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第5話:ゴゾーラ子爵邸を封鎖せよ

 夕暮れの帝都は、いつもどおり賑やかだった。


 遠くで店じまいをする商人の声がする。


 買い物を終えた人たちが、家路を急いでいる。


 夕食の支度をしているのだろう。通りの向こうから、焼いた肉の匂いが漂ってきた。


 ……ああ。


 もう、こんな時間なんだね。


 きっと、今夜もこの街のあちこちで、家族が食卓を囲む。


 今日あったことを話して、笑って、明日の予定を決める。


 私が望んでいたのは、そういう日常だった。


 だけど。


 この帝都には、家へ帰れない人たちがいる。


 誰かに値段をつけられて、明日の夜には別の場所へ連れていかれるかもしれない人たちがいる。


 私は、前を見た。


 高い塀に囲まれた、豪華な屋敷。


 ――ゴゾーラ子爵邸。


 その門を見つめながら、握り締めていた手をゆっくり開いた。


 ……うん。


 まずは、四十五人を助けよう。


     ◇


 少し時間を戻そう。


 帝国邸の応接室には、桜花とフラワーズ八人が集まっていた。


 楓、藤、杏子、蘭、牡丹、撫子、菖蒲、朝顔。


 いつもそれぞれの屋敷を守ってくれている、小さくて頼りになる家族たちだ。


 ……ああ。


 海ではみんなで遊んでいたのにね。


 あのときは、砂のお城を作ったり、魚を眺めたり。


 こうして並んでいると、少し前の平和な時間を思い出す。


 でも、今日は遊びに行くわけじゃない。


「みんな、最後に確認させてね」


 私が言うと、八人が静かに頷いた。


 桜花は、私の隣に立っている。


「今日の目的は、屋敷を壊すことでも、誰かを懲らしめることでもない」


 一度、息を吸った。


「地下にいる四十五人を、全員無事に助け出すこと。そのために、屋敷の中を安全に押さえたい」


「承知いたしました」


 藤が、丁寧に答える。


 ほかの子たちも頷いた。


「それから、もし私の判断がおかしいと思ったら、必ず言ってほしい」


 桜花が、静かにこちらを見る。


「……はい」


 昨夜、私のために涙を流した桜花。


 その顔を、私はまだ覚えている。


 ……今度こそ。


 大丈夫だと思いたかった。


     ◇


 私は、机の上に紙を広げた。


 屋敷の外側を、覚えている範囲で描いた見取り図だ。


 大きな門。


 広い庭。


 左右へ延びる廊下がありそうな建物。


 ただし、内部の間取りまでは分からない。


 それは、実際に入ってから確かめるしかない。


「まず、門にいる兵士を止める。そのあと《結界》で屋敷の敷地全体を封鎖するよ」


 私は、紙の上で指を動かした。


「誰も外へ逃がさない。外からも、勝手には入れないようにする」


 蘭が頷く。


「内側から門を開けようとしても、通れない状態にするのですね」


「うん。門だけじゃなくて、塀を越えても出られないようにする」


 ここで、《結界》が役に立つ。


 侵入を防ぐための魔法だけど、対象の通行を制限することもできる。


 今回は、あらかじめ一緒に入る私たちを除いて、外への移動を遮る。


 それなら、誰かが裏門から抜け出しても追いかけ回す必要はない。


 ……うん。


 まず、逃げ道を塞ぐ。


 そのあとで、落ち着いて屋敷の中を調べよう。


     ◇


「楓、蘭、朝顔。三人には武装している兵士の制圧をお願いしたい」


 蘭が一礼する。


「かしこまりました」


 朝顔も、小さく頷いた。


「無傷での制圧を優先いたします」


 楓は、短く言った。


「……任せて」


「ありがとう」


 私は、三人を見た。


 普段の仕事では、みんな表情がほとんど変わらない。


 でも、どの子も十分に強い。


 普通の兵士たちが相手なら、危険な目に遭うことはないだろう。


 むしろ、力加減が大事だ。


「怪我をさせないようにね。剣を抜いても、命までは取らないでほしい」


「承知いたしました」


 蘭が答え、楓と朝顔も頷いた。


 ……うん。


 この三人なら、安心して任せられる。


     ◇


「藤、撫子、菖蒲は、屋敷の使用人とメイドたちをお願い」


 藤が、静かに顔を上げた。


「皆様を、一か所へお集めすればよろしいでしょうか」


「うん。危険がない部屋を見つけて、そこへ集まってもらってほしい。ただし、罪人と決まったわけじゃないから、乱暴に扱わないでね」


「承知いたしました」


 撫子が続ける。


「抵抗される方がいた場合は?」


「もし武器を持って抵抗する人がいたら、みんなで武器を取り上げて、安全な場所で押さえておいてほしい。力加減には気をつけてね」


 菖蒲が頷いた。


「事情を知らずに怯えている方も、いらっしゃるかもしれませんね」


「……そうなんだよ」


 私は、改めて三人を見た。


「そこは、気をつけてほしい。屋敷にいるだけで悪い人だとは限らないから」


 藤が、小さく頭を下げた。


「かしこまりました。皆様の安全を優先いたします」


 ……うん。


 ありがとう。


     ◇


「牡丹には、ゴゾーラ子爵を押さえてほしい」


 牡丹が、前へ出る。


「承知いたしました」


 薄い赤色の髪が、少しだけ揺れた。


「見つけたら、牡丹が直接両腕を押さえて、逃げられないようにしてほしい。力を入れすぎて怪我をさせないようにね」


「はい。決して逃がしません」


 その言葉は、静かだった。


 でも、いつもより少しだけ強く聞こえた。


「ただし、殴ったり、必要以上に痛めつけたりはしないでね」


 私は、付け加えた。


「子爵には、聞きたいことがある。まだ証拠を確かめていないこともあるし、皇帝にも引き渡さなくちゃいけない」


 牡丹が、私の目を見た。


「……リアリス様も、でございますか」


 ……え?


 私は、一瞬言葉に詰まった。


 昨日の自分を思い出した。


 子爵を殺したいと、何度も口にしていた自分。


 ……ああ。


 そうだよね。


 心配になるのも、当然だ。


「……うん。私も」


 私は、はっきり答えた。


「私も、手を出さない。まずは四十五人を助ける」


 牡丹は、一度だけ深く頷いた。


「承知いたしました」


     ◇


「桜花と杏子は、私と一緒に地下へ行ってほしい」


 杏子が、静かに一礼する。


「かしこまりました」


 桜花も、私を見た。


「……はい。ご一緒いたします」


「ただし、最初から地下の場所が分かっているわけじゃない。屋敷の中で入口を探そう」


「承知しております」


 ここで、楓が小さく手を挙げた。


「……配置」


「ん?」


「裏口。二つ?」


 ……おっ。


 私は、紙の屋敷を見た。


「確かに、裏口は一つとは限らないね。使用人が出入りする場所もあるだろうし」


 楓が頷いた。


「……見つける」


 ……ああ。


 そういうことか。


「ありがとう。見つけたら、そこも確認してくれる?」


「……はい」


 楓は、それだけ答えて元の位置に戻った。


 いつも口数が少ないのに、必要なところをちゃんと見てくれる。


 ……やっぱり、天才なんだね。


     ◇


 最後に、私は全員を見た。


「繰り返すけど、無理に戦わなくていい。相手を殺して解決するために行くんじゃないんだ」


 みんなが、静かに頷く。


「《完全拘束》を使うのは門兵だけ。それ以外の兵士はみんなで武器を奪って押さえる。子爵は牡丹に任せて、外への逃げ道は《結界》で塞ぐ。それから、地下の人たちを安全な場所へ」


 桜花が、私の隣でゆっくり頷いた。


「リアリス様。皆、理解しております」


「……うん」


 私は、息を整えた。


 準備は、できた。


 皇帝にも報告してある。


 クオシンさんも、証言と招待状を引き受けてくれた。


 ここから先は、私たちの仕事だ。


「……じゃあ、行こうか」


 八人が、一斉に頭を下げた。


「かしこまりました」


     ◇


 《転移》で移動した先は、子爵邸から少し離れた細い路地だった。


 私と桜花、そしてフラワーズ八人。


 合わせて十人。


 夕日が建物の屋根を赤く染めていた。


 屋敷の方向からは、人の声がほとんど聞こえない。


 貴族の屋敷が並ぶ静かな一角だ。


 私は、周囲を確認した。


 通行人はいない。


 馬車の音も、遠い。


 ……うん。


 ここなら、目立たずに動ける。


「まずは、門のところへ行こう」


 私は、小さく言った。


 桜花が頷き、みんなが静かについてくる。


 誰も、余計な話をしなかった。


 その沈黙が、普段の賑やかな家とはずいぶん違って感じられた。


 ……ああ。


 本当に、ここへ来たんだね。


     ◇


 門の向こうには、二人の兵士が立っていた。


 以前、クオシンさんが訪問したときと同じ場所だ。


 立派な鎧。


 腰には剣。


 ふたりは、こちらへ近づいてきた小さな一団を不審そうに見た。


「何者だ!」


 片方が声を上げる。


「子爵閣下にご用か!」


 私は、立ち止まった。


 ……うん。


 いきなり襲いかかるのは、違う。


「私たちは、子爵邸の中を調べに来たんだ」


 兵士が、顔をしかめた。


「……何?」


「中に閉じ込められている人がいるかもしれない。確認したいんだ」


 その言葉を聞いた瞬間、片方の兵士が剣の柄へ手を伸ばした。


「……貴様! 何を知っている!」


 ……あっ。


 その反応は、少し気になるね。


 私は、静かに息を吸った。


「《完全拘束》」


 兵士の体が、その場で止まった。


 剣へ伸ばしかけた手も、動かない。


 もう一人が、慌てて後ずさる。


「な、何をした!」


「大丈夫。怪我はしていないよ」


 私は、もう一度魔法を使った。


「《完全拘束》」


 二人目も、その場で動けなくなった。


 ……うん。


 これなら、誰も傷つけずに済む。


     ◇


 桜花が、門兵の様子を確認した。


「リアリス様。お二人とも、ご負傷はございません」


「ありがとう」


 私は、門の奥を見た。


 庭は広い。


 奥には、金色の飾りが施された大きな屋敷。


 以前と同じ景色だ。


 ただし。


 今日は、そこへ入る。


「……みんな。少し下がっていてね」


 私が言うと、フラワーズが数歩後ろへ動いた。


 私は、敷地全体を思い浮かべた。


 門から裏庭まで。


 屋敷も、庭も、塀も。


 敷地の外へ誰も逃げられないように。


 ただし、私たちの移動は妨げない。


「《結界》」


 目にはほとんど見えない、薄い光が広がった。


 門柱の上を越え、壁の向こうへ。


 屋敷全体を包み込むように、大きな範囲が閉じていく。


 ……うん。


 これでいい。


 誰かが別の出口から逃げようとしても、外へは出られない。


 周囲の家や通行人を巻き込まないように、境界は敷地の内側に収めてある。


     ◇


「……封鎖完了」


 楓が、小さく言った。


 ……おっ。


 見ただけで分かるんだ。


 私は、頷いた。


「うん。これで、外へ逃げることはできないよ」


 蘭が、屋敷の奥へ目を向ける。


「リアリス様。北側の廊下に、武装した方の気配がございます」


「……分かった。じゃあ、みんな、予定どおりに」


 楓、蘭、朝顔が前へ進んだ。


 藤、撫子、菖蒲は反対側へ。


 牡丹は、屋敷の中心へ向かう。


 桜花と杏子は、私の隣に残った。


「危ないと思ったら、すぐに知らせてね」


 私は、全員へ声をかけた。


 八人が、一度だけ振り返る。


 それから、静かに頷いた。


 ……うん。


 頼んだよ。


     ◇


 敷地へ入ってすぐ、屋敷の中から怒鳴り声が聞こえた。


「門が開かんぞ!」


「どうなっている!」


 ……ああ。


 気づいたんだね。


 《結界》に触れた誰かが、慌てているのだろう。


 その声と同時に、屋敷の大きな扉が開いた。


 数人の兵士が飛び出してくる。


「侵入者だ!」


 ……おっと。


 さっそく、来たね。


 先頭の兵士が、剣を抜いた。


 その瞬間。


 橙色の髪が、視界の端を横切った。


 楓だった。


 音もなく、兵士の前へ立つ。


「……やめて」


 その声は、小さかった。


 だが、兵士は止まらない。


「どけ、小娘!」


 剣が振り上げられた。


 ……危ない。


 そう思った次の瞬間には、剣が兵士の手から消えていた。


 いや。


 楓が、取り上げていたんだ。


 ……速いね。


 兵士は、自分の手を見て目を丸くした。


     ◇


「……な、何を――」


 兵士が言い終える前に、蘭が静かに近づいた。


「お怪我をなさらないよう、動かないでください」


「ふざけるな!」


 横にいた別の兵士が、槍を突き出す。


 蘭は、その穂先をわずかに逸らした。


 槍が石畳を叩く。


 続けて、兵士の腕を軽く押さえただけで、槍は地面へ落ちた。


 ……おお。


 力の差が大きすぎるね。


 朝顔は、もう一人の兵士の背後へ回っていた。


「抵抗をおやめください」


「ひっ!」


 兵士が振り返る。


 けれど、武器を構える前にその場へ座り込んでしまった。


 朝顔は、静かに手を差し伸べている。


 ……ああ。


 怪我は、してないみたいだ。


 蘭と朝顔が、兵士たちの腕を傷つけないように押さえた。


 楓は、落とされた武器を素早く遠ざけている。


 私は《収納》から丈夫な縄を取り出し、三人が押さえてくれている間に兵士たちの手を縛った。


 剣や槍は、私がまとめて《収納》へしまった。


 ……うん。


 まずは、順調だね。


     ◇


 その頃、屋敷の西側から甲高い声が響いた。


「いったい、何事ですの!」


 扉が開き、数人の使用人が飛び出してきた。


 年配の執事。


 若いメイド。


 台所の方から来たらしい料理人。


 みんな、突然の騒ぎに顔を青くしている。


「侵入者だと聞きましたが……!」


 執事が声を上げた。


 そこへ、藤が静かに歩み寄る。


「ご安心ください。皆様へ危害を加えるつもりはございません」


「何を言っている! 勝手に入っておきながら!」


 執事は、怯えを隠すように声を張り上げた。


 藤は、穏やかなままだった。


「恐れ入りますが、安全のため、こちらの部屋へお入りください」


 撫子と菖蒲が、その後ろへ回る。


 逃げ道を塞ぐためではなく、人が押し合って怪我をしないように誘導するためだ。


「どうか、落ち着いてください」


 菖蒲が声をかける。


 若いメイドの一人が、震える声で尋ねた。


「……わ、私たち、殺されるのですか?」


 ……ああ。


 そんなふうに思わせてしまったんだね。


     ◇


 私は、すぐにそちらへ向かった。


「違うよ。誰も殺すつもりはない」


 メイドが、こちらを見た。


「……本当、ですか?」


「うん。約束する。危険なことをしなければ、怪我もさせない」


 私は、目を合わせて答えた。


 その子は、何度か頷いた。


 でも、まだ足が震えていた。


「急に怖い思いをさせて、ごめんね」


 私が言うと、執事が顔をしかめた。


「謝って済むと思っているのか!」


 ……そうだね。


 私たちが勝手に入ってきたのは、事実だ。


「……済まないと思ってる。でも、ここに閉じ込められている人がいるかもしれないんだ」


 私がそう言った瞬間、執事の顔から血の気が引いた。


 ……おや。


 私は、その反応を見た。


「……ご存じなの?」


「し、知らん!」


 即答だった。


 声が、少し裏返っている。


 ……うん。


 気になるけど、今は問い詰めないでおこう。


「話は後で聞くから。藤たちと一緒に、部屋で待っていてね」


 藤が頭を下げる。


「こちらへどうぞ」


 使用人たちは、静かに誘導されていった。


     ◇


 西側の広い客間が、臨時の待機場所になった。


 窓は閉め、廊下への出口には撫子と菖蒲がつく。


 誰かが勝手に飛び出して戦いに巻き込まれないようにするためだ。


「皆様には、ここでお待ちいただきます」


 撫子が、落ち着いた声で説明した。


「水が必要な方や、ご気分の悪い方がいらっしゃいましたら、お申し出ください」


 使用人たちは、互いの顔を見合わせた。


 まさか、侵入者が水の心配をするとは思わなかったのだろう。


 料理人の一人が、小さく声を出した。


「……私たちは、どうなるんでしょう」


 藤が答える。


「皆様に何の責任があるかは、まだ分かりません。ですから、今は安全な場所でお待ちください」


 ……うん。


 それでいい。


 少なくとも、罪を決めつけるのは私たちの仕事じゃない。


 帝国の皇帝が、あとで判断してくれる。


     ◇


 その間にも、屋敷の中では兵士たちが走り回っていた。


 大きな廊下。


 左右に並ぶ部屋。


 派手な絵画と、金色の飾り。


 私は、桜花と杏子を連れて奥へ進んだ。


 壁に並んだ絵を見て、少しだけ顔をしかめる。


 ……どこまでお金をかけてるんだろう。


 立派な屋敷に住むことが悪いとは思わない。


 お金があれば、好きなものを買うのも自由だ。


 ……でも。


 この屋敷の主は、人を売ってお金を稼いでいる。


 そう聞かされたあとでは、壁の飾りまで違って見えた。


「リアリス様」


 桜花が、小さく呼んだ。


「……うん」


「こちらの廊下に、武装した方が二名」


 ……あっ。


 考え事をしている場合じゃないね。


 私は、前を見た。


 二人の兵士が、剣を構えてこちらを睨んでいた。


「そこで止まれ!」


 ……うん。


 まずは、落ち着いて。


「剣を下ろして。怪我はさせたくないんだ」


 だが、二人の兵士は剣を構えたまま近づいてきた。


 その瞬間、桜花が一歩踏み込む。


 一人目の剣を持つ手首を押さえ、もう一人の剣も刃が私へ向かないように取り上げた。


「……なっ!」


「何だ、この力は!」


 二人が振りほどこうとしても、桜花の手はびくともしない。


「怪我はさせないよ。少しの間、ここで待っていてね」


 私は二人の剣を《収納》へしまい、手首を縄で縛った。


 桜花が、兵士たちに怪我がないことを確かめる。


 杏子は、廊下の奥を見ていた。


「リアリス様。あちらに、下り階段がございます」


 ……おっ。


「ありがとう。行ってみよう」


     ◇


 階段を下りると、そこは大きな食料庫だった。


 棚には、瓶詰めや穀物。


 天井には、吊るされた乾燥肉。


 ……ああ。


 普通の貯蔵庫だね。


 地下への入口といっても、必ずしも怪しい場所につながっているわけじゃない。


「……こちらではないようです」


 杏子が、静かに言った。


「うん。別の場所を探そう」


 私は、階段を戻った。


 途中で、壁の向こうから足音が聞こえる。


 近くに、まだ兵士がいるのだろう。


 ……でも。


 今日は、力で壊しながら進む必要はない。


 もう少し、落ち着いて探そう。


     ◇


 反対側の廊下では、楓が一人の兵士の前に立っていた。


 兵士は、大きな盾を持っている。


「くそっ! 何なんだ、お前は!」


 楓は、答えなかった。


 ただ、盾の下へ手を伸ばす。


 次の瞬間、盾がふわりと床へ倒れた。


 楓は兵士の剣も取り上げていた。


 兵士は、空になった両手を見つめている。


「……降参」


 楓が、一言だけ告げた。


「……わ、分かった!」


 兵士が、両手を上げた。


 余計なことをせず、必要なことだけしている。


 私は《収納》から縄を取り出し、楓が見守る中、降参した兵士の手首を縛った。


 ……うん。


 これで、この人も武器を取れないね。


     ◇


 そのとき、蘭が廊下の角から現れた。


「リアリス様。西側と北側の兵士は、ほぼ制圧いたしました」


「ありがとう。怪我は?」


「皆様、ご無事でございます」


 ……よかった。


 私は、思わず息を吐いた。


「朝顔は?」


「東側の確認へ向かっております。楓も、そちらを調べておりました」


 楓が、小さく頷いた。


「……裏口」


「見つかった?」


「……二つ。封鎖中」


 ……ああ。


 最初に気にしていた、裏口のことだね。


「ありがとう。さすが楓」


 楓は、ほんの少し目を細めた。


 それだけだった。


 ……うん。


 褒められても、普段どおりだね。


     ◇


 ――その頃、屋敷の別の一室では。


 牡丹が、金の装飾に囲まれた執務室の扉を開けていた。


「な、何だ、貴様は!」


 部屋の奥で、大きな腹を揺らして立ち上がったのは、ゴゾーラ子爵だった。


 指にはいくつもの宝石。


 高価な衣服に、濃い香水。


 子爵は、目の前に現れた小柄な少女を見て、すぐに顔を真っ赤にした。


「わしを誰だと思っておる! 無礼者め、さっさと出ていかんか!」


「ゴゾーラ子爵閣下。申し訳ございませんが、しばらくこちらでお待ちください」


 牡丹は、落ち着いた声で答えた。


 しかし、子爵は聞く耳を持たなかった。


「小娘が! わしに指図するな!」


 太い腕が、振り上げられる。


 牡丹を叩こうとした、その瞬間。


 牡丹の手が、子爵の手首を掴んだ。


「……なっ!」


 もう一方の腕も押さえ、両腕を背中側へ回す。


 子爵が大きな体を揺すっても、牡丹の指はびくともしなかった。


「は、放せ! わしに触れるとは何事だ!」


「お怪我をさせるつもりはございません。どうか、抵抗なさらないでください」


 牡丹は、必要以上の力を加えずに、両腕を押さえ続けた。


 子爵が何度怒鳴っても、誰かが助けに来る気配はない。


 門は封じられ、屋敷の兵士たちも、すでに武器を失っていた。


 牡丹は、子爵をその場から逃がさなかった。


     ◇


 その頃、私は桜花と杏子を連れて、東側の廊下を進んでいた。


 角を曲がると、朝顔が待っていた。


「リアリス様。東側の武装した方々も、制圧いたしました」


「ありがとう。怪我をした人はいなかった?」


「はい。皆様、ご無事です」


 ……ああ。


 よかった。


 今のところ、誰も死んでいない。


 兵士たちにも、使用人にも。


 それを聞くだけで、少しだけ胸が軽くなる。


「それで、地下へ通じる入口を探してるんだけど……」


 朝顔が、廊下の向こうを指した。


「東側の階段の下に、閉ざされた扉がございました。ただ、普通の倉庫とは違う造りのようです」


 それは、気になる。


「案内してくれる?」


「かしこまりました」


 私たちは、朝顔の後について歩いた。


     ◇


 東側の廊下は、西側よりずっと静かだった。


 立派な絵画も、金色の飾りもない。


 代わりに、木箱が積まれた場所や、使用人が使うらしい小部屋が続いていた。


 私は、その様子を見て少し考えた。


 ……ああ。


 ここは、屋敷の裏側なんだね。


 表に見せるための場所じゃない。


 働く人たちが行き来する廊下。


 その奥に、下り階段があった。


 階段の前には、分厚い鉄の扉。


 鍵穴が一つ。


 さらに、その上に内側から掛けるような大きな金具。


 ……うん。


 食料庫の扉とは、全然違うね。


 桜花が、扉へ近づいた。


「リアリス様。奥から、わずかに人の気配がいたします」


 ……人。


 私も、《サーチ》で確かめた。


 指定した人の位置が、脳内の地図に青い光となって現れる。


 壁の向こう。


 地下へ続くあたりに、いくつもの反応があった。


 ……いる。


 でも、誰なのかまでは分からない。


「中へ入ろう」


 私は、扉に手を触れた。


     ◇


 分厚い鉄扉を、無理に吹き飛ばすことはしなかった。


 こちら側から鍵を操作できないなら、扉ごと静かに《収納》へしまえばいい。


 ……あっ。


 もちろん、中の誰かへ倒れたりしないようにね。


 扉が消えると、冷たい空気が流れ出した。


 奥には、石造りの階段。


 明かりは、少ない。


 下へ行くほど、空気が湿っているのが分かった。


 私は、奥を見た。


 桜花が隣へ来る。


「私が、先に参りましょうか」


「……ううん。一緒に行こう」


 桜花が頷いた。


 杏子も、すぐ後ろにつく。


 朝顔には、入口の見張りをお願いした。


「もし誰かが上から来たら、危険がないように止めてね」


「承知いたしました」


 私は、一段目へ足を下ろした。


 ……さあ。


 この先に、いるんだね。


     ◇


 階段は、思ったより長かった。


 足元の石が、少し冷たい。


 壁には、間隔を空けて小さな灯りがある。


 装飾は、一つもない。


 上の階にあった金色の飾りとは、まるで別の建物みたいだ。


 ……うん。


 同じ屋敷の中なのに、ずいぶん違うね。


 階段を下りきったところで、私たちは二人の男に出くわした。


 どちらも、鎧の上から厚い革の上着を着ている。


 腰には剣。


 一人は、束になった鍵を持っていた。


「……何だ、お前ら!」


 男が怒鳴る。


「上はどうなっている!」


 私は、二人を見た。


 この人たちは、地下の見張りだろうか。


 ……まずは、怪我をさせないように。


 桜花と杏子が、静かに前へ出た。


 片方が剣に手をかけた瞬間、桜花がその手首を押さえる。もう一人の腕は、杏子が素早く掴んだ。


 二人が抵抗しても、桜花と杏子は少しも揺らがない。


 鍵束が、石の床へ落ちる。


 かちゃん。


 その音だけが、地下へ響いた。


「な、何だ、この力は!」


「お前ら、何者だ!」


「怪我はさせないよ。少し、話を聞かせてほしいんだ」


 私は二人の手首を縄で縛ってから、しゃがんで鍵束を拾った。


     ◇


「この先に、人がいるんだよね」


 男たちは、互いの顔を見合わせた。


 片方が、すぐに怒鳴った。


「知らん!」


 ……あっ。


 同じ答えだ。


 私は、落ち着いて続けた。


「本当に知らないなら、それでいいよ。でも、もし人が閉じ込められているなら、今すぐ安全を確かめたい」


 もう一人の男が、口を閉じた。


 視線だけが、奥の廊下へ動く。


 ……うん。


 分かりやすいね。


「先へ進むよ。ここで待っていてね」


 私が言うと、男の一人が急に声を荒らげた。


「行くな! 閣下に殺されるぞ!」


 ……閣下。


 ゴゾーラ子爵のことだね。


 私は、振り返った。


「……あなたたちは、何をしてたの?」


 男は、答えなかった。


 もう一人が、絞り出すように言った。


「……見張りだ。ただの見張りだ。俺たちは、言われたことをやってただけだ!」


 ……そう。


 それ以上は、今は聞かないでおこう。


 誰が何を知っていたのかは、あとで帝国に調べてもらえばいい。


 私は、鍵束を持って奥へ進んだ。


     ◇


 廊下の向こうには、さらに鉄格子があった。


 その先から、人の声が聞こえる。


 ……あっ。


 私は、足を速めそうになった。


 でも、桜花がそっと私の袖へ触れた。


「……リアリス様」


「……うん」


 私は、一度だけ息を整えた。


 急いで行きたい。


 でも、閉じ込められている人を驚かせたくない。


 ……落ち着こう。


 鍵束を確かめ、鉄格子を開ける。


 ぎい、と小さな音がした。


 その向こうには、石造りの広い廊下。


 両側に、いくつもの扉。


 奥には、さらに大きな空間があるようだった。


 私は、最初の扉へ近づいた。


 ……ここだ。


 《サーチ》の反応も、ここに集中している。


 私は、扉の向こうへ声をかけた。


「……誰か、いますか?」


 しばらく、返事はなかった。


 それから。


「……誰、ですか」


 小さな声が、返ってきた。


 女性の声だった。


     ◇


「助けに来たんだ」


 私は、できるだけ穏やかに言った。


「怖がらなくていいよ。扉を開けても、大丈夫かな」


 返事は、すぐにはなかった。


 代わりに、誰かが息を呑むような音。


 それから、小さな囁き声が聞こえた。


「……また、何か……」


「……嫌だ……」


 ……ああ。


 怖がってる。


 当然だよね。


 ここへ来る人が、いつも助けてくれる人だったとは限らない。


「……無理に出てこなくていいよ」


 私は、続けた。


「でも、ここを開けて、みんなが怪我をしていないか確かめたいんだ」


 少しして、別の声が返ってきた。


「……本当に、助けてくれるんですか」


「うん」


 私は、頷いた。


 扉の向こうには見えないはずだけど。


「……必ず、外へ出すよ」


 その言葉を口にしたとき、ようやく一つだけ気持ちが定まった。


 今、私がするべきことはこれだ。


 目の前の人に、帰れる場所を取り戻してもらうこと。


     ◇


 鍵を回し、扉を開けた。


 中は、薄暗かった。


 壁際に、粗末な寝台が並んでいる。


 窓はない。


 天井も低い。


 部屋の奥には、何人もの人が身を寄せ合っていた。


 ……ああ。


 いた。


 本当に、いたんだ。


 首には、同じような形のネックレス。


 それを見て、私は息を呑んだ。


 ……奴隷の印。


 以前、盗賊に捕らえられていた人たちを助けたときにも見たものと似ている。


 私は、できるだけ声を穏やかにした。


「……もう、大丈夫だよ」


 しかし、誰も動かなかった。


 むしろ、私を見る目が怯えている。


 ……そうか。


 私が助けに来たと言っても、すぐに信じられるわけがない。


 当たり前だよね。


 どれだけ怖い思いをしてきたのか、私には分からないのだから。


     ◇


 桜花が、静かに前へ出た。


「皆様。突然お邪魔して、申し訳ございません」


 柔らかな声。


 部屋の中の人たちが、桜花を見る。


「私どもは、こちらから皆様をお助けするために参りました。何かご不安なことがございましたら、遠慮なくお申し付けください」


 その姿を見て、何人かが小さく顔を上げた。


 杏子も、すぐ隣へ並ぶ。


「まずは、お怪我をされた方がいらっしゃるか、確認させていただけますか」


 ……ああ。


 桜花も、杏子も。


 慌てていない。


 私が今やるべきなのは、きっとこういうことだね。


 私は、少し離れて様子を見守った。


 すると、部屋の奥から年配の男性が前へ出てきた。


「……本当に、外へ出してくれるのか」


「うん」


 私は、目を合わせた。


「ただし、屋敷の外は今、安全のために封鎖している。まずは屋敷の中の安全な場所へ案内して、そこから皇帝の人たちに引き継ぐ予定だよ」


 男性は、目を見開いた。


「……皇帝、陛下の?」


「うん。皇帝にも、事情は話してある」


 その言葉を聞いて、男性の肩が小さく震えた。


     ◇


 最初の部屋には、男性が六人いた。


 別の部屋にも、男性たちがいた。


 通路を挟んだ向こう側には、女性たちが集められていた。


 扉を一つずつ開けていく。


 誰かが飛び出して怪我をしないよう、杏子がゆっくり案内する。


 桜花は、体調の悪そうな人を見つけるとすぐに声をかけた。


 私は、《サーチ》の反応と実際に見えた人数を照らし合わせながら、全員がいるか確かめた。


 ……一人ずつ。


 ちゃんと数えよう。


 男が十五人。


 女が三十人。


 クオシンさんが聞き出した数と、同じだ。


 けれど。


 数字で確認するのと、実際に顔を見るのとは、まるで違った。


 一人一人、顔が違う。


 声も違う。


 怖がり方も、私たちを見る目も違う。


 同じ人数に含まれていても、誰一人、同じ人間じゃない。


     ◇


 男性の部屋では、三人が同じ場所に身を寄せ合っていた。


 手には、仕事をしてきた人らしい硬いまめ。


 年配の男性が、二人をかばうように前へ出た。


「……あんたたち、誰だ」


「助けに来た者だよ。無理に信じなくてもいい。でも、ここから出ることはできる」


 男性は、私の顔をじっと見つめた。


 それから、少しだけ頷いた。


「……俺たちは、職人なんだ」


「……うん」


「鍛冶と、細工をしてきた。ここへ連れてこられてからは、ずっと……」


 そこで、言葉が途切れた。


 私は、続きを無理には尋ねなかった。


 クオシンさんが言っていた、三人の職人。


 きっと、この人たちだ。


 ……ああ。


 仕事に誇りを持って生きてきた人なんだね。


 誰かの道具じゃなくて。


 自分の手で、何かを作ってきた人なんだ。


「……帰りたいところは、ある?」


 私が尋ねると、男性の目が揺れた。


「……ある」


 短い返事だった。


 それだけで、十分だった。


     ◇


 女性たちの部屋では、扉を開けた瞬間、何人かが身を縮めた。


 私を見て、奥へ下がってしまう人もいた。


 ……ああ。


 知らない男が突然入ってきたら、怖いよね。


 私は、その場から一歩下がった。


「桜花、杏子。ここは、二人にお願いしてもいいかな」


「もちろんでございます」


「かしこまりました」


 桜花と杏子が、静かに中へ入る。


 私は、扉の外で待つことにした。


 ……そうだ。


 助けるつもりでも、相手の怖さを増やしてしまったら意味がない。


 奥から、桜花の穏やかな声が聞こえた。


「皆様。もう、この部屋に閉じ込められている必要はございません」


 返事は、か細かった。


「……本当、ですか」


「はい。私どもがお守りいたします」


 少しして、泣き声が聞こえた。


 私は、扉の外で拳を握った。


 ……今度は。


 怒りではなく、胸が苦しくなった。


     ◇


 部屋から出てきた女性たちは、誰も大きな声を出さなかった。


 泣いている人もいた。


 ただ、床を見つめている人もいた。


 なかには、私たちが何を言っても返事をしない人がいた。


 ……ああ。


 どれだけ怖い思いをすれば、こんな顔になってしまうのだろう。


 杏子が、その人の隣へ静かに並んだ。


「お歩きになれますか」


 返事はなかった。


 それでも、杏子は急かさずに待った。


 しばらくして、その女性が一歩だけ足を動かす。


 ……うん。


 よかった。


 今は、それでいいよ。


 名前を聞くのも、事情を尋ねるのも、もう少しあとでいい。


 まずは、ここから出よう。


     ◇


 何人かには、目立つ擦り傷や衰弱があった。


 私は、本人に確認してから《完全回復》を使った。


 傷が消えたことに驚いて、泣き出す人もいる。


 でも、全員がすぐ元気になったわけじゃない。


 体の傷が消えても、顔を上げられない人がいる。


 私の手から逃げるように身を縮める人もいた。


 ……そうだね。


 魔法で治せないものもあるんだ。


 私は、無理に励ますのをやめた。


 代わりに、水を渡した。


 歩けない人には、椅子を用意した。


 桜花と杏子が、隣にいてくれた。


 それだけで、少しずつ表情が変わる人もいた。


 ……焦らなくていい。


 今日、全部元どおりにならなくてもいいから。


     ◇


 地上へ戻る通路では、楓が待っていた。


 ……おっ。


 いつの間に、ここへ来てたんだろう。


「楓。兵士たちは?」


「……制圧済み」


「ありがとう。まだ、ほかに隠れている人はいないかな」


 楓が、地下の奥へ目を向けた。


「……奥。確認」


 ……奥?


 私は、視線を追った。


 確かに、まだ開けていない通路がある。


「そっちも、あとで見てみよう」


 楓が、小さく頷く。


「……はい」


 その視線は、いつもと変わらなかった。


 ただ、何かを確かめるように地下の奥を見ていた。


 ……気になるところがあるのかな。


 私は、そう思った。


     ◇


 救出した人たちは、一度に地上へ出すのではなく、少人数ずつ案内することにした。


 階段は狭い。


 みんなが慌てて動けば、転んでしまう人もいるだろう。


 桜花が先頭につく。


 杏子は、歩くのが遅い人のそばへ。


 私は、最後尾から見守った。


 一段。


 また、一段。


 誰かが疲れたら、そこで少し休む。


 ……うん。


 時間はかかるけれど、これでいい。


 四十五人全員が、無事に地上へ出ること。


 今は、それが一番大事だ。


 階段の途中で、一人の女性が立ち止まった。


「……本当に、外へ出てもいいの?」


 私は、頷いた。


「うん。大丈夫だよ」


 その人は、何度も瞬きをした。


 それから、ゆっくり階段を上り始めた。


     ◇


 地上では、藤たちがすでに広い部屋を空けてくれていた。


 先ほど使用人たちを集めた部屋とは別の、庭に面した客間だ。


 窓があり、椅子もある。


 水と、簡単に食べられるものも用意した。


 敷地の外へはまだ出られない。


 《結界》が残っているからだ。


 でも、子爵の部下が近づけないようにしてある。


 楓と朝顔が、部屋の入口を見守ってくれた。


「こちらなら、皆様に危険は及びません」


 藤が、安心させるように説明した。


 最初は誰も座ろうとしなかった。


 自分たちが、あの立派な椅子を使ってもいいのか分からなかったのかもしれない。


 私は、そっと言った。


「座っていいんだよ。ここでは、誰かの許可を待たなくても大丈夫」


 それを聞いて、年配の男性がゆっくり椅子へ腰を下ろした。


 ほかの人たちも、少しずつ続いた。


 ……ああ。


 やっと、座れたんだね。


     ◇


 私は、改めて人数を確かめた。


 男性十五人。


 女性三十人。


 合計、四十五人。


 桜花と杏子が、一人ずつ確認してくれた。


 誰も、取り残していない。


 そのことが分かった瞬間、私は深く息を吐いた。


 ……よかった。


 本当に、よかった。


「……リアリス様」


 桜花が、私の隣へ来た。


「四十五名全員、こちらへお連れできました」


「……うん。ありがとう」


 杏子も、静かに頷いている。


 私は、二人を見た。


「みんながいてくれたからだよ」


 桜花は、ほんの少しだけ微笑んだ。


「何よりでございます」


 ……ああ。


 今日は、このまま無事に終わればいいな。


 私は、そう思った。


 でも、まだ終わっていなかった。


     ◇


 四十五人の保護が終わったあとも、屋敷の封鎖は解かなかった。


 門兵二人だけは《完全拘束》で止め、それ以外の兵士たちはフラワーズが武器を取り上げ、縄で拘束してある。


 藤たちが集めてくれた使用人も、安全な部屋で待っている。


 牡丹からは、子爵を二階の執務室で確保したという報告が届いていた。


 私は、まだその本人に会っていない。


 ……うん。


 予定どおりだね。


 私は、屋敷の廊下をゆっくり歩いた。


 窓の外では、夕日がほとんど沈みかけている。


 随分と時間が経ったように感じた。


 でも、まだ調べ終わっていない場所がある。


 ――地下の、奥。


 楓が気にしていた場所だ。


「リアリス様」


 桜花が、私の隣へ来た。


「まだ、お調べになるのですね」


「……うん」


 私は、静かに頷いた。


「四十五人は見つかった。でも、ほかに隠れている人がいないとは限らないから」


 杏子も、後ろからついてくる。


「皆様の保護は、藤たちへ引き継いでおります」


「ありがとう」


 ……そうだね。


 最後まで、確かめよう。


     ◇


 私は、桜花と杏子と一緒に、もう一度地下へ向かった。


 先ほどは、目の前にいる四十五人を助けることだけで精いっぱいだった。


 でも、まだ奥に続く場所がある。


 ……もしかしたら、ほかにも助けを待っている人がいるかもしれない。


 牡丹には、引き続き子爵を地上の部屋で押さえていてもらう。


 何か説明が必要になったら、そのときに呼べばいい。


 今は、地下を最後まで調べよう。


 階段を下りきったところで、桜花がそっと私の隣へ並んだ。


「リアリス様。先ほどの方々は、皆様ご無事でございます」


「……うん。よかった」


 私は、ゆっくり頷いた。


 通路には、冷たい空気が流れていた。


 先ほどまで聞こえていた人の声は、もうない。


 あの人たちは、地上へ移したからだ。


 私は、静かな廊下を見回した。


 扉は、開け放してある。


 中には、粗末な寝台が残っている。


 床に置かれた器。


 薄い毛布。


 ……誰かが、ここで暮らしていたんだね。


 暮らしていた。


 ……いや。


 暮らすことを、強いられていたんだ。


     ◇


 私たちは、廊下をさらに奥へ進んだ。


 少し歩いたところで、地下の景色が突然変わった。


 目の前に現れたのは、大きな扉。


 その向こうには、さっきまでの監禁部屋とは正反対の、綺麗に整えられた広間があった。


 ……え?


 私は、足を止めた。


 広間には、背もたれのついた椅子が幾列も並んでいる。


 数えてみると、五十人ほどが座れそうだ。


 天井には、立派な照明。


 壁には、上の階と同じ金色の飾り。


 一番奥には、壇が設けられていた。


 壇の横には、値段を書きつけるためらしい大きな板。


 ……ああ。


 分かってしまった。


 ここが、オークション会場なんだ。


     ◇


 私は、壇へ近づいた。


 木の床は、綺麗に磨かれている。


 椅子には、柔らかな布が張られていた。


 ここに招かれた客たちは、きっと座り心地のいい椅子へ腰を下ろして、飲み物でも楽しむのだろう。


 そして、壇の上に立たされた人を見て。


 値段を告げる。


 ……何だよ、それ。


 私は、壇の縁へ手を置いた。


 指の下には、細かな彫刻まで施されている。


 人を閉じ込める部屋には窓一つなかったのに。


 人を買うための部屋には、こんなにもお金をかけている。


 ……ああ。


 胸の奥が、また少し熱くなった。


「……リアリス様」


 桜花が、隣へ来た。


 私は、ゆっくり手を離した。


「……うん。大丈夫」


 そう答えて、広間の奥へ目を向けた。


 そこには、さらに細い通路が続いていた。


 まだ、調べていない場所がある。


     ◇


「……リアリス様」


 杏子が、廊下の奥を指した。


「あちらに、まだ扉がございます」


「……うん」


 私も、気づいていた。


 先ほどは、四十五人を地上へ移すことを優先したから、奥までは見ていない。


 長い廊下。


 その突き当たりに、重そうな扉がある。


 ほかの部屋とは違う、厚い鉄板で補強された扉だ。


 取っ手には、錆びた鎖が巻かれていた。


 ……何だろう。


 こんな場所まで、使っているのかな。


 私は、重い扉を見つめた。


 この奥に、まだ何かあるのだろうか。


 ……確かめなくちゃ。


 桜花が、一歩だけ前へ進む。


「リアリス様。私が先に確認いたします」


「……ありがとう。でも、一緒に行こう」


 桜花が、頷いた。


 杏子も、静かについてくる。


 ここにいるのは、私と桜花と杏子だけ。


 牡丹には、上の階で子爵を任せてある。


 私は、扉へ近づいた。


     ◇


 《サーチ》を使ってみた。


 扉の向こうには、人の反応がなかった。


 ……ああ。


 誰もいないのかな。


 それなら、それでいい。


 私は、そう思おうとした。


 ただ、胸の奥に小さな違和感が残る。


 《サーチ》は、生きている人を探すための魔法だ。


 反応がないからといって、部屋そのものが空だとは限らない。


 ……うん。


 やっぱり、確かめよう。


 私は、扉の取っ手へ手を伸ばした。


 冷たい。


 ほかの場所よりも、ずっと。


 鎖を外し、鍵を探す。


 先ほど地下の見張りから預かった鍵束に、合うものがあった。


 ……これだね。


 がちゃり。


 金具が外れる。


 私は、ゆっくり扉を開いた。


     ◇


 最初に感じたのは、匂いだった。


 湿った石の匂い。


 古い鉄の匂い。


 そして、それらに混じる、今まで嗅いだことのないような重い匂い。


 ……何だろう。


 私は、足を止めた。


 部屋の中は暗かった。


 通路の明かりが、床へ細く伸びている。


 その先に、鉄格子が見えた。


 ……また、檻?


 私は、ゆっくり中へ入った。


 桜花が、すぐ隣へつく。


 杏子は、扉のところで少しだけ息を呑んだ。


「……リアリス様」


 その声が、いつもより小さかった。


 私は、顔を上げた。


 そして。


 檻の中にあるものを、見た。


     ◇


 ……人が、いた。


 いや。


 人の、形をしたものがあった。


 何人も。


 粗い布がかけられ、石の床へ横たえられている。


 布から覗く手。


 痩せた腕。


 首に残った、あのネックレス。


 ……え?


 私は、立ち止まった。


 誰も、動かない。


 誰も、こちらを見ない。


 先ほどまでの部屋なら、扉を開けると誰かが怯えて顔を上げた。


 助けに来たと告げれば、信じられないという顔をしながらも、何かを答えてくれた。


 でも。


 この部屋では、誰も声を出さなかった。


 ……おかしいな。


「……誰か」


 自分の声が、震えた。


「……誰か、いますか?」


 返事はなかった。


 桜花が、そっと私の腕へ触れた。


「リアリス様……」


 私は、もう一歩近づいた。


     ◇


 足元の石には、黒ずんだ染みが残っていた。


 檻の内側の壁にも。


 鎖のついた金具が、いくつも並んでいる。


 ……ああ。


 この場所は。


 人を閉じ込めるための部屋だった。


 それだけじゃない。


 私は、奥に横たわる人へ目を向けた。


 顔は、布に隠れていた。


 手は、ぴくりとも動かない。


 ……ねえ。


 私は、心の中で呼びかけた。


 起きて。


 もう、大丈夫だから。


 助けに来たんだよ。


 ……そう言いたかった。


 でも。


 口が、動かなかった。


 《サーチ》に反応がなかった理由を、私は理解してしまった。


 ――生きている人が、いなかったんだ。


 そこにあったのは、もう二度と返事をしてくれない人たちの遺体だった。


 ――殺す。


 私は、踵を返した。


「リアリス様?」


 桜花の声を背に、檻の部屋を飛び出した。


 刀を取り出す。


 鞘を払う音が、地下の通路に響いた。


「リアリス様! お待ちください!」


 止まらなかった。


 石の階段を駆け上がる。


 足音が、壁を打つ。


 地上へ出る。


 二階へ続く階段を、一気に上った。


 目指すのは、牡丹が子爵を確保している執務室。


 まっすぐ、そこへ向かった。


     ◇


「リアリス様!」


 後ろから桜花が追ってくる。


 その声は、何度も聞こえた。


 階段を上がりきったところで、杏子の声もした。


「桜花様! リアリス様が――!」


 だが、足は緩まなかった。


 廊下の先。


 金の装飾が施された扉。


 私は、扉を押し開けた。


 中には、牡丹がいた。


 その腕の中で、太った男がもがいている。


 大きく突き出した腹。


 宝石の指輪。


 高価な衣服。


 ――ゴゾーラ子爵。


 初めて見る顔だった。


 その男だと認識した瞬間、私は踏み込んだ。


 加減もなく、全力で刀を振り抜く。


「リアリス様!?」


 牡丹が子爵の両腕を放し、横へ跳んだ。


 ゴゾーラが振り向きかける。


「な、何を――」


 言い終わるよりも早く、刃が迫った。


「リアリス様、なりません!」


 背後から、桜花の声が響く。


 追いかけてきた桜花が床を蹴り、私を追い越した。


 銀色の髪が、刃の前へ飛び込む。


 桜花はゴゾーラとの間に立ちはだかり、両腕を広げた。


「リアリス様――!」


 桜花の《絶対防御》が、一瞬だけ光った。


 全力の斬撃が、その光を砕いた。


 ――刀が、桜花の体を両断した。

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