第6話:暴走と絶望
――轟音。
私が斬ったものの向こうで、執務室の壁が吹き飛んだ。
厚い石壁が一瞬で砕け、金色の飾りと窓枠が宙を舞う。
破片が庭へ降り注ぎ、夕暮れの光と埃が室内になだれ込んできた。
何かが倒れる音。
誰かの悲鳴。
そして。
「リアリス様っ!」
牡丹の叫びが、すべての音を押しのけた。
私は、刀を握ったまま立っていた。
何を斬ったのか、分からなかった。
さっきまで目の前にいたのは、ゴゾーラ子爵だったはずだ。
その男へ、全力で刃を振った。
なのに、今。
私の前に倒れているのは――。
「……桜花?」
銀色の髪が、砕けた床へ広がっていた。
◇
刀が、手から滑り落ちた。
からん。
その音だけが、妙にはっきり聞こえた。
桜花が動かない。
両腕を広げて、私の前に飛び込んできた桜花が。
あんなに近くで私を呼んでいた桜花が。
「……桜花?」
私は、膝をついた。
目の前の光景が、理解できなかった。
いや。
理解したくなかったのかもしれない。
彼女の体には、決してあるはずのない傷があった。
《絶対防御》がある。
《不老不死》もある。
私が、この手で与えたものだ。
どんな危険からも守れるように。
……なのに。
「桜花!」
私は、その体に手を伸ばした。
温かい。
まだ、温かいのに。
呼びかけても返事がない。
いつもなら、必ず「はい、リアリス様」と答えてくれるのに。
◇
「リアリス様!」
牡丹が、もう一度呼んだ。
私は顔を上げた。
牡丹は、倒れたゴゾーラ子爵と私との間に立っていた。
子爵は、崩れた壁のそばで動かなくなっている。
全力の斬撃が壁を吹き飛ばした、その衝撃で気を失ったようだった。
私は、一度だけその姿を見た。
牡丹が、静かに言った。
「リアリス様。子爵は私が見張ります」
私は、牡丹を見た。
彼女の声は、いつもどおり落ち着いていた。
「今は、桜花様を」
その一言で、私は我に返った。
……そうだ。
何をしてるんだ、私。
桜花が、目の前にいる。
私が助けなきゃいけないのは、桜花だ。
◇
「《完全回復》!」
私は、桜花へ魔法を使った。
何度も人を助けてきた魔法。
どんな傷も、失われた手足も、元どおりにしてきた魔法。
なのに。
何も、起こらなかった。
傷は、そのままだった。
「……え?」
私は、もう一度桜花へ手を向けた。
「《完全回復》!」
変わらない。
さっきと、何も。
私は、桜花の顔を見た。
青白く見えた。
返事はない。
息遣いも、聞こえない。
……どうして。
私の《完全回復》なら、治せるはずなのに。
その考えを追いかけて、私はようやく思い出した。
《完全回復》は、生きている人を治す魔法だ。
心臓が動き、呼吸がある相手なら、失われた体も元に戻せる。
だけど。
もう、呼吸していない相手には――。
「……嘘だ」
声が、かすれた。
◇
《不老不死》。
桜花には、それがある。
私が初めて彼女を作ったとき、永続的に付与した魔法。
魔力がなくなっても、消えない。
死んでしまっても、完全な状態へ戻してくれる。
そういう力のはずだった。
……だから。
だから、戻るはずだ。
私は桜花の名前を呼んだ。
「桜花。ねえ、桜花」
返事はない。
傷も、そのまま。
《不老不死》が働いた様子は、どこにもなかった。
何度か呼びかけてから、私は自分の両手を見た。
……何で。
どうして、何も起きないの。
《絶対防御》は、私の一撃を防げなかった。
だったら、《不老不死》まで……?
そこまで考えて、私は首を振った。
違う。
まだ、決まっていない。
何も、決まっていない。
そう思おうとしたけれど、胸がうまく息を吸ってくれなかった。
◇
杏子が、壊れた扉の方から駆け込んできた。
「桜花様!」
普段は静かな彼女の声が、ひどく鋭かった。
すぐに膝をつき、桜花の顔を覗き込む。
私の手が震えていることに気づいたのだろう。
杏子は、少しだけ私を見た。
「リアリス様。桜花様のお体は、私が支えます」
「……うん」
私は、うまく返事ができなかった。
杏子は慌てなかった。
桜花を動かすときも、傷に負担がかからないよう、できる限り静かに手を添えていた。
その姿を見て、ようやく気づいた。
私は何度も回復魔法を唱えた。
けれど、目の前の桜花をどう支えればいいのかさえ、考えられなくなっていた。
……だめだ。
こんなときにまで、みんなに頼りきりで。
私はもう一度、桜花の手に触れた。
「……お願いだから」
続く言葉が、声にならなかった。
◇
外から風が吹き込んだ。
壁があった場所には、夕暮れの空が見えている。
下の庭では、砕けた石の欠片がまだ転がっていた。
たった一振り。
私は、あの一振りでここまで壊した。
誰かが私を攻撃したわけじゃない。
桜花が敵だったわけでもない。
私が、勝手に怒って。
私が、勝手に刀を振った。
そして、桜花を斬った。
私は、彼女の手を握った。
小さくて、いつも温かい手。
今は、私の指を握り返してくれない。
「……ごめん、桜花」
それだけ言った。
もう一度謝れば何かが変わるような気は、しなかった。
変えなければならないのは、私の方だ。
でも。
まずは、桜花に戻ってきてほしかった。
◇
「……リアリス様」
杏子が、静かに呼んだ。
「こちらをご覧ください」
私は、顔を上げた。
桜花の体の周囲に、ごく薄い光が集まり始めていた。
最初は、夕日の反射かと思った。
でも、違う。
光は、傷のある場所から少しずつ広がっていった。
……あっ。
私は、息を止めた。
白く柔らかな光。
それは、かつて私が桜花に与えた魔法の気配だった。
「……《不老不死》」
声が、こぼれる。
光は、少しずつ強くなっていた。
欠けた部分が戻っていく。
失われたものが、元の形を取り戻していく。
こんなふうに発動するのを見るのは、初めてだった。
……ああ。
よかった。
まだ、終わってなかった。
◇
回復は、ゆっくりと進んだ。
普段の《不老不死》なら、死を迎えた瞬間に完全な状態へ戻るはずだ。
それなのに、今回は違った。
私の攻撃が、あまりにも強すぎたのだろうか。
《絶対防御》を打ち破るほどの威力が、回復の発動まで遅らせたのかもしれない。
断言はできない。
ただ、目の前で起きていることは確かだった。
私は、桜花のそばから動かなかった。
杏子も、じっと見守っている。
光が消えかけるたびに、胸が跳ねた。
しかし、やがてそれは安定し、最後には一つの光となって桜花を包み込んだ。
そして。
光が、静かに消えた。
桜花の体は、元の姿へ戻っていた。
傷は、跡形もなく消えている。
白い肌。
真っ直ぐに切り揃えられた銀色の髪。
見慣れた、桜花の姿だ。
◇
「……桜花!」
私は、顔を覗き込んだ。
桜花の胸が、小さく上下している。
呼吸している。
……生きてる。
私は、震える手を伸ばし、その頬へ触れた。
温かい。
確かに、温かかった。
「……桜花。聞こえる?」
返事はない。
まぶたも、開かない。
「……桜花?」
私は、もう一度呼んだ。
胸は動いている。
呼吸も、戻っている。
なのに、目を覚まさない。
杏子が、静かに桜花の様子を確かめた。
「リアリス様。呼吸は安定しております」
「……うん」
「お体の損傷も、見当たりません」
「……うん」
私は、ゆっくり頷いた。
それでも、桜花は動かなかった。
戻ってきてくれた。
けれど、いつもの笑顔はまだ見せてくれなかった。
◇
私は、手を桜花へ向けた。
今なら、生きている。
呼吸も、心臓も動いている。
「……《完全回復》」
今度は、魔法の光が桜花を包んだ。
きちんと発動した。
それでも、桜花のまぶたは動かなかった。
体は、もう治っているのだ。
それが分かるほど、ほかに何をすればいいのか見えなくなる。
私は、桜花の手をそっと置いた。
「……ありがとう、杏子」
自分の声が、少しだけ戻ってきた。
「この子を、静かなところへ運ぼう」
「かしこまりました」
私は、床に落ちた刀へ目を向けた。
もう、二度と手に取りたくないと思った。
それでも、屋敷に放置するわけにはいかない。
私は、《収納》へしまった。
乾いた金属音が消えると、部屋が急に静かになった。
◇
「牡丹」
私は、ようやく彼女の名前を呼べた。
「はい、リアリス様」
牡丹は、気絶したゴゾーラのそばを離れなかった。
子爵は、壊れた壁から離れた床に横たえられている。
呼吸はしているが、目を覚ます気配はなかった。
「……子爵を、お願いできる?」
「もちろんでございます」
「二度と、ここから逃がさないで。でも、傷つけないでほしい」
牡丹は一度だけ頷いた。
「承知いたしました」
その返事を聞いて、私は目を閉じた。
さっき、この部屋に入ってきたときも、牡丹が子爵を押さえてくれていた。
なのに、私は。
彼女の声を聞くことさえしなかった。
「……牡丹。さっきは、ごめんね」
「リアリス様」
牡丹が私を見た。
彼女の表情は普段と変わらない。
けれど、声は少しだけ硬かった。
「お話は、後でもできます」
私は、顔を上げる。
「今は、桜花様をお休ませください」
……ああ。
そうだね。
「……うん。ありがとう」
牡丹は、子爵の体勢を静かに整え、逃走できないよう両腕を押さえた。
ゴゾーラは、まだ意識を取り戻さなかった。
◇
杏子が、桜花のそばにしゃがんだまま言った。
「リアリス様。桜花様をお運びする前に、衣服をご用意してもよろしいでしょうか」
私は、そこでようやく気づいた。
《不老不死》が戻したのは桜花の体だ。
傷ついた衣服まで元に戻ったわけではない。
「……もちろん。ありがとう」
私は《収納》から、清潔な布と柔らかな上着を取り出した。
杏子は手早く桜花を包み、傷んだ衣服が外から見えないように整えてくれた。
こういうとき、私はいつも何かを作ることばかり考えてしまう。
でも、今必要だったのは、桜花が寒くないようにしてあげることだった。
「少し、支えますね」
杏子が静かに声をかける。
桜花は、答えない。
それでも杏子は、普段の仕事と同じ丁寧さで扱っていた。
……うん。
桜花は、ここにいる。
私たちの声が届いているかどうかは分からないけれど。
大切にしよう。
今、できることを。
◇
壊れた壁の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。
「リアリス様!」
聞き覚えのある声。
蘭だった。
彼女の後ろには朝顔もいる。
二人は崩れた壁を見て一瞬足を止め、それから室内を見渡した。
「外周を確認しておりました。大きな音がしましたので……」
蘭の言葉が途切れた。
杏子に支えられた桜花を見たからだろう。
私は、ゆっくり頷いた。
「……私が、やったんだ」
蘭は、何も言わなかった。
朝顔が静かに近づく。
「桜花様は……」
「《不老不死》で、体は元に戻った。呼吸もしてる」
自分で口にすると、その事実が少しだけ胸に落ちた。
「でも、まだ意識が戻らないんだ」
朝顔が、桜花の顔を確かめた。
「承知いたしました」
それ以上は聞かなかった。
蘭がすぐに周囲へ目を向ける。
「リアリス様。庭に落ちた壁の破片は、私たちが確認いたします」
「……お願い。ほかに怪我をした人がいないか、見てきてほしい」
「かしこまりました」
蘭が走り出す。
朝顔も後へ続いた。
……ありがとう。
私が取り乱していたあいだも、みんなは自分の仕事を続けていた。
◇
私は、壁のあった場所へ近づいた。
執務室の外側が、大きくえぐれている。
外壁がなくなった部分から、庭の木が見えた。
夕日は、もう建物の向こうへ沈みかけていた。
……たった一撃で。
石の壁が、これほど簡単に消し飛んだ。
桜花の《絶対防御》すら砕いたのだから、当然なのかもしれない。
でも、私には当然と思えなかった。
自分がやったことなのに。
私は、壁の縁から視線を外した。
「……リアリス様」
杏子が声をかける。
「桜花様を先に、お屋敷へお戻ししてもよろしいでしょうか」
「……うん。そうしよう」
帝国邸なら、清潔な寝室がある。
巴さんやほかのメイドたちにも、助けてもらえる。
こんな埃だらけの部屋で、休ませるべきじゃない。
私は、桜花の手を取り直した。
彼女は、まだ眠ったままだった。
◇
そのとき、小さな足音が聞こえた。
「……桜花」
短い声。
振り返ると、楓が立っていた。
橙色の短い髪。
いつもどおり、表情は落ち着いている。
ただ、視線が杏子の腕の中にいる桜花から動かなかった。
「楓……」
私は、喉が詰まるのを感じた。
どこから説明すればいいんだろう。
どうして、こうなったのか。
全部、私のせいなのに。
「……意識」
楓が、小さく尋ねた。
「……まだ、戻ってない」
私が答えると、楓は頷いた。
「……運ぶ」
それだけだった。
「……お願い、できる?」
「……うん」
杏子がそっと桜花の体を持ち上げる。
楓は、小柄な体でそれを静かに受け取った。
普段の姿からは想像できないほど、力強く、安定した抱き方だった。
桜花の頭が揺れないように、片腕を首の下へ添える。
もう片方の腕で、体をしっかり支える。
私は、その姿を見つめた。
……ありがとう、楓。
声にすると、また何かがこぼれてしまいそうだった。
◇
「まず、帝国邸へ戻ろう」
私は、楓と杏子に言った。
それから、牡丹へ向き直る。
「牡丹。子爵の見張りを続けてもらえる?」
「はい。お任せください」
「皇帝の人たちが来るまで、絶対に外へ出さないでね」
「承知いたしました」
ゴゾーラは、気を失ったまま動かなかった。
私は、その姿へ一度だけ目を向け、すぐに桜花へ視線を戻した。
私が何をしたか。
桜花が何をしてくれたか。
それを忘れたくなかった。
「牡丹。何かあったら、すぐに連絡してね」
「はい」
私は、楓の腕の中にいる桜花へ目を向けた。
「……行こう」
《転移》で移動できるよう、楓と杏子へ手を添える。
景色が変わった。
◇
次の瞬間、私たちはローズ帝国邸の庭にいた。
屋敷の窓から、温かな灯りがこぼれている。
空には、夕暮れと夜が混じっていた。
普段なら、ここへ戻るときは必ず「ただいま」と声をかける。
今日は、その言葉を言う余裕がなかった。
庭にいた一般メイドが、こちらへ駆け寄ってくる。
「お帰りなさいませ、リアリス様」
そして、楓の腕の中を見た。
「……桜花様?」
「……寝室を、お願いできるかな」
私が言うと、メイドはすぐに頭を下げた。
「かしこまりました。こちらへ」
誰も、大声を出さなかった。
桜花が意識を失っていると分かっても、慌てずに道を開けてくれた。
……ああ。
本当に、みんなに助けられているね。
私は、楓の後ろを歩きながらそう思った。
◇
寝室には、綺麗に整えられた寝台があった。
いつも桜花が私のために整えてくれているのと、同じように。
真っ白なシーツ。
柔らかな枕。
薄い掛け布団。
楓が桜花をそっと下ろした。
杏子が、ずれていた布を直す。
一般メイドが、水と清潔なタオルを運んできてくれた。
私は、寝台のそばへ座った。
……桜花。
髪が枕へ広がっている。
体に傷はない。
呼吸も、安定している。
それなのに、目を開けない。
楓が小さく言った。
「……生きてる」
「……うん」
「……待つ」
私は、楓を見た。
彼女は、まっすぐ桜花を見ていた。
……そうだね。
今は、待つしかないのかもしれない。
でも、さっきまでの待つこととは違う。
桜花は、生きている。
その事実だけは、確かだった。
◇
杏子が、寝台のそばへ椅子を置いた。
「リアリス様。こちらでお休みください」
「……ありがとう」
私は、椅子へ座った。
桜花の顔を見つめる。
少しだけ、呼吸が深くなったように感じた。
その変化に気づけただけで、ほっとする。
楓は、部屋の隅へ控えていた。
杏子は、一般メイドへ必要なものを伝えている。
……うん。
私は、何かを言おうとした。
けれど、うまくまとまらなかった。
代わりに、桜花の髪をそっと撫でた。
いつもなら、くすぐったそうに目を細めてくれるのに。
今日は、まだ動かない。
私は、手を止めた。
「……帰ってきたよ、桜花」
静かな部屋に、声だけが残った。
◇
どれくらい座っていただろう。
廊下から、控えめな足音が近づいてきた。
扉が叩かれる。
「リアリス様。入室してもよろしいでしょうか」
巴さんの声だった。
「……うん」
扉が開くと、巴さんが入ってきた。
シルク王国邸にいたはずの彼女が、どうしてここに。
そんなことを考えるより先に、巴さんの目が寝台の方へ向いた。
「……桜花様」
落ち着いた声が、そこで一瞬だけ途切れた。
巴さんは、寝台へ近づいて桜花の顔を覗き込んだ。
しばらく、何も言わない。
それから、手を取って呼吸を確かめた。
「……呼吸は、ございますね」
「……うん」
私は、頷いた。
「《不老不死》で、体は戻ったんだ。でも、まだ起きなくて」
巴さんは、私の顔を見た。
それから、桜花の呼吸をもう一度確かめる。
「……承知いたしました」
それだけ言って、そっと掛け布団を直した。
巴さんは、何があったのかを尋ねなかった。
普段とは違う私の様子を、もう察してくれたのだろう。
「リアリス様」
「……うん」
「桜花様のことは、私どもにお任せください」
私は、顔を上げた。
「……でも、まだ目を覚まさないんだ」
「はい。ですから、私がこちらでお守りいたします」
巴さんは、桜花の手をそっと包んだ。
「何かあれば、すぐにご報告いたします。こちらは私どもにお任せいただき、リアリス様は今なさるべきことをなさってください」
私は、寝台の上の桜花を見た。
静かな寝息が聞こえる。
そのそばには、巴さんがいる。
……ああ。
任せて、いいんだ。
私は、ゆっくり立ち上がった。
「……分かった。桜花をお願いするね」
「はい。どうぞお任せください」
巴さんは、私を見送るように小さく頷いた。
私は、もう一度だけ桜花の顔を見て、部屋を出た。
◇
帝国邸の玄関で、蘭からの連絡を受けた。
壁の破片が落ちた場所には、人がいなかったらしい。
庭を確認した結果、ほかに怪我をした人もいない。
外周の《結界》も、まだ保たれているとのことだった。
私は、胸を撫で下ろした。
「……よかった」
もう一つ、誰かを傷つけていたら。
そんな想像が頭をよぎる前に、私は首を振った。
まずは、確認できた事実を受け取ろう。
怪我をした人はいない。
それは、よかったことだ。
ただ、壊れた壁はそのまま残してある。
私が何をしたのかを、皇帝にも見てもらわなくちゃいけない。
勝手に直せば済む話ではない。
「……あとで、きちんと説明しよう」
私は、小さく呟いた。
そして、子爵邸の庭を思い浮かべた。
「《転移》」
◇
子爵邸の庭へ戻ると、空はすっかり暗くなっていた。
あちこちに灯りがともされている。
門の近くでは、蘭と朝顔が見張りを続けていた。
「リアリス様」
蘭が、すぐに頭を下げる。
「お帰りなさいませ」
「……ただいま。みんな、ありがとう」
朝顔が、私を見た。
「桜花様は、いかがでしょうか」
「体は完全に戻ったよ。呼吸もしてる」
私は、はっきり答えた。
「でも、まだ目を覚まさないんだ。今は巴さんたちが見てくれてる」
蘭と朝顔は、静かに頷いた。
「承知いたしました」
それだけだった。
誰も、どうしてそうなったのかを尋ねなかった。
……ああ。
でも、隠しておくことでもない。
「……私が、斬ったんだ」
私は、二人の顔を見た。
蘭の目がわずかに動いた。
朝顔は、何も言わない。
「あとで、みんなにも話す。まずは、今ここにいる人たちを守ろう」
二人が、揃って頷いた。
「かしこまりました」
◇
広い客間には、保護した四十五人がいた。
入ってすぐ、私は足を止めた。
何人かが椅子へ座っている。
床に座り込んだままの人もいる。
水を飲んでいる人。
小さく声をかけ合っている人。
窓辺で、じっと外を見ている人。
……うん。
全員、ここにいる。
藤が、私の方へ歩いてきた。
「リアリス様。皆様にお水と軽食をお渡ししております。具合の悪い方については、撫子と菖蒲が付き添っております」
「ありがとう」
私は、室内を見回した。
女性の一人が、私と目を合わせた。
すぐに俯いてしまう。
……ああ。
まだ、怖いんだね。
そりゃ、そうだ。
牢から出られたからといって、すぐに安心できるわけじゃない。
私は、藤へ小さな声で言った。
「急がなくていい。まずは、誰も怖い思いをしないようにお願い」
「承知しております」
◇
客間の奥には、年配の男性が座っていた。
地下で話した職人の一人だ。
私が近づくと、彼はゆっくり立ち上がった。
「……あんた」
「うん」
「さっき、大きな音がしただろう」
……ああ。
聞こえていたんだね。
「……ごめん。私が壊したんだ」
男性は、目を見開いた。
私は、続けた。
「でも、ここには危険が及ばないようにしてある。今、門の方もみんなが見張ってくれてるよ」
男性は、私の顔を見た。
しばらくして、静かに頷いた。
「……そうか」
それから、声を落とす。
「俺たちは……まだ、ここから出られないのか?」
「……もう少しだけ、待ってほしい」
私は、正直に答えた。
「皇帝の人たちへ引き継ぐ準備をしているんだ。みんなが安全に移動できるようにしたい」
男性は、何か言いかけた。
けれど、結局小さく頷いた。
「……分かった」
私は、その目を見て言った。
「必ず、ここから出すよ」
今度こそ、守れる約束をしたかった。
◇
首元には、あのネックレスが残っていた。
ほかの人たちも、同じものをつけている。
……そうだったね。
地下から出しても、まだ完全に自由になったわけじゃない。
私は、そのことも忘れないようにした。
ただ、今ここで全員の首元に触れて回るのは、怖がらせるかもしれない。
ネックレスに何が仕込まれているのかも、まだ詳しく確かめていなかった。
まずは、皇帝の人たちと話し、全員を安全な場所へ移せるようにしよう。
それから、一人ずつ、ちゃんと外してあげたい。
「……あんたたち、何者なんだ」
男性が、ぽつりと尋ねた。
私は、少し迷った。
「……困ってる人を、助けたかった人たちだよ」
男性は、すぐには答えなかった。
それから、疲れたように笑った。
「……変な奴らだな」
「……そうかもしれないね」
私は、ほんの少しだけ笑った。
今度は、無理に作った笑顔ではなかった。
◇
部屋の反対側では、菖蒲が女性たちへ水を配っていた。
撫子は、少し具合の悪い人の背中を支えている。
私は、その様子を見てから、女性たちへ目を向けた。
知らない男に近づかれたくない人もいるだろう。
だから、無理に声をかけることはしなかった。
代わりに、撫子へそっと尋ねた。
「みんな、必要なものはあるかな」
「温かい飲み物と、休める場所をご希望の方が多くいらっしゃいます」
「……そっか」
「中には、お話をすること自体が難しい方も」
私は、頷いた。
「無理に聞かなくていいよ。明日でも、明後日でも、その人が話せるときでいい」
「かしこまりました」
そのとき、隅に座っていた女性が、そっと顔を上げた。
長い黒髪。
細い肩。
何かを言おうとして、結局口を閉じてしまう。
私は、その姿を見て一度だけ頷き返した。
それ以上は、近づかなかった。
……うん。
ここから先は、安心できる時間が必要なんだ。
◇
藤が、入口の方へ戻ってきた。
「リアリス様。使用人の方々についても、皆様お部屋でお待ちです」
「……ありがとう。怪我をした人はいない?」
「はい。何名か、気が動転しておられましたが、ご負傷はございません」
「よかった」
私は、ゆっくり息を吐いた。
ゴゾーラの屋敷にいたからといって、全員が同じ罪を犯したわけじゃない。
それに、怖くて命令に逆らえなかった人もいるかもしれない。
だから、その人たちまで恐怖で押さえつけたくなかった。
「もう少し、待っててもらおう。帝国の人たちが来たら、ちゃんと話を聞いてもらえるようにするから」
藤が頷いた。
「かしこまりました」
私は、彼女の後ろに見える廊下へ目を向けた。
先ほど、私たちがここへ来たときには、屋敷じゅうが怒鳴り声でいっぱいだった。
今は、静かだ。
その静けさの中で、みんながそれぞれの仕事を続けている。
……うん。
まだ、終わってないんだね。
◇
私は、もう一度二階へ向かった。
執務室の前には、先ほどの騒ぎを聞きつけた使用人が数人集まりかけていた。
けれど、菖蒲が穏やかに声をかけると、みんなすぐに待機部屋へ戻っていった。
「ご心配をおかけしております。こちらは、私どもが確認いたします」
菖蒲は、頭を下げる。
私は、廊下の壁に手をついた。
あの扉を開ければ、ゴゾーラがいる。
桜花を斬った場所も、そこにある。
……行こう。
私が壊したものを、見ないふりにはできない。
扉の向こうからは、誰の怒鳴り声も聞こえなかった。
私は、静かに息を吸った。
私は、扉を開けた。
◇
壁のなくなった執務室には、夜風が吹き込んでいた。
机の上に積まれた書類が、風でめくれそうになっている。
牡丹はゴゾーラの両腕を押さえ、部屋の中央に立っていた。
彼女の足元には、砕けた石と木の欠片が転がっている。
私は、まず牡丹へ声をかけた。
「長い間、ありがとう」
「いえ」
牡丹が、静かに首を横に振る。
「桜花様は、いかがでしょうか」
「体は元に戻った。今は帝国邸で眠ってるよ」
牡丹の肩が、ほんの少しだけ下がった。
「……何よりでございます」
その返事を聞いて、私は彼女もずっと心配していたのだと気づいた。
でも、仕事を放り出さなかった。
私が取り返しのつかないことをしたあとも、子爵を守りながら拘束してくれていた。
……本当に、ありがとう。
◇
ゴゾーラは、意識を失ったままだった。
呼吸は安定しているが、目を覚ます様子はない。
私は、牡丹を見た。
「……ずっと、このまま?」
「はい。先ほどから、意識は戻っておりません」
「……そう。帝国軍に引き渡すまで、お願いできる?」
「もちろんでございます」
牡丹は、静かに頷いた。
私は、ゴゾーラの顔へそれ以上目を向けなかった。
今の私が、話すべき相手ではない。
◇
風が強くなる前に、机の書類を押さえておく必要があった。
ただし、中身を勝手に片づけるのは避けたかった。
誰が何を記録していたのか、あとで皇帝側が調べるための手がかりになるかもしれないからだ。
私は、何も持ち去らず、書類が飛ばないよう重しを置いた。
壊れた壁の付近には、危険がないよう別の立ち入り禁止の《結界》を設けた。
近づけないようにするだけで、壊れた部分を消したりはしない。
……うん。
この部屋も、現場なんだね。
壁がなくなった理由を、私は説明しなければならない。
桜花を斬ったことも。
自分が怒りに任せて力を振るったことも。
それは、子爵の罪とは別の話だ。
私は、壊れた窓枠へ目を向けた。
埃が少しずつ落ち着き、床の石片が見えてきた。
ここに残っているものは、全部私がしたことの痕跡だ。
……隠すつもりはなかった。
◇
地下の奥にあった部屋についても、改めて確認した。
今度は、私一人では入らなかった。
藤と菖蒲に同行してもらった。
奥の檻の扉は、まだ開いている。
冷たい空気。
湿った石の床。
そこで、私は立ち止まった。
さっき、あの部屋で何を見たのか。
思い出す必要はなかった。
目の前に、答えがある。
でも、今度は刀を取り出さなかった。
私は、静かに頭を下げた。
助けられなかった人たちへ。
名前も知らない人たちへ。
「……遅くなって、ごめんなさい」
それだけ言って、顔を上げた。
藤が、そっと隣へ立つ。
「リアリス様。こちらは、私たちが見守ります」
「……お願い」
「勝手に何かを動かすことはいたしません。皇帝陛下の方々がいらしたら、こちらをご案内いたします」
私は、頷いた。
……そうだね。
この人たちがここにいたことを、誰にもなかったことにはさせたくない。
◇
広間へ戻る途中、私はあの地下のオークション会場を通った。
整えられた椅子。
客人のために用意された壇。
磨かれた床。
昨日なら、これを見るだけでまた腹が立っただろう。
今も、怒りは残っている。
でも、今日は一つずつ見た。
椅子が何脚あるのか。
どこが入口なのか。
地下へ降りる階段が何本あるのか。
どの部屋とつながっているのか。
あとで調べる人たちが、迷わずたどり着けるように。
……今の私にできることは、そのくらいだ。
会場の入口では、菖蒲が見取り図に通路の位置を書き加えていた。
「こちらから、奥の檻へ続いておりますね」
「うん。ほかにも横道があるから、そこも忘れずに」
「承知いたしました」
私は、図面を見た。
正確なものではない。
でも、何もないよりはいい。
まずは、分かったことから残しておこう。
◇
地下の見張りだった二人は、まだ廊下で拘束されていた。
彼らは、私を見ると顔を青くした。
片方が小さく尋ねた。
「……俺たちは、どうなる」
私は、足を止めた。
「……帝国の人たちに、話をしてもらうよ」
「俺は命令されただけだ! 何も好きであんな場所の見張りをしてたわけじゃない!」
男の声が震えていた。
私は、静かに聞いた。
「……そう」
その言葉だけでは、何も分からない。
本当に命令に逆らえなかったのかもしれない。
知っていて協力していたのかもしれない。
どちらも、今の私には判断できなかった。
「でも、そこに閉じ込められていた人たちは、外へ出たいと思っていたはずだよ」
男が、顔を伏せた。
私は、それ以上責めなかった。
責めることが目的じゃない。
何が起きたのかを、正しく残すことが先だ。
◇
屋敷の地上へ戻ると、蘭が近づいてきた。
「リアリス様。外周に異常はございません」
「ありがとう」
「また、兵士の皆様は全員、武器を手放しておられます。逃走を試みた方はおりません」
私は、頷いた。
「うん。皇帝の人たちが来るまで、そのままお願い」
「かしこまりました」
私は、周囲を見回した。
封鎖のための《結界》。
窓の向こうの灯り。
庭の片隅に落ちた、私の斬撃の破片。
この屋敷で起きたことは、まだ終わっていない。
帝国の法で裁かれるべき人がいる。
保護された人たちがいる。
そして、取り戻せない命がある。
私は、胸の奥で静かに思った。
……ここから先を、勝手に一人で決めないようにしよう。
◇
屋敷の一室を借りて、《映像通話》を使った。
相手は、ヴァリロッサ皇帝。
もう夜になっていたけれど、知らせないわけにはいかない。
しばらくして、画面が開く。
『……リアリスか』
皇帝は、私の顔を見た瞬間に表情を変えた。
『何があった』
普段の豪快な声とは違う。
短く、低い声だった。
「……ゴゾーラ子爵の屋敷を、封鎖したよ」
『そうか』
「地下から、四十五人を保護した。男が十五人、女が三十人。クオシンさんが聞いた人数と同じだった」
皇帝の眉が、わずかに動く。
『……全員、生きているんだな』
「うん。四十五人は、全員無事だよ」
皇帝が、小さく息を吐いた。
『……よくやった』
私は、頷くことができなかった。
まだ、話が終わっていないからだ。
◇
「……でも、皇帝」
私は、続けた。
「地下の奥に、ほかの人たちがいたんだ」
『……何だと』
「……遺体だった」
画面の向こうが、静かになった。
隣にいたガラントさんが、一歩前へ出る。
『場所は、子爵邸の地下ですか』
「うん。競りの会場の、そのさらに奥。檻の中にいた」
ガラントさんは、静かに頷いた。
『承知しました。遺体と現場は、そのままにしておいていただけますか』
「うん。藤たちに見張ってもらってる。誰にも触らせてないよ」
『ありがとうございます』
皇帝が、拳を握っていた。
『……ゴゾーラは』
「生きてる。私の斬撃の衝撃で気を失って、まだ目を覚まさない。牡丹が二階の執務室で見張ってる」
皇帝が、私を見た。
『……そうか』
その目が、少しだけ鋭くなった。
『リアリス。ほかにも、何かあったな』
◇
私は、一度だけ息を吸った。
「……私が、暴走した」
皇帝も、ガラントさんも黙っていた。
「遺体を見て、頭に血が上って……ゴゾーラを殺そうとしたんだ」
声が、思ったより落ち着いて出た。
私は、そのまま続ける。
「全力で刀を振った。子爵を止めてくれていた牡丹は避けたけど、桜花が割って入ってきて」
そこで、一瞬言葉が詰まった。
それでも、最後まで言った。
「……桜花を、斬ってしまった」
画面の向こうで、皇帝が目を見開いた。
ガラントさんも、片眼鏡に手を添えたまま動かなかった。
「執務室の外壁も、壊したよ。人がいないことは確認した。でも、現場はそのまま残してる」
私は、皇帝を見た。
「……私がやったことだ。隠さずに報告しておきたい」
◇
『……桜花は、どうなった』
皇帝の声は、先ほどよりさらに低かった。
「……《不老不死》が発動して、体は完全に戻った。呼吸もしてる」
『……そうか』
「でも、意識が戻らない。帝国邸で、巴さんたちが見てくれてる」
皇帝は、しばらく黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
『……まず、生きていると聞けてよかった』
私は、何も答えられなかった。
『お前が何をしたかについても、あとで話を聞く』
「……うん」
『だが、今、俺がお前に頼みたいのは一つだ』
皇帝は、まっすぐ私を見た。
『保護した者たちを、俺の兵が到着するまで守っていてくれ』
「……分かった」
『ゴゾーラも逃がすな。処断するかどうかは、調べたうえで決める』
「……うん」
私は、深く頷いた。
今度は、迷わず返事ができた。
◇
ガラントさんが、画面越しに一礼した。
『リアリス殿。子爵邸への帝国軍の派遣を手配いたします』
「……お願いします」
『私も現場へ参ります。保護された方々の身元確認と、屋敷の捜索を進める必要がございますので』
「うん。見つけたものは、なるべくそのままにしてある。地下への道も分かるようにしておいたよ」
『それは助かります』
ガラントさんは、少しだけ表情を緩めた。
『ただし、リアリス殿』
「……ん?」
『桜花殿のお傍にいるべきとお考えなら、そのようになさってください。現場の管理は、引き継げます』
私は、少し考えた。
……ありがたい。
でも、今はまだ、自分がここを離れるわけにはいかない。
少なくとも、帝国の人たちへちゃんと引き継ぐまでは。
「……みんなが安全に引き継げるまで、ここにいるよ」
『承知いたしました』
皇帝が、最後に言った。
『リアリス。今は、四十五人を頼む』
「……うん」
通話が終わった。
◇
光が消えたあとも、私は少しだけ椅子に座っていた。
皇帝に、全部話した。
桜花を斬ったことも。
壁を壊したことも。
ゴゾーラを殺そうとしたことも。
……うん。
これで、もう隠すことはない。
あとは、自分にできることを続けよう。
私は、椅子から立ち上がった。
扉を開けると、廊下で朝顔が待っていた。
「リアリス様。何かお手伝いできることはございますか」
私は、少しだけ考えた。
「……皇帝の人たちが来ることになったよ。入口へ案内ができるように、門の準備をお願いしていいかな」
「かしこまりました」
朝顔が、静かに一礼する。
その姿を見送ってから、私は廊下の窓へ目を向けた。
夜の帝都は、静かだった。
あの大通りの向こうでは、もう家族の夕食が終わっているだろうか。
……帰りたい。
そんな思いが、ふと胸に浮かんだ。
でも、ここでやることを終わらせてからだ。
◇
夜の門へ向かうと、蘭が兵士たちの配置を確認していた。
子爵の兵士たちは、すでに武器を取り上げられている。
門の外へ出ようとしても《結界》に阻まれるため、無理に押さえつけておく必要はない。
ただし、何人かは縄で拘束したままだ。
私は、立ち止まって蘭へ尋ねた。
「皇帝の人たちが来たら、私が《結界》の通行対象を調整するよ。到着したことを教えてね」
「承知いたしました」
朝顔も、一歩前へ出た。
「それまでは、私どもで外周を見守ります」
「ありがとう」
私は、門柱へ目を向けた。
夕方、ここで最初の二人を《完全拘束》した。
そのときは、こんな夜になるなんて思ってもいなかった。
……いや。
危険があることは、分かっていたはずだ。
それでも、桜花が斬られることだけは想像していなかった。
私は、一度だけ目を閉じた。
そして、蘭へ向き直る。
「何かあったら、すぐ呼んでね」
「はい、リアリス様」
私は、門から離れた。
◇
廊下の途中で、撫子に会った。
彼女は、毛布を何枚も抱えていた。
「リアリス様」
「……撫子。何か手伝おうか」
私が尋ねると、撫子は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます。ですが、こちらは私どもで対応できます」
「……そっか」
「保護した方々が、夜になって寒がっていらっしゃいますので」
……ああ。
地下は、ずいぶん冷たかった。
あの人たちは、薄い服しか着ていなかった。
だから、余計に寒さが身に染みるのだろう。
「《収納》に、毛布ならまだあるよ」
私は、いくつか取り出した。
普段、旅のために用意していたものだ。
撫子が、静かに受け取る。
「ありがとうございます。皆様へお渡ししてまいります」
私は、頷いた。
それから、ふと思った。
この屋敷には、金で飾られた部屋がいくつもある。
なのに、地下にいた人たちへ渡す毛布一枚を惜しんでいた。
そんな場所で、誰かが一人ずつ毛布を渡している。
……今は、そのことが何より大切に思えた。
◇
広い客間へ戻ると、先ほどよりも少し落ち着いた空気があった。
誰かが温かな飲み物を口にしている。
別の人は、毛布に包まれて目を閉じていた。
それでも、扉が開くたびにびくりと肩を揺らす人がいる。
私は、入口で足を止めた。
ここへいる人たちにとって、自由はまだ遠い。
彼らは、私の名前すら知らない。
信じていい相手なのか、分からなくて当然だ。
私は、無理に中へ入らず、藤へ声をかけた。
「帝国の人たちが来ることになったよ」
藤が頷いた。
「承知いたしました」
「何も知らない人を、いきなり大勢の兵士の前へ連れ出すのは怖いと思う。まずは、誰が来るのか、ゆっくり説明してあげてほしい」
「かしこまりました」
「それから、話をしたくない人に無理に何か聞かないでね」
藤が、ほんの少しだけ目を細めた。
「そのようにいたします」
私は、室内をもう一度見た。
何人かが、静かにこちらを見ていた。
私は、ゆっくり頭を下げた。
声を出す人はいなかった。
けれど、誰かが小さく頷いた気がした。
◇
子爵の執務室には、まだ牡丹がいた。
少し前とは違い、彼女は子爵を壁から離れた場所へ移し、両腕を押さえている。
壊れた外壁には《結界》を張ったため、風も直接は入らなくなっていた。
ゴゾーラは、まだ気絶していた。
牡丹が体勢を整えてくれているため、倒れたままでも危険はない。
私は、子爵の呼吸が続いていることだけを確かめた。
私は、牡丹へ近づいた。
「大丈夫?」
「はい」
「ずっと一人で見張ってもらって、ごめんね」
「問題ございません」
牡丹は、いつもと同じ声で答えた。
私は、少しだけ迷ってから言った。
「……さっき、牡丹の前で刀を振ったことも、ちゃんと覚えてる。怖い思いをさせたね」
牡丹が、私を見た。
「私のことは、お気になさらないでください」
「……うん」
「ですが」
そこで、彼女は少しだけ言葉を切った。
「桜花様が目を覚まされたら、リアリス様からお話しなさってください」
私は、まっすぐ頷いた。
「……そうするよ」
◇
階段を下りながら、私は自分の腰に刀がないことを確かめた。
《収納》には、しまってある。
取り出そうと思えば、いつでも取り出せる。
それが、少し怖かった。
力を持っていることは、危険なことじゃない。
けれど、力を使う自分が、何を考えているのか。
それを見失えば、あんなことになる。
昨日、桜花が教えてくれたことだった。
私は、一度だけ深く息を吸った。
今、同じことを繰り返さないためにできることは、はっきりしている。
もう、誰かの命を奪うために力を使わないこと。
助けを待っている人を、まず助けること。
その順番を、忘れないこと。
……うん。
言葉にするのは簡単だ。
でも、今度は言葉だけで終わらせたくなかった。
◇
《映像通話》で、巴さんにも連絡を取った。
画面が開くと、いつもの落ち着いた顔が映った。
『リアリス様』
「……桜花は?」
私が聞くと、巴さんは静かに答えた。
『桜花様は、まだお休みになっております』
「……そう」
『呼吸は安定しており、お体にも異常は見られません。楓と杏子が交代でお側についております』
「……ありがとう」
私は、ほっと息を吐いた。
目を覚ましてはいない。
でも、悪くなっているわけでもない。
それだけで、今は十分だった。
『そちらの状況はいかがでしょうか』
「皇帝に報告したよ。ガラントさんと帝国軍が来てくれることになった」
『承知いたしました。帝国軍が来てくださるのであれば、安心でございます』
「私は、みんなを引き継いだら帰るよ」
巴さんが、穏やかに頷いた。
『かしこまりました。桜花様のことは、どうぞ私どもにお任せください』
少しの沈黙。
それから、巴さんが付け加えた。
『カトレア様には、まだ詳しい事情をお伝えしておりません。今夜はシルク王国邸で、普段どおりお過ごしいただいております』
……ああ。
そうしてくれたんだね。
「……ありがとう、巴さん」
『はい。こちらは私が責任を持ってお預かりいたします』
私は、静かに頷いた。
◇
通話を終えると、廊下の向こうから足音がした。
朝顔が、急いでこちらへ来る。
「リアリス様。外から、帝国軍の方々と思われる一団が近づいております」
……あっ。
来てくれたんだ。
私は、窓へ近づいた。
門の向こうには、いくつもの灯りが見えた。
整った足音。
甲冑の金属が触れる音。
……うん。
皇帝が、約束どおり動いてくれた。
「ありがとう。門へ行こう」
「かしこまりました」
私は、朝顔と一緒に廊下を進んだ。
途中で、蘭も合流した。
楓は桜花のそば。
杏子も、巴さんたちと一緒にいる。
ほかのみんなは、それぞれの場所で誰かを守っている。
……本当に、頼もしい子たちだね。
私は、門を見た。
皇帝の人たちへ引き継ぐ。
そのあとは、桜花のところへ帰ろう。
◇
門の向こうに、帝国軍の旗が見えた。
私が立ち止まると、蘭が静かに声をかけてくれた。
「リアリス様。通行のご準備は、よろしいでしょうか」
「……うん」
私は、《結界》の条件を確かめた。
まだ、この屋敷の中にいる者が勝手に外へ出ることはできない。
それは変えない。
ただ、今から来る帝国軍の人たちには、安全に入ってもらう必要がある。
私は、通行を許す相手だけを調整した。
門を守る兵士たちは、驚いた様子でこちらを見ている。
でも、私は彼らに話しかけなかった。
代わりに、蘭と朝顔へ頷いた。
「……これで大丈夫」
二人が、一礼する。
外で、誰かが門を叩いた。
私は、その音を聞いた。
ようやく、この屋敷を誰かに引き継げる。
そして。
桜花のもとへ、帰れる。
……早く、目を覚ましてほしいな。
その願いだけが、今は静かに胸に残っていた。




