第3話:地下オークションの招待状
たった一枚の招待状。
貴族同士が集まる夜会や、珍しい品を披露する催しなら、それはきっと、どこにでもあるものなのだろう。
でも。
その紙に書かれた日時と場所が、人の人生を取り返しのつかないものに変えるとしたら。
そんなものを、招待状と呼んでいいのだろうか。
……私は、このときまだ知らなかった。
私が確かめようとしていた噂は、思っていたよりもずっと、深いところに根を張っていたのだ。
◇
翌朝。
シルク王国邸の食堂には、いつもと変わらない朝の光が差し込んでいた。
カトレアは、昨日描いた花の絵を巴さんに見せている。
「これが、帝国のお家に置いたお花なの」
「あら、綺麗ね。花びらの色もよく覚えているわ」
「うん! 窓のところにあるから、お日様も当たるんだよ」
……うん。
楽しそうだね。
巴さんも、優しく頷いていた。
私は、その光景を眺めながら朝食を取っていた。
目の前には、焼いた魚と温かい汁物。
いつもなら、ひと口食べるたびに美味しいなぁと思っているところだ。
でも今日は、少しだけ味が遠く感じる。
「リアリスちゃん」
巴さんが、私を見た。
「今日、帝国へ行くのね」
「うん。まずは皇帝に連絡して、それからクオシンさんと向かう予定だよ」
「……そう」
巴さんは、カトレアへ目を向けた。
それから、また私へ視線を戻す。
「カトレアちゃんのことは心配しなくていいからね」
「ありがとう」
カトレアが、私を見上げる。
「お父さん、お仕事?」
「うん。今日はちょっと大事なお話をしてくるよ」
「そっか。気をつけてね」
……ああ。
この子は、少しずつ言葉が増えてきたね。
でも、こうして心配してくれる可愛らしさは、そのままだ。
「うん。ちゃんと帰ってくるよ」
私は、カトレアの頭をそっと撫でた。
◇
朝食を終えて、自分の部屋へ戻る。
机の上には、昨夜まとめたメモがある。
帝都で耳にした行方不明者の噂。
皇帝から聞いたゴゾーラ子爵の名前。
アリーナさんが教えてくれた、クオシンさんと子爵の面識。
そして、昨日の王城での話し合い。
……うん。
これだけ整理しておけば、説明はできそうだ。
私は、手元へ魔力を集めた。
「《映像通話》」
目の前に、薄く光る画面が現れる。
ローズ帝国のヴァリロッサ皇帝へ連絡を取るためだ。
少しして、画面の向こうに見慣れた顔が映った。
『おう、リアリス! どうした、朝から!』
「おはよう、皇帝。ちょっと相談があるんだけど、今は時間ある?」
『……また、何かやらかしたのか?』
「いやいや、まだ何もしてないよ!」
……あっ。
まだ、って言い方も変かな。
皇帝は、豪快に笑った。
『ははは! ならいい! 話してみろ!』
私は、昨日王城で話したことを手短に説明した。
ゴゾーラ子爵と面識がある人物が見つかったこと。
その人物が、子爵から話を聞く協力を申し出てくれたこと。
ただし、相手はシルク王国の第一王子だということ。
画面の向こうで、皇帝の表情が変わった。
『……第一王子だと?』
「うん。クオシンさん」
『ほう。あの王子がな』
皇帝は、少し考えた。
『よし。まずは直接話を聞こう。昼前なら城にいる。来られるか?』
「ありがとう! それじゃ、本人と一緒に行くね」
『ああ。ガラントにも同席させる』
……うん。
そこまで考えてくれるなら、ありがたいね。
通話を終える前に、皇帝がふっと笑った。
『……ところで、リアリス』
「ん?」
『随分と面白いことになってきたな。楽しみにしているぞ』
「……何を?」
『決まってるだろう。久しぶりに会えるんだ、今度こそ手合わせを――』
「……皇帝?」
そこで、画面の向こうから別の声が聞こえた。
『陛下。今はその話ではございません』
……おっ。
ガラントさん!
助かった!
◇
通話を終えると、扉が控えめに叩かれた。
「リアリス様」
「桜花? どうぞ」
入ってきたのは、銀色の短いおかっぱ髪の桜花だった。
いつもどおり、姿勢が綺麗だ。
「皇帝陛下とのお話は、終わられましたか」
「うん。昼前に会えることになったよ」
「承知いたしました。では、私も支度を」
「……桜花」
私は、少し迷ってから声をかけた。
「今日は、ここで待っていてもらってもいいかな」
桜花の目が、わずかに見開かれた。
「……私が、ですか」
「うん」
いつも一緒にいる桜花に、留守番を頼むことは多くない。
だからこそ、言いにくかった。
「今日はクオシンさんと二人で話を進める予定なんだ。皇帝への説明も、子爵への訪問もね」
「……はい」
「桜花がいると余計に警戒されるかもしれないし、昨日もそういう話になったから」
桜花は、すぐには答えなかった。
私は続けた。
「何かあれば連絡する。だから、今日は巴さんたちとここにいてほしいんだ」
少しの沈黙。
それから、桜花が静かに頭を下げた。
「……かしこまりました」
……うん。
ありがとう。
そう言おうとしたとき、桜花が顔を上げた。
「ただし、リアリス様」
「ん?」
「どうか、ご無理だけはなさらないでください」
「もちろん」
私は、笑って答えた。
でも、桜花の表情は、いつもより少しだけ硬かった。
◇
出発前。
私は、巴さんにも予定を伝えた。
「皇帝に会って、そのあとクオシンさんが子爵へ話を聞きに行くよ。私は外で待つつもり」
「そう。桜花ちゃんは?」
「今日はお留守番をお願いしたんだ」
巴さんは、少し驚いたようだった。
そのあと、静かに頷く。
「分かったわ。こちらは任せてね」
「ありがとう」
カトレアも、廊下から顔を出した。
「お父さん、行ってらっしゃい!」
「いってきます!」
……うん。
いつもと同じ挨拶。
でも、今日に限っては、少し重く感じた。
私は、桜花へ向き直った。
「帰ってきたら、ちゃんと話すからね」
「……はい。お待ちしております」
その返事を聞いてから、私は一人で屋敷の庭へ向かった。
目指すのは、まずシルク王城。
昨日約束した、クオシンさんとの合流だ。
◇
王城では、クオシンさんがすでに待っていた。
……おっ。
早いね。
昨日と違って、今日は外出用の上等な服を着ている。
深い色の上着に、丁寧に整えられた襟元。
髪も綺麗に整えられていた。
……ああ。
こうして黙って立っていると、本当に立派な王子様だね。
「おはようございます、クオシンさん」
「……チッ。遅え」
「……えっ。約束の時間には、まだ余裕がありますよ?」
「俺より遅く来たんだから、遅えんだよ」
……ああ。
はい。
やっぱり、いつものクオシンさんだ。
「皇帝から、昼前に来ていいと返事をいただきました」
「……で?」
「まず帝国邸へ《転移》して、そこからお城へ向かおうと思ってます」
「さっさとしろ。無駄話で時間を潰すな」
……うん。
今日も、口が悪いねぇ。
私は苦笑しながら頷いた。
「分かりました。こちらへどうぞ」
彼は、短く鼻を鳴らした。
◇
王城の人目につきにくい場所へ移動する。
そこで、私はクオシンさんへ確認した。
「《転移》は初めてですよね?」
「ああ。だから何だ」
「ちょっと驚くかもしれませんけど、すぐに着きますよ」
「……ふん。さっさとやれ」
……あっ。
ずいぶん、堂々としてるね。
私は、ローズ帝国邸の庭を思い浮かべた。
「《転移》」
ふわりと景色が変わる。
石造りの王城の壁が消え、次の瞬間には帝国邸の庭。
木々が風に揺れ、屋敷の窓から朝の光が差し込んでいた。
……うん。
到着!
「……は?」
後ろから、短い声。
振り向くと、クオシンさんが周囲を見回していた。
「……おい。ここはどこだ」
「ローズ帝国の、私の屋敷です」
「……はぁ?」
私は、笑顔で答えた。
「帝都に着きましたよ」
クオシンさんの額に、少しだけ青筋が浮かぶ。
「……お前、今、何をした?」
「《転移》です。説明したとおり、一瞬で移動できる魔法で」
「そんなもん、知ってる! ……いや、知ってはいるが……」
……おっ。
ちょっと動揺してる?
クオシンさんは、深く息を吐いた。
「……チッ。気に食わねえ魔法だな」
……うん。
便利なんだけどねぇ。
◇
庭から屋敷へ入ると、留守を守ってくれていた一般メイドたちが迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、リアリス様」
「ただいま。今日は、お客様をお連れしたんだ」
メイドたちは、クオシンさんへ丁寧に頭を下げる。
「ようこそお越しくださいました」
その声を聞くと、クオシンさんは姿勢を正した。
「……ああ」
……うん。
今は、まだ普通の返事だ。
彼は、屋敷の内装を見回した。
家具や照明。
整えられた床。
季節の花を飾った小さな花瓶。
……おっ。
気になるのかな。
「こちらで少し休んでから、帝城へ向かいましょう」
私が言うと、クオシンさんは不機嫌そうに答えた。
「……好きにしろ」
……あはは。
お客さんなのに、偉そうだなぁ。
◇
応接室へ入ると、メイドが紅茶と焼き菓子を用意してくれた。
香りのよい紅茶。
小さく丸く焼いたクッキー。
どちらも、屋敷の敷地内にある雑貨屋で販売している商品だ。
……うん。
見慣れたお茶の時間だね。
「どうぞ」
私が勧めると、クオシンさんはカップを持ち上げた。
一口、紅茶を飲む。
……おっ。
何だか、顔が変わった?
「……何だ、これは」
「紅茶ですけど……?」
「そんなことは見りゃ分かる!」
……あっ。
怒られちゃった。
クオシンさんは、もう一口飲んだ。
「……香りがいいな」
「気に入りました?」
「別に」
……あはは。
そう言うわりに、もう半分くらい飲んでるよ。
私は、クッキーの皿を彼の前へ寄せた。
「お菓子もどうぞ」
「……ふん」
クオシンさんが、一枚つまんだ。
さくっ。
小さな音。
しばらく無言。
それから、もう一枚。
……うん。
これ、気に入ってるね。
◇
「……おい」
クオシンさんが、私を見た。
「はい?」
「この菓子、どこの店で売ってる」
「うちの雑貨屋で売ってますよ」
「……は?」
「このクッキーも、今飲んでる紅茶の茶葉も、敷地内の雑貨屋で買えるんです。お土産にもできますよ」
クオシンさんは、皿へ目を落とした。
「……そうか」
そして、また一枚取った。
……ああ。
素直に美味しいって言えばいいのに。
「お口に合って、よかったです」
「勝手に決めつけるな。腹が減ってるだけだ」
「……はい」
……うん。
やっぱり、この人はこの人だねぇ。
クオシンさんは、紅茶を飲み干した。
それから、空のカップを机へ置いて言った。
「……もう一杯」
…………。
……おっ。
おかわり!
「はい。すぐに」
私は、メイドに目で合図した。
……あはは。
不思議だなぁ。
こんなに口が悪いのに、お茶を飲む姿は結構優雅なんだね。
◇
ただ。
お茶を飲んでいるあいだも、話す内容は昨日の続きだった。
「……で、皇帝は何と言ってた」
「昼前なら会えるそうです。ガラントさんも同席してくれるみたい」
「そうか」
クオシンさんは、少し考えた。
「話す順番は決めてあるな?」
「はい。まず私から経緯を説明して、それからクオシンさんに――」
「違う」
……おっ。
「俺が自分で話す。お前は聞かれたことだけ答えろ」
「……分かりました」
「余計な一言を足すな。帝国の皇帝に、下手な誤解をさせたくねえ」
……うん。
確かに、そこは大切だ。
「それから、子爵に会ったときも、俺の邪魔はするなよ」
「はい。外で待ってます」
クオシンさんは、短く頷いた。
「……ふん。それならいい」
口調はいつもどおり荒い。
でも、今の彼の言葉には、一つずつ目的があるように感じた。
何を聞いて。
何を話して。
何をまだ話さないか。
……ああ。
この人、考えることはちゃんと考えてるんだね。
問題は、その言い方なんだけど。
◇
帝城へは、屋敷から通常どおり大通りを通って向かった。
空は晴れていて、道沿いの商店もいつもどおり賑わっている。
……うん。
昨日と変わらない帝都だ。
でも、今は景色が違って見える。
商品の値段を書いた札。
店先で交わされる商談。
忙しそうに荷を運ぶ人。
……それらを見るたびに、昨日聞いた言葉が浮かぶ。
――人を、売り買いする。
私は、隣を歩くクオシンさんを見た。
彼も、帝都の様子を眺めている。
ただし、顔はいつもどおり不機嫌だ。
「……何だ」
「いえ。何でも」
「だったら、じろじろ見るな」
……うん。
すみません。
私たちは、やがて帝城の門へ着いた。
◇
門に立つ兵士へ声をかけると、すぐに案内の者が現れた。
「リアリス殿。本日はお連れ様もご一緒と伺っております」
「はい。シルク王国の第一王子、クオシンさんです」
クオシンさんが、前へ進んだ。
姿勢を正し、静かに一礼する。
「シルク王国第一王子、クオシン・シルクと申します。本日は皇帝陛下にお目通りの機会を賜り、誠に光栄に存じます」
…………。
……えっ?
思わず、隣を見た。
誰?
……いや。
クオシンさんだよね!?
あの人が、こんな丁寧な言葉を?
兵士も、深く頭を下げた。
「恐れ入ります。こちらへどうぞ」
「よろしくお願いいたします」
……おお。
姿勢も、声の高さも、穏やかだ。
まるで、別人。
私は、少し遅れてその後ろを歩いた。
……ああ。
王子様って、こういうこともできるんだね。
◇
案内されたのは、以前皇帝と話したことのある会議室だった。
扉が開く。
「リアリス殿、ならびにシルク王国第一王子クオシン殿下をお連れしました」
「おう! 入れ!」
ヴァリロッサ皇帝の大きな声。
部屋には、皇帝とガラント宰相がいた。
「リアリス! よく来たな!」
「こんにちは、皇帝」
私は、いつもどおり挨拶した。
すると、クオシンさんが一歩前へ出る。
「ヴァリロッサ皇帝陛下。このたびは突然の訪問にもかかわらず、貴重なお時間を賜り、心より御礼申し上げます」
彼は、綺麗に頭を下げた。
「シルク王国第一王子、クオシン・シルクでございます。本日は、陛下へ直接ご説明申し上げたい事柄があり、参上いたしました」
…………。
……えっ。
いや、待って。
今朝、私に『遅え』って言ってた人だよね?
皇帝が、少しだけ目を丸くした。
そして、大きく笑った。
「ははは! ずいぶん礼儀正しい王子だな! 楽にしろ!」
「恐れ入ります。お心遣いに感謝いたします」
……おお。
完璧だ。
完璧に、王子様だ!
◇
ガラント宰相が、椅子を勧めてくれた。
「どうぞ、お掛けください」
「ありがとうございます」
クオシンさんは、綺麗な所作で着席した。
私も、隣へ座る。
皇帝は、私たちを交互に見ていた。
「それで、クオシン殿。俺に話があるそうだな」
「はい。陛下には、まず今回の訪問の趣旨をご説明いたします」
……うん。
話が始まるね。
私は、口を挟まずに聞くことにした。
クオシンさんは、昨日の王城で話した内容を、順番に説明し始めた。
帝都で行方不明者の噂があること。
違法な奴隷売買が疑われていること。
その疑惑に、ゴゾーラ子爵の名が挙がっていること。
そして、自分が以前その子爵と面識を得ていたこと。
話の順序は、分かりやすかった。
何が確かで、何がまだ噂なのかを、丁寧に区別している。
……ああ。
すごいね。
あの粗暴な口調の人と、本当に同じ人物なのかな。
◇
「……以上の事情から、私個人として、ゴゾーラ子爵との旧交を温める形でお話を伺えればと考えております」
クオシンさんが、静かに続けた。
「もちろん、現時点で子爵の罪を決めつける意図はございません。帝国の統治権を侵すような行いも、厳に慎む所存です」
皇帝の顔が、少し真面目になった。
「ふむ」
ガラント宰相が、片眼鏡を直す。
「つまり、シルク王国からの正式な使者としてではなく、殿下個人の訪問ということですね」
「おっしゃるとおりでございます」
クオシンさんは、頷いた。
「父王より、帝国に対する調査命令を受けた事実はございません。あくまで私自身の判断によるものです」
……うん。
昨日用意した記録のとおりだ。
皇帝は、机へ肘をついて考えていた。
「……それで、もし本当に奴隷売買があったら?」
クオシンさんは、落ち着いて答えた。
「その際は、直ちに陛下へお知らせいたします。処置は帝国の法とご判断に委ねるべきと存じます」
……おお。
これなら、勝手に事件を起こすことにはならない。
私は、内心ほっとした。
◇
「リアリス」
皇帝が、私の方を見た。
「はい?」
「お前は、どういうつもりでこの王子を連れてきた?」
……おっ。
私にも質問だね。
「昨日の話を聞いて、何かできないか考えたんだ。でも、証拠がないまま勝手に動くのはよくないと思って」
私は、正直に答えた。
「クオシンさんが子爵と知り合いだと聞いたから、協力をお願いしたよ」
「無理やり連れてきたのか?」
「違うよ。クオシンさん自身が手伝うって言ってくれたんだ」
皇帝は、クオシンさんへ目を向けた。
「そうなのか?」
クオシンさんは、姿勢を正して答えた。
「はい、陛下。私の意思でございます。リアリス殿から強制された事実はございません」
……ああ。
はっきり言ってくれたね。
私は、少しだけ嬉しくなった。
皇帝も、ゆっくり頷いた。
「なるほどな」
◇
「……ただし、一つ条件がある」
皇帝が、低い声で言った。
室内の空気が、少しだけ張りつめる。
……あっ。
やっぱり、そう簡単にはいかないよね。
ガラント宰相も、皇帝へ目を向けた。
「陛下」
「分かっている」
皇帝は、私をまっすぐ見た。
「帝国の貴族に近づくことを認める以上、俺も責任を持つ。お前たちが勝手に屋敷を荒らすような真似は、認めんぞ」
「うん。もちろんだよ」
私は、頷いた。
「もし何か見つかったら、すぐに皇帝へ報告する」
クオシンさんも、丁寧に頭を下げる。
「陛下のご意向、承知いたしました。必ず遵守いたします」
皇帝は、少しだけ満足そうに頷いた。
それから。
「……それと、リアリス」
「ん?」
「今回の件が片づいたら、俺と手合わせをしろ」
…………。
……えっ?
◇
「……手合わせ?」
「ああ!」
皇帝の顔に、いつもの笑みが戻った。
「前から、ずっと頼んでるだろう!」
……ああ。
そういうこと!
私は、思わず天井を見上げそうになった。
人身売買の話をしていたはずなのに、そこで手合わせが出てくるんだねぇ。
「皇帝。それ、今の話と関係ある?」
「ある! 大いにある!」
「……どこが?」
「お前を自由に動かすなら、俺にも一つくらい楽しみがあっていいだろう!」
……うーん。
理屈が、よく分からない。
ガラント宰相が、深く息を吐いた。
「……陛下。条件に含めるべきお話ではないかと存じますが」
「固いことを言うな、ガラント!」
……あはは。
いつもの二人だ。
私は少し迷った。
皇帝が自分の楽しみを条件にしている。
でも、それで帝国が協力してくれるなら、今は断る理由もない。
「……分かった。今回の件が終わったら、手合わせするよ」
「本当か!」
「うん。ただし、安全な場所で、怪我をさせない範囲にしてね」
「ははは! 約束だぞ!」
……うん。
約束しちゃったね。
……まあ。
あとで何とかしよう!
◇
クオシンさんは、そのやり取りを静かに見ていた。
皇帝が笑うと、彼は穏やかな表情で一礼する。
「陛下とリアリス殿は、たいへん親しいご間柄なのですね」
「おう! この男は面白いぞ!」
「さようでございますか。陛下のお眼鏡にかなうとは、さすがでございます」
…………。
……おお。
褒めた!?
クオシンさんが、私を褒めた!?
……いや。
これは、皇帝の前だからだね。
絶対、そうだ。
私は、顔に出さないようにした。
皇帝は、豪快に笑っている。
「よし! 今回の面会は認める。だが、くれぐれも証拠なく踏み込むな。何かあれば、まずガラントに知らせろ」
「ありがとうございます、陛下」
クオシンさんが、深く頭を下げる。
「私も、そのようにするよ」
私が言うと、皇帝は満足そうに頷いた。
……うん。
これで、ようやく動けるね。
◇
帰り際、ガラント宰相が私たちを呼び止めた。
「リアリス殿、クオシン殿下。少々よろしいでしょうか」
「もちろん」
「はい。何なりとお申し付けください」
……おお。
クオシンさん、相変わらず丁寧。
ガラントさんは、声を落とした。
「子爵について、現時点でこちらから断定できる情報はありません。ただ、帝都での行方不明者の噂自体は、私どもも把握しております」
私は、頷いた。
「うん」
「子爵の名が出たからといって、ひとりの人物に目を向けすぎないでください」
……あっ。
桜花も、昨日似たことを言っていたね。
「もし別の場所で人が捕らえられているなら、子爵が無関係であっても、その人たちは救われません」
ガラントさんの声は、静かだった。
けれど、言葉が胸に残る。
「……分かった。忘れないよ」
クオシンさんも、丁寧に答えた。
「ご忠告、痛み入ります。事実の確認に徹し、何か得られましたら速やかにご報告いたします」
ガラントさんは、一度だけ深く頷いた。
「よろしくお願いいたします」
……うん。
今度こそ、子爵のところへ行く準備ができた。
◇
帝城を出たあと。
私とクオシンさんは、大通りを少し歩いた。
「……おい、リアリス」
「はい?」
「いつまでぼけっとしてんだ。行くぞ」
……あっ。
戻った!
さっきまでの完璧な王子様口調は、帝城の門を出た途端、綺麗に消えてしまった。
「……あの。さっき、すごく丁寧でしたね」
思わず私が言うと、クオシンさんが眉をひそめた。
「あぁ? 当たり前だろ。相手は皇帝だぞ」
「……うん。そうですよね」
「お前相手にまで、あんな面倒な喋り方する必要がどこにある」
……ああ。
そういうことなんだね。
「貴族はな、相手を見て話すもんだ。皇帝には礼を尽くす。子爵にも必要なら頭を下げる。そうしなきゃ話にならねえこともある」
「……なるほど」
「だからって、お前に愛想を振りまいてやる義理はねえからな」
「……はい」
……うん。
本当に、はっきり言う人だ。
でも、少しだけ分かったことがある。
この人は、礼儀を知らないんじゃない。
知っていて、使い分けているんだ。
……それなら。
普段の態度も、少しは直せそうなものなんだけど!
◇
「ゴゾーラ子爵の屋敷は、分かるんですか?」
「ああ。以前、会合のあとに招かれたことがある。場所くらいは覚えてる」
「……それなら、安心ですね」
「安心だと? まだ何も分かっちゃいねえだろうが」
……あっ。
そうだね。
「すみません。道のことだけです」
「……チッ。いちいち言い直すな」
…………。
……難しいなぁ。
私は、隣を歩くクオシンさんを見た。
彼は、周囲の建物を確かめながら進んでいる。
表情は不機嫌そうだけど、行き先には迷いがない。
こういうところは、頼りになるんだね。
それでも。
今日は彼を一人で子爵邸へ入れることになる。
もし本当に犯罪をしている人物なら、危険がないとは言えない。
「……クオシンさん」
「何だよ」
「中へ入るときは、本当に一人で大丈夫ですか?」
「だから、何度言わせんだ。俺が一人で入るから意味があるんだろ!」
「……分かりました」
「お前は外で大人しく待ってろ。余計なことをすんなよ」
……はい。
また念を押されちゃったね。
◇
ゴゾーラ子爵邸は、帝都の大通りから一本奥に入った場所にあった。
高い塀。
金色の飾りがついた大きな門。
庭には、立派な噴水と石像。
その向こうに見える屋敷は、窓枠にまで細かな装飾が施されていた。
……おお。
随分、派手な屋敷だねぇ。
どこを見ても、金色のものがある。
門の持ち手。
門柱の彫刻。
屋敷の扉。
……うーん。
お金があることを、何としても見せたいのかな。
クオシンさんが、小さく鼻を鳴らした。
「……趣味の悪い屋敷だな」
「……そうですか?」
「見りゃ分かるだろ。全部、金を見せびらかすための飾りじゃねえか」
……ああ。
確かに、そう見えるね。
でも、それだけで悪い人だとは決められない。
私たちが確かめるべきなのは、屋敷の趣味じゃない。
子爵が、人の自由を奪っているのかどうかだ。
◇
「じゃあ、俺は行く」
クオシンさんが、上着の襟を直した。
「……はい。気をつけてくださいね」
「俺に指図すんな」
……うん。
最後まで、口が悪い。
私は、少し離れた通りへ移動した。
門が見えるけれど、通行人からは目立ちにくい場所。
そこで待つことにした。
クオシンさんが門へ近づく。
すると。
……おっ。
姿勢が変わった。
肩の力が抜け、顔には穏やかな笑み。
声をかけた門番へ、丁寧に一礼している。
……ああ。
また、王子様だ!
少しして門が開き、クオシンさんは屋敷の中へ入っていった。
私は、閉じていく門を見つめた。
……さて。
ここからは、待つしかないね。
◇
――その頃、ゴゾーラ子爵邸。
突然の来訪者を知らせる報告が、屋敷の玄関へ届いていた。
「シルク王国の第一王子殿下が?」
執事が、門番へ尋ねる。
「はい。クオシン・シルク殿下と名乗られております。子爵閣下へご挨拶を、と」
執事は、少し考えた。
他国の王族。
しかも、子爵と一度面識がある相手だ。
軽く扱ってはならない。
「応接室へご案内しろ。閣下へ知らせてくる」
「かしこまりました」
クオシンは、穏やかな笑みを浮かべた。
「突然お伺いしたのはこちらでございます。どうぞお気遣いなく」
「恐れ入ります、殿下」
執事が頭を下げる。
その様子を見ていた門番も、背筋を伸ばした。
誰が見ても、礼儀正しい王子だった。
◇
応接室に通されたクオシンを迎えたのは、金色の置物だった。
壁にも、棚にも、机にも、金の装飾がある。
高価そうな酒杯。
大きな石像。
絨毯には、複雑な金糸の模様。
「……立派なお部屋ですね」
クオシンが、静かに言った。
執事は、嬉しそうに頷く。
「閣下が特にお気に召しているお部屋でございます」
「なるほど。子爵閣下の審美眼がうかがえます」
声は穏やかだった。
胸の内では、別の言葉が浮かんでいた。
――金、金、金。
どこを見ても、そればっかりじゃねえか。
こんな飾りで偉く見えると思ってるなら、ずいぶん安い頭だ。
しかし、顔には出さない。
今日は、相手の本音を聞くために来たのだ。
◇
やがて、扉が開いた。
「おお! これはこれは、クオシン殿下ではございませんか!」
大きな腹を揺らしながら、一人の男が入ってきた。
五十歳ほど。
背はそれほど高くないが、太っているためか、ひどく大きく見える。
白髪混じりの薄い髪。
丁寧に整えた髭。
高価な衣服。
両手には、宝石をはめ込んだ指輪がいくつも。
部屋には、濃い香水の匂いが広がった。
――ゴゾーラ子爵。
「本日はようこそお越しくださいました! いやはや、まさか殿下自らお運びくださるとは!」
子爵が、頭を下げた。
ただし、大きな腹が邪魔なのか、あまり深くは曲がらない。
クオシンは、すぐに立ち上がる。
「ゴゾーラ子爵閣下。突然の訪問にもかかわらず、お時間を賜り、心より御礼申し上げます」
「何をおっしゃいます! 殿下のためなら、いつでも歓迎いたしますぞ!」
子爵は、満面の笑みを浮かべた。
その目だけが、クオシンの衣服や装飾品を素早く確かめていた。
◇
「いやはや、殿下はますますご立派になられましたな!」
子爵が、向かいの椅子へ腰を下ろす。
椅子が、小さく軋んだ。
「次にお会いするときは、王としてお迎えすることになるやもしれませぬな!」
「身に余るお言葉でございます」
クオシンは、静かに微笑んだ。
「子爵閣下こそ、ご健勝のご様子で何よりです」
「ほっほっほ! 健康だけは金では買えませんからな!」
そう言いながら、子爵は傍らの使用人へ指を鳴らした。
「おい。茶だ。上等なものを持ってこい」
「かしこまりました」
使用人が頭を下げる。
「……遅いぞ。客人を待たせる気か?」
「も、申し訳ございません」
まだ部屋を出てもいない使用人へ、子爵が吐き捨てた。
先ほどまでの愛想のよい声とは、まるで違う。
クオシンの手が、膝の上で小さく握られた。
だが、表情は変わらなかった。
◇
「実は、本日は子爵閣下へ一つご相談がございまして」
クオシンが切り出した。
「ほう。殿下から、私へですかな?」
「はい。以前お会いした際、交易や珍しい品の取引にお詳しいと伺いました」
子爵は、嬉しそうに目を細めた。
「おお、よく覚えておいでで!」
「私も近頃、少々変わったものを探しておりまして。普通の商店には並ばないような品、と申しましょうか」
「……ほう?」
子爵が、身を乗り出した。
「どのような品でございましょう」
「例えば、熟練の職人にしか扱えない工芸品。あるいは、そのような品を作り続けられる、腕のよい働き手などです」
子爵の目が、わずかに光った。
「……働き手、ですかな」
「はい。王族の身では、一人雇うにも手続きが必要でして。私個人の趣味のためには、何かと不便なのです」
クオシンは、少し困ったように微笑んだ。
子爵が、大きな声で笑う。
「ほっほっほ! 殿下もお若い! 欲しいものを自由に手に入れたい、そのお気持ち、よく分かりますぞ!」
その言葉に、クオシンは穏やかに頷いた。
「お恥ずかしい限りでございます」
◇
「……実はですな、殿下」
子爵が、声を落とした。
「私には、そうしたお悩みを解決できる心当たりがございまして」
「それは、大変興味深いお話です」
「ほっほっほ! 働き手というものは、逃げたり、文句を言ったり、給金を求めたりするから面倒ですな」
クオシンは、黙って聞いた。
「ですが、最初から逃げられないようにしてしまえば、その心配も要りませぬ」
子爵は、実に楽しそうに笑った。
まるで、壊れにくい道具の話でもしているようだった。
「……なるほど」
クオシンは、ほんのわずかに声を落とした。
――逃げられないように?
人間を何だと思ってやがる。
胸の奥で、怒りが燃え上がる。
しかし、笑顔は崩さない。
「……大変、参考になります」
その言葉に、子爵はますます上機嫌になった。
◇
「世の中、きれいごとばかり言う者が多くて困りますな!」
子爵は、指輪をはめた手を振った。
「自由だの平等だのと、働く側が偉そうに! 貴族がいてこそ国は成り立つというのに!」
「……さようでございますか」
「下々の者は、我らのために働くのが筋というものです。食わせてやるだけでも感謝すべきでしょう!」
クオシンは、静かに頷いた。
「子爵閣下は、実に実際的なお考えをお持ちなのですね」
子爵の顔が、嬉しそうに緩む。
「さすがは殿下! いずれ国を治める御方は、物事の本質を理解しておられる!」
クオシンは、微笑みを返した。
――何が本質だ。
金で人を買えると思ってるだけじゃねえか。
だが、今は黙って聞く。
目の前の男に、本性を話させる。
そのために、この屋敷へ来たのだから。
◇
「ちなみに、子爵閣下」
クオシンは、穏やかに切り出した。
「そのようなお話は、どちらで詳しく伺えるのでしょうか」
子爵は、部屋の扉へ目を向けた。
それから、使用人に言った。
「おい。外で待っていろ」
「かしこまりました」
使用人が退出する。
扉が閉まると、子爵は椅子の上で身を乗り出した。
「実は、二日後に、ささやかな催しを予定しておりましてな」
「二日後、ですか」
「ええ。この屋敷の地下でございます。選ばれた方々だけをお招きする、特別な夜会ですぞ」
クオシンは、ゆっくり頷く。
「……どのような催しなのでしょう」
「ほっほっほ。いわゆる、オークションでございます」
「オークション……競りでございますね」
「さよう! 欲しい品を選び、もっとも高い値をつけた者が手に入れる。それだけの話でございます」
子爵は、嬉しそうに腹を揺らした。
クオシンは、音も立てずにカップを置いた。
「……大変、興味深いお話です」
◇
「今回の品は、なかなかの上物揃いでしてな!」
子爵が、得意げに続けた。
「働き盛りの男、若い女、腕のよい者。どれも、需要のある品ばかりでございますぞ」
――男。
女。
腕のよい者。
子爵の言う『品』が、何なのか。
もはや、疑う余地はなかった。
クオシンは、ほんの一瞬だけ息を止めた。
「……人を、お扱いになるのですか」
子爵は、にやりと笑った。
「殿下。そこは言い方でございますよ」
「……言い方、ですか」
「商品に、余計な名前をつける必要はございません。価値があり、買い手がつく。それで十分ではございませんか」
クオシンの胸の内で、怒りが膨れ上がった。
だが、彼は少しも顔に出さない。
「……なるほど。私には、まだ勉強すべきことが多いようでございます」
「ほっほっほ! 私がいくらでもご指南いたしますぞ!」
子爵が、上機嫌で笑った。
その笑い声だけが、やけに大きく響いていた。
◇
「……差し支えなければ、今回の品について、もう少しお聞かせいただけますか」
クオシンは、あくまで購入希望者の顔で尋ねた。
「もちろん、もちろん! 殿下のご関心とあらば!」
子爵は、指を折って数え始めた。
「男が十五。女が三十。合わせて四十五でございます!」
クオシンの指先が、膝の上でわずかに動いた。
「……四十五名も」
「ええ! なかなか揃えられぬ数ですぞ!」
子爵は、胸を張った。
「男のうち三人は、腕のよい職人です。鍛冶や細工に詳しい者もおります。殿下がお求めの働き手としても、きっとお役に立ちましょう」
「……職人が、三名」
「ええ。逃げる心配もございません。長く使えますぞ」
子爵が、軽く笑った。
――十五。
――三十。
――四十五。
数字が、クオシンの胸の奥に刻まれていく。
彼らは品物じゃない。
生きた人間だ。
そう怒鳴りたくなる気持ちを、彼は必死に押しとどめた。
◇
「それほどの人数ですと、お値段も相当なものなのでしょうね」
クオシンが尋ねた。
子爵の目が、嬉しそうに光る。
「ほっほっほ! お目が高いですな!」
太い指が、机を叩いた。
「男は、白金貨三枚から十枚ほど。技能のある者には、もちろんそれなりの値をつけます」
「……女性は、いかがでしょう」
「こちらは、白金貨五枚から三十枚と幅がございましてな」
子爵は、楽しそうに説明した。
「年齢、容姿、使い道。そういったものによって値が変わります。欲しがる客が多ければ、さらに吊り上がることもございますぞ」
――値段。
人に、値段。
子爵は、その数字を口にすることに一切ためらわなかった。
クオシンは、手にしていたカップを静かに戻した。
「……大変、参考になります」
声は、揺れなかった。
「いやあ、さすが殿下! 価値を分かっておいでだ!」
子爵が笑う。
クオシンは、微笑みを返した。
――理解したのは、お前の頭がどれだけ腐ってるかってことだ。
◇
「……子爵閣下」
クオシンは、少しだけ声を落とした。
「これほど貴重な催しへ、私のような者がお邪魔してもよろしいのでしょうか」
子爵は、大きく目を見開いた。
「何をおっしゃいます! 殿下ほどのお方をお断りする理由などございませんぞ!」
「恐れ入ります。ただ、私的な用向きで帝都へ来ているものですから、あまり大げさな形にはしたくないのです」
子爵は、何度も頷いた。
「もちろん、もちろん。お立場は重々承知しております!」
そこで、少しだけ声を潜める。
「もっとも、あの催しへお入りいただけるのは、招待状をお持ちの方のみとなります」
「招待状、でございますか」
「ええ。身元の確かな客人だけを、特別にお招きするのです。万一にも、余計な者が紛れ込んでは困りますからな」
クオシンは、静かに頷いた。
「それは、当然のご配慮と存じます」
子爵の口元が、ますます緩む。
「ほっほっほ! 殿下は話が早い!」
子爵は、嬉しそうに手を叩いた。
「招待状をご用意いたしましょう。ぜひ、ご参加くださいませ!」
◇
「ありがとうございます」
クオシンは、丁寧に頭を下げた。
「ただ、恐縮なのですが……」
「何でございましょう」
「明日まで、帝都でいくつか私用が残っております。招待状は、宿泊先へお届けいただけますでしょうか」
子爵の目が、わずかに細くなった。
「……宿泊先、ですか?」
「はい。今回の訪問は公務ではございませんので、王城を通すよりも都合がよろしいのです」
クオシンは、穏やかに微笑んだ。
「お手数をおかけいたしますが、ご容赦ください」
子爵は、少しの間考えた。
それから、腹を揺らして笑う。
「なるほど! 殿下にも、いろいろとご事情がおありなのですな!」
「ご理解いただけて、幸いでございます」
「もちろん、もちろん! では、どちらの宿へお届けしましょう」
クオシンは、道中で確認しておいた普通の宿屋を受取先に指定した。
帝都の大通りから少し外れた場所にある宿だ。
王家の施設でも、皇帝の宮殿でもない。
受取人は、クオシン本人。
封書を届けるだけなら、不自然ではない場所だった。
「承知いたしました。明日までに必ずお届けしますぞ!」
「ありがとうございます。二日後の催しを、楽しみにしております」
その言葉を聞いて、子爵が満足そうに笑った。
◇
「殿下」
ゴゾーラ子爵は、身を乗り出した。
「最後に、一つだけ」
「何でございましょう」
「二日後は、ぜひ、十分なご予算をお持ちくださいませ」
……予算。
子爵にとっては、何よりも大切な言葉だった。
「よい品を見つけても、競り負けてしまっては残念でございますからな」
クオシンは、丁寧に頷く。
「貴重なご助言、ありがとうございます」
「ほっほっほ! 殿下でしたら、白金貨を惜しむようなこともございませんでしょう!」
「品の価値に見合うのであれば、検討したく存じます」
子爵の目が、再び輝いた。
――白金貨。
――価値。
――競り勝つ。
その一つ一つの言葉が、人間を指している。
クオシンは、自分の指が椅子の肘掛けを強く掴んでいることに気づいた。
今すぐ立ち上がって、この男の顔へ言ってやりたい。
人間は商品じゃねえ、と。
だが、まだ早い。
ここで怒れば、地下にいる四十五人がどうなるか分からない。
――あと少しだ。
そう自分に言い聞かせる。
表情には、柔らかな微笑みだけを浮かべていた。
◇
子爵は、上機嫌で立ち上がった。
「では、二日後を楽しみにしておりますぞ、殿下!」
「こちらこそ。子爵閣下のお心遣いに、厚く御礼申し上げます」
クオシンも、丁寧に立ち上がった。
子爵は、わざわざ玄関まで見送りに出てきた。
応接室の外には、執事と使用人たちが並んでいた。
「おい、お前ら! 殿下を丁重にお送りしろ!」
子爵の声が、急に荒くなる。
使用人が、びくりと肩を揺らした。
「……かしこまりました」
「少しでも粗相をしたら、ただじゃ済まんぞ!」
子爵は、吐き捨てるように言った。
クオシンは、何も言わなかった。
ただ、使用人たちへ静かに頭を下げる。
「本日は、皆様にも丁寧にご対応いただき、ありがとうございました」
使用人たちが、驚いたように顔を上げた。
それから、急いで頭を下げる。
クオシンは、再び子爵へ向き直った。
「それでは、失礼いたします」
「ほっほっほ! また、お目にかかりましょう!」
最後まで、王子らしい所作。
最後まで、穏やかな微笑み。
クオシンは、そのまま屋敷をあとにした。
◇
門が閉まる。
その音を聞いたゴゾーラ子爵は、すぐに執事へ向き直った。
「……ふん。いい客が来たものだな」
「第一王子殿下でございますから」
「王子だろうと何だろうと、金を落とすなら上客だ」
子爵は、宝石の指輪を眺めて笑った。
「白金貨を惜しまん客なら、いくらでも歓迎するわい」
執事が、静かに頭を下げる。
「招待状の手配をいたします」
「うむ。必ず届けろよ。あれだけ金のありそうな客を逃したら、大損だ」
「かしこまりました」
子爵は、腹を揺らしながら廊下を進んだ。
向こうから来た使用人が、慌てて道を譲る。
「おい! ぼさっとするな!」
「も、申し訳ございません!」
「まったく。使えん奴ばかりだ」
子爵は、鼻を鳴らして歩き去った。
絨毯の上を進む足音。
金色の装飾。
綺麗に磨かれた床。
豪華な屋敷は、何事もなかったかのように静かだった。
――その地下で、四十五人の人間が何を思っているのか。
子爵は、一度も考えようとはしなかった。
◇
……その頃、私は。
ゴゾーラ子爵邸から少し離れた通りで、門を眺めていた。
時間が、ゆっくり過ぎていく。
……うーん。
長いね。
クオシンさんが入ってから、結構経った気がする。
私は、周囲を見回した。
馬車が一台、通りを横切っていく。
その後ろを、荷物を抱えた男が歩いている。
屋敷の門番は、相変わらず同じ場所に立っていた。
……うん。
表から見る限り、何も変わっていない。
ただの立派な貴族の屋敷だ。
庭も、綺麗。
窓も、綺麗。
通りも静か。
……それなのに。
私は、どこか落ち着かなかった。
◇
《サーチ》を使えば、周辺にいる人や魔獣の反応は分かる。
でも、それだけだ。
誰が何を考えているのか。
どんな話をしているのか。
その人が何の罪を犯したのか。
そんなことまでは、分からない。
……ああ。
今までは、魔獣の居場所が分かるだけで十分だったんだけど。
今回は、違う。
数えた反応だけで、屋敷の中にいる誰かが捕らわれているとは判断できない。
働いている使用人もいるだろう。
客人だっているかもしれない。
その中から、どうやって助けを求めている人を見分ける?
私は、息を吐いた。
……難しいな。
《想像魔法》があっても、何を確かめるべきかを知らなければ、判断はできない。
今、屋敷に入っているのはクオシンさんだ。
私は、彼が無事に戻るのを待つしかない。
◇
しばらくして。
門の方へ目を向けたとき、私は小さな影が動いたことに気づいた。
……ん?
人影が、塀の角からこちらへ近づいてくる。
銀色の短い髪。
見慣れた姿勢。
……あっ。
「……桜花?」
声を抑えて呼ぶと、その人影が立ち止まった。
「リアリス様」
……おお。
やっぱり、桜花だ!
「どうしてここに?」
私が尋ねると、桜花は静かに頭を下げた。
「申し訳ございません。お屋敷でお待ちするよう、仰せつかっておりましたが……」
少しだけ、言葉が止まった。
私は、桜花の顔を見た。
普段とほとんど変わらない表情。
でも、目元には、どこか心配そうな色があった。
「……何かあった?」
「いいえ。何もございません」
桜花は、静かに答えた。
「ただ、どうしても気になりまして」
……ああ。
心配してくれたんだね。
◇
「……来ちゃったんだ」
私が小さく言うと、桜花はもう一度頭を下げた。
「申し訳ございません」
「ううん。怒ってるわけじゃないよ」
私は、慌てて首を振った。
「でも、よく場所が分かったね」
「巴さんに帝国邸へ向かうことをお伝えし、《簡易転移》の扉を使いました。帝国邸からは、歩いて参りました」
……ああ。
なるほど。
屋敷同士の扉があれば、魔力がなくても移動できるもんね。
「……そっか」
私は、桜花を見た。
この子は、いつも私のそばにいてくれる。
今日も、一緒に来たかったんだろうな。
「心配させて、ごめんね」
「……いいえ」
桜花は、首を横に振った。
「私は、リアリス様のお傍にいたいだけでございます」
その言葉に、胸が少しだけ温かくなった。
「ありがとう」
私は、静かに頷いた。
「じゃあ、一緒に待とうか」
「はい」
桜花は、私の隣へ並んだ。
……うん。
これなら、少し安心できそうだ。
◇
待っている間、桜花が屋敷へ目を向けた。
「……あちらに、クオシン様が」
「うん。今、子爵と話してくれてるんだ」
「……そうでございますか」
私は、小さく頷いた。
「今回は、クオシンさんのおかげで話が進んだよ」
桜花が、こちらを見る。
「皇帝陛下とも、お話はできましたか」
「うん。許可をいただけた。あとで手合わせをすることになっちゃったけど」
桜花が、少しだけ目を丸くした。
「……手合わせ、でございますか」
「うん。皇帝らしいよねぇ」
私は、苦笑した。
桜花も、ほんの少しだけ微笑んだ。
……ああ。
少し、普段の空気が戻ってきた。
でも。
門へ目を戻した瞬間、また胸の奥が落ち着かなくなった。
……中で、どんな話をしているんだろう。
◇
やがて。
門の向こうに、人影が現れた。
……おっ!
クオシンさんだ。
門番が扉を開き、彼を送り出している。
クオシンさんは、門番へ丁寧に一礼した。
穏やかな笑顔。
綺麗な姿勢。
……うん。
最後まで、王子様だね。
そして。
門が閉まり、彼が通りの角を曲がったところで。
「……チッ!」
聞こえたのは、盛大な舌打ちだった。
……あっ。
戻った!
クオシンさんは、私を見つけて眉をひそめる。
「おい、リアリス。まだそんなところにいたのか」
「……待ってろって言ったの、クオシンさんですよね?」
「口答えすんな」
……うん。
やっぱり、いつもの人だ。
けれど。
近づいてきた彼の表情は、いつもよりずっと険しかった。
◇
「……どうでした?」
私が声を落として尋ねると、クオシンさんは周囲を見回した。
「ここでする話じゃねえ」
「……分かりました」
「場所を変えるぞ。できれば、誰にも聞かれねえところだ」
私は、頷いた。
……ああ。
何か、分かったんだね。
クオシンさんは、桜花へ視線を向けた。
「……おい。そいつ、何でここにいる」
「すみません。心配して、来てくれたみたいで」
「……はぁ?」
クオシンさんが、深く息を吐いた。
「だから、一人で待てと言ったんだろうが」
「……それは、私が桜花に伝えたので」
私は、苦笑した。
桜花が、静かに頭を下げる。
「ご迷惑をおかけいたしました」
クオシンさんは、少しだけ顔をしかめた。
それから、ふん、と鼻を鳴らす。
「……もういい。とにかく行くぞ」
……うん。
今は、そっちが先だね。
◇
私たちは、帝都の大通りから離れた、人通りの少ない道へ移動した。
クオシンさんは、ほとんど口を開かなかった。
その沈黙が、妙に重い。
さっきまで、口を開けば悪態をついていたのに。
……変だな。
何となく、そう思った。
桜花も、静かについてくる。
少しして、クオシンさんが足を止めた。
「……リアリス」
「はい」
「先に言っておく」
私は、彼を見た。
その顔には、いつもの傲慢な笑みも、苛立ちを隠さない不機嫌さもなかった。
ただ、強い怒りがあった。
「……子爵は、真っ黒だ」
……え?
私は、言葉を失った。
◇
「……どういうことですか」
ようやく声を出すと、クオシンさんは、低く吐き捨てた。
「人を売ってやがる。あの豚野郎、自分の口で喋りやがった」
……人を。
売っている。
私は、足元の石畳を見た。
……ああ。
噂じゃ、なかったんだ。
でも。
まだ、落ち着いて聞かなきゃ。
「……何を、聞いたんですか」
私が尋ねると、クオシンさんは一度だけ息を吐いた。
「二日後だ」
「……二日後?」
「子爵邸の地下で、オークションをやる。あの野郎が自分で主催してるそうだ」
私は、顔を上げた。
……地下。
子爵邸の。
「参加者は招待状を持った連中だけだ。俺のところにも送ると言いやがった」
……招待状。
……本当に?
「どこへ送ってもらうんですか」
「帝都の宿だ。受取先は指定してきた」
クオシンさんは、唇を噛んだ。
「……明日には届くはずだ」
……明日。
そして、二日後。
時間が、急に現実味を帯びてくる。
◇
「……人数は?」
自分でも、どうしてその言葉が出たのか分からなかった。
ただ。
聞かなければならないと思った。
「……何人、いるんですか」
クオシンさんが、私を見た。
その目は、厳しかった。
「……男が十五人」
私は、息を止めた。
「女が、三十人」
…………。
……四十五人。
「男のうち三人は、腕のいい職人だと自慢してやがった。逃げられねえから、長く使えるってな」
私は、何も言えなかった。
頭の中で、数字だけが繰り返された。
十五。
三十。
四十五。
……ああ。
四十五人も。
◇
「……金額まで言ったぞ、あいつ」
クオシンさんが、苦々しく言った。
「男は白金貨三枚から十枚。女は五枚から三十枚だと」
……白金貨。
私は、その言葉を聞いても、すぐには意味を飲み込めなかった。
金額は分かった。
でも。
何の金額なのか、考えたくなかった。
「年齢だの容姿だの、使い道だので値段が変わるって、嬉しそうに喋りやがった」
クオシンさんの拳が、硬く握られた。
「あの野郎、四十五人のことを一度も人間扱いしなかった」
……ああ。
その言葉が、胸に刺さった。
私は、何とか声を出した。
「……本当に、そんな話を?」
「ああ。全部、あいつの口から聞いた」
クオシンさんは、短く答えた。
いつもの大きな声ではなかった。
だからこそ、重く響いた。
◇
「……リアリス」
クオシンさんが、私の顔を覗き込んだ。
「お前、顔色が悪いぞ」
「……大丈夫です」
私は、答えた。
本当に大丈夫なのかどうか、自分でも分からなかった。
私の頭には、カトレアの顔が浮かんでいた。
朝、笑って送り出してくれた小さな顔。
お父さん、お仕事頑張ってね。
……ああ。
同じように誰かを待っている人が、四十五人の向こうにもいるんだろうか。
それとも。
もう待っている人さえ、いないんだろうか。
私は、目を閉じた。
「……クオシンさん」
「何だ」
「教えてくれて、ありがとうございます」
クオシンさんが、鼻を鳴らした。
「礼なんざいい。あいつの顔を見たら、胸糞悪くなるだけだ」
……うん。
それは、分かる。
私は、ゆっくり息を吸った。
◇
「まず、皇帝に知らせましょう」
私が言うと、クオシンさんが頷いた。
「ああ。当然だ」
彼は、子爵邸の方を振り返った。
「……だが、今すぐ門をぶち壊すような真似はすんなよ」
「……分かってます」
「招待状が届けば、さらに証拠になる。場所も日時も、あいつが自分で指定した」
……そうだね。
皇帝も、証拠なく踏み込むなと言っていた。
今度は、ただの噂じゃない。
でも、ここで勝手に動いたら、四十五人がどこかへ移されるかもしれない。
そんなことは、絶対に避けたい。
「……それなら、帝国邸へ戻りましょうか」
私は、静かに言った。
クオシンさんが、頷いた。
「……ああ」
桜花は、ずっと黙って私の隣にいた。
その手が、そっと私の袖へ触れた。
「リアリス様」
「……うん」
何か、言おうとした。
でも、上手く言葉にならなかった。
私たちは、ゴゾーラ子爵邸から背を向けて歩き出した。
――二日後。
あの煌びやかな屋敷の地下で、四十五人の人生が値踏みされる。
今は、その事実だけが、頭から離れなかった。




