第10話:母の涙と娘の涙
あの事件から、数日が過ぎた。
朝のシルク王国邸は、相変わらず賑やかだ。
庭では鳥が鳴いている。
廊下からは、メイドたちの足音。
食堂へ向かう途中には、焼きたてのパンのいい匂い。
……うん。
今日も平和だね。
「リアリスちゃん!」
背後から聞こえた声に、私は振り返った。
「おはよう、巴さん」
「おはようじゃないでしょう。朝ご飯の前に雑貨屋を見に行こうとしたでしょ?」
「……あれ。どうして分かったの?」
「いつもと違う方へ歩いていたら、分かるわよ」
……さすがだ。
「ちょっと新しい商品が気になってね」
「商品は逃げないでしょう? まずは食事。桜花ちゃんも待っているわよ」
「はーい」
私は素直に向きを変えた。
……うん。
巴さんは、すっかりいつものお母さんだ。
◇
食堂へ入ると、いつものように桜花とカトレア、それにメイドたちが食卓を囲んでいた。
「お父さん、おはよう!」
「おはよう、カトレア。桜花も」
「おはようございます、リアリス様」
桜花が、私の椅子を引いてくれる。
「ありがとう、桜花」
「恐れ入ります」
桜花は、いつものように自分の席へ戻った。
……以前なら、そんなに気にしなかったかもしれない。
桜花がいつも私より先に起きていることも。
こうして自然に世話を焼いてくれることも。
今は、少し違う。
でも、何をするにも心配していたら、桜花も困ってしまうよね。
私は、椅子へ座った。
「いただきます!」
カトレアの元気な声が響く。
……ああ。
やっぱり、これが一番だね。
◇
朝食の途中で、カトレアが私を見た。
「お父さん」
「ん?」
「この前、帝国のお家にいた人たち、もうみんな帰ったの?」
「帰りたい人は故郷へ帰ったよ。新しい国に行った人もいるんだ」
「そうなんだ」
カトレアが、パンを小さくちぎる。
「……まだ、お家にいる人もいる?」
「うん。一人、いるよ」
「その人、寂しくないかな」
私は、少しだけ言葉に詰まった。
……エーデルさん。
あの日、帰る場所はないと言っていた女性。
杏子から毎日様子を聞いている。
少しずつ食事は取れるようになったけれど、ほとんど自分からは話さないらしい。
「……寂しいかもしれないね」
私が答えると、カトレアは俯いた。
「じゃあ、お話しに行ってもいい?」
「……カトレアが?」
「うん。お花のお話なら、できるかなって」
……ああ。
優しいな。
だけど、すぐにいいよとは言えなかった。
◇
「エーデルさんは、まだ心が疲れていると思うんだ」
私は、なるべく分かりやすく話した。
「だから、今は誰かと会いたくないかもしれない。お話するのがつらいことだってあると思う」
カトレアは、真剣に聞いてくれた。
「……じゃあ、聞いてみる?」
「そうだね。エーデルさんが会ってもいいって言ってくれたら、一緒に行こうか」
「うん!」
桜花が、静かに頷いた。
「杏子にも、事前に確認していただきましょう」
「そうするよ」
私は、カトレアの頭を撫でた。
「それとね。無理に元気にさせようとしなくてもいいんだよ」
「……うん?」
「何も言わずに一緒にいるだけでも、嬉しいことはあるから」
カトレアは少し考えた。
それから、小さく頷いた。
「……分かった」
……うん。
きっと、大丈夫。
◇
朝食を終えた私は、《映像通話》でローズ帝国邸の杏子へ連絡した。
『おはようございます、リアリス様』
「おはよう、杏子。エーデルさんの様子はどうかな」
『本日は、朝食を半分ほど召し上がりました。昨夜もお休みになれたようでございます』
「そっか。よかった」
『ただ……』
杏子が、わずかに言葉を止める。
『ときおり、お一人で窓の外を見つめておられます。お声をかけても、返事をなさらないことがございます』
「……そうなんだね」
私は、カトレアの顔を見た。
隣で、じっと通話を聞いている。
「今日、カトレアと一緒に顔を見に行こうと思ってるんだ。エーデルさんが嫌じゃなければ、少しだけ会えないかな」
杏子が、静かに頷く。
『承知いたしました。まずはエーデル様のお気持ちを伺ってまいります』
「ありがとう。無理だったら、今日はやめよう」
『はい』
通話が終わった。
◇
返事が来るまで、カトレアは庭で花を選んでいた。
楓が、その隣についている。
「……これは?」
「うーん。もう少し小さいお花がいいかな」
「……こっち」
「わあ。かわいい!」
楓が示したのは、小さな淡い紫の花だった。
カトレアが、そっと膝を折る。
「これなら、お部屋に置けるかな」
「……置ける」
「じゃあ、これにしよう!」
楓は、小さく頷いた。
……うん。
会話は少ないけれど、ちゃんと仲良くやってるね。
私は二人の様子を眺めながら、杏子からの返事を待った。
しばらくして、《映像通話》が開いた。
『リアリス様。エーデル様から、お会いしてもよろしいとのお返事をいただきました』
「本当? ありがとう」
『長いお時間では、お疲れになるかもしれませんが……』
「うん。様子を見ながらにするよ」
カトレアが、花を手に顔を上げた。
私は、微笑んだ。
「じゃあ、行こうか」
◇
シルク王国邸の《簡易転移》の扉を開き、桜花とカトレアと一緒にくぐる。
扉の向こうは、ローズ帝国邸の廊下だった。
窓の外の庭は、陽の光で明るい。
帝都トリテアの賑わいは、屋敷の外からかすかに聞こえるだけだ。
カトレアは、小さな鉢植えを両手で抱えている。
桜花は、いつもどおり私の隣。
「お父さん、ここにお花を置いてもいいかな」
「うん。エーデルさんに聞いてからね」
「うん!」
私は、鉢を抱えた小さな手を見た。
……そういえば。
カトレアがこの屋敷へ来るたびに、何か花が増えてる気がする。
……まあ、いいか。
お花は綺麗だしね。
◇
廊下の先では、一般メイドが迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、リアリス様。桜花様、カトレア様も、ようこそお越しくださいました」
「ただいま。杏子は?」
「エーデル様のお部屋におります」
「分かった。ありがとう」
廊下を歩いていると、カトレアの足取りが少し遅くなった。
「……お父さん」
「どうしたの?」
「私、何を話したらいいのかな」
……あっ。
今になって緊張したんだね。
「いつもどおりでいいよ。カトレアが話したいことを、少しだけ話せばいい」
「……うん」
「それに、何も話さなくてもいいからね」
カトレアは、鉢植えを大事そうに抱え直した。
「……分かった」
桜花が、そっと隣へ並ぶ。
「カトレア。わたくしたちも一緒でございますから」
「うん、桜花お姉ちゃん」
カトレアの足取りが、少しだけ軽くなった。
◇
部屋の前で、杏子が待っていた。
「リアリス様。どうぞ」
「ありがとう、杏子」
杏子は扉を開ける前に、内側へ声をかけた。
「エーデル様。リアリス様とカトレア様がお見えになりました」
少しの間。
それから、かすかな返事が聞こえた。
「……どうぞ」
扉が、ゆっくり開く。
部屋の中は静かだった。
窓辺の椅子。
小さな卓。
清潔な寝台。
その椅子に、エーデルさんが座っていた。
黒い長い髪。
細い肩。
膝の上に重ねられた手。
以前より顔色はよくなっていた。
でも、目の奥はまだ、ひどく遠いところを見ているようだった。
「こんにちは、エーデルさん」
「……こんにちは」
返事は、小さかった。
◇
「今日は、カトレアも一緒なんだ」
私は、隣に立つ娘を紹介した。
「私の娘の、カトレアだよ」
カトレアが、ぺこりと頭を下げる。
「こんにちは。カトレアです」
エーデルさんの目が、初めてはっきりと動いた。
カトレアの顔を見ている。
水色の短い髪。
小さな体。
両手で抱えた花。
「……かわいい、お嬢さん……」
エーデルさんが、かすかに呟いた。
「ありがとう!」
カトレアは、少し嬉しそうに笑う。
「これ、あげてもいい?」
鉢植えを持ち上げる。
「お花があると、お部屋が明るくなるから」
エーデルさんは、鉢植えを見つめた。
長い沈黙。
「……私に、ですか」
「うん!」
エーデルさんの唇が、わずかに動いた。
「……ありがとうございます」
カトレアは、嬉しそうに頷いた。
◇
鉢植えは、杏子が窓辺に置いてくれた。
小さな紫の花が、陽の光を受けて揺れている。
カトレアは、その花を見つめていた。
「ここなら、お日様が当たるね」
「……そう、ですね」
エーデルさんが答える。
その視線は花に向いたままだった。
「お花、好き?」
カトレアが尋ねる。
「……昔は」
「昔?」
「……はい」
そこで言葉が途切れた。
カトレアは、それ以上尋ねなかった。
ただ、花の横へ自分の椅子を持っていき、静かに座った。
私も、近くの椅子へ腰かけた。
桜花と杏子は、少し離れたところで見守っている。
……うん。
今は、このくらいの距離がいいね。
◇
しばらく、何でもない話をした。
シルク王国邸の花壇のこと。
カトレアが大事に育てている花のこと。
楓が、花の名前を覚えるのを手伝ってくれること。
カトレアが話すと、エーデルさんは静かに聞いていた。
時折、小さく頷く。
それだけだった。
でも、最初よりは少しだけ、目の焦点が合っているように見えた。
私は、無理に会話を続けなかった。
沈黙が訪れたら、そのままにする。
昨日までの私なら、何か話さなきゃって焦っていたかもしれない。
……今は。
隣にいることを、選んでくれただけで十分だと思えた。
◇
そのとき、エーデルさんが小さく尋ねた。
「……カトレア様は、おいくつでいらっしゃいますか」
「九歳だよ!」
カトレアが答える。
エーデルさんの手が、ほんのわずかに動いた。
「……九歳……」
その言葉を、確かめるように繰り返した。
カトレアは首を傾げる。
「どうしたの?」
「……いえ」
エーデルさんが、目を伏せた。
その横顔が、急に苦しそうに見えた。
私は、カトレアと顔を見合わせた。
「エーデルさん。今日はここまでにしようか」
そう声をかけると、エーデルさんは首を横に振った。
「……少し、待ってください」
かすれた声。
私は、黙って頷いた。
◇
エーデルさんは、膝の上で両手を握った。
しばらく、誰も何も言わなかった。
窓の外から、風の音が聞こえる。
小さな花びらが揺れた。
「……私にも」
エーデルさんが、口を開いた。
「私にも、子どもがいたんです」
私は、息を止めそうになった。
カトレアも、静かに顔を上げた。
「……男の子、でした」
エーデルさんの視線は、どこか遠くに向いている。
「名前は……ハランといいます」
……ハラン。
私は、すぐには何も言わなかった。
エーデルさんは、もう一度その名前を口にした。
「……ハラン」
まるで、名前を呼べば返事が返ってくるとでも思っているように。
◇
「……虚弱な子で」
エーデルさんは、静かに続けた。
「小さい頃から、よく熱を出していました。外で遊べる日も、そう多くはなくて……」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「でも、あの子は、外の世界が大好きだったんです」
窓へ目を向ける。
「商人だった夫が旅から戻るたびに、どんな町へ行ったのか、何を見たのか……同じ話を、何度も聞きたがりました」
……ああ。
お父さんの帰りを楽しみにしていたんだね。
エーデルさんは、わずかに口元を緩めた。
「夫も、喜んで話してくれました。仕事で疲れているはずなのに、あの子が眠るまで、ずっと」
ほんの一瞬。
エーデルさんは、幸せそうな顔をした。
でも。
その表情は、すぐに消えてしまった。
◇
「……ハランは、絵を描くのが好きでした」
エーデルさんの指が、膝の上で動く。
「家から見える花や、旅の話に出てきた町を、想像しながら描いて……」
「私も、お花の絵を描くよ」
カトレアが、小さな声で言った。
エーデルさんが、ゆっくり顔を上げる。
「……そうなのですか」
「うん。まだ上手じゃないけど」
「……きっと、綺麗なのでしょうね」
カトレアは、少し照れたように笑った。
エーデルさんの目が、カトレアの手元に留まった。
その視線が、少しずつ曇っていく。
「……あの子の描いた絵も」
声が震えた。
「……まだ、家に残っているのでしょうか」
私は、胸の奥が痛くなった。
◇
「……夫は、よく働く人でした」
エーデルさんが続ける。
「大きな商会の主人でも、裕福な商人でもありませんでした。でも、暮らしには困らないようにと、いつも……」
そこで言葉が止まった。
呼吸を整えるように、ゆっくり息を吸う。
「ハランの薬代が、必要でしたから」
私は、静かに頷いた。
「……ある日、夫の荷を届けるため、三人で街道へ出たんです」
エーデルさんは、自分の手を見た。
「いつもより短い道のりでした。ハランも体調がよくて……少しなら、一緒に行けるだろうと」
……そうだったんだね。
「その日、あの子は朝から喜んでいました」
エーデルさんの目元が揺れた。
「……私が、連れていこうと言ったんです」
◇
私は、何か言いかけた。
でも、やめた。
エーデルさんは、まだ話している。
今は、私が言葉を挟むときじゃない。
「……街道で、馬車を止められました」
エーデルさんの声が、少し低くなった。
「道を塞ぐ人たちがいて……荷を改めると言われたんです」
指先が、細かく震え始める。
「夫は、おかしいと思ったのでしょう。引き返そうとしました。でも、もう……」
エーデルさんが、唇を噛んだ。
その先を言うのに、時間がかかった。
「……逃げられませんでした」
部屋が、静まり返る。
カトレアも、何も言わなかった。
◇
「夫は、私とハランを守ろうとしました」
エーデルさんの声が震えた。
「ずっと、私たちの前に立って……妻たちに手を出さないでくれと、何度も……」
その目から、涙が一粒落ちた。
「私は、ハランを抱いていました。あの子が怖がって、私の服を離さなかったから……」
エーデルさんは、自分の両腕を見た。
空っぽの腕。
「……そのとき、夫が倒れたんです」
私は、息を呑んだ。
「何度も呼びました。でも、返事をしてくれなくて……」
エーデルさんの声が、細くなる。
「ハランが、お父さんはどうしたのって聞いたんです」
そこで、エーデルさんは目を閉じた。
「……私、何も答えられませんでした」
◇
誰も、動かなかった。
廊下の足音さえ、遠くに感じた。
エーデルさんは、震える手を握りしめる。
「私たちは、そのまま連れていかれました。夫は……残されたままでした」
私は、膝の上で手を握った。
……ああ。
胸の奥に、嫌な熱が広がる。
子爵邸で感じた怒りと、少し似ている。
でも、今は違う。
私は、エーデルさんを見た。
桜花も、カトレアも、ここにいる。
今は、目の前の話を聞こう。
そう、自分に言い聞かせた。
◇
「……ハランは、途中から熱を出しました」
エーデルさんの声は、ほとんど聞こえないほど小さかった。
「もともと、体が弱かったんです。怖い思いをして、食事も十分に取れなくて……」
私は、静かに耳を傾けた。
「薬を……お願いしました」
エーデルさんの指が、膝の上を握りしめる。
「必要な薬があるんですと。せめて、少し休ませてくださいと……」
言葉の合間に、浅い息が混じった。
「……でも、誰も聞いてくれませんでした」
カトレアが、私の服の袖をそっと握った。
私は、その小さな手を包んだ。
◇
「……夜になって、ハランが言ったんです」
エーデルさんは、目を閉じたまま続けた。
「お母さん、寒いよって」
沈黙。
「……私、抱きしめました。できるだけ強く、温かくなるように」
その両腕が、ゆっくりと持ち上がる。
何もない空間を抱くような形になった。
「大丈夫よって、言いました」
唇が、震える。
「もう少ししたら、お家に帰れるからって……」
私は、何も言えなかった。
「……嘘でした」
一粒、また一粒。
涙が、膝の上へ落ちていく。
「帰れなかったんです」
◇
「……朝になって」
声が途切れた。
エーデルさんは、何度も息を吸おうとした。
「……あの子の手が、冷たくなっていて」
言葉が、そこで止まる。
私は、続きを求めなかった。
カトレアが、私の手を強く握った。
エーデルさんは、しばらく俯いていた。
「……名前を呼んでも」
小さな声がした。
「……起きてくれませんでした」
私は、目を伏せた。
その言葉を聞いた瞬間。
桜花の名前を、何度も呼んだ夜を思い出した。
もう、取り戻せない時間だった。
◇
「……ハランを、離したくなかったんです」
エーデルさんの声が、震え続けている。
「でも、無理やり……」
それ以上は、言葉にならなかった。
私は、ただ聞いていた。
エーデルさんの指先が、何度も同じ動きをする。
まるで、何かを握り直そうとしているみたいに。
「……あの子の、最後の声が」
エーデルさんは、顔を覆った。
「まだ、聞こえるんです」
涙が、指の隙間からこぼれた。
「お母さんって……呼んでくれた声が……」
もう、言葉になっていなかった。
私は、口を開いた。
でも。
何を言えばいいのか、分からなかった。
大丈夫だよ、なんて言えない。
時間が経てば忘れられるよ、なんて。
そんなこと、言えるはずがなかった。
◇
静かな部屋に、すすり泣く声だけが響いた。
杏子が、そっと水の入った杯を卓へ置く。
誰も、飲むようには勧めなかった。
私は、エーデルさんの前にいる。
この人が失ったものは、二度と元には戻らない。
夫も。
ハランも。
昨日まで当たり前だった毎日も。
……私は、考えた。
何でもできると思っていた《想像魔法》でも、失われた時間までなかったことにはできない。
だから、今できることは何だろう。
……分からない。
私は、力の抜けた手を膝に置いた。
そのときだった。
◇
「……エーデルさん」
カトレアの声が、静かに響いた。
私は、顔を上げた。
カトレアは、エーデルさんの方を見ていた。
大きな瞳が、涙で濡れている。
「……私もね」
小さな声。
「……お母さんと、お父さんが、いないの」
エーデルさんが、ゆっくり顔を上げた。
「……え……」
「森で、魔獣に襲われたんだ」
カトレアが、私の手を握ったまま続ける。
「すごく怖かった。お母さんも、お父さんも……もう、起きなくて」
私の胸が、ぎゅっと痛んだ。
……カトレア。
あの日の話を、自分からするのは珍しかった。
「今のお父さんと桜花お姉ちゃんが、助けてくれたの」
カトレアが、私を見上げる。
私は、何も言わずに頷いた。
「……でもね」
カトレアの声が、震えた。
「今でも、お母さんに会いたくなるの」
◇
「お花を見つけたときとか」
カトレアは、泣きそうな顔で笑った。
「美味しいものを食べたときとか……お母さんにも見せたいなって思うの」
エーデルさんは、動かなかった。
ただ、カトレアを見つめていた。
「……会えないって、分かってるんだけどね」
カトレアの頬を、涙が伝った。
「それでも、会いたいときがあるの」
私は、その小さな肩に手を添えた。
「カトレア。無理して話さなくてもいいんだよ」
「……うん」
娘は、私の方を見た。
「でも、お話したいの」
私は、静かに頷いた。
……そうだね。
ちゃんと、聞こう。
◇
「……だからね、エーデルさん」
カトレアは、椅子からゆっくり立ち上がった。
「悲しかったら、泣いてもいいと思う」
エーデルさんが、唇を震わせる。
「……私は……」
「私もね、たくさん泣いたよ」
カトレアは、涙を拭わなかった。
「今も泣いちゃうこと、あるんだ」
エーデルさんの手が、膝の上で動いた。
「……でも」
その声には、痛いほどの後悔が混じっていた。
「……私は、あの子の母親なのに……」
エーデルさんが、自分を責めるように呟く。
「守ってあげられなかった……」
カトレアは、少し首を傾げた。
それから、静かに尋ねた。
「……抱っこ、してもいい?」
◇
エーデルさんの目が、大きくなった。
「……え……」
「ぎゅってしても、いい?」
カトレアが、もう一度尋ねる。
エーデルさんは、しばらく返事をしなかった。
その視線が、小さな腕へ向かう。
何も持っていない腕。
誰かを抱きしめようと、少しだけ開かれた手。
「……よろしい、のですか」
ようやく、かすれた声がした。
「うん」
カトレアが頷く。
「私も、ぎゅってすると安心するから」
エーデルさんは、ゆっくり両腕を開いた。
カトレアが、一歩近づく。
そして。
その胸へ、そっと体を預けた。
◇
エーデルさんの腕が、カトレアの背中へ回った。
最初は、とてもおずおずと。
触れてもいいのか分からないように。
でも、カトレアが小さな手を背中へ回すと、エーデルさんの指が震えた。
「……あ……」
唇から、声がこぼれる。
「……温かい……」
私は、息を止めた。
エーデルさんは、カトレアの背中へ頬を寄せる。
「……子どもって……こんなに、温かかった……」
その声が崩れた。
カトレアは、何も言わずに抱きついている。
エーデルさんの肩が、何度も震え始めた。
そして。
堪えていたものが、ついに溢れた。
◇
「……ハラン……!」
エーデルさんが、泣いた。
声を押し殺すこともできずに。
「ハラン……っ、ごめんね……!」
細い腕が、カトレアを抱きしめる。
カトレアも、その背中へ手を回した。
「お母さんが……守るって……言ったのに……!」
エーデルさんは、何度も息を詰まらせた。
「帰ろうねって……約束したのに……!」
私は、立ち上がりかけて、止まった。
助けてあげたい。
そう思った。
でも、今は邪魔をしたくなかった。
これは、誰にも代わってあげられない涙だった。
◇
カトレアは、エーデルさんの背中を優しく撫でていた。
まるで、巴さんがいつも自分にしてくれるように。
その小さな顔も、涙で濡れている。
「……大丈夫だよ」
カトレアが、囁いた。
エーデルさんが、わずかに顔を上げる。
カトレアは、泣きながら微笑んだ。
「大丈夫だよ、お母さん」
……あっ。
私は、言葉を失った。
カトレアは、エーデルさんの背中を撫で続ける。
「今は、いっぱい泣いていいんだよ」
その声が、少し震えている。
「私も、泣いたから……」
エーデルさんの目から、また涙が溢れた。
◇
「……お母さん……」
エーデルさんが、小さく繰り返す。
その言葉が、胸の奥に届いたようだった。
「……私……」
声が、震えた。
「……もう、呼んでもらえないと……思って……」
カトレアが、ぎゅっと抱きしめる。
「……ごめんね。私の本当のお母さんは、別にいるんだけど……」
カトレアは、少し言葉を探した。
「でも、エーデルさんが泣いてるの、見ていられなかったの」
エーデルさんが、首を横に振る。
「……謝らないで……」
その声は、涙で途切れていた。
「……どうか……謝らないでください……」
そして、もう一度カトレアを抱きしめた。
何度も、何度も。
◇
私は、静かに二人を見守っていた。
エーデルさんが失った家族は、帰ってこない。
カトレアの両親も、戻らない。
そのことは、変えられない。
でも。
今、二人が抱きしめ合っている。
泣いている。
誰かの温かさを、確かめている。
……それだけで。
今は、十分なのかもしれない。
隣にいた桜花が、そっと私の手を取った。
「リアリス様」
「……うん」
私は、握り返した。
……ありがとう、桜花。
今日は、何も急がなくていいね。
◇
どれくらい経ったのだろう。
エーデルさんの泣き声は、少しずつ小さくなっていった。
それでも、カトレアを離そうとはしなかった。
カトレアも、ずっと抱きついたままだった。
やがて、エーデルさんが小さく口を開く。
「……カトレア様」
「……うん?」
「……ありがとうございます」
その声は、まだ震えていた。
「……こんな私に……」
カトレアが、首を横に振る。
「こんな、じゃないよ」
エーデルさんが、少し驚いたように顔を上げた。
「エーデルさんは、エーデルさんだよ」
カトレアが、当然のように言う。
「……だから、泣いてもいいんだよ」
……ああ。
私は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
◇
しばらくして、杏子がそっと声をかけた。
「エーデル様。お水をお持ちいたしました。よろしければ、少しお飲みになりますか」
エーデルさんが、小さく頷く。
「……お願いします」
杏子は、静かに杯を差し出した。
エーデルさんは、ゆっくり水を飲んだ。
それから、カトレアの顔を見た。
目元は赤く、頬には涙の跡が残っている。
でも、初めて見たときとは少し違った。
「……お花」
エーデルさんが、窓辺へ目を向ける。
「……大切にします」
カトレアが、にっこり笑った。
「うん! また見に来るね」
エーデルさんは、すぐには答えなかった。
それでも。
「……はい」
確かに、そう返事をしてくれた。
◇
部屋を出る前に、私はエーデルさんへ尋ねた。
「今日は、たくさん話してくれてありがとう。疲れたよね」
エーデルさんが、首を横に振る。
「……いえ。むしろ……」
そこで少し迷い、目を伏せた。
「……ずっと、誰にも言えなかったので」
「……そっか」
私は、静かに頷いた。
「これからどうするかは、ゆっくり決めていいからね。ここにいても、誰も怒らないよ」
「……ありがとうございます」
「杏子もいるし、何かあったら遠慮なく言ってね」
エーデルさんは、頷いた。
その返事に、まだ力はなかった。
……うん。
今日だけで、全部がよくなるわけじゃない。
それでいい。
◇
廊下へ出ると、カトレアが私の手を握った。
「……お父さん」
「ん?」
「私、泣いちゃった」
「うん。見てたよ」
「……だめだった?」
私は、しゃがんで目を合わせた。
「そんなことないよ」
カトレアの頬に、まだ涙の跡があった。
私は、そっと拭う。
「カトレアが泣きたいときは、泣いていいんだ。エーデルさんだって、同じだよ」
娘は、しばらく私を見つめた。
それから、小さく頷く。
「……うん」
「今日、頑張ったね」
そう言うと、カトレアが私に抱きついてきた。
私は、優しく抱きしめ返した。
◇
「……私ね」
カトレアが、私の肩へ顔を埋めたまま言った。
「エーデルさんのこと、お母さんって呼んじゃった」
「うん」
「……変だったかな」
私は、少し考えた。
「どうして、そう呼んだの?」
「……分かんない」
カトレアは、正直に答えた。
「ハラン君のお母さんが、いっぱい泣いてたから……」
私は、黙って聞いた。
「お母さんが悲しいとき、私もぎゅってしたかったなって、思ったの」
……ああ。
カトレア。
私は、娘の背中を撫でた。
「変じゃないよ」
静かに答える。
「カトレアの気持ち、きっと伝わったと思う」
娘が、小さく頷いた。
◇
私たちは、そのまま小さな休憩室へ向かった。
杏子が用意してくれた温かな飲み物と、少しだけ甘いお菓子が置かれている。
カトレアは、一つ手に取った。
「……おいしい」
「よかった」
私は、隣へ座った。
桜花が、控えめに声をかける。
「リアリス様。エーデル様のお部屋には、わたくしたちも時折お伺いいたしましょう」
「うん。でも、まずはエーデルさんの気持ちを聞いてからね」
「もちろんでございます」
私は、杯へ目を落とした。
……ああ。
あの人は、今までどれだけ一人で抱えていたんだろう。
私が想像できるのは、そのほんの一部だけだ。
だから、勝手に分かったつもりにはならないでおこう。
そう思った。
◇
昼過ぎ。
応接室へ戻ると、一般メイドが近づいてきた。
「リアリス様。クオシン殿下がお見えでございます」
「……えっ、クオシンさんが?」
ちょっと驚いた。
今日は、こちらから連絡していなかったからだ。
「先ほどシルク王国邸を訪ねられ、巴様の許可を得て《簡易転移》の扉からこちらへお越しになったそうです」
……なるほど。
あの扉を使ったんだね。
「お約束はございませんが、ご案内してもよろしいでしょうか」
「もちろん。どうぞ」
私は、桜花と顔を見合わせた。
カトレアが首を傾げる。
「クオシンさんって、この前お話してた人?」
「うん。今回の事件で、いろいろ手伝ってくれた人だよ」
「そうなんだ!」
……あ。
そういえば、カトレアとクオシンさんって、ほとんど話したことがなかったね。
◇
「……邪魔するぞ」
扉の向こうから、いつもの声。
クオシンさんが入ってきた。
「こんにちは、クオシンさん」
「……ああ」
彼は、私の顔を見るなり眉を寄せた。
「……お前、相変わらずのんきな顔してんな」
「えっ。普通の顔だと思うけど」
「それが気に入らねえんだよ」
……今日も元気そうだ。
クオシンさんは、すぐに話題を変えた。
「……あの女は、どうしてる」
「あの女?」
「……ゴゾーラのところにいた、まだ帰る場所が決まってねえやつだ」
「ああ、エーデルさんのこと?」
「……そうだ」
私は、少し驚いた。
……ちゃんと覚えてくれてたんだね。
◇
「エーデルさんには、さっき会ってきたよ」
「……で」
「少しだけ、話してくれた」
私は、そこで言葉を止めた。
エーデルさんの過去について、どこまで話していいのか分からなかったからだ。
クオシンさんは、私の顔を見た。
「……何だ」
「個人的な話だから、勝手に詳しくは言えないんだ。でも、今は休んでもらってる」
「……そうか」
意外にも、それ以上は聞かなかった。
クオシンさんは、部屋の奥へ目を向ける。
「食事は取れてんのか」
「杏子が見てくれてるよ。まだ少しずつだけど」
「……ふん」
彼は、小さく息を吐いた。
「なら、いい」
◇
クオシンさんが、持っていた紙包みを卓へ置いた。
「……これ」
「ん?」
「……余ったから持ってきただけだ」
包みの中には、クッキーが入っていた。
……あれ?
見覚えがある。
うちの雑貨屋で売ってるものだね。
「これ、この前買ってくれた――」
「言うな」
「……はい」
……あっ。
照れてる?
クオシンさんは、咳払いをした。
「食える状態なら、あの女にでも渡せ。食えねえなら、ここの連中で食えばいい」
「……ありがとう、クオシンさん」
「礼なんぞいらねえ」
私は、包みを見た。
……うん。
ちゃんと、気にかけてくれてるんだ。
◇
「……それで」
クオシンさんが、椅子へ座った。
「帝国の調査は進んでんのか」
「ガラントさんが調べてくれてる。今日、報告ももらえる予定だよ」
「……そうか」
私は、ふと気になって尋ねた。
「クオシンさんは、どうして今日来てくれたの?」
「……別に」
クオシンさんが、目を逸らす。
「……シルク邸に寄ったついでだ」
「そっか」
……『ついで』って言うけど。
わざわざ巴さんに頼んで、ここまで来てくれたんだよね。
私が黙っていると、クオシンさんが顔をしかめた。
「何だよ、その顔は」
「……何でもないよ」
……ふふ。
あまり追及しないでおこう。
◇
カトレアが、卓のクッキーを見つめていた。
クオシンさんが、それに気づく。
「……何だ」
「……それ、食べてもいいの?」
カトレアが、遠慮がちに尋ねた。
クオシンさんは、少し驚いたようだった。
「……ああ。好きにしろ」
「ありがとう!」
カトレアが、嬉しそうに一枚取る。
私は、思わず笑った。
「カトレア。ありがとうは言えて偉いね」
「うん!」
クオシンさんが、私を睨んだ。
「……何でお前が嬉しそうなんだ」
「娘が喜んでるからね」
「……親馬鹿か」
「うん。否定しないよ」
「……はあ」
クオシンさんが、深いため息をついた。
……あれ。
今のは、何か悪かったかな。
◇
「お父さん、このお兄ちゃん、怖い人?」
カトレアが、私に小声で尋ねた。
……あっ。
聞こえてると思うよ?
クオシンさんの眉が、ぴくりと動いた。
私は、少し考える。
「口はちょっと悪いけど、優しいところもある人だよ」
「……そうなの?」
「うん。今日も、お菓子を持ってきてくれたでしょ」
カトレアが、クオシンさんを見た。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
クオシンさんは、何とも言えない顔をした。
「……ああ」
それだけ答える。
……ふふ。
子ども相手だと、ちょっと調子が狂うのかもしれないね。
◇
クオシンさんが、ふと窓の外へ目を向けた。
「……リアリス」
「ん?」
「お前が何をしたか、俺は全部は知らねえ」
私は、顔を上げた。
「……うん」
「ただ、あれだけ怒り狂ってたお前が、今は人の話を聞こうとしてる。それは見りゃ分かる」
いつもの荒い声だった。
でも、からかうような響きはなかった。
「……無茶はすんなよ」
私は、少し驚いた。
……心配、してくれてる?
「……ありがとう」
「勘違いすんな。お前がまた暴れたら、面倒なことになるからだ」
「……うん」
私は、微笑んだ。
「気をつけるよ」
クオシンさんが、そっぽを向いた。
「……ふん」
◇
少しして、クオシンさんが立ち上がった。
「そろそろ王城に戻る」
「じゃあ、送るよ」
「……ああ。頼む」
私は、思わず目を瞬いた。
……あれ?
今日は素直だね。
クオシンさんは、私の顔を見て眉を寄せた。
「……何だよ」
「いや、何でもないよ」
「……変なこと考えてんだろ」
「考えてないって」
……少しだけ、考えたけど。
私は、桜花へ目を向けた。
「桜花。先にクオシンさんを送ってくるね」
「かしこまりました。こちらはお任せください」
私は、クオシンさんと一緒に玄関へ向かった。
◇
玄関前の庭。
クオシンさんは、周囲を一度見回した。
それから、私へ手を差し出す。
「……早くしろ」
「うん」
私は、手を取った。
《転移》。
景色が変わる。
シルク王城の門前。
兵士たちが、こちらに気づいて姿勢を正した。
「クオシン殿下!」
「……ああ」
クオシンさんは、短く頷いた。
私は、手を離す。
「今日はありがとう。また何か分かったら報告するよ」
「……好きにしろ」
彼は、城の方へ歩きかけた。
けれど、途中で足を止める。
「……リアリス」
「ん?」
「……あの女に」
短い沈黙。
「……ちゃんと、休ませてやれよ」
私は、静かに頷いた。
「うん。分かってる」
クオシンさんは、それだけ聞くと、振り返らずに城へ入っていった。
……うん。
やっぱり、あの人も優しいところがあるんだね。
◇
私は、《転移》でローズ帝国邸へ戻った。
玄関では、桜花が待っていた。
「お帰りなさいませ、リアリス様」
「ただいま、桜花」
「クオシン殿下は、無事にお戻りでございますか」
「うん。王城まで送ってきたよ」
私は、少しだけ笑った。
「今日も、なかなか素直じゃなかったね」
桜花の口元が、ほんの少し緩む。
「……そうでございますね」
私たちは、そのまま応接室へ戻った。
カトレアは、杏子と一緒に花の絵を描いていた。
……ああ。
いつの間にか、お絵描きが始まってたんだ。
「お父さん! 見て!」
「うん。綺麗に描けてるね」
……うん。
こういう時間が、ありがたいな。
◇
夕方前。
ガラントさんから《映像通話》が入った。
『リアリス殿。お時間をいただいてもよろしいでしょうか』
「もちろん。調査の件だよね」
『はい。現時点で分かった範囲を、ご報告いたします』
私は、桜花へ目を向けた。
桜花は、静かに頷いた。
「お願いします、ガラントさん」
画面の向こうで、ガラントさんが書類を開く。
『まず、ゴゾーラ子爵と関係者の身柄は、引き続き帝国側で確保しております』
「……うん」
『子爵邸の地下施設と、発見された書類については、捜索と照合を進めております』
私は、ゆっくり頷いた。
……あの地下。
まだ、はっきりと覚えている。
でも、今は最後まで聞こう。
◇
『保護された四十五名については、全員の身元と現在の所在を確認しております』
「よかった」
『帰郷された方々には、必要に応じて現地の担当者が連絡できるよう、記録を引き継いでおります。また、聖国へ移られた方々の受け入れ状況も、向こうの行政担当者から報告を受けております』
「……そっか」
私は、ほっと息を吐いた。
行き先を決めて、送り届けたあと。
そこから先も、ちゃんと続いているんだね。
『エーデル殿については、引き続き貴邸で保護いただく形で問題ございません。ご本人の意思が確認できた段階で、必要な手続きを進めます』
「うん。ありがとう」
……急がせないでくれて、よかった。
◇
『一方、子爵邸で亡くなられた方々の身元については、まだ調査中のものがございます』
ガラントさんの声が、少し低くなった。
『記録が残されていない方もおり、ご遺族への連絡には時間を要する見込みです』
私は、膝の上で手を握った。
「……分かった」
『どなたが、どのような経緯で亡くなられたのか。そこを曖昧にはできません。引き続き、調べます』
……うん。
そうだよね。
あの場所にいた人たちにも、名前があった。
帰る場所があったかもしれない。
待っている家族が、いたかもしれない。
「……お願いします」
私は、静かに頭を下げた。
◇
ガラントさんは、少し間を置いた。
『それから、リアリス殿』
「……ん?」
『子爵邸の外壁が損壊した件についても、記録には残しております』
「……うん。私がやったことだからね」
『承知しております。ただし、事情を含めて整理する必要がありますので、現時点で結論を申し上げる段階ではございません』
「分かった。必要なら、ちゃんと話すよ」
ガラントさんは、静かに頷いた。
『ありがとうございます』
……ああ。
あの日のことを、なかったことにはできない。
でも、隠さず向き合うことはできる。
私は、桜花の方を見た。
桜花は、いつもの穏やかな表情で、私を見守っていた。
◇
通話を終えたあと、私は少しだけ椅子に座っていた。
ゴゾーラ子爵のこと。
地下で亡くなった人たちのこと。
助けられた四十五人のこと。
そして、エーデルさんのこと。
……まだ、終わっていないんだね。
事件としては、少しずつ片づいている。
でも、誰かの人生は、そう簡単には片づかない。
私は、窓の外へ目を向けた。
庭には、夕方の光が差し込んでいる。
……うん。
今日、エーデルさんが話してくれたこと。
私は、きっと忘れない。
◇
「お父さん」
カトレアが、私の隣へ来た。
「ん?」
「エーデルさん、また会ってくれるかな」
「……どうだろうね」
私は、正直に答えた。
「会いたいと思ってくれたら、また会えるよ」
「……そっか」
カトレアは、少しだけ考えた。
「じゃあ、次はお花の絵を持っていってもいい?」
「うん。聞いてみようか」
「うん!」
娘が、嬉しそうに笑う。
私は、その頭を撫でた。
……ああ。
カトレアは、いつも私が思っているよりずっと強いね。
◇
帰り支度をしていると、杏子が近づいてきた。
「リアリス様」
「どうしたの、杏子?」
「エーデル様より、伝言をお預かりしております」
「伝言?」
杏子が、小さく頷く。
「『カトレア様に、ありがとうございましたとお伝えください』とのことでございます」
私は、少しだけ目を見開いた。
カトレアも、驚いたように杏子を見た。
「……それだけ?」
「はい」
杏子は、穏やかに答えた。
「そして、窓辺の花を、長いあいだご覧になっておられました」
……ああ。
私は、ほっと息を吐いた。
それだけで、十分だった。
◇
エーデルさんは、まだ悲しみの中にいる。
明日になれば、また眠れない夜が来るかもしれない。
ハランの名前を呼んで、泣く日だってあるだろう。
でも。
今日、少しだけ話してくれた。
カトレアを抱きしめて、泣いてくれた。
ありがとうと、伝えてくれた。
……うん。
それが、今は嬉しかった。
「杏子。これからも、よろしくね」
「もちろんでございます」
杏子が、静かに頭を下げる。
「エーデル様が、ご自身のお気持ちで次の一歩を選べるまで、見守らせていただきます」
「うん。お願い」
……ありがとう。
任せられる人がいて、本当によかった。
◇
私は、桜花とカトレアを連れて、ローズ帝国邸の《簡易転移》の扉へ向かった。
扉をくぐると、そこはもうシルク王国邸。
窓の外の空は、夕暮れの色に染まっていた。
廊下の向こうから、巴さんが顔を出す。
「リアリスちゃん、カトレアちゃん。お帰りなさい」
「ただいま!」
カトレアが、元気に返事をした。
巴さんは、娘の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「……カトレアちゃん。何かあった?」
……あっ。
さすが、巴さん。
カトレアは、少し考えてから答えた。
「……お友達に、会ってきたの」
私は、思わず娘を見た。
……お友達。
そう呼ぶんだね。
◇
「そう。よかったわね」
巴さんが、柔らかく微笑んだ。
カトレアは、頷く。
「うん。でも、その人、今はちょっと悲しいの」
巴さんは、静かに聞いていた。
「だからね、また会いに行きたい」
「そうなのね」
巴さんは、カトレアの頭を優しく撫でた。
「じゃあ、また会えるといいわね」
「うん!」
カトレアは、明るく返事をした。
私は、そのやり取りを見ていた。
……ああ。
こうやって、少しずつ。
誰かを大切に思う気持ちは、つながっていくんだね。
◇
夕食の席。
カトレアは、いつものように巴さんの料理を楽しそうに食べていた。
桜花も、穏やかな顔で隣に座っている。
私は、スープを一口飲んだ。
……うん。
美味しい。
今朝と同じ味。
いつもと同じ食卓。
でも、今日は少しだけ違って感じられた。
私は、窓の外へ目を向けた。
遠く離れたローズ帝国邸。
あの部屋では、エーデルさんが今夜も過ごしている。
窓辺には、小さな紫の花。
……あの花を見て、少しでも穏やかに眠れるといいな。
◇
「お父さん」
カトレアが、私を呼んだ。
「ん?」
「明日、お花の絵、描くね」
「うん。楽しみにしてるよ」
「……エーデルさん、喜んでくれるかな」
私は、微笑んだ。
「きっと、喜んでくれると思う」
カトレアが、嬉しそうに頷いた。
その顔を見ながら、私は思う。
失ったものは、戻らない。
その悲しみを、誰かが簡単に消すこともできない。
でも。
新しい誰かと出会うことはできる。
一緒に泣いてくれる人がいる。
帰る場所を、もう一度探すこともできる。
……そうだね。
エーデルさんがいつか、自分でこれからの暮らしを選べる日が来たら。
そのときは、心から応援したい。
私は、カトレアの頭を撫でた。
「……今日も、ありがとうね」
「えへへ。どういたしまして!」
窓の外では、夜の灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。




