第9話:それぞれの帰る場所
朝、目を覚まして最初に確かめたのは、隣にいる桜花の姿だった。
……あ。
また、やってしまった。
昨日、桜花とはちゃんと話した。
もう自分を責めるだけで終わらせないと決めた。
それでも、目が覚めた瞬間だけは、どうしてもあの光景を思い出してしまう。
刀を振ったこと。
銀色の髪が床に広がっていたこと。
呼びかけても、返事がなかったこと。
私は、そっと桜花の方を見た。
「おはようございます、リアリス様」
「……うわっ!」
思わず変な声が出た。
桜花が、寝台の横で静かに微笑んでいる。
もう身支度も終えていた。
……いつもの桜花だ。
「お、おはよう。いつから起きてたの?」
「少し前でございます」
「そっか……。体は、もう大丈夫?」
「はい。何の問題もございません」
桜花は、そう言って一礼した。
私は、その姿を見て息を吐く。
……よかった。
そう思ってから、小さく首を振った。
よし。
今日も、やることがある。
◇
顔を洗い、服を着替え、部屋を出る。
廊下には、朝のいい匂いが漂っていた。
……ああ。
これは、巴さんの料理だね。
「桜花。今日、ローズ帝国邸へ行こうと思うんだ」
「解放された皆様のご様子を、確かめに参るのでございますね」
「うん。それと、これからどうしたいかを聞きたい」
桜花が頷く。
「かしこまりました。わたくしも同行いたします」
「……大丈夫? まだ休んでてもいいんだよ」
「リアリス様」
桜花は、ほんの少しだけ目を細めた。
「わたくしは、リアリス様のお側にいたいのです」
……あっ。
昨日も、そんなことを言ってくれたね。
「……うん。じゃあ、一緒に行こう」
「はい」
今度は、素直にそう答えた。
……過保護になりすぎるのも、違うのかもしれない。
◇
食堂へ入ると、カトレアがすでに席についていた。
「お父さん、おはよう!」
「おはよう、カトレア」
「桜花お姉ちゃんも!」
「おはようございます、カトレア」
カトレアが嬉しそうに笑う。
卓には焼きたてのパンと卵料理、野菜のスープ。
果物も綺麗に切り分けられていた。
……うん。
こういう朝ご飯、大好き。
「お父さん、今日は一緒にお庭に行く?」
「ごめんね。今日は帝国のお家に行く予定なんだ」
「そっか。お仕事?」
「うん。少し、お話を聞きに」
カトレアは考えるように首を傾げた。
「じゃあ、帰ってきたらお花、見てくれる?」
「もちろん。約束だよ」
「うん!」
……よかった。
カトレアは、今日も元気だ。
◇
「リアリス様。おかわりはいかがでしょうか」
後ろから、丁寧な声がした。
振り返ると、巴さんが立っている。
いつもの三つ編み。
いつもの、優しそうな目。
でも、私への話し方だけが少し違う。
「ありがとう、巴さん。まだ一杯目だよ」
「失礼いたしました。何かございましたら、お申し付けくださいませ」
巴さんは、静かに頭を下げた。
……うーん。
昨日まで、色々あったからね。
私だって、巴さんに心配をかけた自覚はある。
でも。
「ねえ、巴さん」
「はい、リアリス様」
「いつもの感じに戻ってくれないかな」
巴さんの手が止まった。
「……いつもの、でございますか」
「うん。何だか、よそのお家に来たみたいで落ち着かないんだ」
自分で言って、少し笑ってしまった。
「巴さんには、いつもみたいにお世話を焼いてほしいな」
巴さんは、私の顔をじっと見た。
それから、桜花を見る。
桜花が、ゆっくり頷いた。
◇
「……そう」
巴さんが、小さく息を吐いた。
次の瞬間。
「リアリスちゃん」
「……はいっ」
「昨夜は、ちゃんと寝たの?」
……あ。
この声だ。
「えっと。昨日は寝たよ?」
「何時間?」
「……それは、ちょっと」
「もう。そんなことだと思ったわ」
巴さんが、腰に手を当てる。
「桜花ちゃんが元気になったからって、今度はリアリスちゃんが倒れたらどうするの。朝ご飯はしっかり食べて、今夜は早く寝ること。分かった?」
「……はい」
「返事は元気よく」
「はい!」
カトレアが、くすくす笑っている。
桜花も、口元をほんの少し緩めた。
……ああ。
戻ってきた。
我が家のお母さんだ。
◇
巴さんは、私の皿にパンを一つ追加した。
「ほら。昨日もあまり食べていなかったでしょう」
「えっ。今のって、ちょっと多くない?」
「食べられなかったら、無理しなくていいのよ。でも、まずはちゃんと食べてみて」
「……はーい」
……うん。
なんだか、嬉しいな。
巴さんは桜花の方へも目を向ける。
「桜花ちゃんも。今日は無理をしないでね」
「お気遣い、ありがとうございます」
「お仕事をするなとは言わないわ。でも、疲れたら休むのよ」
「はい」
私は、パンをちぎりながら二人を見る。
桜花がいる。
巴さんがいる。
カトレアも、笑っている。
……昨日までのことは、忘れない。
でも、今日はちゃんと笑おう。
それが、今の私にできることだと思った。
◇
朝食のあと。
カトレアは、楓と一緒に庭へ向かった。
「お父さん、いってらっしゃい!」
「いってきます。楓、カトレアをお願いね」
楓が、小さく頷く。
「……任せて」
そのまま、カトレアの手を取った。
……うん。
大丈夫そうだね。
私は、桜花と一緒に玄関へ向かった。
その途中で、もう一つ思い出す。
「あっ。クオシンさんにも声をかけようかな」
「クオシン殿に、でございますか」
「うん。今回のこと、ずっと協力してくれてたから。四十五人がどうするか、気になると思うんだ」
桜花が静かに頷いた。
「では、先にご連絡いたしましょう」
「そうだね」
……ただ。
あの人、来てくれるかな。
◇
《映像通話》をつなぐ。
しばらくして、見慣れた不機嫌そうな顔が映った。
『……またお前か』
「おはよう、クオシンさん」
『朝から何の用だ』
「今日、解放した人たちの今後について話を聞くんだ。よかったら一緒にどうかなって」
『……は?』
クオシンさんが眉を寄せた。
『それは帝国の仕事だろうが。何で俺が――』
「そうなんだけど、クオシンさんも一緒に助けてくれたでしょ」
『……』
「みんなが無事に帰れるか、最後まで気になると思って」
少しの沈黙。
クオシンさんは、面倒そうに息を吐いた。
『……勝手に話を決めるな』
「あはは。ごめんね」
『何時に出る』
「……え?」
『聞こえなかったのか。何時だって聞いてるんだよ』
……あっ。
来てくれるんだ。
「じゃあ、今から迎えに行ってもいい?」
『……さっさと来い』
通話が切れた。
……うん。
やっぱり、悪い人じゃないね。
◇
シルク王城の門でクオシンさんと合流し、《転移》でローズ帝国邸へ向かった。
見慣れた庭に着くと、クオシンさんが周囲を見回した。
「……相変わらず、滅茶苦茶な魔法だな」
「便利でしょ?」
「自慢するな」
「してないよ?」
「……ふん」
……今日も元気だ。
玄関では、一般メイドが待っていた。
「お帰りなさいませ、リアリス様。クオシン殿下も、ようこそお越しくださいました」
「……ああ。案内を頼む」
……あれ。
思ったより、落ち着いてるね。
クオシンさんは、メイドへ短く頷いた。
……まあ、いつも誰かに怒鳴ってるわけじゃないんだ。
私へ向き直った途端、その顔が戻った。
「何だ、その顔は」
「……何でもないよ」
……絶対、気のせいじゃないよね。
◇
応接室には、ガラントさんが来ていた。
昨夜のうちに必要な書類をまとめ、帝国の担当者と保護された人たちの今後を相談していたらしい。
「リアリス殿。おはようございます」
「おはよう、ガラントさん。忙しいところ、ありがとう」
「こちらこそ。保護された方々をお預かりいただき、感謝しております」
ガラントさんが、クオシンさんへも一礼する。
「クオシン殿下も、お越しでしたか」
「ああ。見届けるだけだ。帝国の判断に口を出すつもりはねえ」
……あっ。
ガラントさんには、普通の口調なんだ。
ガラントさんは気にした様子もなく、書類を卓へ置いた。
「本日は、四十五名全員について、今後のご希望を確認いたします。お名前や出身地は、帝国側で照合を進めております」
私は頷いた。
「うん。急いで決められない人がいたら、待ってあげたい」
「もちろんです。無理に結論を求めることはいたしません」
……よかった。
それが、一番大事だと思う。
◇
広間へ向かうと、昨日までとは違う光景があった。
窓が開けられ、柔らかな風が入っている。
清潔な服を着た人たち。
温かい飲み物を両手で持っている人たち。
庭の花を眺めている人たち。
でも。
扉の音に肩を震わせる人もいた。
近づいてきたメイドを見て、反射的に立ち上がる人もいる。
……そうだよね。
ネックレスを壊したからといって、昨日までの暮らしが一度に消えるわけじゃない。
私は、声を張り上げるのをやめた。
みんなの前へ進み、ゆっくり頭を下げる。
「おはようございます。今日、少しずつお話を聞かせてほしいんです」
何人かが、こちらを見た。
「帰りたい場所や、これから行きたい場所。まだ決められなかったら、それでも大丈夫です」
小さなざわめきが広がった。
私は続けた。
「昨日までみたいに、誰かの命令で住む場所を決められることはないからね」
◇
最初に話してくれたのは、年配の男性だった。
昨日、綺麗な椅子へ座ることさえ遠慮していた人だ。
「……俺には、故郷がある」
「うん」
「もう、長いこと帰ってねえ。家族がそこにいるかどうかも、分からん」
男性は、両手を握った。
「それでも、一度戻ってみたいんだ」
「もちろん」
私は、静かに頷く。
「場所を教えてもらえたら、私が送るよ」
男性が目を見開いた。
「……送る? どうやって」
「《転移》っていう魔法で。ここへ来たときにも使ったでしょ」
「……あの、一瞬で場所が変わったやつか」
「そう。それなら、遠くても大丈夫だよ」
男性は、長いあいだ黙っていた。
そして、ゆっくり頭を下げる。
「……頼む」
「うん。任せて」
そう言うと、男性は目元を袖で拭った。
◇
次に話を聞いたのは、三人の職人だった。
ゴゾーラ子爵邸の地下で、同じ部屋に閉じ込められていた人たちだ。
「俺たちも帰りたい」
「うん。故郷は同じなの?」
「いや、違う。ただ、戻れるなら……また仕事を探そうと思ってる」
一人が、自分の手を見せた。
硬いまめが残っている。
「この手があるうちは、まだ何か作れるからな」
私は、小さく笑った。
「それは、きっとそうだと思う」
別の男性が、不安そうに尋ねる。
「……道具も何もないんだぞ。それでも、やり直せるだろうか」
私は、すぐには答えなかった。
……仕事が見つかるかどうかは、私にも分からない。
でも。
「そこは、一緒に考えよう。取り上げられたものについては、帝国にも調べてもらえるみたいだから」
ガラントさんが頷いた。
「被害の記録も進めております。確認できたものについて、必要な手続きをいたします」
三人は、顔を見合わせた。
それから、静かに頷いた。
◇
別の女性は、故郷の名前を口にしたあと、首を横に振った。
「……でも、帰りたくありません」
「うん。じゃあ、別のところがいい?」
「……はい」
女性は、膝の上で手を握る。
「故郷には、私を売った人がいるんです」
私は、言葉を失いかけた。
……そういうことも、あるんだね。
でも、ここで怒った顔をするのは違う。
「……そっか。教えてくれてありがとう」
私は、できるだけ普通の声で答えた。
「じゃあ、故郷には戻らないようにしよう」
女性が、私を見た。
「……いいんですか」
「もちろん。帰りたくない場所へ、無理に帰すことはしないよ」
女性は、唇を震わせた。
それから、初めて少しだけ顔を上げた。
◇
そうして、一人ずつ話を聞いていった。
家族の待つ町へ帰りたい人。
生まれ育った村が、今どうなっているか確かめたい人。
もう故郷へ戻りたくない人。
知っている土地には、怖い思い出しかないという人。
今は、誰とも会いたくない人。
同じ場所へ帰りたい人でも、望んでいることは違った。
私は、なるべく途中で口を挟まなかった。
桜花も、隣で静かに話を聞いている。
ガラントさんたちは、必要なことを紙へ書き留めていった。
クオシンさんは、最初こそ壁際で腕を組んでいた。
けれど、いつの間にか椅子へ腰かけ、目の前の人が話し終えるまで黙って待っていた。
……あれ?
意外と、ちゃんと待てるんだ。
◇
途中、一人の青年が立ち上がった。
「……俺は、どこでもいいです」
その声には、力がなかった。
「ここで働けと言われたら働きます。別の町へ行けと言われたら行きます」
私は、青年を見た。
……ああ。
そうじゃないんだよ。
でも、私が何かを言う前に。
「おい」
クオシンさんが、低い声を出した。
青年が、びくりと肩を揺らす。
「……はい」
「どこでもいい、じゃねえだろ」
……クオシンさん?
青年は、戸惑ったように俯いた。
クオシンさんが、少しだけ声を落とした。
「お前の行きたいところを聞いてるんだ。俺たちが命令してんじゃねえ」
青年が、ゆっくり顔を上げた。
「……考えても、いいんですか」
「当たり前だろうが」
クオシンさんが、そっぽを向く。
「今すぐ答えが出ねえなら、出るまで考えりゃいい」
……うん。
言葉は荒いけど。
言ってることは、優しいね。
◇
しばらくして、青年が小さく口を開いた。
「……海を、見てみたいです」
「海?」
思わず聞き返してしまった。
「はい。昔、遠くの海には綺麗な町があるって聞いて……。一度も、行ったことがなくて」
青年は、少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「……そんな理由でも、いいんでしょうか」
「もちろん!」
今度は、すぐに答えた。
「行ってみたい場所があるって、いいことだと思うよ」
……ああ。
海かあ。
この前、みんなで旅行したばかりなんだよね。
綺麗だったな。
クオシンさんが、横から口を挟んだ。
「お前、今すぐ海まで飛ばそうとか考えてねえだろうな」
「……えっ?」
「……図星かよ」
私は、ちょっと目を逸らした。
……だって、海はいいところだから。
「まず住む場所と仕事の話だろうが」
「……はい。気をつけます」
……うん。
クオシンさんの方が、今日はしっかりしてるかもしれない。
◇
帰る場所のない人たちには、別の選択肢も必要だった。
ガラントさんが、書類を整えながら説明する。
「帝国で生活を立て直すこともできます。しかし、帝都に残ることを不安に思われる方もいらっしゃるでしょう」
何人かが、小さく頷いた。
「そこで、他国へ移ることも含めて調整しております」
私は、以前から考えていた案を口にした。
「聖国で、新しい生活を始めるのはどうかな」
聖国。
神殿があって、教皇さんがいる国だ。
もちろん、私が勝手に住む場所を決められるわけじゃない。
だから、事前に受け入れてもらえるか確認する必要がある。
「希望する人がいるなら、聖国の人たちと相談してみたいんだ」
女性の一人が、恐る恐る尋ねた。
「……知らない国でも、暮らせますか」
「そこは、ちゃんと受け入れ先を確かめてから決めよう。着いたあと、行く場所がなかったら困るからね」
……うん。
連れていくだけじゃ、駄目だ。
◇
私は、ガラントさんと相談してから《映像通話》を使った。
相手は、聖国の教皇さん。
画面が開くと、見慣れた厳格そうな顔が映った。
『……使徒様!?』
「こんにちは、教皇さん」
『こ、これは! 本日は、どのような御用でございましょうか!』
「ちょっと相談があってね」
私は、事件のことを簡単に説明した。
ローズ帝国で、違法な奴隷売買が行われていたこと。
保護した四十五人の中に、故郷へ戻れない人がいること。
そして、聖国で暮らし直したいという希望があること。
教皇さんは、最後まで真剣に聞いてくれた。
『……何ということを』
小さくそう呟いてから、顔を上げる。
『承知いたしました。難民としての受け入れを希望される方々について、聖国の行政担当者へ早急に話を通しましょう』
「ありがとう。ただ、無理に引き受けてもらうのは嫌だから、住む場所や支援の内容を確認してもらえると助かるな」
『もちろんでございます』
……よかった。
ひとまず、話は進められそうだ。
◇
教皇さんとの通話を終えると、クオシンさんがこちらを見ていた。
「……お前、教皇と普通に話すんだな」
「うん。前にいろいろあって」
「……いろいろ、ねえ」
何だか、ものすごく疑わしそうな顔だ。
……説明すると長くなるんだよね。
神様が武器を落としたとか。
また落としたとか。
また落としたとか。
今は、やめておこう。
ガラントさんは、別の書類をまとめていた。
「帝国として必要な記録は、こちらで引き継ぎます。聖国への移住を希望される方についても、受け入れ側の確認が済んでから移送いたしましょう」
「うん。そうしよう」
私は、頷いた。
「急いで運ぶことより、安心して暮らせることの方が大事だもんね」
クオシンさんが、小さく鼻を鳴らした。
「……ようやくまともなこと言ったな」
「えっ。今までも、結構まともだったと思うけど」
「どの口が言ってんだ」
……ひどいなあ。
◇
昼前になって、巴さんから《映像通話》が入った。
『リアリスちゃん。そちらはどう?』
「順番に話を聞いてるよ。みんな、いろんな希望があるんだね」
『そう。急がせないであげてね』
「うん。気をつける」
『それから、みんなのお昼ご飯は用意してあるわ。ちゃんと食べてもらってちょうだい』
「もちろん」
『リアリスちゃんもよ』
「……あっ」
『……もう』
画面の向こうで、巴さんが呆れたように笑った。
『絶対に忘れると思ってたわ』
「今、思い出したところだよ」
『それを忘れてたって言うのよ』
……おっしゃるとおりです。
通話が終わると、桜花が小さく笑った。
「巴は、いつもどおりでございますね」
「うん。やっぱり、ああじゃなくちゃ」
私は、ようやく肩の力を抜いた。
◇
昼食の時間。
食堂には、温かなスープとパンが並べられた。
保護された人たちも、昨日より少しずつ食べられるようになっているらしい。
無理に大人数で食べなくてもいいように、別室にも食事が運ばれていた。
私は、桜花とクオシンさん、ガラントさんと一緒に卓へついた。
「いただきます」
「いただきます、リアリス様」
「……いただく」
クオシンさんが、パンをちぎる。
一口食べて、少しだけ動きを止めた。
「……うまいな」
「でしょ?」
「調子に乗るな」
「……まだ何も言ってないよ」
ガラントさんが、口元を押さえて笑っていた。
……いや。
笑っていいと思う。
◇
食後には、紅茶とクッキーが運ばれてきた。
クオシンさんは最初、紅茶を一口飲んだだけだった。
それから、もう一口。
クッキーを一枚。
……あれ?
随分、丁寧に食べてるね。
「クオシンさん。気に入った?」
「……普通だ」
「そっか」
私は、自分のクッキーを手に取る。
……うん。今日のも美味しいな。
ふと見ると、クオシンさんの皿は空になっていた。
「……おかわり、いる?」
「いらねえ」
「そっか」
すると、少し間を置いて。
「……余ってるなら、一枚くらいは食ってやる」
……ふふ。
そういうことね。
「桜花、もう少しお願いできるかな」
「かしこまりました」
桜花の声が、ちょっと楽しそうだった。
◇
午後。
故郷への帰還を希望した人たちから、順番に送り届けることにした。
ガラントさんが、出身地と本人の希望、必要な連絡先を確認する。
私は、送る場所を一人ずつ相談した。
いきなり家の中へ現れたら、驚かせてしまうだろう。
だから、まずは村や町の近くの安全な場所へ。
そのあとの手続きや、連絡が必要なときの窓口は、帝国の担当者が説明してくれた。
「……本当に、帰れるのか」
最初の年配の男性が尋ねる。
「うん。準備はできてるよ」
男性は、遠くを見た。
その目が、少し潤んでいた。
「……なら、頼む」
私は、手を差し出した。
「行こうか」
◇
《転移》。
景色が、一瞬で変わる。
見知らぬ町の外れ。
道の向こうには、小さな家々が並んでいた。
男性が、立ち止まる。
「……ここは」
その声が震えた。
「……間違いねえ。あの丘も、道も……」
男性は、足元を見た。
ゆっくり、一歩踏み出す。
「……帰ってきた」
私は、何も言わずに見守った。
男性は、何度も町を見渡していた。
そこに家族がいるかどうかは、まだ分からない。
でも、確かにこの人が帰りたかった場所なんだ。
「何か困ったことがあったら、帝国の担当者に伝えてね」
「……ああ」
男性が、振り返った。
そして、深く頭を下げる。
「……ありがとう」
「うん。元気でね」
私は、静かに頷いた。
◇
帝国邸へ戻り、また次の人を送る。
その繰り返しだった。
山に囲まれた村。
街道沿いの町。
小さな畑が並ぶ集落。
自分の故郷が見えた瞬間、泣き出す人もいた。
何も言わずに、ただ立ち尽くす人もいた。
家族と会う前に、少しだけ一人になりたいという人もいた。
私は、急かさなかった。
誰かの人生に、私が勝手に終わりの場面を作る必要はない。
ただ、望んだ場所へ送り届ける。
それで十分だ。
……ああ。
《転移》って、こういうときにも役立つんだね。
◇
夕方が近づく頃、聖国から連絡があった。
受け入れを希望する人たちについて、聖国側の担当者が一時的な住まいと生活支援の窓口を用意してくれたという。
私は、ガラントさんと一緒に内容を確認した。
まずは保護を受け、その後で仕事や住む場所を相談できる。
故郷へ帰る気持ちになったら、改めて手続きすることもできる。
……うん。
それなら、安心できそうだね。
私は、希望者のところへ戻った。
「聖国の人たちが、受け入れてくれることになったよ」
女性の一人が、顔を上げた。
「……本当ですか」
「うん。ただ、行ってみて不安なことがあったら、遠慮なく担当の人へ伝えてね」
女性は、小さく頷いた。
隣にいた青年が尋ねる。
「……海は、見られるでしょうか」
……あっ。
そうだったね。
「すぐじゃなくても、いつか見に行けるといいね」
青年が、初めて少しだけ笑った。
◇
聖国への移動も、《転移》を使った。
到着先には、事前に連絡を受けた聖国の担当者たちが待っていた。
知らない土地へ来たばかりで、不安そうな顔はまだ残っている。
それでも、誰かに連れていかれるのではなく、自分で選んで来た場所だ。
私は、到着した人たちへ声をかけた。
「ここからは、聖国の人たちが案内してくれるよ」
一人の女性が、何度も頷いた。
「……ありがとうございました」
「うん。どうか、元気で」
後ろから、別の人の声がした。
「……今度は、自分で仕事を選んでみます」
私は、思わず笑った。
「それがいいね」
……ああ。
新しい生活が、うまくいくといいな。
◇
最後の組を送り届けて、ローズ帝国邸へ戻る。
玄関前の庭は、夕日に染まっていた。
朝はあれほど多くの人がいたのに、今は静かだ。
でも、寂しい感じはしなかった。
みんな、それぞれの場所へ向かったんだから。
……よかった。
私は、ガラントさんへ状況を報告した。
「帰郷を希望した人は、本人が選んだ場所へ送ったよ。聖国の人たちにも、希望者を引き継いできた」
「ありがとうございます。こちらの記録とも照合いたしましょう」
ガラントさんは、一人ずつ名前を確かめていく。
四十五人。
一人も、忘れていない。
……うん。
そうして、最後の名前で手が止まった。
◇
「……エーデルさん」
私は、小さく呟いた。
黒い長い髪の女性。
昨日、広間の隅でじっと座っていた人だ。
杏子が、今も様子を見てくれている。
私は、廊下の奥へ向かった。
部屋の扉は、少しだけ開いていた。
中では、エーデルさんが窓の方を見ている。
椅子に腰かけたまま、膝の上で両手を重ねていた。
杏子が、私に気づいて静かに一礼する。
「リアリス様。エーデル様は、少しずつお食事を召し上がれるようになっております」
「……そう。ありがとう、杏子」
私は、入口で足を止めた。
……急に入ったら、驚かせるかな。
「エーデルさん。少し、お話してもいい?」
長い沈黙。
それから、ごく小さな頷きが返ってきた。
◇
「今日、みんなにこれからどうしたいか聞いたんだ」
エーデルさんは、黙っている。
「帰りたい場所がある人は、そこへ帰ったよ。新しい場所へ行きたい人は、聖国で暮らすことになった」
私は、声を急がせないように続ける。
「エーデルさんは、どうしたいかな」
返事は、なかった。
窓の外で、風が木の葉を揺らす。
少しして、エーデルさんの唇が動いた。
「……帰る、場所……」
言葉が、途中で止まる。
私は、待った。
「……ありません」
かすれた声だった。
それ以上、何も言わなかった。
私は、頷いた。
「……そっか」
何があったのか、今は聞かない。
無理に思い出してほしくなかった。
◇
「じゃあ、ここにいようか」
エーデルさんの目が、ほんの少し動いた。
「……ここに?」
「うん。すぐに次の場所を決めなくても大丈夫だよ」
私は、部屋を見回した。
柔らかな寝具。
窓辺に置かれた水差し。
杏子が用意した、温かな飲み物。
「しばらくこのお家で休んでいていいからね」
エーデルさんは、俯いた。
「……何を、すれば……」
「何もしなくていいよ」
私は、すぐに答えた。
「元気になってから、何をしたいか考えればいいんだ」
その言葉に、エーデルさんの手が少しだけ震えた。
私は、それ以上近づかなかった。
杏子が、そっと傍らへ椅子を寄せる。
……うん。
今は、ここにいてもらおう。
◇
応接室へ戻ると、クオシンさんが腕を組んで待っていた。
「……終わったのか」
「うん。エーデルさんだけ、もう少しここで休んでもらうことにしたよ」
「……そうか」
クオシンさんは、それ以上聞かなかった。
ガラントさんが、書類を閉じる。
「本日の希望確認は、四十五名全員について完了いたしました。エーデル殿の保護についても、帝国側で引き続き記録と必要な手続きを進めます」
「ありがとう、ガラントさん」
「こちらこそ。移送までご協力いただき、感謝いたします」
私は、軽く頭を下げた。
……ああ。
これで、ようやく。
みんなの新しい一日が始まるんだね。
◇
ガラントさんが帰ったあと、クオシンさんも立ち上がった。
「俺も戻る」
「うん。今日は来てくれてありがとう」
「別に、お前のためじゃねえ」
「分かってるよ。みんなのことが心配だったんでしょ」
「……うるせえ」
クオシンさんは、そっぽを向いた。
でも、すぐには歩き出さなかった。
「……リアリス」
「ん?」
「俺は、まだお前のやり方が気に入らねえ」
……うん。
それは、知ってる。
「力があるからって、何でも片づけられると思うなよ。今回だって、危なかったんだろうが」
「……うん」
私は、素直に頷いた。
「そのとおりだと思う」
クオシンさんが、少しだけ目を見開いた。
……あれ?
何か変なこと言ったかな。
「だから、これからはちゃんと考えるよ。みんなの話も聞く」
「……ふん」
クオシンさんは、視線を逸らした。
◇
「……ただな」
クオシンさんが、小さく続ける。
「お前は滅茶苦茶なことをするが、最後には何とかしやがる」
「……え?」
「四十五人も、帰る場所まで面倒を見るとは思わなかった」
私は、少し驚いた。
……褒められてる?
「その……何だ」
クオシンさんが、苛立たしそうに頭を掻く。
「……少しくらいなら、話を聞いてやってもいい」
「……本当?」
「勘違いすんな。信用したわけじゃねえ」
「……うん?」
「今すぐ信用するわけじゃねえって言ってんだよ!」
……ああ。
そういうことね。
私は、思わず笑ってしまった。
「ありがとう、クオシンさん」
「礼を言うな!」
……ふふ。
やっぱり、この人って面白い。
◇
玄関まで見送る途中、クオシンさんが足を止めた。
視線の先には、敷地内の雑貨屋がある。
いつもどおり営業しているらしく、店先には商品が並んでいた。
「……おい」
「ん?」
「あの店、まだ開いてんのか」
「うん。今日はまだ大丈夫だよ」
「……そうか」
クオシンさんは、なぜか真面目な顔になった。
「何か欲しいものがあるの?」
「……別に」
そう答えたあと、少しだけ間を置く。
「……さっきの茶と菓子」
「紅茶とクッキー?」
「……そうだ」
「お店でも買えるよ。どっちも置いてるから」
クオシンさんが、ふっと視線を逸らした。
「……帰りに寄るだけだ」
「うん。気に入ってくれたなら嬉しいな」
「気に入ったとは言ってねえ!」
……いや。
言ってないけど。
おかわり、してたよね。
◇
私は、クオシンさんと一緒に雑貨屋へ寄った。
店内を一通り見回したあと、クオシンさんが紅茶の棚の前で足を止める。
それから、クッキーの棚へ。
「……これか」
「うん。さっき食べたのと同じだよ」
クオシンさんは、しばらく商品を眺めていた。
結局、紅茶の茶葉とクッキーを一つずつ手に取る。
レジでは、普段の不機嫌そうな顔を少しだけ和らげた。
「……これを頼む」
「かしこまりました」
メイドが丁寧に包みを用意する。
私は、隣で見ていた。
……ああ。
そういえば、この人がうちのお店で買い物するところって、初めて見るかも。
私が笑っていることに気づいたのだろう。
クオシンさんが、ぎろりと睨んできた。
「何だよ」
「……何でもないよ」
……うん。
また来てくれるといいな。
◇
王城へ戻るため、クオシンさんと《転移》の準備をする。
「じゃあ、送るね」
「……ああ」
クオシンさんは、片手に小さな包みを持っていた。
もう片方の手を、こちらへ差し出す。
私は、思わず目を瞬いた。
……あれ。
今日は、嫌がらないんだ。
「……何だ。早くしろ」
「うん。分かった」
私は、そっと手を取った。
《転移》。
景色が、シルク王城の門へ変わる。
クオシンさんは、少しだけ頷いた。
「……じゃあな」
「うん。またね、クオシンさん」
「……勝手にしろ」
そう言って、城の方へ歩いていく。
手には、紅茶とクッキーの包み。
……うん。
今日も、何だかんだで楽しかったな。
◇
シルク王国邸へ帰ると、庭からカトレアの声が聞こえた。
「お父さーん!」
「ただいま、カトレア!」
小さな足音が近づいてくる。
カトレアの後ろには、楓。
楓は、いつもどおり無表情のまま小さく頷いた。
「……おかえり」
「ただいま、楓。ありがとうね」
カトレアが、私の手を引く。
「お花、咲いたんだよ!」
「えっ、本当?」
「うん! こっち!」
……ああ。
そうだった。
約束してたんだよね。
私は、カトレアに手を引かれるまま庭へ向かった。
◇
花壇の隅に、小さな花が咲いていた。
ほんの少し前まで、蕾だった花だ。
「ほら!」
カトレアが、得意そうに指を差す。
「綺麗だね」
「でしょ!」
私は、しゃがんで花を見つめた。
小さな花びら。
風に揺れる茎。
誰かに気づいてもらうのを待っていたみたいに、静かに咲いている。
……うん。
今日は、いろんな人が新しい場所へ向かった。
元いた町へ帰った人。
初めての国で暮らし始める人。
まだ、このまま休んでいたい人。
みんな、違う。
でも、自分の行き先を自分で決められる。
それが、今は何より嬉しかった。
◇
「リアリスちゃん。お夕飯の前に、手を洗ってらっしゃい」
背後から、巴さんの声がした。
「はーい」
私は、素直に返事をする。
カトレアが、隣で笑った。
「お父さん、巴さんに怒られてる」
「……まだ怒られてないよ?」
「ふふっ」
桜花も、小さく微笑んでいる。
私は、立ち上がって庭を見渡した。
今日も、ここに帰ってきた。
……ああ。
帰る場所があるって、いいね。
あの四十五人にも、いつかそう思える日が来るといい。
急がなくてもいい。
少しずつで、いいんだから。
私は、カトレアの手を握った。
「さあ、帰ろうか」
「うん!」
庭の向こうに、家の明かりが灯り始めていた。




