第8話:それでも私は守りたい
夜が、少しずつ薄くなっていく。
シルク王国邸の寝室には、静かな寝息だけが響いていた。
私は、寝台のそばに椅子を寄せたまま、桜花の顔を見つめていた。
白い枕に広がる、銀色の髪。
真っ直ぐに切り揃えられた前髪。
何度も見てきた、見慣れた顔だった。
桜花は、眠っている。
時折、胸が小さく上下する。
それを確かめるたびに、私はそっと息を吐いた。
……うん。
大丈夫。
ちゃんと、生きてる。
もう、あのときのような傷はない。
《不老不死》が、桜花の体を元どおりに戻してくれた。
それでも。
目を覚ましてくれないうちは、どうしても安心しきれなかった。
◇
窓の外から、かすかに鳥の声が聞こえた。
あれから、どれくらい経ったのだろう。
夜が長かったのか。
それとも、私が時間を長く感じているだけなのか。
……どっちでも、いいか。
桜花の指先を、そっと握る。
温かい。
人間と同じ温かさがある。
創造したとき、そうなるように想像した。
触れたときに冷たかったら、寂しいだろうと思ったから。
あの頃の私は、そんな小さなことまで考えていたんだね。
髪の長さ。
声の調子。
表情。
好きな人のそばにいられる、優しい女の子。
……桜花。
私が最初に作った、家族。
その子を、私は自分の刀で傷つけた。
今になって考えても、そこだけは変わらなかった。
◇
帝都の地下で見たものは、今でもはっきり覚えている。
閉じ込められていた人たち。
動かなくなった人たち。
手遅れだった命。
その光景が、頭から離れない。
……怒るのは、当然だったと思う。
あんなことをした相手に、腹が立たないわけがない。
でも。
怒ったことと、刀を振ったことは違う。
私は、誰かを助けるために子爵邸へ行った。
桜花も、フラワーズのみんなも、同じ気持ちでついてきてくれた。
ゴゾーラを殺して終わりにしようなんて、最初から決めていたわけじゃない。
むしろ、そうしないために。
冷静になろうと、みんなと約束したはずだった。
それなのに。
遺体を見た瞬間、私の頭の中は一つの言葉だけになってしまった。
――殺す。
あのとき、誰が何を言っていたのか。
私は、ほとんど覚えていない。
覚えているのは、階段を駆け上がったこと。
ゴゾーラの顔を見たこと。
そして、刀を振ったこと。
……それだけだった。
◇
桜花は、何度も私を呼んでいただろう。
追いかけてきてくれたんだろう。
地下から、あの執務室まで。
私が何をしようとしているのか、分かっていたのだろう。
……そうだよね。
あの子は、私のことをよく見ている。
楽しいときも。
嬉しいときも。
怒っているときも。
誰より近くで、ずっと。
私が自分の感情に振り回されている間も、桜花は私を止めようとしてくれた。
その結果が、あれだった。
……うん。
もう、ごまかすのはやめよう。
私がしなければならないのは、謝ることだけじゃない。
同じことを二度と起こさないようにすることだ。
桜花が目を覚ましたら、ちゃんと話そう。
何をしてしまったのか。
どうして、こんなことになったのか。
忘れたふりなんて、できないから。
◇
控えめな音が、扉から聞こえた。
こん、こん。
「リアリス様」
一般メイドの声だった。
「……どうぞ」
扉がゆっくり開く。
入ってきたのは、湯気の立つ水差しと清潔な布を持ったメイドだった。
「桜花様のお体をお拭きするお時間でございます。お邪魔してもよろしいでしょうか」
「……うん。お願いできる?」
「かしこまりました」
メイドは、寝台のそばへ近づいた。
眠っている桜花へ、そっと声をかける。
「桜花様。失礼いたします」
返事はない。
それでも、メイドは丁寧に動いていた。
布を温かな湯に浸し、固く絞る。
桜花の額や指先を、優しく拭いていく。
私は、その様子を見守った。
こういう仕事も、毎日の積み重ねなのだろう。
桜花が私のためにしてくれていたこと。
一般メイドたちも、誰かのためにしてくれていたこと。
……私は、ちゃんと見ていただろうか。
◇
「リアリス様」
メイドが、静かに声をかけた。
「桜花様のお体に、今のところ異常は見られません」
「……うん」
「呼吸も安定しております。ほかのメイドにも、定期的に確認するよう申し伝えてございます」
「ありがとう」
私は、頭を下げた。
メイドは、一瞬だけ困ったように微笑んだ。
「恐れ入ります」
それから、少しだけ間を置く。
「何かございましたら、すぐにお知らせください」
「……うん。そうするね」
メイドが部屋を出ていく。
扉が閉まると、再び静けさが戻った。
私は、桜花の手をそっと握った。
……みんな、心配してるんだよ。
桜花。
私だけじゃない。
楓も、杏子も。
巴さんも、ほかのメイドたちも。
……帰ってきてほしいな。
いつもの、桜花に。
◇
寝台のそばの小さな卓には、いつもの髪飾りが置かれていた。
桜花が普段使っているものだ。
眠る前、髪を整えるときには外している。
普段なら、私より先に起きて身支度を済ませている桜花。
私が目を覚ます頃には、すっかり準備が終わっている。
「おはようございます、リアリス様」
そう言って、静かに微笑む。
……ああ。
当たり前のことだと思っていたんだね。
今日も明日も、同じ声を聞ける。
この子は《不老不死》だから。
傷がついても大丈夫で、死んでも戻ってくる。
そう思っていた部分が、確かにあった。
でも、《不老不死》が発動するまでの時間を、私は忘れられない。
どうして遅れたのか、はっきりとは分からない。
ただ、自分の一撃が《絶対防御》を破った。
その事実が、私に一つのことを教えていた。
どれほど強い魔法を持っていても、安心しきってはいけないんだ。
◇
窓の向こうが、少しだけ明るくなった。
私は立ち上がり、薄いカーテンを少し開ける。
朝の光が、寝台の足元へ差し込んだ。
庭の木々は、いつもどおり静かに揺れていた。
どこかの部屋で、メイドたちが仕事を始めた気配がする。
王都も、もうすぐ目を覚ますのだろう。
……世界は、変わらないんだね。
昨日、あんなことがあったのに。
私たちの家の外では、いつもどおりの朝が始まっている。
……うん。
それで、いい。
誰かが安心して眠って。
朝になったら、起きて。
今日の予定を考えられる。
私は、そういう毎日が好きなんだから。
桜花にも、またあの毎日へ戻ってきてほしい。
それだけだった。
◇
私は、椅子へ戻った。
桜花の手を握る。
指先が、ほんの少し動いた気がした。
……え?
私は、顔を上げた。
桜花の表情に、変化はない。
呼吸も、さっきと同じように見える。
気のせい、かな。
そう思って手を離そうとしたとき。
もう一度。
指先が、小さく動いた。
「……桜花?」
私は、息を止めた。
桜花のまぶたが、わずかに震えた。
ほんの少しだけ。
けれど、確かに。
「……桜花」
私は、椅子から身を乗り出した。
桜花の瞼が、ゆっくり開いていく。
まだ焦点の合わない瞳が、天井を見つめていた。
それから、少しずつ横へ動く。
私を見た。
「……りあ……」
かすれた声。
聞き慣れた声だった。
私は、何も言えなくなった。
◇
「……リアリス、様……?」
桜花が、もう一度呼んだ。
私は、ようやく息を吸った。
「……桜花」
返事が、あった。
目が、合った。
ちゃんと、私を見ている。
「……よかった」
声が、震えた。
「……本当に、よかった……」
私は、桜花の手を両手で包んだ。
温かい。
その手が、弱々しく私の指を握り返してくれた。
ただ、それだけで。
胸の奥に張り詰めていたものが、ゆっくりとほどけていった。
私は、深く息を吐いた。
……ああ。
目を、覚ましてくれた。
桜花が。
私の名前を、呼んでくれた。
それだけで、今は十分だった。
◇
「……リアリス様……」
桜花は、私の顔を見つめたまま、ゆっくり瞬きをした。
まだ、眠気が残っているのだろう。
声も、普段より少し小さい。
「……おはよう、桜花」
私は、ようやく言えた。
いつもなら、何でもない挨拶だ。
でも、今朝は違う。
この一言を言えることが、こんなに嬉しいなんて。
「……おはよう……ございます」
桜花が、かすかに微笑んだ。
その表情を見た瞬間、目の奥が熱くなった。
私は、慌てて俯いた。
泣きそうになっていたから。
……もう、泣いてるのかもしれないけど。
桜花は、私の手を握ったまま、少しだけ首を傾げた。
「リアリス様……どうかなさいましたか……?」
……ああ。
そうだよね。
目を覚ましたら、私が泣きそうな顔で覗き込んでるんだもん。
「……ううん。ちょっと、安心しただけ」
私は、できるだけ笑おうとした。
でも、上手くできなかった。
◇
桜花は、天井へ目を向けた。
それから、ゆっくり室内を見回す。
「……ここは……」
「シルク王国邸だよ。私たちの家」
桜花の目が、少し動いた。
「……お屋敷……」
「うん。帰ってきたんだよ」
「……そうで、ございますか」
桜花は、何か考えるように黙った。
私は、その顔を見つめていた。
……あれ?
いつもなら、周囲を確かめればすぐに状況を理解する子なのに。
今は、少し戸惑っているように見える。
「……桜花。どこか痛いところはない?」
「……痛み、ですか」
「うん。頭とか、胸とか。どこでもいいから」
桜花は、ゆっくり自分の体へ意識を向けたようだった。
指先を動かし、足をわずかに曲げる。
それから、静かに答えた。
「……特には、ございません」
……よかった。
「息苦しくない?」
「……はい」
「目眩は?」
「……ございません」
私は、ほっと息を吐いた。
《不老不死》で体は完全に戻った。
《完全回復》も使った。
でも、今こうして桜花が自分で話してくれると、やっと安心できる気がした。
◇
「……少し、体を起こせるかな」
私が尋ねると、桜花は頷いた。
「はい、リアリス様」
起き上がろうとして、少しだけ動きを止める。
私は、すぐに背中へ手を添えた。
「無理しなくていいよ。ゆっくりで」
「……恐れ入ります」
私は、枕を整えた。
桜花が背中を預けられるように、少し高くする。
いつもなら、彼女が私にしてくれることだった。
……たまには、逆でもいいよね。
桜花は、そんな私の手元を見ていた。
そして、小さく微笑んだ。
「リアリス様に……お世話をしていただくとは」
「……今日は、私に任せて」
「……かしこまりました」
穏やかな返事だった。
無理をしている様子は、今のところない。
私は、寝台の縁へ腰かけた。
◇
水を用意しようと立ち上がったとき、桜花が私の袖を掴んだ。
「……リアリス様」
「……ん?」
「……少し、よろしいでしょうか」
私は、振り返った。
「……もちろん」
桜花は、自分の手を見つめた。
何かを思い出そうとしているような顔だった。
「わたくし……何故、こちらで眠っていたのでしょうか」
……あっ。
私は、言葉に詰まった。
「……覚えてない?」
桜花は、静かに頷いた。
「……申し訳ございません。少々、記憶が……」
私は、寝台へ座り直した。
桜花は、困ったように眉を寄せている。
「帝国で、ゴゾーラ子爵のお屋敷へ向かったことは、覚えております」
「……うん」
「門を封鎖して……皆様を保護して……そのあと、地下を調べておりました」
私は、頷いた。
そこまでは、覚えているんだね。
「……その先は?」
桜花は、少し考えた。
「……奥に、檻がございました」
静かな声だった。
「……そこに、人が……」
言いかけて、彼女の言葉が途切れる。
表情が、少しだけ曇った。
……ああ。
あの部屋のことは、覚えているんだ。
◇
「……思い出すのがつらいなら、無理しなくていいよ」
私は、静かに言った。
桜花は、首を横に振った。
「いえ。リアリス様のお顔が……」
「……私の?」
「……はい。あのとき、ひどくおつらそうでした」
私は、目を伏せた。
……そうか。
桜花は、私の表情を見ていたんだね。
「そのあと……リアリス様が、どちらかへ向かわれたような……」
桜花の指が、掛け布団をそっと握った。
「お呼びしたような気もするのですが……その先が、どうしても……」
私は、何も言わなかった。
桜花は、少し申し訳なさそうに笑う。
「……大切なことを、忘れてしまったようです」
……うん。
大切なことだったよ。
私にとっても。
でも。
桜花が覚えていないからといって、なかったことにはならない。
それだけは、ちゃんと伝えようと思った。
◇
私は、桜花の顔を見た。
「……桜花。今から話すこと、聞いてくれる?」
「……はい、リアリス様」
「……たぶん、あんまり楽しい話じゃない」
桜花は、少しだけ首を傾げた。
「どのようなお話でも、お聞きいたします」
その言葉に、胸が痛んだ。
この子は、いつだってそうだ。
私が何を話しても、まず聞こうとしてくれる。
私は、一度だけ息を整えた。
「……地下の奥に、もう助けられない人たちがいたんだ」
「……はい」
「私は、それを見て……」
桜花が、私を見つめる。
私は、視線を逸らさなかった。
「……ゴゾーラを殺そうと思ったんだ」
桜花の表情が、わずかに変わった。
でも、口は挟まなかった。
「地下から走り出して……子爵の部屋まで行って……」
私は、そこで一度言葉を止めた。
桜花が、静かに待っている。
私は、最後まで話した。
「……刀を、振った」
◇
寝室に、静かな時間が流れた。
窓の外から、鳥の声が聞こえる。
私は、桜花の手を見つめた。
「……全力だったんだ。加減なんて、全然してなかった」
「……リアリス様」
「……桜花が、止めに入ってくれた」
桜花は、息を呑んだ。
私は、ゆっくり顔を上げた。
「……桜花が、私とゴゾーラの間へ入ったんだ」
銀色の髪が、少しだけ揺れた。
桜花は、私を見つめている。
私は、言葉を続けた。
「……それで、私の刀が……桜花に当たった」
喉が、少しだけ詰まった。
でも、ここでやめるわけにはいかない。
「……《絶対防御》を破って、体を……」
私は、膝の上で手を握った。
桜花は、静かに私を見ていた。
「……斬ってしまったんだ」
◇
桜花は、しばらく動かなかった。
私は、その反応を待った。
怒られても仕方がない。
悲しまれても。
怖がられても。
私には、何も言えない。
でも、桜花は、まず自分の体へ視線を落とした。
胸元。
腕。
掛け布団に隠れた足元。
それから、ゆっくり両手を動かした。
「……わたくしが……」
かすかな声がした。
「……リアリス様の、刀を……」
私は、頷いた。
「……うん」
桜花の目に、驚きが浮かんだ。
彼女は、もう一度手元を確かめる。
「……しかし、今は……」
「……《不老不死》が発動したんだ」
私は、静かに答えた。
「体は元に戻った。でも、すぐには戻らなくて……」
桜花が、顔を上げる。
「……そう、でしたか」
私は、首を横に振った。
「……だから大丈夫、なんて言えないよ」
それだけは、はっきり伝えたかった。
◇
「……桜花。《絶対防御》は、ちゃんと発動してたんだよ」
「……はい」
「でも、私の一撃が強すぎた。守れなかったんじゃなくて……私が、その守りを壊したんだ」
桜花は、静かに聞いていた。
「《不老不死》も、すぐには働かなかった。どうしてなのかは、まだはっきりしない。でも、あんなことが起きた」
私は、もう一度彼女の顔を見た。
「……本当に、ごめん」
桜花は、何も言わなかった。
しばらくして、そっと私の手へ触れた。
「……リアリス様」
「……うん」
「少し、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「……もちろん」
桜花は、真剣な顔だった。
「……子爵は、どうなりましたか」
私は、少し驚いた。
自分が斬られた話をした直後なのに。
最初に聞くのが、それなんだね。
◇
「……生きてるよ」
私は、答えた。
「斬撃の衝撃で気を失ったけど、帝国軍が捕まえてくれた。家族も含めて、ガラントさんが調べてくれてる」
桜花は、静かに頷いた。
「……そう、ですか」
その顔から、少しだけ力が抜けたように見えた。
「……よかった、です」
「……桜花?」
私は、首を傾げた。
「……どうして?」
桜花は、私の手を握った。
さっきより少し、力が入っていた。
「……リアリス様が、人を殺めずに済んだからでございます」
私は、息を止めた。
桜花は、まっすぐ私を見ていた。
目が、逸れなかった。
「……わたくしは、それが、何より……」
そこで、言葉が少しだけ途切れた。
「……何より、安心いたしました」
私は、桜花の手を見つめた。
……ああ。
やっぱり。
桜花は、私を止めようとしたんだね。
この子は、ずっと。
◇
「……桜花」
私は、手を握り返した。
「……でも、桜花が傷ついたんだよ」
桜花が、静かに瞬きをした。
「はい」
「私が、傷つけたんだ」
「……はい」
その返事は、優しかった。
でも、事実を否定する言葉ではなかった。
私は、少しだけ顔を伏せた。
「……それなのに、よかったなんて」
桜花は、私の手へ両手を重ねた。
「リアリス様。わたくしが斬られたことを、軽く考えているわけではございません」
私は、顔を上げた。
桜花は、いつもの落ち着いた目で私を見ていた。
「……痛みがあったのかも、今は覚えておりません。ですが、皆様にご心配をおかけしたことは、分かります」
「……うん」
「リアリス様がおつらい思いをなさったことも」
私は、何も答えられなかった。
「けれど、わたくしが止めたかったのは……リアリス様が、怒りのまま人を殺めてしまうことです」
桜花は、そこで少しだけ息を吸った。
「……ですから、子爵が生きていると分かり、安心したのでございます」
私は、その言葉を胸の中で繰り返した。
……そっか。
桜花は、私の代わりに怒りを受け止めようとしたわけじゃない。
その先で、私が何をしてしまうかを止めようとしてくれたんだ。
◇
「……覚えてないんだよね。刀が当たったときのこと」
私は、念のため尋ねた。
桜花は、ゆっくり頷いた。
「……はい」
それから、目を閉じた。
「地下の通路までは、ぼんやりと覚えております。リアリス様のお名前をお呼びしたような……」
少し考えてから、首を横に振る。
「ですが、そのあとの記憶が、どうしても繋がりません」
「……そう」
「わたくしがどのように子爵の前へ出たのかも、分からないのでございます」
私は、頷いた。
……そうなんだね。
斬られた瞬間だけじゃない。
その前後も、抜け落ちているんだ。
《不老不死》は体を戻してくれた。
でも、記憶まで元に戻るとは限らない。
そういうことなのかもしれない。
「……無理に思い出さなくていいよ」
私は、伝えた。
「覚えていなくても、桜花が悪いわけじゃないから」
桜花が、少し困ったように微笑んだ。
「……ありがとうございます」
◇
私は、桜花へ水を渡した。
起き上がった彼女が、ゆっくり口に運ぶ。
飲み終えてから、小さく息を吐いた。
「……落ち着きました」
「……よかった」
私は、空になった器を受け取った。
卓の上へ置く。
桜花は、その動きをじっと見ていた。
「……リアリス様」
「……ん?」
「……お休みになっておられませんね」
私は、思わず目を逸らした。
……ばれた。
こんなときでも、桜花には分かるんだね。
「……少しだけ、座ってたよ」
「お眠りには?」
「……あんまり」
桜花の眉が、少しだけ下がった。
私は、慌てて言った。
「大丈夫だよ。私、そんなに疲れてないから」
「……リアリス様」
静かな声だった。
私は、口を閉じた。
……うん。
無理に平気なふりをしても、今は通じないよね。
「……眠れなかったんだ」
正直に言った。
桜花は、私の手をそっと握り直した。
「……そうでしたか」
それ以上、責める言葉はなかった。
◇
しばらく、二人で黙っていた。
窓から、朝の光が差し込んでいる。
薄いカーテンが、わずかに揺れた。
私は、桜花の手の温かさを感じていた。
……生きてる。
そのことは、もう疑わなくていいんだね。
それでも、あの光景を忘れることはできない。
忘れたくないのかもしれない。
私が何をしたかを。
だから、桜花に聞いた。
「……桜花。私のこと、怖くない?」
桜花が、目を丸くした。
「……怖い、ですか」
「……うん」
私は、ゆっくり頷いた。
「私、あんなことをしたんだよ。自分でも止められなくて……」
桜花は、私を見た。
しばらくして、静かに答えた。
「……怖くは、ございません」
「……本当に?」
「はい」
即答だった。
私は、何も言えなくなった。
「リアリス様がお持ちの力が、どれほど大きいかは、存じております」
桜花は、ゆっくり続けた。
「わたくし自身、その力をお分けいただいておりますから」
……そうだね。
桜花の強さも、魔法も。
◇
「リアリス様が、誰かを守ろうとしておられることも、存じております」
桜花が、言った。
「……でも、今回は守れなかった」
私は、答えた。
「私が怒って、桜花を危険な目に遭わせたんだ」
「……はい」
桜花は、逃げずに頷いた。
そのことが、少しだけ嬉しかった。
桜花は、私を無理に正当化しようとしない。
何もなかったことにしようともしない。
「わたくしも、今後は同じことが起こらぬよう、注意してお支えいたします」
「……桜花?」
「リアリス様が、お一人で全てを抱え込む必要はございません」
私は、彼女を見た。
「……だって、あのときも……」
そう言いかけた私へ、桜花は静かに首を横に振った。
「お止めできなかったことは、残念でございます。ですが、それでわたくしがお役に立てないわけではございません」
……ああ。
そうだった。
桜花は、私のそばにいることを望んでくれている。
失敗したからといって、それが消えるわけじゃない。
「……頼っても、いいの?」
「もちろんでございます」
桜花は、微笑んだ。
「わたくしは、リアリス様のお傍におります」
◇
私は、その言葉を聞いて、少しだけ考えた。
今までの私は、何かがあれば魔法で解決できると思っていた。
実際、そうできたことも多い。
傷ついた人を治す。
危険な魔獣を倒す。
遠くにいる人を探す。
遠くの場所へ移動する。
誰かが困っていれば、何とかしてあげられる。
……そう思ってた。
でも、昨日は違った。
自分の怒りを、魔法では止められなかった。
刀を振る前に考え直すこともできなかった。
《絶対防御》がある桜花でさえ、守りきれなかった。
……だったら。
もっと強い魔法を作れば、それで済むのかな。
……違うよね。
桜花にどれだけ強い防御を与えても、私自身が同じままなら。
また、誰かを傷つけるかもしれない。
そのことが、今ははっきり分かった。
◇
「……ねえ、桜花」
「はい」
「私、力を使うのが……少しだけ、怖くなったんだ」
桜花は、黙って聞いていた。
「昨日、あんなことをして……自分にこんな力があって、本当に大丈夫なのかなって」
私は、膝の上の手を見た。
何も持っていない手。
あの刀も、今は《収納》にしまってある。
それなのに、昨日あの手がしたことは消えない。
「……誰かを助けるつもりで行って、違う人を傷つけた」
桜花は、私の手へ触れた。
「……リアリス様」
「……うん」
「恐ろしいとお感じになることは、悪いことではございません」
私は、顔を上げた。
桜花は、いつもどおり落ち着いていた。
「ご自身のお力が、どれほど大きなものかを知っておられるからこそ、そうお感じになるのでしょう」
……そっか。
「ですが、そのお力で救われた方々も、大勢いらっしゃいます」
私は、ゆっくり頷いた。
……うん。
四十五人のネックレスを外せた。
屋敷を守れた。
病気や怪我を治せたことも、たくさんある。
力があること自体が、悪いわけじゃない。
どう使うか。
そこが、大切なんだね。
◇
桜花は、私をまっすぐ見つめた。
「リアリス様。あの方々は、どうなりましたか」
「……あの人たち?」
「地下で保護した皆様です」
私は、小さく息を吐いた。
「……四十五人全員、助け出したよ」
桜花の表情が、少しだけ明るくなった。
「……そうでしたか」
「うん。ガラントさんたちが子爵を捕まえてくれて……首のネックレスも全部壊したんだ」
「……本当に」
桜花の声に、安堵がにじんだ。
「今は、ローズ帝国邸にいるよ。巴さんやみんなが、面倒を見てくれてる」
桜花が、静かに頷いた。
「……よかったです」
私は、続けた。
「まだ、すぐに安心できる人ばかりじゃないと思う。でも、今夜は温かいところで休んでもらえたはずだよ」
桜花は、ゆっくり目を閉じた。
「……リアリス様。ありがとうございます」
「……え?」
私は、少し戸惑った。
「……私に?」
「はい。皆様を、お救いくださって」
私は、首を横に振った。
「……桜花も、みんなも手伝ってくれたからだよ」
「それでも、ございます」
桜花は、静かに微笑んだ。
「助けたいとお思いになった、そのお気持ちは、間違っておりませんでした」
◇
私は、少しだけ目を閉じた。
……そうだね。
救いたいと思った。
それは、本当だった。
だけど、途中で何かを間違えた。
そのことを、桜花はちゃんと分けて考えてくれている。
「……桜花。ありがとう」
私は、素直に言った。
桜花が、首を傾げる。
「……わたくしは、何も」
「……ううん。話を聞いてくれて」
私は、手を握り直した。
「……ちゃんと、言ってくれて」
桜花は、ほんの少しだけ目を細めた。
「……恐れ入ります」
それから、静かに続けた。
「リアリス様は、これからどうなさりたいのでしょうか」
私は、その言葉を考えた。
これから。
……そうか。
まだ、これからがあるんだね。
昨日のことは消えないけれど。
今日のことも、明日のことも。
全部、なくなったわけじゃない。
私は、窓へ目を向けた。
朝の光が、少しだけ明るくなっていた。
◇
「……これから、か」
私は、呟いた。
昨日までは、目の前のことだけで精いっぱいだった。
桜花が生きているか。
目を覚ましてくれるか。
そのことばかり考えていた。
でも、もう違う。
桜花が、私を見てくれている。
名前を呼んでくれている。
……これから何をするのか。
考えられるところまで、戻ってこられたんだ。
「……桜花。もう少しだけ、話を聞いてくれる?」
「はい。もちろんでございます」
私は、ゆっくり頷いた。
「……私、強くなりたいんだ」
桜花の目が、少しだけ大きくなった。
「……お強く、でございますか」
「……うん」
私は、手のひらを見つめた。
何も持っていない。
ただの、いつもの手。
「今だって、力はあると思う。でも、そういうことじゃなくて」
桜花は、黙って待ってくれていた。
◇
「……私は、誰かを守れる力があれば十分だと思ってた」
私は、言葉を探した。
「病気も治せるし、危険な魔獣が来ても何とかできる。家に《結界》を張れば、みんなは安心して暮らせる」
「……はい」
「それで、みんなを守ってるつもりだったんだ」
私は、桜花の顔を見た。
「でも、昨日は違った。危険だったのは……私自身だった」
桜花は、少しだけ目を伏せた。
私は、静かに続ける。
「力があっても、使い方を間違えたら、誰かを傷つける。止めてくれた人まで傷つけてしまう」
口にすると、胸が少し苦しくなった。
でも、もう目を逸らさなかった。
「……だから、ただ力を増やすだけじゃ駄目なんだと思う」
桜花が、頷いた。
「……そのとおりかと存じます」
私は、少しだけ驚いた。
桜花は、いつだって私を褒めてくれる子だ。
でも、今は違った。
私の言葉を、ちゃんと受け止めてくれている。
◇
「リアリス様」
桜花が、静かに呼んだ。
「……うん」
「一つ、お願いしてもよろしいでしょうか」
「……もちろん」
桜花は、ゆっくり身を起こした。
私は、枕がずれないように手を添えた。
桜花は、それに小さく頷く。
「今後、同じようにお怒りになることがございましたら……どうか、わたくしの声をお聞きください」
私は、動きを止めた。
桜花は、まっすぐ私を見ていた。
「わたくしは、リアリス様のお傍におります。お怒りになることが悪いとは思いません」
「……うん」
「ですが、そのお怒りの先で、大切なものを見失わないでいただきたいのです」
……大切なもの。
私は、その言葉を胸の中で繰り返した。
昨日、見失ったものだ。
桜花も、みんなも。
何のために子爵邸へ行ったのかさえ。
「……分かった」
私は、ゆっくり頷いた。
「……今度は、ちゃんと聞くよ」
桜花が、小さく微笑んだ。
「ありがとうございます」
◇
「でも、桜花」
私は、そこで一度言葉を切った。
「……私がまた聞けなくなることだって、あるかもしれない」
桜花は、少し考えた。
「そのときは、わたくしたちの誰かが、必ずお声をおかけします」
「……うん」
「楓も、牡丹も、杏子も。ほかのみんなもおります」
私は、少しだけ笑った。
……そうだね。
昨日だって、みんなが自分の役目を果たしてくれていた。
牡丹は子爵を押さえてくれた。
楓は、桜花を運んでくれた。
杏子は、体を支えてくれた。
巴さんは、何も言わずに桜花を預かってくれた。
……みんな。
私を助けてくれていたんだ。
「……私、一人じゃないんだね」
「もちろんでございます」
桜花が、頷く。
「リアリス様がわたくしたちを守ってくださるように、わたくしたちもリアリス様をお守りいたします」
私は、その言葉を聞いた。
……ああ。
守るって、一方通行じゃないんだね。
みんなが私に守られるだけじゃなくて。
私も、みんなに助けられている。
◇
そのとき、ふと思い出した。
桜花が初めて私の前に立った日のこと。
銀色の髪。
真っ直ぐな前髪。
私が想像した姿で、ゆっくり目を開けた子。
あのときから、桜花はずっと私の隣にいた。
初めて料理を作った日も。
新しい家を建てた日も。
ほかの子たちが増えた日も。
カトレアを家族として迎えたときも。
いつだって、そばにいてくれた。
……私は。
桜花がいることを、当たり前だと思っていた。
でも、昨日は、その当たり前がなくなるかもしれなかった。
「……桜花」
「はい」
「……生きててくれて、ありがとう」
桜花が、少しだけ目を見開いた。
私は、続けた。
「昨日、戻ってきてくれたとき、本当に嬉しかったんだ。今、こうして話せることも」
桜花は、何も言わなかった。
少しして、静かに微笑んだ。
「……こちらこそ、ありがとうございます」
「……え?」
「この命も、この体も……リアリス様がくださったものです」
桜花は、自分の手を見た。
「《不老不死》も、《絶対防御》も。わたくしが今ここにいられるのは、リアリス様のおかげでございます」
私は、その言葉を聞いた。
……うん。
確かに、私が与えた。
でも。
「……だからって、桜花を傷つけていい理由にはならないよ」
私は、静かに答えた。
「もちろんでございます」
桜花は、すぐに頷いた。
「わたくしも、そのようには思っておりません」
その返事に、少しだけ安心した。
桜花は、自分が無事だったから全部終わりだとは思っていない。
私も、そう思いたくない。
◇
桜花が、もう一度私の手を握った。
「……リアリス様」
「……うん」
「昨日のことを、すぐにお忘れになる必要はございません」
私は、顔を上げた。
桜花は、静かに続ける。
「ですが、ずっとご自身を責め続けることだけが、おできになることではないと思います」
私は、その言葉を受け止めた。
……そうだね。
後悔しているだけなら、昨日から何も変わらない。
私が桜花を斬った事実も、消えない。
でも、その先へ進むかどうかは、私が決められる。
「……わたくしは、リアリス様と、これからも一緒にいたいのです」
桜花の声は、小さかった。
それでも、はっきり聞こえた。
「楽しいことも、嬉しいことも、また一緒に経験したいのでございます」
私は、桜花の目を見た。
ああ。
そんなことを言われたら。
……頑張るしか、ないよね。
「……私もだよ、桜花」
私は、静かに答えた。
「私も、桜花と一緒にいたい」
桜花が、微笑んだ。
◇
窓から差し込む光が、少しずつ強くなっていた。
私は、立ち上がって窓辺へ歩いた。
庭には、朝露が残っている。
遠くに、王都の建物が見えた。
いつもと同じ景色。
昨日までなら、何も考えずに眺めていたはずだ。
……でも、今は違う。
この景色の中には、私の家族が暮らしている。
桜花も。
カトレアも。
巴さんも。
フラワーズのみんなも。
一般メイドたちも。
そして、遠くの帝国邸には、ようやく自由になった四十五人がいる。
みんなが、今日を生きている。
私は、そのことが嬉しかった。
……だから。
もう、誰かを守るために誰かを傷つけたくない。
守ると決めた人を、私自身の手で傷つけることも。
……そんなことは、二度としたくない。
◇
私は、桜花の方へ振り返った。
「……桜花」
「はい、リアリス様」
「……私、決めたよ」
桜花が、私を見つめた。
私は、ゆっくり言葉にした。
「……もう、ただ強いだけじゃ駄目なんだと思う」
桜花は、静かに聞いていた。
「怒っても、悲しくても、自分を見失わないこと。誰かの声を聞くこと。危険なことが起きたら、まず守るべき人を見ること」
私は、桜花の目を見た。
「……その全部が、私に足りなかったんだ」
桜花は、首を横に振らなかった。
ただ、静かに頷いてくれた。
私は、深く息を吸った。
そして。
「……家族を守れるように、もっと強くなる」
そう言った。
言葉にすると、胸の中で何かが静かに定まった。
昨日のことが消えたわけじゃない。
これからも、きっと思い出す。
でも、それで立ち止まるのはやめよう。
私には、守りたい人がいるんだから。
◇
桜花が、ふわりと微笑んだ。
「……はい。リアリス様」
その声は、朝の光のように穏やかだった。
「わたくしも、さらにお力になれるよう努めます」
私は、少しだけ笑った。
「……うん。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
桜花が、ゆっくり頭を下げようとした。
私は、慌てて手を伸ばす。
「だ、駄目だよ。まだ起きたばっかりなんだから、そんなに動かないで」
桜花が、一瞬だけ目を丸くした。
それから、くすりと小さく笑った。
「……かしこまりました」
その笑い声を聞いて、私は思わず笑ってしまった。
……ああ。
これだ。
いつもの、桜花だ。
ようやく、戻ってきたんだね。
◇
「……ねえ、桜花」
「はい」
「お腹、空いてない?」
桜花が、少し考えた。
「……多少は、空いているようでございます」
「……そっか」
私は、卓の上に置かれた水差しを見た。
水ばかりじゃ、足りないよね。
目を覚ましたばかりだし、体に負担のないものがいいかな。
そう考えていると、桜花が小さく微笑んだ。
「リアリス様は、お食事を召し上がりましたか」
……あっ。
私の方を聞くんだ。
「……まだ、かな」
桜花の眉が、少しだけ下がった。
「それはいけません」
「……うん。そうだね」
私は、苦笑した。
ずっと、桜花が起きることばかり考えていたから。
お腹が空いているのかどうかさえ、分からなくなっていた。
でも、今は違う。
……そうだ。
朝なんだね。
「……じゃあ、一緒に食べようか」
私が言うと、桜花は微笑んだ。
「はい。ぜひ」
◇
私が扉へ向かおうとすると、桜花が掛け布団を押さえた。
「……リアリス様。わたくしが、ご用意いたします」
私は、すぐに振り返った。
「……駄目だよ」
桜花が、少し驚いた顔をする。
「……え?」
「今日は、桜花は休む日」
「ですが、わたくしはもう……」
「……体は元に戻ったけど、目を覚ましたばかりでしょ」
私は、寝台のそばへ戻った。
「それに、私も今は桜花を甘やかしたいんだ」
桜花の目が、少しだけ大きくなった。
「……甘やかす、でございますか」
「……うん」
私は、頷いた。
「いつも桜花には、いろいろしてもらってるから。今日は私がやるよ」
桜花は、少しだけ困ったように微笑んだ。
「……リアリス様にお手間をおかけしてしまいます」
「手間じゃないよ」
私は、素直に答えた。
「……大切な人のために、したいことだから」
桜花が、黙った。
銀色の前髪の下で、目が少し揺れた。
「……ありがとうございます」
声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
◇
扉を開けると、近くを通りかかった一般メイドが頭を下げた。
「おはようございます、リアリス様」
「……おはよう。お願いがあるんだけど」
「はい」
「桜花が、目を覚ましたんだ」
メイドの表情が、ぱっと明るくなった。
「……桜花様が!」
けれど、すぐに声を落とす。
「それは……何よりでございます」
私は、頷いた。
「……うん。ありがとう」
メイドは、私の顔を見て静かに微笑んだ。
「皆にも、お知らせしてよろしいでしょうか」
「もちろん。でも、まだ桜花には休んでもらいたいから、みんなで押しかけないようにしてね」
「かしこまりました」
メイドが、頭を下げる。
「それから、朝ご飯を二人分お願いできる?」
「承知いたしました。消化のよいものを中心にご用意いたします」
「……ありがとう」
私は、少しだけ笑った。
そうだ。
ここには、家のことを一緒に考えてくれる人がいるんだ。
◇
寝室へ戻ると、桜花が窓の外を見ていた。
朝の光の中で、銀色の髪が淡く光っている。
私は、足を止めた。
……綺麗だな。
こんなときなのに、そう思ってしまった。
いや。
こんなときだからこそ、なのかもしれない。
桜花が生きている。
その姿が、ここにある。
ただ、それだけで嬉しかった。
「……リアリス様?」
桜花が、振り返る。
「……何でもないよ」
私は、笑った。
「……朝ご飯、お願いしてきた」
「ありがとうございます」
桜花が、静かに頭を下げる。
私は、寝台のそばへ戻った。
それから、置いてあった髪飾りを手に取る。
「……髪、整えてあげようか」
桜花は、少し驚いたようだった。
「……よろしいのでございますか」
「……うん」
私は、頷いた。
「桜花の髪、好きだから」
桜花が、ほんの少し頬を赤くした。
「……恐れ入ります」
◇
私は、櫛を手に取った。
短い銀髪へ、そっと通す。
真っ直ぐな前髪。
丸みのある、おかっぱの髪。
私が最初に想像したときのまま、綺麗な形をしている。
櫛を動かすたびに、やわらかな髪が揺れた。
「……痛くない?」
「はい。とても、心地よいです」
「……そっか」
私は、少しだけ安心した。
普段、こんなことは桜花に任せてしまっている。
だから、慣れてはいないけれど。
ゆっくり。
丁寧に。
髪を整える。
桜花は、静かに目を閉じていた。
しばらくすると、小さな声がした。
「……リアリス様」
「……ん?」
「……本当に、ありがとうございます」
私は、櫛を止めた。
「……私も、ありがとう」
桜花が、目を開ける。
私は、微笑んだ。
「……戻ってきてくれて」
桜花も、微笑んだ。
◇
廊下から、小さな足音が近づいてきた。
ぱたぱた。
何だか、聞き覚えがある。
扉の前で、足音が止まった。
「……お父さん?」
カトレアの声だった。
私は、思わず桜花を見た。
桜花も、少し目を丸くしている。
私は、扉へ向かった。
「……カトレア。おはよう」
扉を開けると、水色の短いおかっぱ髪の女の子が立っていた。
両腕には、いつもの大きな猫のぬいぐるみ。
彼女は、私の顔を見上げた。
「おはよう、お父さん」
「……うん。おはよう」
私は、膝を折って目線を合わせた。
「……どうしたの?」
「……桜花お姉ちゃん、起きたって」
……ああ。
聞いたんだね。
私は、静かに頷いた。
「……うん。起きたよ」
カトレアの顔が、少しだけ明るくなった。
◇
「……会っても、いい?」
カトレアが、小さく尋ねた。
私は、桜花へ目を向けた。
桜花は、寝台の上で静かに微笑んでいる。
「……もちろん。いらっしゃいませ、カトレア」
その声を聞いたカトレアが、ぬいぐるみを抱えたまま部屋へ入った。
寝台の前で、少しだけ足を止める。
「……桜花お姉ちゃん」
「はい」
「……おはよう」
「おはようございます」
カトレアが、少しだけ笑った。
それから、寝台のそばへ近づく。
「……もう、元気?」
桜花は、穏やかに頷いた。
「はい。もう、大丈夫でございます」
「……よかった」
短い言葉だった。
でも、カトレアは心から安心したような顔をしていた。
私は、その横顔を見た。
……ああ。
守りたいな。
この子の、こういう顔も。
◇
「……お姉ちゃん」
カトレアが、猫のぬいぐるみを少し持ち上げた。
「……これ、貸してあげる」
桜花が、目を丸くする。
「……よろしいのですか?」
カトレアは、小さく頷いた。
「……うん。そばにいると、安心するよ」
……ああ。
そのぬいぐるみは、カトレアにとって大切なものだ。
そんなものを、桜花へ貸してあげようとしている。
桜花が、そっと手を伸ばした。
「……ありがとうございます、カトレア」
カトレアは、少し照れたように笑った。
ぬいぐるみを寝台のそばへ置く。
桜花は、それを優しく撫でた。
私は、二人を見ていた。
……うん。
こんな朝が、ずっと続くといい。
◇
廊下から、朝食を運ぶ小さな音が聞こえた。
窓の外では、庭の木々が風に揺れている。
桜花は、目を覚ました。
カトレアは、嬉しそうに笑っている。
帝国邸では、四十五人が新しい朝を迎えているだろう。
昨日のことは、きっと忘れない。
でも、もう前だけを見ていていいんだと思えた。
私は、桜花とカトレアのそばへ座った。
桜花が、いつもの声で言った。
「リアリス様。朝食が届いたようでございます」
私は、微笑んだ。
「……うん。一緒に食べよう、桜花」
今日も、ここから始めよう。




