ!」


 カトレアが、ぱっと笑顔になった。


 エーデルさんが、驚いたように目を瞬かせる。


「……カトレア様?」


「じゃあ、また会えるんだね!」


 カトレアが、嬉しそうに言った。


「今度、一緒にお花を見ようね!」


 エーデルさんは、しばらく何も言えなかった。


 それから。


「……はい」


 小さく。


 でも、確かに笑ってくれた。


     ◇


 カトレアが、エーデルさんの手を取った。


「ねえ、エーデルさん」


「……はい」


「お花、育てるの好き?」


 エーデルさんが、少し考える。


「……はい。好き、だったと思います」


「じゃあ、また一緒に育てよう!」


 カトレアが、にっこり笑う。


「私、いろんなお花の育て方、知ってるんだよ」


「……そうなのですか」


「うん! 楓お姉ちゃんも詳しいんだ」


 ……あ。


 楓のことも、ちゃんと宣伝してるんだね。


 私は、思わず笑った。


 エーデルさんは、手を握られたまま、少しだけ目を伏せた。


「……よろしく、お願いいたします」


 その声は、もう震えていなかった。


     ◇


 巴さんが、エーデルさんの隣へ座った。


「エーデルさん。改めてよろしくね」


「……こちらこそ、よろしくお願いいたします」


「無理をしないこと。困ったことがあれば、すぐに相談すること。お仕事は、元気になってから少しずつ覚えていきましょう」


 ……うん。


 いつもの巴さんだ。


「それから、ちゃんとご飯を食べるのよ」


「……はい」


 エーデルさんが、小さく頷いた。


 私は、思わず苦笑する。


「……巴さん、それ、私にも言うよね」


「リアリスちゃんにも必要でしょう?」


「……はい」


 カトレアが、くすくす笑う。


 エーデルさんも。


 ほんの少しだけ、笑った。


     ◇


 杏子が、静かに声をかけた。


「エーデル様。よろしければ、後日お仕事用のお洋服をご用意いたします」


 エーデルさんが、頷く。


「……ありがとうございます」


「ただ、お体が本調子に戻るまでは、普段のお洋服でお過ごしくださいませ」


「はい」


 私は、二人のやり取りを聞いていた。


 ……ああ。


 いきなりメイド服を着て働くより、その方がいいね。


 エーデルさんは、普通の人間なんだから。


 仕事ができるようになるまで、ちゃんと休んでもらおう。


 私たちの家に来たからといって、何かを急ぐ必要はない。


     ◇


 窓辺の花に、夕日が差し込んでいた。


 エーデルさんは、カトレアの描いた絵を、鉢植えの隣へそっと立てかけた。


 その小さな家を、長いあいだ見つめている。


 私は、少し離れた場所から眺めていた。


 ……エーデルさん。


 きっと、これからもつらい日がある。


 夫のことを思い出して、涙が出ることも。


 ハランの名前を呼びたくなる夜も。


 でも。


 それでも、ここで暮らしていきたいと思ってくれた。


 誰かの帰りを待ちたいと、自分で選んでくれた。


 ……うん。


 そのことが、何より嬉しかった。


     ◇


「……リアリス様」


 エーデルさんが、こちらへ向き直った。


「ん?」


「本当に……ありがとうございます」


 私は、首を横に振った。


「こちらこそ、よろしくね」


 エーデルさんは、少しだけ困ったように微笑んだ。


「……はい」


 カトレアが、隣から声をかける。


「エーデルさん!」


「はい、カトレア様」


「これから、よろしくね!」


 エーデルさんが、ゆっくり頷く。


「……はい。こちらこそ」


 その声は、まだ少し控えめだった。


 けれど。


 前よりずっと、温かく聞こえた。


     ◇


 私は、部屋の中を見渡した。


 桜花。


 巴さん。


 杏子。


 カトレア。


 そして、エーデルさん。


 みんな、それぞれ違う。


 得意なことも。


 できないことも。


 抱えている思いも。


 ……それで、いいんだよね。


 私は、静かに笑った。


「じゃあ、改めて」


 みんなの視線が、こちらへ向く。


「エーデルさん。リアリス邸へ、ようこそ!」


 カトレアが、嬉しそうに手を叩いた。


 桜花と杏子が、静かに頭を下げる。


 巴さんは、優しく微笑んだ。


 エーデルさんの目元に、また小さな涙が浮かんだ。


 でも。


 その涙は、先日のものとは少しだけ違っていた。


     ◇


 帰り際。


 カトレアが、私の手を握った。


「お父さん」


「ん?」


「今日、いい日だったね!」


 ……あっ。


 そうだね。


 皇帝を二回も気絶させちゃったけど。


 ……うん。


 そこは、今は考えないでおこう。


「そうだね。いい日だったよ」


 私は、娘の頭を撫でた。


 カトレアが、嬉しそうに笑う。


 私たちは、《簡易転移》の扉へ向かった。


 扉の向こうには、いつものシルク王国邸。


 そして。


 背後のローズ帝国邸にも。


 今日から、新しい家族が一人増えた。


 ……ああ。


 家が増えるたびに、面白いことが起きると思っていたけれど。


 家族まで増えていくんだね。


 私は、扉を開けた。


 ……うん。


 明日も、きっといい日になる。


 そんな気がした。

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