第7話:奴隷解放
門を叩く音が、夜の子爵邸に響いた。
私は、一度だけ深く息を吸った。
すぐ隣には蘭と朝顔がいる。門の内側で武器を取り上げられた兵士たちは、もう抵抗する様子もなく、静かにこちらを見ていた。
「……開けるね」
「はい、リアリス様」
朝顔が頷く。
私が門へ近づくと、外から落ち着いた声が聞こえた。
「ローズ帝国宰相、ガラントです。皇帝陛下の命により、ゴゾーラ子爵邸の調査に参りました」
……来てくれたんだ。
門を開ける。
その向こうには、整列した帝国兵と、片眼鏡をかけた黒髪の男性が立っていた。
「ガラントさん」
「リアリス殿。お待たせいたしました」
ガラントさんは、私の顔を見て小さく頭を下げた。
隣に立つ兵士たちが、一斉に姿勢を正す。
私は、首を横に振った。
「来てくれて、ありがとう」
それだけ言うのが、精いっぱいだった。
◇
夜の庭には、いくつもの灯りがともっていた。
帝国兵が門をくぐり、二列になって左右へ分かれる。
足音は揃っていたけれど、誰も大声を出さなかった。
「こちらの屋敷を、リアリス殿が封鎖されたと伺っています」
「……うん。屋敷の中にいた人は、勝手に外へ出られないようにしてあるよ。帝国軍の人たちは通れるようにした」
「助かります。まずは、現場の状況をご説明いただけますか」
私は、頷いた。
門兵二人を魔法で止めたこと。
ほかの兵士からはフラワーズが武器を取り上げ、殺さずに制圧したこと。
使用人とメイドたちは別室で待ってもらっていること。
そして、地下から四十五人を保護したこと。
ガラントさんは、時折短い質問をしながら聞いていた。
「怪我をされた方は?」
「……桜花以外は、いないはずだよ。庭の壁の破片が落ちたところも調べてもらった」
ガラントさんの視線が、一瞬だけ私へ向いた。
「……承知しました」
それ以上、桜花のことは聞かなかった。
◇
「リアリス殿。まずは兵士と使用人、それから子爵の身柄をこちらで引き受けます」
「……お願い」
「ご家族についても所在を確認します。事情を知っていたかどうかを含め、こちらで調べさせていただきます」
「うん。何も知らなかった人まで、同じように扱わないでほしい」
私がそう言うと、ガラントさんはまっすぐ頷いた。
「もちろんです。事実を確認せずに判断することはいたしません」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
……ああ。
そうだね。
今は、私が何もかも決める必要はないんだ。
ガラントさんは後ろを振り返り、兵士たちへ手短に指示を出した。
「各班は配置につきなさい。負傷者を出さず、命令に従って行動すること。抵抗する者がいても、必要以上の力を使わないように」
「はっ!」
鎧が小さく鳴った。
私は、蘭と朝顔へ目を向けた。
「みんなの持ち場を、案内してあげてくれる?」
「かしこまりました」
二人は、兵士たちを連れて廊下へ向かっていった。
◇
ガラントさんを先導し、私も屋敷へ入る。
壊れた執務室へ向かう階段の前で、ガラントさんが足を止めた。
外壁の崩れた部分が、廊下の窓から見えたからだろう。
「……あちらが、報告にあった場所ですか」
「……うん」
私は、頷いた。
「私が、やったんだ」
「皇帝陛下から伺っております」
ガラントさんは、それ以上何も言わず、階段を上がった。
私も後に続く。
あの部屋へ向かうのは、これで何度目だろう。
◇
扉の前に着くと、牡丹が出迎えてくれた。
「リアリス様。ガラント様。お待ちしておりました」
「牡丹。ありがとう。もう、帝国軍の人たちが来てくれたよ」
「承知いたしました」
室内には、壊れた壁の向こうから夜空が見えていた。
床に散った石片はそのまま残してある。
金色の飾りのついた机も、倒れた椅子も、そのままだ。
そして。
壁から離れた場所に、ゴゾーラ子爵が横たわっていた。
目を閉じ、意識を失ったまま。
牡丹が近くで見張っている。
「子爵の状態は?」
ガラントさんが尋ねた。
「リアリス様の斬撃に伴う衝撃で、意識を失っております。呼吸は安定しておりますが、その後は一度も目を覚ましておりません」
牡丹が答える。
ガラントさんは、帝国兵を二人呼び寄せた。
「状態を確認し、身柄を確保しなさい」
「はっ」
兵士たちが、子爵のそばへしゃがむ。
顔色と呼吸を確認し、慎重に体を動かして拘束した。
ゴゾーラは、ぴくりとも動かなかった。
◇
ガラントさんが、私へ向き直った。
「リアリス殿。ゴゾーラ子爵の身柄は、帝国軍が確保しました」
「……うん。お願い」
「このまま連行いたします。意識が戻り次第、取り調べを進めることになります」
私は、短く頷いた。
兵士二人が、気を失った子爵を担いで部屋から運び出していく。
金色の飾りに囲まれていた男が、何も言わずに連れていかれた。
その姿を見て、私は一度だけ目を伏せた。
……よかった。
誰も、殺さずに済んだ。
そう思ってから、すぐに考え直した。
……違う。
地下で亡くなった人たちは、もう戻らない。
だからこそ、ここで起きたことを調べてもらわなくちゃいけないんだ。
私は、ガラントさんを見た。
「地下に、見てもらいたい場所がある」
「……ご案内をお願いします」
◇
執務室を出る前に、ガラントさんが振り返った。
「牡丹殿。長い時間、お疲れさまでした」
「いえ。務めを果たしただけでございます」
牡丹は、落ち着いた声で答えた。
それから、私の方へ顔を向ける。
「リアリス様。桜花様は、いかがでしょうか」
「……まだ眠ってる。でも、体は元に戻って、呼吸も落ち着いてるよ」
牡丹が、ゆっくり頷いた。
「何よりでございます」
「……ありがとう、牡丹」
彼女は、もう一度頭を下げた。
その小さな背中が、さっきまで子爵を押さえ続けてくれていた。
私が桜花のことで動けなかったあいだも。
……本当に、助けられてばかりだね。
「牡丹は、みんなのところへ戻っていいよ。帝国軍の人たちへの案内を手伝ってあげて」
「かしこまりました」
牡丹は、軽い足取りで部屋を出ていった。
◇
屋敷の一階では、帝国兵たちが次々に持ち場へ入っていた。
使用人の待機部屋も、兵士が入口を見守る形に変わっている。
藤が、私を見つけて近づいてきた。
「リアリス様。使用人とメイドの皆様は、帝国軍の方々へ引き継ぎました」
「ありがとう。みんな、怖がってない?」
「突然のことですので、不安そうな方もいらっしゃいます。ただ、帝国軍の方々も落ち着いてご説明くださっております」
「……そっか」
私は、少しだけ安心した。
命令に従っていただけの人もいるかもしれない。
事情を知っていた人もいるかもしれない。
その違いを、私が見た目だけで決めるわけにはいかない。
……うん。
そこは、任せよう。
ガラントさんが、藤へ小さく一礼した。
「ご協力に感謝します」
藤も、丁寧に頭を下げた。
◇
階段を下り、地下へ進む。
先ほどより、通路が明るくなっていた。
帝国兵が持ってきた灯りが、壁際に置かれている。
誰かが地下を調べるために、必要な明かりを用意してくれたのだろう。
……ああ。
私たちが踏み込んだときは、こんなに人の気配がなかったのに。
今は足音が聞こえる。
命令を伝える声が聞こえる。
あの地下が、少しずつ誰かの目に触れていく。
それは、少し不思議な感覚だった。
「こちらです」
私は、最初に四十五人が閉じ込められていた部屋を示した。
空になった寝台。
薄い毛布。
床に残された器。
「ここに、四十五人がいたんだ」
ガラントさんは、室内を見渡した。
「……このような場所に」
低い声が、ぽつりと落ちた。
私は、頷いた。
「もう、地上へ移してあるよ」
「承知しました。保護された皆様にも、後ほどお話を伺いたいところですが……」
ガラントさんは、空になった寝台へ目を向けた。
「今夜は、まず安全と休息を優先しましょう」
「……うん。それがいいと思う」
◇
次に、競りの会場へ案内した。
磨かれた床。
壇の前に並ぶ椅子。
人を商品として見せるために整えられた場所。
ガラントさんは、しばらく言葉を失ったようにそこを見つめていた。
それから、兵士の一人を呼ぶ。
「部屋の出入口と、置かれている物品を記録してください。何一つ、勝手に動かさないように」
「はっ」
私は、壇のそばへ目を向けた。
誰かがここへ立たされ、値段をつけられるはずだったのだろう。
つい先ほどまで、実際にそうなるところだった。
……間に合ったんだ。
四十五人については。
その事実を、きちんと覚えておこうと思った。
◇
会場の奥にある扉へ、私は手を伸ばした。
ガラントさんが隣へ立つ。
「……この先ですか」
「……うん」
扉を開ける。
冷たい空気が、ゆっくり流れてきた。
奥にある鉄格子。
床へ置かれた粗い布。
動かない人たち。
その光景は、私が最初に見たときと何も変わっていなかった。
ガラントさんの足が、止まった。
「……これは」
私は、静かに答えた。
「……助けられなかった人たちだよ」
彼は、しばらく何も言わなかった。
やがて、兵士たちへ目を向ける。
「ここは、私の指示があるまで出入りを制限してください。遺体の数と状態、部屋に残されているものを記録します」
帝国兵が、一斉に姿勢を正した。
誰も、遺体へ乱暴に触れなかった。
私は、そこで初めて小さく息を吐いた。
……ようやく、任せられる。
◇
地下から戻る途中、ガラントさんが私を呼び止めた。
「リアリス殿。あの四十五人について、一つ確認させてください」
「……うん」
「首には、奴隷の証となる装具が残っていますね」
「そう。ネックレスみたいなものだよ」
私が答えると、ガラントさんは頷いた。
「所持者の意思を縛るためのものです。命令に逆らえなくする仕組みを備えたものもあります」
……ああ。
やっぱり、ただの飾りじゃないんだね。
地下で見たときから、そうだと思っていた。
「それを外せれば、もう誰かの所有物ではなくなるの?」
「少なくとも、身に着けている装具による拘束はなくなります。帝国としても、今回保護した方々を子爵へ戻すことは認めません」
ガラントさんは、そこで少し表情を硬くした。
「ただ、装具の解除には注意が必要です。無理に切れば、着用者へ危害が及ぶものもあります」
私は、頷いた。
首のすぐ近くにあるものだ。
壊したときに本人まで傷つけるわけにはいかない。
……だけど。
「それなら、大丈夫だと思う」
ガラントさんが、私を見た。
「……何か方法が?」
「うん。以前、物だけを壊す魔法を作ったんだ」
◇
私は、少しだけ昔のことを思い出した。
盗賊たちと出会ったとき。
武器や衣服を壊すために使った魔法があった。
《ブレイク》。
物体を分子の単位まで破壊する、私の想像魔法。
人や魔獣そのものには使えない。
だからこそ、装具だけを正確に指定すれば、首に触れずに消せるはずだ。
……本当なら。
もっと早く思い出してあげられたらよかった。
地下に閉じ込められていたとき、あの人たちの首にあるものを見たのに。
けれど、今からでも遅くはない。
「ガラントさん。みんなのところへ、戻ろうか」
「……装具を外されるのですね」
「うん。全員分、外したい」
ガラントさんは、小さく頭を下げた。
「では、私も立ち会わせてください」
◇
広い客間の前には、藤と撫子が立っていた。
帝国兵の姿を見た保護された人たちが、不安にならないように、できるだけ出入口から距離を取ってもらっている。
私は、ガラントさんと一緒に立ち止まった。
「中へ入る前に、少しだけ待ってもらっていい?」
「もちろんです」
ガラントさんが頷く。
私が扉を開くと、室内の視線が一斉に集まった。
四十五人。
地下から連れ出した人たちが、まだここにいる。
さっきよりは落ち着いた人もいるけれど、顔には疲れが残っていた。
「……みんな。ちょっとだけ、話をしてもいいかな」
返事は、すぐにはなかった。
私は、そのまま続ける。
「ゴゾーラ子爵は、帝国軍が連れていったよ。もう、この屋敷でみんなに命令することはできない」
誰かが、小さく息を呑んだ。
でも、すぐに歓声が上がることはなかった。
……当然だね。
何を信じていいのか、まだ分からないんだから。
◇
「それと、首につけられているものを外せるかもしれない」
私は、自分の首元を指差した。
部屋のあちこちで、視線が動く。
誰かが、反射的にネックレスを押さえた。
その隣の女性が、怯えたように首を横に振る。
「だ、駄目です……!」
その声は、小さかった。
私は、すぐに手を下ろした。
「……うん。怖いよね」
女性は、目を見開いている。
「外そうとしたら、痛い目に遭うって……そう、言われて……」
……やっぱり。
怖がらせるためにも使われていたんだ。
「無理に外したりしないよ。触れないで、ネックレスだけを壊す魔法があるんだ」
私は、一度言葉を切った。
「でも、嫌なら今はしなくていい。まず、やってもいいと思う人から確かめよう」
室内が、静かになった。
まだ誰も、手を上げなかった。
私は、急かさずに待った。
◇
しばらくして、奥に座っていた男性が立ち上がった。
地下で話した、三人の職人のうちの一人だ。
「……あんた、本当に外せるのか」
「……うん。できると思う」
「魔法で?」
「そうだよ」
男性が、首元の金具に触れる。
指先が、わずかに震えていた。
「これ……自分で外そうとすると、酷く痛むんだ。前に試した奴がいた」
私は、頷いた。
「……教えてくれて、ありがとう」
男性は、私を見た。
「俺で、試してくれ」
部屋の隅から、小さな声が上がった。
「お、おい……!」
しかし、男性は振り返らなかった。
「このまま首につけてるより、いい」
私は、静かに頷いた。
「……分かった。でも、少しでも嫌になったら教えてね」
◇
私は、男性から少し離れた。
ガラントさんが見守っている。
藤と撫子も、少し距離を取った。
私は、ネックレスへ目を向けた。
金具。
細い鎖。
首の後ろにある小さな留め具。
それらを、ひとまとめに想像する。
対象は、首に装着された物体だけ。
人間の体には、触れない。
「……《ブレイク》」
小さな音が、した。
ぱきん。
では、なかった。
金具が砕ける音さえ、ほとんど聞こえなかった。
ネックレスが、一瞬で細かい粒子へ変わり、そのまま空気へ溶けるように消えた。
男性が、首へ手を伸ばす。
何度も、何度も触れた。
何もない。
首元を押さえていた硬い金具が、なくなっていた。
「……え?」
男性の口から、かすれた声が出た。
「……ない」
私は、頷いた。
「……うん。外れたよ」
◇
男性は、そのまま動かなかった。
首に指を当てたり、離したり。
何度も同じことを繰り返す。
「……痛く、ない」
その言葉は、誰かに聞かせるための声ではなかった。
ただ、確かめるような呟きだった。
そして。
男性の目から、一粒の涙がこぼれた。
「……本当に」
彼は、うまく言葉を続けられなかった。
私は、そっと頷く。
「大丈夫。ちゃんと、なくなったよ」
男性は、空になった自分の首元を見つめた。
ずっと下げていた肩が、ほんの少しだけ上がる。
……ああ。
よかった。
この人は、もうあの金具に縛られていない。
それを見ていたほかの人たちが、互いに顔を見合わせ始めた。
◇
「……私も」
女性の声がした。
さっき、怖いと言っていた人だった。
その手は、まだネックレスを握っている。
「……お願いしても、いいですか」
「……もちろん」
私は、彼女の前へ立った。
「触れなくてもできるよ。少し離れたところから使うね」
女性が、小さく頷いた。
私は、さっきと同じように対象を絞る。
「《ブレイク》」
ネックレスが、静かに消えた。
女性は、驚いたように首元へ触れた。
それから、唇を噛む。
目から涙がこぼれた。
「……あ、ありがとう……ございます」
私は、首を横に振った。
「……ううん。これからは、もうつけなくていいんだよ」
女性は、何度も頷いていた。
隣に座っていた人が、そっとその肩へ手を置く。
二人で顔を伏せたまま、しばらく動かなかった。
◇
それから、一人、また一人と声が上がった。
「……俺も、頼む」
「私も……」
「そ、それは、本当に痛くないんですか」
「……うん。触れずに外すからね」
私は、一人ずつ確かめた。
首に痛みが残っていないか。
外しても大丈夫か。
怖くなったら、今はやめてもいいこと。
その説明を繰り返すうちに、少しずつ室内の空気が変わっていった。
誰かが首元へ触れ、信じられないという顔をする。
その隣で、まだ迷っている人が見ている。
ネックレスが消えた人が、別の人へ小さく頷く。
……うん。
急がなくていい。
一人ずつ、ちゃんと外そう。
◇
最後の方になると、ネックレスを握ったまま動かない男性がいた。
若い人だった。
痩せた手。
膝の上に置かれた指先が、白くなるほど力を込めている。
「……怖い?」
私が尋ねると、男性は頷いた。
「……こいつが、なくなっても……また、つけられるんじゃないかって」
私は、すぐには答えられなかった。
……そうか。
外せたからといって、誰かを信じられるわけじゃない。
取り戻した自由を、また奪われるかもしれない。
そういう怖さも、あるんだね。
「少なくとも、私はもう二度とつけないよ」
私は、まっすぐ答えた。
「あなたを、誰かに売ったりもしない」
男性は、私の顔を見た。
私は、そのまま続けた。
「帝国の人たちも、今はみんなを守るために来てくれてる。嫌なら、私がいるうちに外さなくてもいいから」
男性は、目を伏せた。
長い沈黙。
それから、かすれた声がした。
「……外して、ください」
私は、頷いた。
「……分かった」
《ブレイク》を使う。
首元から、最後の金具が消えた。
◇
私は、部屋を見回した。
四十五人。
全員の首から、ネックレスがなくなっていた。
首の皮膚には、長いあいだ金具をつけていた痕が残っている人もいる。
でも、もう金具そのものは、どこにもない。
……ああ。
やっと、外せた。
ガラントさんが、私の隣へ立った。
「リアリス殿。確認しました。装具は全員分、解除されています」
「……うん」
「帝国としても、この方々をゴゾーラ子爵の所有物として扱うことはありません。安全な場所を確保し、今後の希望について改めて確認します」
ガラントさんは、四十五人へ向き直り、ゆっくりと言葉を選んだ。
「皆様。もう子爵の命令に従う必要はありません。今夜は、まず安全な場所でお休みください」
室内に、長い沈黙が流れた。
その中で、誰かが小さく泣き始めた。
ほかの人も、首元へ手を当てていた。
私は、その様子を見て、静かに息を吐いた。
……これで。
ようやく、自由になったんだね。
◇
ガラントさんが、少しだけ声を落とした。
「リアリス殿。一つ、お願いがございます」
「……ん?」
「今回の件が帝都の住人に知られると、非常に厄介なことになります。四十五人もの方々を表から連れ出せば、どうしても人目につくでしょう」
……ああ。
こんな夜でも、四十五人が一度に移動すれば目立つ。
それに、明日の競りに関係していた人たちが、どこかで様子を見ているかもしれない。
「ですので、リアリス殿の《転移》をお借りできませんか。皆様を人目に触れさせず、リアリス殿のお宅へ保護していただきたいのです」
「……私の家へ?」
「はい。帝国側で宿泊施設を手配して大勢で移動するより、安全にお休みいただけるかと」
私は、少しだけ考えた。
ローズ帝国邸なら、寝る部屋もお風呂もある。
巴さんやメイドたちもいるから、安心して休んでもらえるはずだ。
「……うん。私の家でよければ、もちろん大丈夫だよ」
ガラントさんが、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。保護に必要な記録と、その後の手続きは帝国で責任を持って進めます」
「……うん。でも、みんなが嫌なら無理に連れていきたくないな」
「無論です。ご本人たちの意思を最優先にいたしましょう」
私は、頷いた。
……そうだね。
せっかく自由になったのに、行き先を勝手に決めるのは違う。
今夜だけでも、安心して眠れる場所を用意しよう。
「……みんなに聞いてみるよ」
私は、ガラントさんと一緒に室内へ向き直った。
◇
「みんな。もう一つ、話してもいいかな」
私は、できるだけ静かな声で言った。
誰かが、顔を上げる。
「帝国の人たちと相談して、今夜は私の家で休んでもらえたらと思ってる。ここから、人目につかずに移動できるんだ」
室内の空気が、少しだけ緊張した。
……ああ。
そりゃ、怖いよね。
知らない場所へ連れていかれるのは。
「でも、そこで働いてもらうつもりはないよ。何か命令したり、家から出られなくしたりもしない」
私は、ゆっくり言葉を続けた。
「温かい部屋と、食事と、お風呂を用意したいんだ。何をしたいかは、明日になってからゆっくり考えてくれればいい」
最前列に座っていた女性が、恐る恐る尋ねた。
「……お、お金は……」
「いらないよ」
「……働かなくても?」
「うん。今日は、休んでほしい」
女性は、しばらく私の顔を見ていた。
やがて、小さく頷く。
「……本当に、いいんですか」
「……もちろん」
◇
部屋の後ろから、別の声がした。
「……また、閉じ込められるんじゃないだろうな」
年配の男性だった。
警戒した目で私を見ている。
私は、首を横に振った。
「閉じ込めないよ。扉に鍵もかけない」
ガラントさんが、私の隣で口を開いた。
「今夜皆様を保護していただくよう、この方にお願いしたのは帝国です。子爵へ引き渡したり、新たな売買を行ったりするものではありません」
男性は、ガラントさんを見た。
帝国の宰相と知らされても、すぐには安心できないのだろう。
彼は、しばらく俯いていた。
それから、ゆっくり頷いた。
「……分かった」
私は、胸の奥で小さく息を吐いた。
……うん。
少しずつでいい。
今すぐ、全部を信じてもらう必要はないんだ。
◇
「ただ……一つだけ、お願いがあるんだ」
私が言うと、何人かが肩を強張らせた。
……しまった。
お願いって言い方も、今は怖いのかもしれない。
「ごめん。たいしたことじゃないよ。私の家へ行くとき、魔法で移動してもいいかなって」
室内が、少しざわついた。
「……魔法?」
「うん。《転移》っていう魔法で、あっという間に着けるんだ」
年配の職人が、首を傾げる。
「……お前さん、そんなことまでできるのか」
「……うん」
私は、頷いた。
「もちろん、嫌な人には無理に使わないよ。移動する前に、ちゃんと説明するから」
少しでも不安が減るように、先に帝国邸の様子を伝えた。
寝室。
浴室。
広い食堂。
それから、そこで働いているメイドたち。
みんな、きっと優しく迎えてくれる。
……うん。
それは、間違いないと思う。
◇
移動の準備をするあいだに、帝国軍の兵士がガラントさんへ報告に来た。
「宰相閣下。屋敷内にいた子爵のご家族を確認し、身柄を確保しました」
ガラントさんが、頷く。
「抵抗はありましたか」
「いいえ。皆、指示に従っております」
「分かりました。事情の聴取は別々に行いなさい。無理な取り調べは避けるように」
「はっ」
兵士が去っていく。
私は、ガラントさんを見た。
「……家族も、捕まったんだね」
「はい。まずは事情を確認する必要があります。誰が何を知っていたのか、慎重に調べます」
「……うん」
私は、頷いた。
これで、子爵の家族まで含めて帝国軍の管理下に入った。
あとは、屋敷に残された人たちと、地下の調査。
ガラントさんにお願いできる。
「……引き続き、よろしくお願いします」
私が頭を下げると、ガラントさんも丁寧に一礼した。
「お任せください」
◇
出発前に、四十五人全員の人数をもう一度確認した。
全員、ここにいる。
ただし、長いあいだ地下で過ごした人たちだ。
足元がふらつく人もいた。
誰かと離れるのが怖いのか、隣の人の袖を掴んだままの人もいる。
私は、藤たちへ声をかけた。
「無理に立たせないでね。移動する人から、少しずつ手伝ってあげよう」
「かしこまりました」
藤が頷く。
撫子と菖蒲も、それぞれのそばへしゃがんで声をかけた。
「立てそうでしょうか」
「お手をお貸しいたします」
温かな声だった。
解放された人たちが、少しずつ頷き返す。
……よかった。
みんなに手伝ってもらえて、本当に助かるよ。
◇
まず、先ほど首輪を外した年配の職人が立ち上がった。
「……俺からでいい」
「……うん。ありがとう」
私は、彼と周りにいた数人へ移動方法を説明した。
触れている人たちが、一緒に同じ場所へ移動すること。
目を閉じても開けていても大丈夫なこと。
着いたあと、まず私が安全を確認すること。
説明を聞いた男性が、少しだけ笑った。
「……ずいぶん、丁寧だな」
私は、首を傾げた。
「……そうかな」
「ああ。今まで、何も聞かずに連れていかれてたからな」
その言葉に、胸が詰まった。
私は、ただ頷いた。
「……これからは、ちゃんと話すよ」
男性は、静かに目を伏せた。
◇
最初の組には、藤が付き添ってくれた。
五、六人ずつ、手をつなぎながら移動する。
私は、全員の顔を確かめてから声をかけた。
「じゃあ、行くよ」
誰かが、小さく頷く。
「《転移》」
視界が変わった。
石造りの暗い客間から、夜風のやわらかな庭へ。
ローズ帝国邸。
玄関の灯りが、静かに地面を照らしている。
「……え?」
年配の男性が、足を止めた。
「……もう、着いたのか」
「……うん。ここが私の家だよ」
男性は、何度も振り返っていた。
ついさっきまで、地下の近くにいたはずなのに。
もう、子爵の屋敷が見えない。
……うん。
それだけでも、少し安心してもらえるといいな。
◇
玄関の扉が開いた。
現れたのは、数人の一般メイドたちだった。
彼女たちは、移動してきた人たちへ大きな声を出したりしなかった。
ただ、静かに一礼した。
「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」
年配の男性が、少し身構える。
でも、メイドは急かさなかった。
足元の段差を示し、歩ける速さに合わせて玄関へ向かう。
……ああ。
ちゃんと準備してくれていたんだね。
私は、胸の奥で感謝した。
「ここで待っててね。残りのみんなも、連れてくるから」
男性が、頷く。
「……ああ」
私は、藤へ目を向けた。
「お願いできる?」
「お任せください」
藤が、静かに一礼した。
◇
私は《転移》で子爵邸へ戻った。
次の組も、その次の組も、少人数ずつ移動した。
何度も同じ説明をした。
大丈夫だよ。
着いたら、ここで待っててね。
急がなくていいから。
怖ければ、手を握っていてもいいよ。
そのたびに、誰かが頷いた。
中には、なかなか立てない人もいた。
そういうときは、撫子や菖蒲に手伝ってもらった。
必要なら、腰掛けたまま移動できるようにした。
私が全部を抱え上げる必要はない。
ただ、その人が怖くない方法を選べばいい。
少しずつ、子爵邸の客間が空になっていく。
最後の組を帝国邸へ送り届けた頃には、夜もかなり深くなっていた。
◇
私は確認のため、子爵邸へもう一度戻った。
十五人と、三十人。
四十五人全員、帝国邸へ移動している。
ひとりも、残していない。
……うん。
よかった。
最後に客間へ残っていたのは、私と朝顔、蘭、それから帝国兵だけだった。
ガラントさんが、廊下から姿を見せた。
「リアリス殿。全員の移送が終わるところですね」
「……うん。帝国邸で、メイドたちが案内してくれてる」
「ありがとうございます。今夜はこれで、こちらの屋敷に保護対象者は残りません」
「……うん」
私は、空になった室内を見渡した。
少し前まで、怯えた顔で座っていた人たちがいた。
今は、誰もいない。
……よかった。
ここからは、もう出られない場所じゃない。
私は、ガラントさんに一礼した。
「地下の方も、お願いします」
「承知しました」
私は、蘭と朝顔へ頷いた。
「あとを、お願いね」
「かしこまりました」
私は、《転移》でローズ帝国邸へ戻った。
◇
ローズ帝国邸の庭には、もう誰も残っていなかった。
先に移動した人たちは、全員屋敷の中へ案内されたらしい。
玄関には、優しい色の灯りがついている。
私は、その下をくぐった。
子爵邸とは違う、静かな廊下。
よく磨かれた床。
かすかに、温かな湯の匂いがした。
その先から、人の話し声が聞こえてきた。
少しだけ、不安そうな声。
それに、静かに答える誰かの声。
「大丈夫よ。急がなくていいからね」
……あっ。
聞き覚えのある声だった。
巴さんだ。
◇
広い応接室へ入ると、巴さんがいた。
長い茶色の髪を三つ編みにまとめ、いつもと変わらない姿で立っている。
その周りには、先に到着した人たちがいた。
薄い服のまま肩をすくめる男性。
毛布を握りしめている女性。
椅子へ腰を下ろしても、落ち着かない様子で周囲を見ている人。
巴さんは、その一人ひとりへ目を配っていた。
「お水は飲めたかしら」
女性が、恐る恐る頷く。
「……はい」
「そう。よかった。温かいものも用意してあるから、無理のない分だけ口にしてね」
巴さんの声は、穏やかだった。
指示でも、命令でもない。
目の前にいる人が安心していいように、そっと話しかける声だった。
私は、入口で足を止めた。
……ああ。
やっぱり、巴さんはすごいな。
◇
年配の職人が、椅子から立ち上がろうとしていた。
「い、いや……俺なんかが、こんな立派なところに座ってちゃ……」
巴さんは、すぐにそばへ行った。
「いいのよ。どうぞ、座っていて」
「でも、床が汚れちまう。靴も、その……」
男性は、自分の足元を見た。
地下で履いていたままの、擦り切れた靴。
私は、彼が何を気にしているのか分かった。
ここは、床も家具も綺麗に整えられている。
自分が触れたら、叱られると思ったのかもしれない。
でも、巴さんは少しも気にしなかった。
「そんなこと、気にしなくていいの。床はあとで綺麗にできるけれど、疲れた体は休ませてあげないとね」
男性が、顔を上げた。
「……ほんとに、いいのか」
「もちろんよ。ほら、楽にして」
巴さんが、椅子の背へそっと手を添える。
男性は、しばらく迷ってから腰を下ろした。
その肩が、少しだけ下がった。
◇
「……あの」
別の女性が、巴さんへ声をかけた。
細い手で、毛布を握っている。
「こ、ここでは……何をすれば……」
「何もしなくていいのよ」
巴さんは、すぐに答えた。
女性が、驚いたように目を上げる。
「……え?」
「今夜は、ゆっくり休むことだけ考えて。明日のことは、明日になってから考えればいいの」
「……でも、働かないと……」
女性の声が震えた。
巴さんは、静かに首を振った。
「働いてもらうために、ここへ来てもらったんじゃないのよ」
私は、その言葉を聞いた。
……うん。
そうなんだ。
この人たちは、誰かのために働かされるために来たわけじゃない。
休むために来たんだ。
女性は、何か言いかけたまま俯いた。
巴さんは、答えを急がせなかった。
ただ、近くの椅子を示して、そっと頷いた。
◇
私に気づいた一般メイドが、近づいてきた。
「リアリス様。お戻りでございましたか」
「……うん。みんな、無事に着いた?」
「はい。先ほどの方々を含め、四十五名全員を確認しております」
「ありがとう」
その声を聞いた巴さんが、こちらを振り返った。
解放された人たちへ向けていた、温かな表情。
そのまま私を見ると、姿勢を正し、小さく一礼する。
「リアリス様。四十五名、全員お迎えしております」
声が、少しだけ引き締まった。
いつもの、屋敷を取り仕切るメイド長の声だ。
「休息のためのお部屋と、温かいお食事、お湯の準備を進めております。ご本人の希望を伺いながら、それぞれご案内いたします」
「……ありがとう、巴さん」
「いえ。皆様の安全とご負担の軽減を、最優先にいたします」
私は、頷いた。
この場を任せられることが、こんなにもありがたい。
……うん。
桜花のこともあるのに、みんなのことまで。
助けてもらってばかりだ。
◇
巴さんは、私の顔を一度だけ確かめた。
「桜花様のご様子に、大きな変化はございません。楓が引き続きお側についております」
「……うん。ありがとう」
「リアリス様は、こちらでのご対応を終えられましたら、桜花様のところへお戻りください」
私は、頷いた。
「……そうするよ」
巴さんは、それ以上何も聞かなかった。
私は、また一度だけ寝室の方へ目を向けた。
桜花は、今も眠っている。
でも、巴さんと楓が見てくれている。
……よかった。
ここで、私が立ち止まる必要はないんだ。
私は、改めて応接室へ視線を戻した。
四十五人を、安全に休ませよう。
◇
巴さんが、近くにいたメイドへ指示を出す。
「まずは、お体の冷えている方へ温かな飲み物を。食事は少量からでいいわ。無理に食べさせないでちょうだい」
「かしこまりました」
「入浴をご希望の方には、浴室の使い方も説明してね。今は人に触れられるのが怖い方もいらっしゃるでしょうから、お手伝いは必ず確認してから」
「承知いたしました」
メイドが去ると、巴さんは再び解放された人たちへ向き直った。
「お風呂も使えるから、入りたい人は教えてね。今夜は入らなくても大丈夫よ。お部屋で休むだけでも、もちろんいいからね」
女性たちが、互いに顔を見合わせる。
誰かが、小さく声を上げた。
「……お風呂……?」
「ええ。温かいお湯を用意してあるの」
巴さんが頷く。
「一人で入りたかったら、そうしてもいいのよ。誰かと一緒が安心なら、それも聞くわ」
女性は、目を伏せたまま頷いた。
……ああ。
ここでは、選んでいいんだね。
◇
屋敷の空き部屋には、清潔な寝具が並べられていた。
大きな部屋をいくつか使い、希望する人たちが互いに離れず休めるようにしてある。
一人で静かに過ごしたい人のためには、小さな部屋も用意されていた。
私は、巴さんと一緒に廊下を歩いた。
「全部、こんなに早く準備してくれたんだね」
「はい。リアリス様よりお知らせをいただいておりましたので、手配を進めておりました」
「……そっか」
巴さんは、寝具の状態を確かめながら続ける。
「今夜は、皆様が不安なく休めることを優先いたします。ご希望が変わった場合にも対応できるよう、空き部屋を確保してございます」
「……うん。ありがとう」
「何かお気づきの点がございましたら、お申し付けください」
私は、首を横に振った。
「……今は、任せるよ」
「かしこまりました」
その返事に、迷いはなかった。
◇
応接室へ戻ると、年配の職人が私へ声をかけた。
「……あんた」
「……ん?」
「さっきの、あの人は……」
彼の視線の先に、巴さんがいた。
女性へ毛布を渡しているところだった。
「……あの人も、あんたの仲間なのか」
「……うん。巴さんっていうんだ。私の家を取り仕切ってくれてる」
男性は、しばらく巴さんを見つめていた。
「……そうか」
それだけ呟く。
私は、少し首を傾げた。
「……どうかした?」
「いや。さっき、座ってろって言われたんだ。仕事もせんでいいって」
「……うん」
「そんなこと言われたのは、久しぶりでな」
彼は、自分の膝へ目を落とした。
首元には、もうネックレスがない。
私は、それを見て少しだけ頷いた。
「……今日は、ゆっくり休んで」
男性が、静かに頷き返す。
「……ああ」
◇
別の部屋では、湯気の立つ器が並んでいた。
濃い味の料理ではなく、体に負担の少ない温かな汁物。
小さく分けられたパン。
水と、ぬるめのお茶。
長いあいだ十分に食べていなかった人もいるだろうから、巴さんが量を調整してくれているのだろう。
私は、入口で立ち止まった。
まだ器へ手をつけられない人もいる。
誰かが食べ始めたのを見て、恐る恐る同じようにする人もいた。
メイドたちは、急かさなかった。
何か言いかけた人には、目線を合わせて話を聞く。
食べられない人には、水だけを置いて離れる。
……うん。
無理に笑顔を作らなくてもいい。
今は、温かい場所にいるだけでいいんだ。
◇
そのとき、奥に座っていた女性が小さな声を上げた。
「……すみません」
私は、顔を向けた。
女性は、器を抱えたまま震えている。
「……食べきれなくて……」
目の前には、まだ半分ほど残った汁物があった。
女性は、必死に説明しようとしていた。
「あとで……ちゃんと、食べますから……」
巴さんが、静かに近づいた。
「いいのよ。無理して食べなくて」
「……でも……」
「お腹がいっぱいなら、それでおしまい。残しても、誰も怒らないからね」
女性が、巴さんを見上げた。
「……怒られ、ない……?」
「ええ。大丈夫よ」
巴さんは、そっと頷いた。
「もう、食べられる分だけ食べていいの。お腹が空いたら、また用意するからね」
女性は、器を持つ手を緩めた。
その頬を、静かに涙が伝った。
巴さんは、何も急がせず、傍らへ椅子を寄せた。
……ああ。
ここで、ようやく泣けるようになった人もいるんだね。
◇
私は、応接室の奥へ目を向けた。
そこだけ、少し空いている席があった。
いや。
誰かが座っている。
黒い長い髪。
細い肩。
背中を丸めたまま、じっと自分の手を見つめている女性。
みんなが少しずつ話し始めても、彼女だけは動かなかった。
首のネックレスは、もう外れている。
目の前には、水と温かな飲み物。
それでも、何一つ手をつけた様子がなかった。
……大丈夫かな。
私は、声をかけようとして足を止めた。
突然、知らない男が近づいたら怖いかもしれない。
それなら。
「……杏子」
少し離れたところにいた杏子が、顔を上げた。
「はい、リアリス様」
「……あの人、見てもらってもいいかな」
杏子が、女性へ目を向ける。
「かしこまりました」
彼女は、そっと頷いた。
◇
杏子は、女性のそばへ歩いていった。
けれど、いきなり触れたりはしなかった。
椅子一つ分の距離を空けて、膝を折る。
「こんばんは」
女性は、動かない。
「私は、杏子と申します。何か、お困りのことはございませんか」
返事はなかった。
杏子は、それ以上急がなかった。
少しだけ待ってから、静かに続ける。
「お水を、こちらへ置いておきますね。飲みたくなったら、いつでもどうぞ」
女性の手が、わずかに動いた。
杏子は、それを見ても何も言わなかった。
ただ、飲み物を手の届くところへ置いた。
……うん。
今は、そのくらいでいいんだね。
◇
私は、近くの椅子へ座った。
女性の顔は、長い髪に半分隠れている。
唇の色が薄い。
体がひどく疲れていることだけは、見て分かった。
杏子が、穏やかに声をかける。
「少しだけ、お体の様子を確認してもよろしいでしょうか」
長い沈黙。
それから、女性がごく小さく頷いた。
杏子は、手を伸ばす前にもう一度確認した。
「では、手に触れますね」
女性は、抵抗しなかった。
杏子が手首へそっと触れる。
私は、彼女の様子を見ていた。
……ああ。
何をしているのか、ちゃんと説明する。
それだけのことが、この人たちには大切なんだろう。
「お疲れのご様子ですね。少し休まれませんか」
杏子が言う。
女性は、答えなかった。
ただ、視線が少しだけ動いた。
◇
「……お名前を、お聞きしてもよろしいですか」
杏子が尋ねた。
女性は、長いあいだ黙っていた。
もう答えないのかもしれない。
そう思った頃。
「……エーデル」
小さな声がした。
聞き逃してしまいそうな、かすれた声。
杏子は、すぐに頷いた。
「エーデル様、ですね」
女性が、ほんの少しだけ顔を上げた。
杏子は、穏やかに微笑む。
「教えてくださって、ありがとうございます」
それだけだった。
どこから来たのか。
どうしてここにいたのか。
家族はいるのか。
そんなことは、何も尋ねなかった。
……うん。
今は、名前を聞けただけで十分なんだね。
◇
私は、そっと杏子へ近づいた。
「……杏子。少し、お願いしてもいい?」
「はい」
「その人のそばに、いてあげてほしい。無理に話さなくていいから」
「承知いたしました」
杏子は、すぐに頷いた。
それから、私を見上げる。
「桜花様のお側は、楓が見守っております。こちらは私にお任せください」
「……ありがとう」
私は、目を伏せた。
楓なら、桜花のそばで静かに見守ってくれるだろう。
杏子は、この人のそばにいてあげられる。
……ああ。
ここに来てくれて、本当によかった。
私は、女性へ少しだけ頭を下げた。
「……エーデルさん。今夜は、ここで休んでね」
女性は、答えなかった。
私は、それ以上話しかけずに離れた。
杏子が、彼女のそばへ椅子を寄せる。
その小さな背中を見て、私は安心した。
◇
別の部屋では、入浴の順番を待つ人たちがいた。
浴室の入口には、清潔な衣服とタオルが積まれている。
女性たちの間には、まだ緊張が残っていた。
何人かが、戸口の前で足を止めている。
「……こんな綺麗な服、着ていいんですか」
誰かが、恐る恐る尋ねた。
巴さんが、優しく頷いた。
「もちろんよ。今までの服が気になるなら、ここにあるものを使ってね」
「……汚しちゃうかもしれません」
「いいの。汚れたら、洗えばいいだけよ」
女性は、布を握りしめたまま動かなかった。
巴さんは、少しだけ声を柔らかくする。
「慣れない場所で、怖いわよね。今は、できることだけでいいの。入るのが嫌なら、無理しなくても大丈夫よ」
女性は、何度も頷いた。
それから、隣にいた別の女性へ目を向ける。
小さく、声をかけた。
「……一緒に、いてくれる?」
相手も、静かに頷く。
二人は、メイドに案内されてゆっくり浴室へ入っていった。
私は、その背中を見送った。
……うん。
自分で選ぶことができる。
それが、今は一番大切なんだね。
◇
私は、巴さんのそばへ歩いた。
「……みんな、どうかな」
巴さんが、すぐに姿勢を正した。
「リアリス様。お食事を少しずつ召し上がる方が増えております。入浴は、ご希望のある方からご案内中でございます」
「……そっか」
「中には、お部屋へ入りたがらない方もいらっしゃいます。ご希望に合わせて、こちらで休めるようにもしてございます」
「ありがとう。無理はさせないでね」
「はい。皆様のお気持ちを優先いたします」
私は、頷いた。
あの人たちが、今夜ここへ来るまでのこと。
全部を知っているわけじゃない。
だから、今は何を望んでいるのか、ゆっくり聞いてあげたい。
それを、巴さんならきっとできる。
「……エーデルさんっていう人が、いるんだ」
私は、杏子のいる方へ目を向けた。
「……少し、心配で」
巴さんが、静かに頷いた。
「杏子から、状況を伺っております。無理にお話を聞き出さず、落ち着ける場所を整えます」
「……お願い」
「かしこまりました」
◇
巴さんは、廊下の先にいたメイドを呼んだ。
「杏子には、エーデルさんの様子を見てもらいましょう。ほかの方のお世話は、あなたたちで分担してね」
「かしこまりました」
「それから、お名前が分かった方のことは、本人が嫌がらない範囲で記録しておいて。今夜は無理に聞かなくていいわ」
「承知いたしました」
私は、少しだけ感心した。
四十五人もの人がいる。
それぞれ、今までいた場所も、考えていることも、違う。
誰か一人が全部を見るのは難しい。
でも、巴さんは一人ずつの様子を把握しながら、必要な仕事を割り振っていた。
……うん。
任せて、本当によかった。
私は、巴さんへ頭を下げた。
「……ありがとう」
「恐れ入ります、リアリス様」
巴さんは、静かに頭を下げ返した。
◇
少し離れたところから、子供をあやすような声がした。
「大丈夫よ。寒かったでしょう。温かくして休んでね」
見ると、巴さんがいつの間にか年配の女性へ毛布を渡していた。
その声は、さっき私に報告していたときとは違っていた。
ゆっくりと、相手の呼吸に合わせるような声。
女性は、何度も頷きながら毛布を受け取っている。
……ああ。
巴さんには、こういう優しさがあるんだよね。
それを、今この人たちは必要としている。
私は、二人の邪魔をしないように、そっと廊下へ戻った。
◇
寝室へ向かう前に、私はガラントさんへ《映像通話》をつないだ。
画面に映ったのは、少し疲れた顔の宰相だった。
『リアリス殿。ちょうど、ご報告しようとしていたところです』
「……うん。子爵邸のこと、どうなったかな」
『現場の状況について、ご報告します』
私は、姿勢を正した。
『ゴゾーラ子爵本人と、そのご家族の身柄を帝国軍で確保いたしました。屋敷内の兵士や使用人についても、順次事情を確認しております』
「……うん。ありがとう」
『地下の調査は、今夜中に終わらないでしょう。ですが、現場は完全にこちらで管理しています』
「……そっか」
私は、ほっと息を吐いた。
『保護された四十五人の方々は、いかがでしょうか』
「全員、帝国邸に着いたよ。首のネックレスも外した。今は、巴さんたちが休ませてくれてる」
ガラントさんが、静かに頷いた。
『承知しました。引き続き、よろしくお願いいたします』
「……うん」
『あとは、こちらへお任せください』
私は、短く頷いた。
「……ありがとう、ガラントさん」
通話が終わった。
◇
画面が消えると、廊下が静かになった。
窓の外には、暗い空。
帝都の方に、ぽつぽつと灯りが見える。
私は、窓辺に立ち、少しだけ考えた。
……終わったんだね。
子爵邸での仕事は。
まだ、調べなくちゃいけないことはたくさんある。
亡くなった人たちのことも。
誰が何を知っていたのかも。
でも、ここからはガラントさんたちが引き受けてくれる。
私が今できることは、もうほとんどない。
……うん。
だったら、次のことをしよう。
クオシンさんにも、報告しなくちゃいけない。
◇
私は、《映像通話》を使った。
相手は、クオシンさん。
今回のことを一緒に調べてくれた人だ。
いくら彼が私を嫌っているとしても、何も知らせずに終わらせるわけにはいかない。
しばらくして、画面が開いた。
『……リアリスか』
いつもの、不機嫌そうな声だった。
「……うん。夜遅くにごめんね」
『こんな時間に何の用だ』
「……ゴゾーラ子爵のことで、報告があるんだ」
クオシンさんの目が、わずかに鋭くなった。
『……何だ』
「子爵邸へ入ったよ。地下にいた四十五人は、全員助け出した」
画面の向こうで、クオシンさんが黙った。
私は、続ける。
「首のネックレスも外した。今は、帝国にある私の屋敷で休んでもらってる」
『……そうか』
短い返事だった。
◇
「ゴゾーラ子爵は、帝国軍が身柄を確保したよ。家族のことも、ガラントさんが調べてくれてる」
『……俺のいないところで、全部片づけたってわけか』
クオシンさんの声には、棘があった。
……うん。
そう言われると思った。
「……ごめんね。まず、みんなを助けたかったんだ」
『ふん』
彼は、腕を組んだ。
でも、そのまま通話を切ることはしなかった。
『……四十五人は、無事なんだな』
「……うん。みんな生きてる」
クオシンさんは、少しだけ目を伏せた。
『……なら、いい』
その言葉に、私は静かに頷いた。
「……協力してくれて、ありがとう。クオシンさんが調べてくれなかったら、間に合わなかったと思う」
『……礼を言われる筋合いはねぇ』
ぶっきらぼうな返事だった。
私は、それ以上何も言わなかった。
◇
少しの沈黙のあと、クオシンさんが尋ねた。
『……それで、お前は』
「……ん?」
『いや。何でもねぇ』
彼は、何か言いかけて口を閉じた。
私は、少しだけ不思議に思った。
でも、今は聞かなかった。
「……また、ちゃんと報告するよ」
『ああ。勝手にしろ』
「……うん。ありがとう」
通話が切れた。
私は、しばらく暗くなった画面を見つめていた。
クオシンさんの声は、最後まで不機嫌だった。
でも、四十五人が無事だと聞いたときだけ、少しだけ違っていた気がする。
……うん。
あの人も、奴隷制度を嫌っていたんだよね。
それは、本当だったんだ。
◇
私は、桜花の寝室へ向かった。
扉の前へ立つと、ちょうど楓が出てきた。
「……楓」
彼女は、小さく頷いた。
「……桜花、眠ってる」
「……そう」
私は、一度だけ目を閉じた。
「体は、大丈夫?」
「……うん。呼吸、安定」
「……ありがとう。ずっと、見ててくれたんだね」
楓は、私を見上げた。
何も言わなかった。
ただ、私の袖を一度だけ掴んだ。
それから、そっと離した。
……ああ。
心配してくれてるんだね。
「……私は大丈夫だよ」
楓は、小さく頷いた。
私は、扉を開けた。
◇
桜花は、寝台の上で静かに眠っていた。
銀色の髪が、白い枕へ広がっている。
胸が、小さく上下している。
……うん。
呼吸してる。
私は、寝台のそばへ座った。
「……桜花」
返事はない。
それでも、さっきまでとは違う。
私は、その手をそっと握ることができた。
温かい。
いつもどおりの、桜花の手だ。
目を覚ましたら、まず何を話そう。
……いや。
今は、そんなことを考えなくてもいいか。
まずは、ゆっくり休んでほしい。
私は、指先をそっと離した。
◇
扉が叩かれた。
「リアリス様。巴でございます」
「……入って」
巴さんが、静かに入ってきた。
彼女は寝台の方を見てから、私へ一礼した。
「保護された四十五名の皆様につきましては、全員の所在を確認しております。ご希望に合わせて、お部屋へご案内を進めております」
「……ありがとう。エーデルさんは?」
「杏子が付き添っております。今は静かな部屋でお休みいただけるよう、準備しております」
「……そっか」
私は、頷いた。
巴さんは、少しだけ間を置いて続ける。
「リアリス様。こちらの対応は、引き続き私どもにお任せください」
「……うん」
「桜花様を、シルク王国邸へお連れになるのでしょうか」
「……そうしようと思ってる」
「承知いたしました。こちらでは、皆様が安心して夜を過ごせるよう、責任を持って対応いたします」
私は、巴さんを見た。
「……お願いね」
「はい。お任せください」
◇
私は、桜花の体をそっと抱き上げた。
もう、傷はない。
呼吸も、穏やかだ。
でも、まだ意識は戻らない。
頭が揺れないように、腕の位置を確かめる。
いつもなら、私を守るために隣へ立ってくれる人。
今日は、私がこの腕で支えている。
……桜花。
もう少しだけ、眠っていていいよ。
私は、巴さんへ向き直った。
「……みんなを、お願い」
「かしこまりました、リアリス様」
その声は、静かで、確かだった。
楓が、扉のそばで私たちを見送っている。
私は、ゆっくり頷いた。
「《転移》」
◇
景色が変わった。
シルク王国邸。
慣れた廊下。
窓の外には、静かな夜が広がっている。
メイドが私たちに気づいて、そっと道を開けてくれた。
「お帰りなさいませ、リアリス様」
「……ただいま」
私は、声を落として答えた。
カトレアは、もう眠っているだろう。
あの子が心配しないように、今夜は静かにしていよう。
廊下を進み、寝室へ入る。
寝台へ桜花を横たえ、掛け布団を直した。
銀色の髪を、そっと枕へ広げる。
桜花は、まだ目を閉じている。
……ああ。
ここへ帰ってきたんだね。
◇
私は、寝台のそばへ椅子を置いた。
もう、子爵邸へ戻る必要はない。
四十五人の首輪は、全部外した。
ガラントさんたちが、事件を調べてくれている。
ローズ帝国邸では、巴さんたちがみんなを見守ってくれている。
……うん。
今夜は、ここにいよう。
私は、桜花の手にそっと触れた。
温かかった。
「……おやすみ、桜花」
返事はなかった。
でも、確かな寝息が聞こえていた。
私は、その音を聞きながら、静かに椅子へ座った。




