第4話:怒りと、桜花の涙
四十五人。
男が十五人。女が三十人。
その一人一人に、名前がある。
帰りたい場所があるかもしれない。
会いたい人がいるかもしれない。
好きな食べ物や、嫌いなものだってあるはずだ。
それなのに、あの男は。
――白金貨、何枚。
まるで、品物の話でもするように言ったらしい。
私は、歩きながら何度も拳を握った。
何度も開いた。
……駄目だ。
今は、落ち着かないと。
そう思っているのに、握った指がなかなか緩まなかった。
◇
ゴゾーラ子爵邸から離れた大通り。
行き交う人たちは、いつもと変わらない顔をしていた。
果物を買う人。
荷車を引く人。
店の前で立ち話をする人。
……ああ。
こんなに普通の一日なのに。
私は、さっき聞いた数字のことばかり考えていた。
「おい、リアリス」
隣から、クオシンさんの声がした。
「……はい」
「顔を上げろ。そんな顔で歩いてりゃ、誰だって何かあったと気づくぞ」
私は、はっとした。
……そうだ。
まだ、子爵の屋敷からそれほど離れていない。
あの男の手の者が、通りを歩いているかもしれない。
「……すみません」
「チッ。謝るくらいなら、しっかりしろ」
クオシンさんは、前を向いたまま続けた。
「俺だって、あの豚野郎の顔を今すぐ殴りてえよ」
……うん。
そうだろうね。
彼は、あの場で全部聞いてきたんだ。
四十五人の人数も。
人を値段で分ける言葉も。
逃げられないようにしているという、あまりにもひどい話も。
「……でもな」
クオシンさんが、声を落とした。
「ここで騒いで、あいつが警戒したらどうする。地下の連中を別の場所へ移されたら、終わりだぞ」
「……分かってます」
「分かってるなら、黙って歩け」
……うん。
言い方は相変わらずだけど。
今は、その言葉が必要だった。
◇
帝国邸へ向かう途中、桜花はほとんど口を開かなかった。
私の隣を歩き、時折こちらを見る。
銀色のおかっぱ髪が、歩くたびに小さく揺れている。
「桜花」
「はい、リアリス様」
「……心配、かけちゃったね」
「……いいえ」
返事は、いつもより少し遅かった。
「私が勝手に参ったのです。お気になさらないでください」
私は、首を横に振った。
そうじゃない。
桜花が来てくれたことは、嬉しかった。
むしろ、今、ここにいてくれてよかったと思っている。
「……ありがとう」
それだけ言うと、桜花がほんの少し目を細めた。
「はい」
……ああ。
それでも、胸の中は落ち着かなかった。
◇
帝国邸の門が見えてきた。
普段なら、あの門を見るだけでほっとする。
庭には花が咲いていて、メイドたちが待っている。
屋敷に帰れば、温かいお茶が飲める。
……でも。
今は、あの綺麗な門が妙に遠く感じた。
近づくと、門番の役目をしていた一般メイドが頭を下げる。
「お帰りなさいませ、リアリス様」
「……ただいま」
いつもどおりの挨拶。
私は、それに答えたつもりだった。
けれど。
「……リアリス様?」
メイドが、少しだけ顔を上げた。
「いかがなさいましたか」
……あっ。
「ううん。何でもないよ」
私は、笑おうとした。
でも、自分でも分かった。
うまく笑えていなかった。
◇
玄関へ入ると、聞き慣れた声がした。
「……お父さん!」
……え?
顔を上げる。
廊下の向こうから、カトレアが小走りでこちらへ向かってきた。
その後ろに、巴さん。
そして、淡い桃色を帯びた髪の杏子。
「カトレア……?」
「お父さん、お帰りなさい!」
カトレアが、嬉しそうに手を振る。
「……あれ? どうしてここに?」
私は、思わず尋ねた。
カトレアは、少し不思議そうな顔をした。
「巴さんと、お花を見に来たの。帝国のお家に置いたお花、今日も見たくて」
……ああ。
昨日買った、あの紫の花。
そうだったね。
カトレアは、この屋敷へ来たら、毎回見たいと言っていた。
巴さんが、柔らかく微笑んだ。
「お帰りなさい、リアリスちゃん。今日はカトレアちゃんと一緒に来ていたのよ。ちょうど夕食の支度もしていたところ」
「……そうなんだ」
普段なら、嬉しい偶然だったと思う。
今日は娘と一緒にご飯が食べられる。
そう言って、笑っていたはずだ。
でも。
私は、カトレアに近づくことができなかった。
◇
「……お父さん?」
カトレアが、首を傾げた。
「どうしたの?」
……何でもない。
そう言いたかった。
いつものように抱き上げて、頭を撫でて。
今日も可愛いね、って。
けれど、頭の中で数字が鳴っていた。
十五。
三十。
四十五。
……白金貨、何枚。
私は、思わず奥歯を噛みしめた。
「……リアリス様」
桜花が、小さく呼んだ。
その声で、私はようやく息を吸った。
……ああ。
駄目だ。
今の顔を、カトレアに見せたくない。
「……杏子」
私が呼ぶと、杏子がすぐにこちらへ来た。
「はい、リアリス様」
「悪いんだけど、カトレアと一緒にお花を見てきてくれるかな」
杏子は、私の顔を一度見た。
すぐに何かを察したように、小さく頷く。
「……かしこまりました」
私は、もう一度だけ言った。
「それから、しばらく私のところへは近づけないでほしい。……お願い」
……言ってしまった。
カトレアを近づけないで、なんて。
今まで、自分からそんなことを言っただろうか。
杏子は、表情をほとんど変えなかった。
「承知いたしました。カトレア様は、私がお預かりいたします」
……ありがとう。
その言葉だけは、何とか声にできた。
◇
「お父さん、忙しいの?」
カトレアが尋ねた。
私は、無理に口元を上げた。
「……うん。少しだけ、大事なお話があるんだ」
「……そっか」
カトレアは、杏子を見た。
「じゃあ、杏子お姉ちゃんと待ってるね」
……ああ。
いい子だね。
あまりにも、いい子だ。
「……うん。ごめんね」
「大丈夫だよ。お仕事が終わったら、また一緒に遊ぼう」
その言葉が、胸に刺さった。
……遊ぼう。
いつもなら、私が一番楽しみにしている言葉だ。
「……約束だよ」
私は、やっとそう答えた。
杏子が、カトレアの手をそっと取る。
「カトレア様。花壇の新しい蕾も見に参りましょう」
「うん!」
二人は、庭の方へ歩いていった。
水色の短い髪が、角の向こうへ消える。
私は、その姿が見えなくなるまで動けなかった。
◇
「……リアリスちゃん」
巴さんが、静かに声をかけた。
私は、顔を上げた。
「……巴さん」
「何があったの?」
いつもの柔らかな声。
けれど、今日は少しだけ厳しかった。
私は、すぐには答えられなかった。
言おうとすると、あの数字が浮かぶ。
四十五人。
人間。
金額。
……ああ。
「……少し、話をさせて」
「ええ」
巴さんは、静かに頷いた。
私たちは、居間ではなく、奥の応接室へ入った。
クオシンさんも、黙ってついてくる。
扉を閉める。
その瞬間。
「……おい、リアリス」
クオシンさんが、低く声を出した。
「しっかりしろ。お前の娘まで怯えさせる気か」
私は、何も言えなかった。
……そうだね。
今の私は、娘を避けてしまった。
◇
巴さんが、全員へ椅子を勧めた。
私とクオシンさんが向かい合い、桜花が私の隣へ座る。
巴さんは、少し離れた席へ腰かけた。
「……何があったのか、聞かせてもらえる?」
私は、口を開こうとした。
でも。
声が出なかった。
……困ったな。
説明しなくちゃいけないのに。
「……クオシンさん」
私は、ようやく言った。
「……私の代わりに、話してもらってもいいですか」
「……あぁ?」
クオシンさんが、眉をひそめた。
「お前が連れてきた話だろうが」
「……すみません」
彼は、しばらく私を睨んでいた。
それから、苛立ったように舌打ちする。
「……チッ。使えねえな」
そう吐き捨てて、巴さんへ向き直った。
「……帝都で、人間を売りさばいてる豚野郎がいた。それだけだ」
巴さんの表情が、静かに変わった。
◇
クオシンさんは、話を続けた。
最初は、帝都で広がっていた噂。
次に、皇帝への相談。
そして、今日ゴゾーラ子爵邸で聞いたこと。
相手の名前。
オークションの日時。
地下の会場。
招待状。
四十五人という人数。
男性十五人、女性三十人。
そのうち三人は、技能のある職人。
私がすでに聞いていた話を、クオシンさんはもう一度説明した。
……何でだろう。
二度目なのに。
むしろ、一度目よりも重く感じた。
静かな部屋で、数字だけが積み重なっていく。
「……それで、値段までつけていやがった」
クオシンさんが、唇を歪めた。
「男は白金貨三枚から十枚。女は五枚から三十枚。容姿だの使い道だので変えるって、嬉しそうによ」
巴さんが、目を伏せた。
桜花は、膝の上で両手を重ねていた。
私は、机の木目を見つめた。
……まただ。
また、あの言葉。
値段。
人間の、値段。
◇
「……ゴゾーラ子爵が、そのように」
巴さんの声は、とても静かだった。
「ああ」
クオシンさんが答える。
「あいつは、俺を上客だと思い込んでやがる。二日後の招待状を、帝都の宿へ送ると言った」
「……それで、四十五人の方々は今も?」
「奴の話じゃ、屋敷の地下にいる。だが、俺は実際に見たわけじゃねえ」
……うん。
そこは、大事な違いだ。
子爵が自分の口で話した。
それでも、地下の人々を直接見たわけではない。
……だから。
今の私たちには、まだできることとできないことがある。
「……子爵は、逃げられないようにしている、とも言っていました」
私が、ようやく声を出した。
巴さんが、私を見る。
「……そう」
それだけだった。
けれど、その短い返事には、私が聞いたことのない重さがあった。
◇
クオシンさんが、椅子の背へもたれた。
「……それで」
彼は、私へ視線を向ける。
「どうする、リアリス」
私は、顔を上げた。
「……まず、皇帝へ報告します」
「当然だ。あの場でも約束しただろうが」
「はい」
「それから?」
……それから。
私は、考えた。
地下にいるという四十五人。
明後日には、競りにかけられる。
買い手がつけば、別々の場所へ連れていかれるかもしれない。
家族へ戻れる可能性は、ますます低くなる。
「……その前に、助けたいです」
私は、静かに答えた。
クオシンさんが、頷いた。
「……俺も、そこは同じだ」
ただし、すぐに続ける。
「だからって今夜突っ込むなよ。あいつの口だけじゃ足りねえ。招待状が届いて、皇帝が動けるようになってからだ」
「……分かっています」
……分かっている。
そう答えることだけは、できた。
◇
巴さんが、私を見た。
「リアリスちゃん」
「……ん?」
「今、何を考えているの?」
……え?
不意に聞かれて、言葉が詰まった。
「……どうやって、助けようかって」
「それだけ?」
私は、巴さんを見た。
彼女の目は、まっすぐだった。
……それだけ。
じゃない。
でも。
それを言ってしまったら、何かが壊れる気がした。
「……うん」
私は、嘘をついた。
巴さんは、それ以上問い詰めなかった。
ただ、少し悲しそうに目を伏せた。
……ごめんね。
私は、心の中で謝った。
◇
報告のために《映像通話》を使ったのは、それから間もなくのことだった。
相手は、ヴァリロッサ皇帝。
クオシンさんが、自分から説明すると言ってくれた。
私は、机の上へ画面を開いた。
「《映像通話》」
光る画面。
少しして、皇帝の顔が映った。
『おう、リアリス。何か分かったか?』
「……うん。クオシンさんが、子爵から話を聞いてきたよ」
皇帝は、画面の向こうで姿勢を正した。
『……話せ』
クオシンさんが、すっと背筋を伸ばす。
さっきまでの粗暴な表情が消えた。
「ヴァリロッサ皇帝陛下。お忙しいところ、再びお時間を賜り、恐れ入ります」
「本日、ゴゾーラ子爵との面会を果たしました。その際、子爵自身から、二日後に自邸の地下で人身売買の競りを催す旨を伺っております」
皇帝の表情が、一瞬で変わった。
『……何だと』
クオシンさんは、丁寧な口調を崩さない。
「男性十五名、女性三十名。計四十五名を商品として扱うとの説明でした。うち三名の男性は、職人としての技術を有しているとも申しておりました」
皇帝は、黙った。
画面の向こうにいるガラントさんも、目を細めている。
◇
「さらに」
クオシンさんが、続けた。
「子爵は、男性を白金貨三枚から十枚、女性を五枚から三十枚ほどで扱う旨も述べております。いずれも、子爵自身の言葉でございます」
皇帝は、拳を机へ置いた。
どん。
大きな音がした。
『……あの野郎』
低い声だった。
いつもの豪快な笑い声は、どこにもない。
『ガラント』
『はい、陛下』
『聞いたな』
『はい。ですが、現段階ではクオシン殿下の証言と、まだ届いていない招待状が主な手がかりとなります』
皇帝は、口を引き結んだ。
『……分かっている』
それから、画面越しにクオシンさんを見た。
『よくやった、クオシン殿。危険な役を引き受けさせたな』
クオシンさんが、丁寧に頭を下げた。
「お言葉、痛み入ります。私も、看過できない行いだと考えております」
……うん。
それは、本当だ。
ただ、その怒りをどこまで隠せるのか。
私は、少し心配になった。
◇
『リアリス』
皇帝が、私を呼んだ。
「……うん」
『今夜は動くな』
……え?
私は、画面を見た。
『招待状を確認する。場所と日時の裏づけを取る。こちらでも人を動かす用意をする。だが、今夜はお前たちだけで突入するな』
「……分かった」
返事は、すぐに出た。
でも。
胸の奥で、何かがざわついた。
今、地下で助けを待っている人がいるのに。
もう一晩、待つ。
そのことが、急に恐ろしくなった。
皇帝は、低い声で続ける。
『もしお前が暴れて、奴らが人質に何かしたらどうする。四十五人を守りたいなら、まずそいつらの安全を考えろ』
「……うん」
『明日、招待状が届いたら連絡しろ。その内容を見て、次の手を決める』
「……分かったよ」
私は、もう一度答えた。
……本当に、分かっている。
頭では。
◇
通話が終わると、応接室は静かになった。
クオシンさんが、机の上の何もない場所を見た。
光る画面が、消えたばかりだ。
「……おい、リアリス」
「……はい」
「今の話、聞いてたな?」
「はい」
「なら、勝手な真似をすんな。今、お前が暴れれば、あの四十五人が死ぬかもしれねえ」
……死ぬ。
その言葉で、心臓が強く跳ねた。
「……分かってます」
「……その顔じゃ、信用できねえな」
クオシンさんが、吐き捨てた。
私は、何も言い返せなかった。
彼は、しばらく私を睨んでいた。
それから、苛立ったように立ち上がる。
「俺は宿へ行く。招待状が届くはずだからな。明日、確認したら知らせる」
「……はい」
「お前は、頭を冷やしとけ」
……うん。
そうだね。
クオシンさんが扉へ向かう。
途中で立ち止まり、こちらを振り返った。
「……あと」
「……はい?」
「今、あいつを殺しても、売られるはずだった人間が自動で助かるわけじゃねえ。そこを間違えるなよ」
私は、息を呑んだ。
クオシンさんは、それ以上何も言わず部屋を出ていった。
乱暴な足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
◇
私は、しばらく椅子に座ったままだった。
……殺す。
クオシンさんは、そう言った。
私が口にしていなかった言葉だ。
頭の中だけで、何度も何度も繰り返していた言葉。
……何で、分かったんだろう。
私が顔を上げると、桜花がこちらを見ていた。
巴さんも、静かな目で私を見ていた。
「……リアリスちゃん」
「……うん」
「今日は、少し休みましょう」
「……そうだね」
私は、頷いた。
けれど。
心は、少しも休もうとしてくれなかった。
◇
夕食の時間。
カトレアは、杏子と一緒に食堂へ来た。
私がいることに気づくと、笑顔で近づいてくる。
「お父さん! お話、終わった?」
「……うん。終わったよ」
「よかった。今日は一緒にご飯を食べられる?」
……ああ。
その言葉。
今、一番聞きたかった言葉だったかもしれない。
「……もちろん」
私は、頷いた。
カトレアが、嬉しそうに笑う。
……よかった。
少なくとも、食事の時間は娘と過ごせる。
私は、できるだけ普段どおりにしようと決めた。
今日は、娘を怖がらせたくない。
それだけは、どうしても守りたかった。
◇
食卓には、巴さんが用意してくれた料理が並んでいた。
温かい汁物。
香ばしく焼いた魚。
野菜の煮物。
いつもなら、それだけで嬉しくなる食卓。
カトレアは、今日見つけた花壇の蕾について話してくれた。
「杏子お姉ちゃんと見つけたんだよ。まだ小さいけど、もうすぐ咲きそうなの」
「……そうなんだ」
「咲いたら、お父さんも一緒に見に来てね」
「うん。もちろん」
私は、頷いた。
カトレアは、何の疑いもなく笑っている。
……その笑顔を見ていると。
何だか、胸の奥が痛かった。
この子も、もともとは家族を失っていた。
馬車の中で、一人で怯えていた。
あの日、私たちと出会わなければ。
……いや。
考えてはいけない。
今、カトレアはここにいる。
笑っている。
それでいい。
でも。
四十五人は、今どこにいる?
あの地下で。
誰かの帰りを待ちながら。
……そんなことを考えると、箸が止まった。
◇
「……お父さん?」
カトレアが、私を見た。
「ご飯、おいしくない?」
……あっ。
私は、慌てて首を振る。
「ううん。とっても美味しいよ」
「……ほんと?」
「うん。巴さんのご飯、大好きだもんね」
カトレアが、ほっとしたように笑った。
「よかった」
……ああ。
ごめんね。
何も知らない娘にまで、心配をかけてしまっている。
巴さんが、私へ静かに目を向けた。
私は、無理に笑って答えた。
……大丈夫。
大丈夫だから。
自分へ言い聞かせた。
◇
食事が終わる頃、カトレアが私へ小さな紙を差し出した。
「お父さん、これ」
「……ん?」
そこには、紫色の花が描かれていた。
前にも描いてくれた、帝国の屋敷に置いた花。
今日は、少しだけ大きく描いてある。
「昨日より、上手に描けたと思う」
カトレアが、少し照れたように言った。
私は、絵を受け取った。
「……うん。すごく上手だよ」
「本当?」
「本当だよ」
私は、笑った。
今度は、少しだけ自然に笑えたと思う。
……ああ。
ありがとう。
この一枚が、今はどれだけ嬉しいか。
カトレアには、きっと分からないだろう。
でも、それでいい。
この子には、ただ嬉しそうに笑っていてほしい。
◇
その夜。
カトレアと巴さんは、シルク王国邸へ戻った。
《簡易転移》の扉があるから、送迎のために私が《転移》を使う必要もない。
カトレアは、帰る前に私へ手を振った。
「お父さん、明日もお仕事?」
「……うん。少しね」
「そっか。頑張ってね」
「ありがとう」
私は、しゃがんで頭を撫でた。
……やっと。
いつものように触れられた。
カトレアが、嬉しそうに笑う。
「またお花を見に来ようね」
「……うん。約束だよ」
巴さんが、静かに近づいてきた。
「リアリスちゃん」
「……ん?」
「今夜は、ちゃんと休むのよ」
「……うん」
私は、頷いた。
巴さんは、少しだけ困ったように笑った。
「……無理はしないでね」
「……分かってる」
そう答えたとき。
何だか、自分の声が他人のものみたいに聞こえた。
◇
屋敷が静かになった。
一般メイドたちも、夜の仕事へ戻っている。
桜花は、私のそばにいた。
「リアリス様」
「……ん?」
「今夜は、どうなさいますか」
私は、少し考えた。
「……何もしないよ」
「……はい」
「明日、招待状が届く。クオシンさんが確認してくれる。それから、皇帝と相談する」
桜花が頷く。
「承知いたしました」
……うん。
これが正しい。
これが、みんなを守るためのやり方だ。
私は、理解している。
でも。
それでも。
――今すぐ、あの男を殺したい。
その思いが、胸の底から消えてくれなかった。
◇
私は、自分の部屋へ戻った。
桜花も、いつもどおり隣にいてくれる。
机の上には、カトレアが描いてくれた花の絵。
海で拾った貝殻。
平和な思い出。
私は、椅子へ座った。
……何をしているんだろう。
明日、招待状が届く。
明後日、オークションが開かれる。
分かっている。
それなのに、何もできない。
……いや。
何もしていないわけじゃない。
クオシンさんが、危険を承知で話を聞いてきてくれた。
皇帝も、動く準備をしてくれる。
私は、その人たちを信じて待てばいい。
……なのに。
ただ待つことが、こんなに難しいなんて。
◇
「……桜花」
「はい」
「今日は、ありがとう」
「……どういたしまして」
私は、机の上の絵へ目を向けた。
「心配して、来てくれて」
桜花は、静かに頷いた。
「私は、リアリス様のお傍におります」
「……うん」
……ああ。
本当に、ありがたいな。
私は、少しだけ笑った。
でも。
胸の底の怒りは、まだそこにあった。
じっと、燃えていた。
今はまだ、外へ出ていないだけで。
……明日になれば、少し落ち着くかな。
私は、そう思おうとした。
けれど、その夜。
目を閉じても、眠りはなかなか訪れなかった。
◇
翌朝。
目が覚めると、外が明るくなっていた。
……ああ。
もう、朝なんだね。
昨夜は何度も寝返りを打った。
ようやく目を閉じても、すぐに考え事が始まってしまう。
四十五人。
地下。
競り。
金額。
……駄目だ。
まだ、頭から離れない。
机の上には、カトレアが昨日描いてくれた花の絵があった。
紫色の花。
窓から入る光。
穏やかな、いつもの絵だ。
私は、しばらくそれを見ていた。
こんな朝を、四十五人にも取り戻してほしい。
……それだけを考えられたら、どれほど楽だろう。
◇
扉が、控えめに叩かれた。
「リアリス様。お目覚めでしょうか」
桜花だ。
「……うん。起きてるよ」
銀色の髪が、扉の向こうから現れる。
いつもの、綺麗な姿勢。
けれど、桜花は私の顔を見ると少しだけ目を細めた。
「……あまり、お休みになれませんでしたか」
「……まあね」
私は、苦笑した。
隠せないみたいだね。
「何か、私にできることはございますか」
桜花は、静かに尋ねた。
私は、考えた。
できること。
誰かに何かを頼むなら、まず自分が何をしたいのか分かっていなければならない。
……でも。
今は、それさえはっきりしない。
「……少し、静かなところへ行きたい」
「……静かなところ、でございますか」
「うん。誰もいないところ」
少しの沈黙。
桜花が、静かに頷いた。
「私も、ご一緒してよろしいでしょうか」
「……うん」
私は、顔を上げた。
「……来てくれると、嬉しい」
「かしこまりました」
……ああ。
ありがとう。
◇
向かったのは、以前《亜空間生成》で作っておいた場所だった。
ステラの世界の中にありながら、街の喧騒とは切り離された静かな空間。
周囲には誰もいない。
広い地面が、遠くまで続いている。
桜花と一緒に入ると、外の物音が消えた。
……静かだ。
いつもなら、こういう場所へ来るだけで少し楽しくなる。
魔法の練習をしようか。
何か新しいものを作ろうか。
……そんなことを考えるのに。
今日は、何も思い浮かばなかった。
私は、ただ歩いた。
桜花も、少し離れてついてくる。
足音だけが、二人の間に響いていた。
◇
「……桜花」
「はい」
「昨日から、ずっと考えてたことがあるんだ」
桜花が、足を止めた。
「……はい」
「四十五人を助けたい。それは、本当なんだよ」
私は、自分の手を見た。
いつもと同じ手。
花を植えて、カトレアの頭を撫でて。
魔法でいろいろなものを作ってきた手だ。
「……でも」
言葉が、喉につかえた。
「……子爵に、どうしても怒りが収まらない」
胸が、熱くなる。
「人間なのに。生きている人間なのに。あの男は、どうして値札なんてつけられるんだろう」
桜花は、何も言わない。
「家族がいるかもしれない。帰りたい場所だってあるはずなのに」
私は、息を吸った。
「……そんなこと、考えもしないで」
胸の中にあった言葉が、少しずつ溢れてくる。
「自分が儲かれば、それでいいの?」
大きな声になった。
……ああ。
何だか、情けないね。
でも、言わずにはいられなかった。
◇
「……あの男だけは、許せない」
私は、足元を見た。
平らな地面。
どこまでも静かな空間。
「……消えてしまえばいいと思った」
口にすると、胸がさらに苦しくなった。
桜花が、小さく息を呑んだ。
「……リアリス様」
「……分かってるよ」
私は、頭を振った。
「皇帝もクオシンさんも、今は待てと言った。私だって、その方が安全だと分かってる」
……正しい。
みんなが言ったことは、正しい。
「……でも」
私は、自分の手を強く握った。
「頭で分かってても、腹が立つ気持ちは収まらないんだ」
桜花が、一歩近づいた。
「……リアリス様」
その声には、いつもより慎重な響きがあった。
私は、顔を上げられなかった。
◇
私は、しばらく黙っていた。
考えれば考えるほど、あの屋敷の地下が気になった。
四十五人。
窓もない場所に閉じ込められているのだろうか。
食事は、ちゃんともらえているのだろうか。
名前を呼んでもらえているのだろうか。
……分からない。
分からないからこそ、悪い想像ばかり浮かぶ。
「……桜花」
「はい」
「私、どうしたらいいのかな」
何だか、ひどく小さな声が出た。
桜花が、ゆっくり私の隣へ来る。
「……リアリス様」
それから、静かに言った。
「まずは、何を守りたいのか、お考えになってください」
私は、顔を上げた。
「……何を?」
「はい」
桜花は、まっすぐ私を見た。
「四十五人の方々を助けたいというお気持ちと、子爵が許せないというお気持ち。どちらも、リアリス様の本心なのでしょう」
……うん。
「ですが、その二つが異なる行動を求めるとしたら、どちらを選ばれますか」
私は、何も答えられなかった。
◇
何を、守りたいのか。
そんなこと、決まっている。
「……四十五人を助けたい」
私は、静かに答えた。
「助けられる人がいるなら、助けたい。そのために帝都で話を聞いたんだ」
「……はい」
桜花が、頷く。
「では、子爵への怒りが、その方々の安全を脅かすかもしれないときは?」
私は、目を伏せた。
……それも、分かっている。
「……怒りを抑えないと、いけない」
「はい」
優しい返事。
だけど、私は苦しくなった。
「……でも、できるか分からないんだ」
桜花の顔を見られなかった。
「言葉にするのは簡単だよ。落ち着こう。安全に助けよう。……でも、あの男の顔を見たとき、私がどうなるのか」
私は、自分の手を見た。
「……自信がない」
その言葉が、一番つらかった。
今まで、どんな魔獣が相手でも負ける気はしなかった。
力が足りないと思ったことも、ほとんどなかった。
それなのに、自分の気持ち一つを制御できるか分からない。
「……情けないね」
私は、笑おうとした。
でも、笑えなかった。
◇
「リアリス様」
桜花が、すぐ横へ座った。
いつものように綺麗な姿勢で、私と同じ方向を見ている。
「……私は、リアリス様のお力を存じております」
「うん」
「魔獣を倒すときも、皆様をお守りになるときも、いつもお見事でございます」
……そんなことないよ。
そう言いかけて、口を閉じた。
桜花は、続けた。
「ですが、どれほど大きなお力であっても、悲しいお気持ちや苦しいお気持ちまで、簡単に消せるとは限りません」
私は、顔を上げた。
「……そうだね」
桜花の言葉は、驚くほど静かだった。
「リアリス様が、そのようなお気持ちを抱えていらっしゃることを、私は責めません」
少しだけ、胸が軽くなった。
けれど、次の言葉でまた息が詰まった。
「……ただ、私は、とても心配なのです」
桜花の声が、小さく揺れた。
◇
「……心配?」
「はい」
桜花は、私の方へ向き直った。
「私は、リアリス様の強さに、いつも安心しております」
そうだね。
桜花が危険な目に遭えば、私が助ける。
私に何かあれば、桜花が守ってくれる。
ずっと、そうしてきた。
「でも……今は、少しだけ違います」
桜花は、膝の上の手を見つめた。
「リアリス様ご自身が、苦しんでいらっしゃるからです」
私は、黙っていた。
「どなたかにお怪我を負わされたのでしたら、私はその方を止めます。お具合が悪ければ、休んでいただきます」
……うん。
「ですが、お心の中にあるものは、私が代わりに取り除くことができません」
そこまで言って、桜花は唇を結んだ。
初めて見るような、迷いのある表情だった。
「……リアリス様が、あの方を憎むあまり、ご自分を見失ってしまわれたら」
桜花の声が、さらに小さくなる。
「……私は、どうすればよいのでしょう」
◇
私は、何も言えなかった。
桜花は、いつも頼りになる。
魔獣が出ても動じない。
私がふざけたことを言っても、少しだけ微笑んで付き合ってくれる。
そんな桜花が、今は答えを探すように私を見ていた。
「……リアリス様」
「……うん」
「私は、カトレア様をお迎えした日のことを覚えております」
私も、覚えている。
あの小さな女の子が、馬車の中で怯えていた日。
彼女は、両親を失ったばかりだった。
私たちは、その子を連れて家へ帰った。
「リアリス様は、あのときも誰かをお助けになりたいと仰いました」
「……うん」
「それから、カトレア様が笑ってくださることを、何より喜んでおられました」
……ああ。
そうだね。
「私も、そのお姿が大好きでございます」
桜花は、ゆっくり息を吸った。
「……だから」
ほんの少しだけ、声が震えた。
「どうか、そのお姿を失わないでください」
◇
私は、桜花の目を見た。
銀色の髪の下。
まっすぐな目。
いつもなら、どんな危険な相手を前にしても揺れない目。
その目が、潤んでいた。
「……桜花?」
彼女は、急いで首を横に振った。
「……申し訳ございません」
でも、声が震えている。
「私は、リアリス様に何があっても、お傍にいるつもりでおります」
「……うん」
「それでも、もしリアリス様が、あの方への怒りに呑まれて、ご自身を傷つけるようなことをなさったら……」
そこで言葉が止まった。
桜花が、ゆっくり目を伏せる。
「……どうしてお止めできなかったのかと、私はきっと後悔いたします」
次の瞬間。
桜花の頬を、一粒の涙が伝った。
……あっ。
私は、息を止めた。
桜花が。
泣いている。
私の目の前で。
◇
どんな魔獣と向き合っても、ほとんど表情を変えなかった桜花。
私の無茶な思いつきにも、いつも静かに付き合ってくれた桜花。
その子が、今は涙を流していた。
……私のせいで。
桜花は、慌てたように頬へ手を当てた。
「……申し訳ございません。お見苦しいところを……」
「……違う」
私は、思わず言った。
「……桜花、違うよ」
桜花が、私を見る。
私は、何を言えばいいのか分からなかった。
昨日からずっと、言葉を選べなくなっている気がする。
ただ、一つだけはっきりしていた。
桜花に、こんな顔をさせたかったわけじゃない。
「……ごめんね」
ようやく、それだけ言えた。
桜花が、首を横に振る。
「……いいえ」
私は、そっと手を伸ばした。
頬を伝う涙を、指で拭った。
……温かい。
それが、ひどく胸に染みた。
◇
「……桜花」
「……はい」
「私、昨日から、あの男のことばかり考えてた」
涙の跡を残したまま、桜花が私を見ている。
「四十五人を助けたい。そのつもりだったのに、いつの間にか、子爵がいなくなればいいって、そればっかり」
私は、手を握った。
「……そっちの方が簡単だから」
小さく、言った。
「私が魔法を使えば、あの男を倒すだけなら一瞬だよ」
……でも。
それで、四十五人は帰れるのだろうか。
名前を知らないまま、どこに家族がいるかも知らないまま。
地下に閉じ込められている人たちの鍵は、誰が開けるのだろう。
「……私、何を優先してたんだろうね」
桜花は、静かに答えた。
「今、気づいていただけたのでしたら、それでよろしいかと存じます」
……うん。
まだ、間に合う。
少なくとも、今は。
◇
私は、桜花をそっと抱きしめた。
銀色の髪が、頬へ触れる。
桜花も、ゆっくり腕を回してくれた。
しばらく、何も言わなかった。
外の世界の音が届かない場所。
二人の呼吸だけが、近くにある。
……ああ。
この子は、私がどんな顔をしていても、そばにいてくれる。
でも、それを当たり前だと思ってはいけない。
桜花だって、嬉しいことも悲しいことも感じる。
私を心配して、涙を流すことだってある。
「……心配させて、ごめんね」
もう一度、言った。
「私、桜花がいてくれてよかった」
桜花の腕が、ほんの少し強くなる。
「……私も、リアリス様のお傍にいられて、幸せでございます」
……ああ。
ありがとう。
私は、ようやく深く息を吐くことができた。
◇
体を離すと、桜花の目元にはまだ少しだけ涙の跡があった。
私は、彼女を見た。
「……桜花」
「はい」
「私、あの四十五人を助けたい」
桜花が、頷く。
「……はい」
「できる限り、誰も傷つけずに。まだ何も知らない使用人や兵士まで、まとめて悪者にはしたくない」
自分の声が、少しだけ落ち着いてきたのが分かった。
「クオシンさんも皇帝も、準備してくれてる。私も、やるべきことを考えるよ」
「かしこまりました」
「……でも」
私は、少しだけ視線を落とした。
「ゴゾーラ子爵を許せるかどうかは、まだ分からない」
桜花は、すぐには答えなかった。
それから、静かに頷く。
「……それで、よろしいかと存じます」
「……いいの?」
「はい。許せないお気持ちを、無理に消す必要はございません」
彼女は、まっすぐ私を見た。
「ただ、そのお気持ちに、リアリス様の大切なものまで奪わせないでください」
……ああ。
そうだね。
怒りがあることと、怒りに従って動くことは違う。
私は、ようやく自分が何を守りたいのかを思い出した。
◇
「……ありがとう、桜花」
私は、ゆっくり立ち上がった。
桜花も、隣に立つ。
「亜空間へ来るときは、誰にも会いたくないと思ってたんだ」
「……そうだったのですね」
「……でも、今は逆だね」
私は、少しだけ笑った。
「帰って、みんなの顔を見たい」
桜花が、ほんの少し目を細めた。
「それは、何よりでございます」
……うん。
ただし。
問題が終わったわけじゃない。
まだ、四十五人は地下にいる。
子爵は、明日の競りを準備しているはずだ。
何も解決していない。
……でも。
助けるために動こう。
憎むことだけに、時間を使うのはやめよう。
私は、桜花の手を取った。
「帰ろうか」
「はい」
私たちは、亜空間の出口へ向かった。
◇
帝国邸へ戻ったときには、もう昼を少し過ぎていた。
屋敷の廊下では、一般メイドが掃除をしている。
窓からは、庭の花が見えた。
……ああ。
いつもの景色だね。
けれど、亜空間へ向かう前とは、少しだけ違って見えた。
「お帰りなさいませ、リアリス様」
メイドが、丁寧に頭を下げた。
「ただいま」
私は、今度はちゃんと顔を上げて答えた。
メイドは、ほんの少しだけ安心したようだった。
……うん。
昨日は、心配させちゃったね。
私は、桜花と一緒に応接室へ向かった。
そこで、屋敷の管理をしているメイドから声をかけられた。
「リアリス様。少し前に、シルク王国の第一王子殿下からご連絡がございました」
……おっ。
クオシンさんから?
「どうしたって?」
「帝都の宿で、封書を受け取られたそうです。お渡ししたいものがあると」
――招待状。
私は、桜花と顔を見合わせた。
「分かった。ありがとう。来られるようなら、こちらへ案内してもらっていいかな」
「かしこまりました」
……うん。
届いたんだね。
もう、噂という言葉だけでは済まなくなってきた。
◇
しばらくして、玄関の方から荒っぽい足音が聞こえた。
「おい、リアリス!」
……ああ。
この声。
クオシンさんだ。
「ここです」
私が応接室の扉を開けると、彼は不機嫌そうな顔で立っていた。
「……遅え」
「……すみません」
……いや。
今、来たばかりですよね?
でも、今日は言い返すのをやめておこう。
「……お前、昨日よりはましな顔してるな」
「……そうですか?」
「ふん。少なくとも、今すぐ何か壊しそうな面じゃねえ」
……あっ。
そんなふうに見えてたんだ。
私は、桜花へ目を向けた。
桜花が、ほんの少し頷く。
……うん。
ありがとう。
クオシンさんは、私たちの様子を見て眉をひそめた。
「……何だ、お前ら。妙に静かだな」
「……ちょっと、話をしてたんです」
「ふん。まあいい」
彼は、持っていた封書を机へ置いた。
◇
封書は、厚い紙で作られていた。
表には、金色の縁取り。
裏側には、見覚えのない紋章を刻んだ封蝋。
……おお。
ずいぶん立派なものだね。
クオシンさんが、顎で示した。
「宿へ届いた。俺の名を確認して、ちゃんと手渡してきやがったよ」
「……これが、招待状?」
「ああ。開けてみろ」
私は、丁寧に封を切った。
中には、一枚の厚い紙。
流れるような文字で、招待の言葉が書かれていた。
『選ばれた客人のための特別夜会』。
日時は、明日の夕刻から。
場所は、ゴゾーラ子爵邸。
案内に従い、地下会場へ入ること。
招待状のない者は入場できないこと。
……地下。
ちゃんと、書いてある。
私は、何度もその行を読み返した。
子爵の名前と、屋敷の所在地。
日時。
入場方法。
ただし、何を競りにかけるかは書かれていない。
「……品物の内容は、ないんですね」
私が言うと、クオシンさんは鼻を鳴らした。
「当たり前だ。人間を売るって紙に書くほど、あいつも馬鹿じゃねえんだろ」
……そうだね。
この招待状だけでは、人身売買の証明にはならない。
でも、子爵が自分で話した内容と、場所と日時が一致している。
それは、大きな手がかりだ。
◇
「……これを、皇帝へ見せましょう」
私が言うと、クオシンさんは頷いた。
「ああ。俺も、そのつもりで来た」
彼は、椅子へ腰を下ろした。
昨日と同じように、粗暴な態度だ。
だけど、今日はお茶へ手を伸ばさない。
……ああ。
この人も、落ち着かないのかもしれない。
「クオシンさん」
「あぁ?」
「……ありがとうございました」
私は、静かに頭を下げた。
「この招待状があれば、皇帝にももう少し具体的な話ができると思います」
「……ふん」
クオシンさんは、顔を逸らした。
「礼なんざ要らねえ。あの豚野郎の顔を見た時間が無駄にならねえなら、それでいい」
……うん。
本当に、あの子爵が嫌いなんだね。
私も、同じだよ。
でも、今日はそのことをあえて口にしなかった。
◇
《映像通話》の画面が開く。
ヴァリロッサ皇帝とガラント宰相が、ほどなく姿を現した。
『……リアリス。何か動きがあったか』
皇帝の声は、昨日よりずっと低かった。
「うん。招待状が届いたよ」
私は、紙面を画面の前へかざした。
クオシンさんが、姿勢を正す。
「ヴァリロッサ皇帝陛下。昨日申し上げた件につきまして、子爵邸の夜会への招待状を正式に受領いたしました」
……おっ。
また、王子様。
「記載された開催日時と場所は、子爵から直接伺った内容と一致しております。ただし、人の売買を示す文言はございません」
『……なるほど』
皇帝が、紙面を確かめるように目を細めた。
ガラントさんも、画面へ近づく。
『子爵邸の地下会場……明日の夕刻。記載は確認いたしました』
……うん。
これで、同じ情報をみんなが共有できたね。
私は、紙を机へ戻した。
◇
『……リアリス』
皇帝が、私へ声をかけた。
「……うん」
『お前は、どうしたい』
私は、すぐには答えなかった。
昨日なら、何を言っていただろう。
今すぐ行きたい。
あの男を許せない。
……きっと、そんな言葉だった。
でも、今は違う。
「……四十五人を、安全に助けたい」
私は、はっきり答えた。
「子爵を問い詰めることより、地下にいる人たちを外へ出すことを優先したいんだ」
皇帝が、小さく頷いた。
『……ああ。それでいい』
「兵士や使用人の中には、何も知らない人もいるかもしれない。だから、いきなり全員を敵だと思って動くのはやめる」
ガラントさんが、静かに言った。
『その区別は必要です。今の段階では、誰が関与しているかも分かりません』
「……うん」
私は、ゆっくり息を吸った。
「そのうえで、お願いがあるんだ」
『言ってみろ』
「人を安全に保護できるように、明日の夜会を待たずに屋敷を押さえたい。もし誰かが地下にいるなら、競りへ出される前に助けたいんだ」
画面の向こうが、静かになった。
◇
最初に口を開いたのは、ガラントさんだった。
『……陛下。これまでの証言と、今回の招待状を合わせれば、少なくとも現場を確認するための手配を進める理由はございます』
『ああ』
皇帝が腕を組む。
『だが、相手は子爵だ。俺が兵を連れて正面から行けば、地下の連中を隠す時間を与えるかもしれん』
……うん。
それが、怖い。
『それに、屋敷全体の内情は分かっていない。急に動けば、無関係の使用人も巻き込む』
皇帝は、しばらく考え込んだ。
やがて、私を見た。
『……お前なら、地下の連中を傷つけずに動けるか』
私は、頷いた。
「できると思う。まず屋敷を《結界》で囲って、逃げられないようにしてから、中を確かめる」
『……なるほど』
皇帝は、少しだけ目を細めた。
『ただし、必要以上に人を傷つけるな。誰が罪を犯したか決めるのは、現場を確認してからだ』
「……分かってる」
私は、静かに答えた。
◇
『ガラント』
『はい、陛下』
『こちらも動く準備をしろ。正式な報告を受け次第、対応できるようにしておけ』
『承知いたしました』
……ああ。
よかった。
私たちだけで、全部を抱える必要はない。
皇帝が、もう一度こちらを見る。
『リアリス。屋敷の中に人がいると確認できたら、まずそいつらを助けろ。俺との約束を忘れるな』
「……うん」
『それから、クオシン殿』
クオシンさんが、すっと姿勢を正した。
「はい、陛下」
『よく情報を持ち帰ってくれた。ここからは危険が増す。無理をするな』
「ご配慮、心より感謝申し上げます。私も、被害を最小限にできるよう努めます」
……おお。
どこまでも、丁寧だね。
皇帝が、静かに頷く。
『よし。何か分かれば、すぐに知らせろ』
そう言って、通話が終わった。
◇
光る画面が消える。
その途端、クオシンさんが大きく息を吐いた。
「……チッ。やっと話が進んだな」
……あっ。
戻った。
「クオシンさん、本当にお疲れさまでした」
「うるせえ。お前に労われる筋合いはねえ」
私は、静かに頭を下げた。
「……でも、助かりました」
彼は、私を少し睨んだ。
「……昨日のお前なら、今の話もまともにできなかっただろうな」
私は、答えなかった。
……そうかもしれない。
「何があったか知らねえが、今は四十五人のことを考えてる顔になった」
……ああ。
分かるんだね。
「……そうしたいと思ってます」
私が答えると、クオシンさんが鼻を鳴らした。
「ふん。口だけで終わるなよ」
「……はい」
……うん。
今日は、その言い方が少しだけありがたかった。
◇
「……で、お前はどう動く」
クオシンさんが尋ねた。
「今日の夕方までに、準備を整えます」
「……今日、か」
「はい。明日の夜会を待つより、先に地下の人たちを助けた方が安全だと思うので」
クオシンさんは、ゆっくり頷いた。
「……そうだな。奴らに売り先が決まる前に動く方がいい」
少しだけ、表情が厳しくなる。
「だが、俺はあいつの屋敷へもう行かねえぞ」
「……そうですね。子爵も警戒するかもしれません」
「それだけじゃねえ。あの面をもう一度見たら、今度こそ我慢できる自信がねえ」
……あっ。
クオシンさんも、そうなんだ。
「……分かりました。ここからは私たちでやります」
私が言うと、彼は眉をひそめた。
「おい、勘違いすんな。俺が全部投げ出すって意味じゃねえぞ」
「……え?」
「招待状も、証言も、必要なら俺が持っていく。だが、屋敷の中で人を押さえる仕事はお前らに任せるって言ってんだ」
……ああ。
そういうことか。
「ありがとうございます」
「……礼は要らねえっつってんだろ!」
……はい。
◇
クオシンさんは、封書を丁寧にしまった。
「俺は、ここで待つ。何かあったら連絡しろ」
「分かりました」
「それから、リアリス」
「……はい?」
彼は、私をまっすぐ見た。
「昨日言ったこと、忘れてねえだろうな」
私は、目を逸らさなかった。
「……四十五人を助けることが、先ですよね」
「そうだ」
クオシンさんは、短く頷いた。
「子爵を殴るために行くんじゃねえ。そこだけは間違えるなよ」
「……はい」
私は、ゆっくり頷いた。
桜花が、私の隣で静かに息を吐く。
……うん。
忘れない。
四十五人。
まずは、その全員を外へ出すんだ。
◇
クオシンさんが応接室を出ていったあと、私は桜花へ向き直った。
「……桜花」
「はい、リアリス様」
「お願いがあるんだ」
彼女は、姿勢を正した。
「何なりとお申し付けください」
「フラワーズのみんなを、ここへ集めてほしい」
桜花が、少しだけ目を見開いた。
「……全員、でございますか」
「うん。八人全員」
いつもなら、各邸を守ってくれている子たちだ。
突然全員を集めるのは、簡単なことじゃない。
でも、今回は力が必要だ。
それも、敵を倒すだけの力じゃない。
人を傷つけずに取り押さえて、助けたい人を守るための力。
「各邸には一般メイドたちが残っているし、《結界》もある。巴さんにも《状況把握》で異常がないか見てもらおう」
「……承知いたしました」
桜花が、静かに頷いた。
「《簡易転移》の扉を使い、順番に皆へ伝えてまいります」
「ありがとう。できるだけ急ぎたいけど、無理はしないでね」
「かしこまりました」
……うん。
これで、準備を進められる。
◇
桜花が部屋を出たあと、私は一人で応接室に残った。
窓の外には、帝国邸の庭が広がっている。
花壇には、昨日カトレアが描いた紫の花が咲いていた。
……ああ。
綺麗だね。
私は、窓辺へ近づいた。
風で、花が揺れる。
何も知らなければ、今日もただ平和な一日だった。
でも、今はその平和を守るために、動かなければならない。
……いや。
守りたいのは、私の家族だけじゃない。
地下にいる四十五人にも、こんな日常があったはずだ。
あるいは、まだ知らないだけで。
これから、作れるはずなんだ。
私は、拳をゆっくり握った。
……今度こそ。
怒りに呑まれずに、行動しよう。
◇
少しして、扉が開いた。
最初に入ってきたのは、杏子だった。
白から桃色へと変わる短い髪。
いつもと変わらない、静かな表情。
「リアリス様。お呼びでしょうか」
「うん。来てくれてありがとう」
杏子は、小さく頷いた。
その後ろには、桜花。
そして、ほかのフラワーズたちが続いていた。
楓。
藤。
蘭。
牡丹。
撫子。
菖蒲。
朝顔。
みんな、揃ったんだね。
八人が、静かに並んだ。
誰も、大きな声を出さない。
でも、その小さな姿を見て、私は少しだけ安心した。
◇
「……みんな」
私は、全員を見回した。
「急に呼んじゃって、ごめんね」
藤が、小さく首を横に振る。
「問題ございません、リアリス様」
蘭も、静かに頷いた。
「各邸の引き継ぎは済ませております」
菖蒲が続ける。
「一般メイドたちへ、今夜の連絡方法も伝えてございます」
「ありがとう」
……うん。
本当に、頼もしい子たちだね。
撫子と朝顔も、いつもと変わらない表情でこちらを見ていた。
牡丹は、少しだけ拳を握っている。
杏子は、私の顔を静かに見上げた。
そして、楓。
橙色の短い髪の、小さな天才。
私の前へ一歩だけ進み出て、短く言った。
「……指示」
……ああ。
相変わらず、無駄がないね。
「うん。これから話すよ」
◇
私は、八人へ事情を説明した。
帝都で行方不明の人がいること。
ゴゾーラ子爵が、地下で人を売る競りを開こうとしていること。
クオシンさんが、四十五人という人数と開催日時を聞き出したこと。
皇帝へ報告し、救出へ向けて動くことになったこと。
……そして。
「今回、みんなにお願いしたいのは、誰かを倒すことだけじゃないんだ」
私は、八人を見た。
「地下にいる人たちを守りながら、屋敷の中を安全に確かめたい。誰が関わっているかも分からないから、むやみに傷つけたくない」
桜花が、私の隣で頷いた。
「リアリス様のご意向は、皆へお伝えしております」
……うん。
「危険な相手は止める。でも、関係のない人まで傷つけない。そのことを優先してほしい」
八人が、静かに頷いた。
……ああ。
少しだけ、肩の力が抜けた。
◇
「……それから」
私は、一度だけ息を吸った。
これを言うのが、少し怖かった。
「もし私が、冷静じゃなくなっていたら……止めてほしい」
部屋が、静かになった。
フラワーズたちは、ほとんど表情を変えない。
けれど、私を見つめる目は真剣だった。
「私が何か間違えそうになったら、遠慮せずに言ってね」
桜花が、私を見た。
「……リアリス様」
「うん」
「そのときは、必ずお声をかけます」
私は、微笑んだ。
「ありがとう」
……うん。
これでいい。
一人で全部背負おうとしなくてもいいんだ。
みんながいてくれる。
◇
窓の外では、陽が少し傾き始めていた。
明日のオークションを待たずに、今日動く。
それが、私たちの決断だった。
皇帝も、クオシンさんも、桜花も、フラワーズも。
みんな、それぞれの立場で力を貸してくれている。
……だから。
私は、もう一度八人を見回した。
「みんな。よろしくね」
返事が、静かに揃った。
「かしこまりました、リアリス様」
楓も、ほんの少し頷いた。
「……任せて」
……ああ。
頼もしいなぁ。
私は、手を開いた。
昨日から何度も握り締めてきた手。
今は、少しだけ落ち着いている。
桜花が、その手へそっと触れた。
「リアリス様」
「……うん」
「ご一緒いたします」
私は、ゆっくり頷いた。
「……ありがとう、桜花」
助けたい人がいる。
待っている人がいる。
私たちには、その人たちを守るための力がある。
……なら。
その力を、今度こそ正しく使おう。
――私たちは、四十五人を迎えに行く。




