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第2話:苦手な相手と手を組む日

 誰かに協力を頼むのは、難しい。


 相手が困っていれば手を差し伸べたいし、自分が困れば助けてほしいと思う。けれど、相手にも立場があって、守らなければならないものがある。


 そして今回、私が頼ろうとしているのは。


 ……正直なところ、あまり会いたくない人だった。


     ◇


 翌朝。


 シルク王国邸の食堂には、焼いた魚と温かい汁物の香りが漂っていた。


 カトレアは、椅子に座って小さな紙を眺めている。


 昨日、帝国で買った花を描いた絵。その端へ、今度は海で拾った貝殻の絵を描き足していた。


「お父さん、これ、海の貝殻に見える?」


「うん。ちゃんと見えるよ。形もそっくりだね」


「よかった。紫のお花の隣に描きたかったの」


 カトレアは満足そうに笑った。


 ……ああ。


 昨夜は、私もこの絵を眺めていた。


 ただ、カトレアとは違うことを考えながら。


 向かいに座る桜花が、私へ静かに視線を向けた。


「リアリス様。本日は王城へお出かけのご予定ですね」


「うん。朝食が終わったら行こうと思ってる」


「かしこまりました。ご同行いたします」


 私は頷いた。


 カトレアが、箸を置く。


「お父さん、お仕事?」


「ちょっとお話をしに行ってくるよ」


「……王様のお家?」


「そうだね。カバディ王に会ってくる」


「そっか。帰ってきたら、昨日の絵をもう一枚見てほしい」


「もちろん。楽しみにしてるよ」


 すぐに明るくなる表情。


 この子には、今日も変わらず楽しく過ごしてほしい。


 それが、私の偽らざる気持ちだった。


     ◇


 食後、廊下で巴さんに声をかけられた。


「リアリスちゃん、今日は少し早いのね」


「うん。王城に行ってくるよ」


 巴さんは、私の顔を一度見た。


「昨日のお話のこと?」


「そう」


 彼女にはもう、帝都で聞いた噂を伝えてある。


 今朝は、あえて詳しいことを口にしなかった。


「カトレアは、今日はお家で遊びたいみたい。お願いしてもいいかな」


「もちろんよ。楓ちゃんもいるし、何も心配しなくていいわ」


「ありがとう」


 巴さんが、そっと私の肩へ手を置いた。


「気をつけてね。リアリス様」


 普段は『リアリスちゃん』と呼んでくれる巴さん。


 その人が、真剣なときだけ使う呼び方だった。


「……うん」


 私は、頷いた。


 力の心配をされているわけではない。


 巴さんが気にかけているのは、きっと別のことなのだろう。


     ◇


 桜花と一緒に、屋敷の庭へ出る。


 朝の風が、花壇の花を小さく揺らしていた。


 カトレアが描いた、あの紫の花に似た色もある。


 私は、城の位置を思い浮かべた。


「《転移》」


 目の前の景色が変わる。


 次に立っていたのは、シルク王国の王城近く、人目につきにくい場所だった。


 大通りへ出ると、兵士たちが城門を出入りしているのが見える。


 見慣れた王城。


 何度も足を運んだ場所だ。


 けれど今日は、いつものように気軽な気分にはなれなかった。


「リアリス様」


「ん?」


「どのようにお話しされますか」


 私は少し考えた。


「まずは、昨日までに分かったことを全部話す。それから、クオシンさんに会えるか相談してみようと思ってる」


「承知いたしました」


 桜花は、私の隣を歩いた。


 ……うん。


 余計なことを隠しても、よくならない。


 まずは、正直に話そう。


     ◇


 城門の兵士は、私たちを見るとすぐに姿勢を正した。


「リアリス殿。おはようございます」


「おはようございます。カバディ王にお会いしたいんですが、少しお時間をいただけますか」


「確認いたします。少々お待ちください」


 兵士が城内へ知らせに行く。


 待っている間、私は城壁を見上げた。


 大きく、頑丈な城だ。


 国内の問題を解決するため、いろいろな人がここへ相談に来るのだろう。


 ……でも。


 今回は、他国の問題。


 帝国の皇帝自身が証拠を掴めていない疑惑だ。


 それを持って、シルク王国の王族へ助けを頼もうとしている。


 話を聞くだけなら簡単かもしれない。


 でも、その先は?


 ――昨日から考えていた疑問が、また胸に浮かんだ。


     ◇


 案内されたのは、王城の奥にある小さな応接室だった。


 中には、カバディ王とミキサー宰相がいた。


 いつもの穏やかな表情で、カバディ王が手を上げる。


「おお、リアリス殿。久しいな」


「おはようございます、カバディ王。突然すみません」


「構わんよ。座ってくれ」


 私は礼を言い、桜花と一緒に腰を下ろした。


 机には、まだ何も置かれていない。


 普段なら、ここからお菓子か雑談の話にでもなりそうだ。


 けれど、今日は違う。


 ミキサー宰相が、私の様子を見て声をかけた。


「……何か、ご相談でしょうか」


「はい」


 私は、二人へ向き直った。


「ローズ帝国のことで、お話したいことがあります」


 カバディ王の表情が、少し変わった。


「帝国で何かあったのか?」


「まだ、起きたことを確認できたわけじゃないんです。ただ……」


 一度息を整える。


「帝都で、人身売買が行われているかもしれないという噂を聞きました」


 室内が、静まり返った。


     ◇


 私は、帝都で耳にした話を順番に伝えた。


 行方不明の人がいること。


 違う場所で、似た噂を繰り返し聞いたこと。


 貴族が関わっている可能性があること。


 そして、皇帝ヴァリロッサから、ゴゾーラ子爵という名前が挙がったこと。


 カバディ王は、途中で口を挟まなかった。


 ミキサー宰相は、時々考え込むように目を伏せている。


「……ただ、子爵が関わっている証拠は、何もありません」


 最後に、私はそう付け加えた。


「皇帝も、疑いだけで裁くわけにはいかないと言っていました」


 カバディ王が、ゆっくり頷く。


「もっともだな」


「はい」


「それで、リアリス殿はどうしたいのだ?」


 私は、目を上げた。


「事実を確かめたいんです。人が売られているのなら、助けたい」


 それが、今の私の答えだった。


     ◇


 ミキサー宰相が、静かに口を開いた。


「お気持ちは理解できます。しかし、少々難しいお話ですね」


「……やっぱり、そうですか」


「ええ。ローズ帝国は、我が国とは別の主権を持つ国家です」


 宰相は、丁寧に言葉を選んで続けた。


「たとえ疑惑の対象が罪を犯していたとしても、帝国の貴族を我が国の都合で調べたり、拘束したりすることはできません」


「……うん」


 それは、分かる。


 日本でも、ほかの国の警察が勝手に捜査に来たら大問題になる。


 この世界でも、それは変わらないのだろう。


「リアリス殿が個人として話を聞くことまで、我々が禁じる立場にはありません。ただし、シルク王国の王族が動くとなれば、意味が変わります」


 ミキサー宰相の声は、穏やかだった。


 けれど、内容は重かった。


「王族が他国の貴族へ接触する。相手が何かを疑われている人物なら、なおさらです」


 ……そうか。


 私は、膝の上で手を握った。


 クオシンさんに会いたい。


 その一言が、思っていたよりずっと大きな問題につながっている。


     ◇


「それで、クオシンに用があるのか?」


 カバディ王が、私を見た。


 ……おっ。


 さすが。話が早いね。


「はい。アリーナさんから、クオシンさんがゴゾーラ子爵と面識があると聞きました」


「……ああ」


 王は、少し考えてから頷いた。


「以前、他国の貴族が集まる席で会ったことがあったはずだ」


「やっぱり、そうなんですね」


「うむ。しかし、あやつがどこまで知っているかは分からん」


「それでも、一度話を聞きたいんです」


 私は、率直に言った。


「会ったことがあるなら、人柄や屋敷の様子を知っているかもしれない。何も知らないなら、それでも構いません」


 王は、しばらく私を見ていた。


「……クオシンとは、あまり折り合いがよくなかったな?」


 …………。


 ……あっ。


 そこ、知ってたんだね。


「ええ。まあ」


 少しだけ言葉を濁してしまった。


 ミキサー宰相が、小さく咳払いをする。


 ……うん。


 やっぱり、周りからも分かるくらいなんだ。


     ◇


 カバディ王が、椅子にもたれた。


「話を聞くこと自体は構わんだろう。しかし、あやつに帝国へ行くよう命じることはできん」


「……はい」


「今のお前の話には、まだ証拠がないからな」


 私は、頷いた。


「承知しています」


 王は、私の顔を見て続ける。


「ただし、会わせることはできる。そこから先は、クオシン本人の話を聞いて決めよう」


 ……ああ。


 よかった。


 少なくとも、話す機会はもらえる。


「ありがとうございます」


 私が頭を下げると、王はゆっくり頷いた。


 ミキサー宰相が、控えていた文官へ声をかける。


「第一王子殿下へ、お越しいただくようお伝えください」


 文官が、静かに退出する。


 ……うん。


 いよいよ、会うんだね。


 私は、もう一度息を整えた。


     ◇


 待っている間、カバディ王が尋ねた。


「リアリス殿。皇帝には、どこまで話した?」


「帝都で聞いた噂を全部です。ゴゾーラ子爵についても、皇帝の方から名前を聞きました」


「皇帝自身が、疑っているのか」


「気になる相手だとは言っていました。でも、証拠がないので断定はしていません」


 カバディ王は、深く頷いた。


「ヴァリロッサがそこまで言うなら、気になる話ではあるな」


「……はい」


「ただ、帝国の内側の話だ。王国として勝手に口出しはできん」


「分かっています」


 そう答えたものの、心の中で簡単に割り切れてはいなかった。


 噂が本当なら、今も誰かが助けを待っているかもしれない。


 けれど、急いで動けば、かえってその人たちを危険にさらすかもしれない。


 ……難しいね。


 《想像魔法》なら、目の前の魔獣を倒すのは簡単だ。


 でも、姿の見えない相手と、証拠のない疑惑を相手にするときは、何をすればいいのかすら分からない。


     ◇


 扉が、控えめに叩かれた。


「第一王子殿下がお見えです」


「通してくれ」


 カバディ王が言う。


 扉が開き、一人の青年が入ってきた。


 クオシン・シルク。


 シルク王国の第一王子。


 端正な顔立ちに、整えられた身なり。


 けれど、入ってくる足取りは荒っぽい。父王と宰相への礼も形ばかりで、すぐに椅子の方へ目を向けた。


「父上。呼んだそうだな。……で、何の用だ?」


 それから、こちらを見る。


 ……あっ。


 目が合った。


 わずかに眉が動く。


「……チッ。何でお前がここにいる、リアリス」


 ……うん。


 やっぱり、あまり歓迎されてないね。


「お久しぶりです、クオシンさん」


「……ふん」


 短い返事だった。


 ……ああ。


 この人と仲良く話す日は、なかなか来そうにないなぁ。


     ◇


「クオシン。座れ」


 カバディ王が言うと、クオシンさんは空いている席へ腰を下ろした。


 父王が、私を見た。


「リアリス殿。もう一度、事情を説明してくれるか」


「はい」


 私は、クオシンさんへ向き直った。


「今日は、お願いがあって来ました」


「は? この俺に頼みだと?」


「はい」


 クオシンさんは、すぐには答えなかった。


 私は、帝都で聞いた話を改めて説明した。


 行方不明。


 人身売買の疑惑。


 皇帝が名前を挙げた、ゴゾーラ子爵。


 途中までは、クオシンさんも表情を変えなかった。


 けれど。


「……あぁ? 人間を売り物にしてるだと?」


 その声は、思っていたより低かった。


「まだ噂です。証拠はありません」


 私は、すぐに答えた。


 クオシンさんは、私を見据えた。


「……で、お前はそいつを確かめたいってわけか」


「はい」


 静かな沈黙が、部屋を満たした。


     ◇


「ゴゾーラだと? あの子爵か」


 クオシンさんが、確認するように言った。


「はい。ご存じですか?」


「ああ。各国の貴族が集まる席で、俺に媚びを売ってきた男だ」


 アリーナさんから聞いたとおりだ。


 私は、少し身を乗り出した。


「どんな方でした?」


「金と商売の話ばかりする、鬱陶しい男だったな」


「仕事、ですか」


「交易だの領地の稼ぎだの、金の話を延々としやがった。もっとも、あの席では妙なことは口にしてなかったがな」


 ……そうなんだ。


 私は、頷いた。


 ……でも。


 宴席の短い会話だけで、人の本当の姿なんて分からないよね。


「ほかには、何か……」


「おい、リアリス」


 私が続けようとすると、クオシンさんが乱暴に遮った。


「一度会っただけで、俺があいつのことを何から何まで知ってると思うな。少しは頭を使え」


 ……あっ。


 そうだよね。


「すみません。つい、いろいろ聞いてしまって」


「まったくだ。質問ばかりしやがって」


 相変わらず、手厳しい。


 でも、今回はその言葉に苛立つ気にはなれなかった。


 実際、私の方が少し先走っている。


     ◇


「それで」


 クオシンさんは、私から視線を逸らさずに言った。


「回りくどいんだよ。俺に何をさせたい? さっさと言え」


 ……来た。


 私は、答える前に一度息を整えた。


「できれば、ゴゾーラ子爵について、もう少し調べる手伝いをしていただきたいんです」


「……はぁ? 俺に密偵の真似事をしろってか?」


「はい。面識のあるクオシンさんなら、私より自然に話を聞けるかもしれません。子爵に何か心当たりがないか、確かめることはできないでしょうか」


 クオシンさんは、すぐには答えなかった。


 カバディ王とミキサー宰相も、静かにこちらを見ている。


「お前、自分が何を頼んでるか本当に分かってんのか?」


 やがて、クオシンさんが言った。


「……どういう、というと?」


「俺はこの国の第一王子だぞ。相手は帝国の貴族だ。そんな奴を俺が犯罪者扱いして探りを入れれば、どういう騒ぎになると思ってる?」


 そこで、彼は言葉を切った。


「向こうに知られりゃ、どう見える? 答えてみろ」


 私は、答えられなかった。


「帝国への内政干渉だ。王族が裏で嗅ぎ回ってたとなりゃ、父上の顔にも泥を塗る。……何も考えず俺に頼んだのか?」


 ……うん。


 ミキサー宰相が言っていたことと、同じだ。


 でも、当事者の口から聞くと、さらに重く感じた。


     ◇


「リアリス殿」


 ミキサー宰相が、静かに呼びかけた。


「お気持ちは分かります。しかし、第一王子殿下をお連れになるとなれば、話を聞くだけでも外交上の意味が生じます」


 私は、頷いた。


「……そうですよね」


「ましてや、相手が疑惑のある貴族となれば、何かの拍子に接触が知られただけで、誤解を招きかねません」


 カバディ王も、腕を組んだまま聞いている。


 私は、考えた。


 今、帝国側で誰かが行方不明になっているという噂がある。


 皇帝も知っている。


 けれど、証拠がない。


 だから、クオシンさんに会ってもらう。


 ……筋は通っているつもりだった。


 でも、私がそう思うだけでは足りない。


 周りに迷惑をかけるかもしれない。


 王国と帝国の関係を悪くするかもしれない。


 そのせいで、誰かが困るかもしれない。


「……分かりました」


 私は、ゆっくり口を開いた。


「王国に迷惑がかかるようなら、お願いは取り下げます」


 誰かを助けたいからといって、別の誰かを危険にさらしていいわけじゃない。


     ◇


「その代わり、私一人で――」


「待て、おい!」


 クオシンさんが、再び私の言葉を荒々しく止めた。


「……はい?」


「お前一人なら大丈夫とでも思ってんのか? 呑気な奴だな」


「……え?」


「皇帝とも父上とも顔見知りのお前が勝手に暴れりゃ、うちの名まで出るんだよ。その程度も分からねえのか」


 ……あっ。


 そうか。


 私が王国の役人じゃなくても、王族と知り合いなのは事実だ。


「しかも、お前は無駄に力を持ってやがる」


 クオシンさんの声が、少しだけ冷たくなった。


「気に食わなきゃ魔法で黙らせる。どうせそんなこともできるんだろ?」


 私は、眉を寄せた。


「そんなつもりはありません」


「今は、な。お前の口約束なんざ信用できるか」


 ……その言葉には、少しだけ棘があった。


 でも。


 私は、言い返さなかった。


 自分の力を過信していないと言い切れるだろうか。


 さっきだって、何をすればいいか分からなくて、ここへ来たのだから。


「……はい。気をつけます」


 私が答えると、クオシンさんは少し意外そうに目を細めた。


     ◇


「……何だ、言い返さねえのか?」


「クオシンさんの言うことにも、一理あると思ったので」


「…………」


 短い沈黙が落ちた。


 私は、続けた。


「私には、すごく便利な魔法があります。でも、何が起きているのか知らないのに、魔法を使っても仕方ないんです」


 力を使えば、扉を壊すことはできる。


 壁を越えることも、相手を縛ることもできる。


 けれど、それで人身売買があったと証明できるわけじゃない。


「だから、ちゃんと確かめたい。できれば、誰も傷つけない方法で」


 私は、自分の手を見た。


 それから、クオシンさんへ視線を戻す。


「……それが、今の私の考えです」


 クオシンさんは、しばらく黙っていた。


 その表情が、何を意味しているのかは分からない。


 やがて、彼は父王へ向き直った。


「父上。一つ聞くぞ」


「何だ」


「ローズ帝国じゃ、人を売り買いするのは禁止されてるんだな?」


「リアリス殿が皇帝から聞いた話では、そうだ」


 カバディ王が答える。


 クオシンさんは、ゆっくり頷いた。


「当然だ。許されてたまるか」


     ◇


 その言い方が、少し気になった。


 ただの相槌じゃない。


 何かを確かめるような、重い声だった。


「クオシンさんは、奴隷制度についてどう思いますか?」


 私は、思わず尋ねた。


 クオシンさんが、こちらを見る。


「あぁ? 何をいきなり聞きやがる」


「すみません。でも、聞いておきたくて」


 返事は、すぐには返ってこなかった。


 やがて、彼はまっすぐに言った。


「反吐が出る」


 短い言葉だった。


 私は、息を呑んだ。


「生まれがどうだ、弱いからどうだと、人間に値札を付ける。そんな下衆な真似を、この俺が認めると思うか?」


 ……ああ。


 思った以上に、はっきりした答えだった。


「借金だの貧しさだの、くだらねえ言い訳を並べて人を品物にする? ふざけるな!」


 クオシンさんの口調には、明らかな怒りがあった。


「そんな理屈、通るか! 俺の前でやってみろ。容赦しねえぞ!」


 握り締めた拳が、机を鈍く叩いた。


 カバディ王が眉をひそめる。


「クオシン。声を荒らげるな」


「……チッ。分かってる」


 口ではそう言いながら、クオシンさんの目にはまだ怒りが残っていた。


 ……この人。


 私とは合わないことが多いけれど、少なくとも、この問題への気持ちは同じなんだ。


     ◇


「では」


 ミキサー宰相が、慎重に口を開いた。


「もし、今回の話が真実であれば、クオシン殿下も放っておけないと?」


「当たり前だろうが!」


 クオシンさんは即答した。


「ただし」


 その続きは、厳しかった。


「だからって、王国を道連れにしていいわけじゃねえ」


 ……うん。


 そこは譲らないんだね。


 カバディ王も、何も言わずに聞いている。


「お前一人で嗅ぎ回るのと、第一王子のこの俺が動くのは訳が違うんだよ。そんなことも分からず、王族を使おうとするな」


 私は、ゆっくり頷いた。


「はい」


「そもそも、その噂が本当かどうかも分かってねえんだろ」


「そうですね」


 ……言い方は最悪だけど、筋は通っている。


 ただ、こうも毎回頭ごなしに言われると、素直に頷くのも難しいね。


 私は、窓の外へ目を向けた。


 王城の庭には、兵士と使用人が行き来していた。


 誰も、こちらの会話を知らない。


 ……きっと、帝都でも同じだ。


 ただ仕事をしている人たちの近くで、誰かが消えているかもしれない。


     ◇


「……クオシンさん」


 私は、改めて頭を下げた。


「無理なお願いをして、すみませんでした」


 クオシンさんが、私を見る。


「王国に迷惑をかけたくありません。今日は、面識があることを確認できただけでも十分です」


 それは、嘘じゃない。


 収穫はあった。


 子爵について、名前以上のことを聞けた。


 何より、何も知らずに動く危険も分かった。


「別の方法を考えます」


 私は、席を立とうとした。


 そのときだった。


「おい、勝手に帰るな」


 クオシンさんが、静かに言った。


「……え?」


「俺の話は、まだ終わってねえ」


 私は、もう一度椅子へ座った。


 クオシンさんは、しばらく私を見ていた。


 その視線には、さっきまでの露骨な不快感とは少し違うものがあった。


     ◇


「おい、リアリス。人身売買が本当なら、お前はどうする?」


 クオシンさんが尋ねた。


「……助けます」


「証拠さえあれば、ってことか?」


「はい。少なくとも、何が起きているかを確かめてから動きます」


「誰かが地下に閉じ込められてたら?」


「安全に外へ出したいです。必要なら、皇帝にも協力してもらいます」


「相手が貴族でも容赦しねえんだな?」


「それでも、変わりません」


 私は、即答した。


 相手の肩書きで、誰かの自由を奪っていい理由は変わらない。


「……関係ねえ使用人や兵士までいるなら、そいつらもまとめてぶっ飛ばすのか?」


 その問いには、少し考えた。


「まずは、誰が何を知っていて、何をしていたか確かめます。いきなり全員を犯人扱いするつもりはありません」


 クオシンさんは、目を細めた。


「で、具体的にどうする。まさか何も考えてねえんじゃないだろうな?」


「……今は、まだ分かりません」


 正直に答えた。


「だから、知っている人の話を聞きたいんです」


 部屋が、再び静かになった。


     ◇


 クオシンさんは、机の上で指を組んだ。


「……ふん」


 鼻を鳴らして、乱暴に腕を組んだ。


 私は、次の言葉を待った。


 カバディ王が、ゆっくり口を開く。


「クオシン」


「何だよ、父上」


「何を考えている?」


 クオシンさんは、すぐには答えなかった。


 やがて、低い声で言った。


「……このまま腐った噂を放っとくのは、気に食わねえ」


 私は、思わず顔を上げた。


「王国を動かすわけにはいかねえ。それは分かってる」


 彼は、ミキサー宰相へ視線を移す。


「……だが、俺個人が動くなら話は別だろ?」


 宰相の表情が、わずかに変わった。


「……殿下」


「俺が知り合いに顔を出すだけだ。文句を言われる筋合いはねえ」


 そう言って、クオシンさんは父王を見た。


「なあ、父上。それまで俺から取り上げる気か?」


 ……あっ。


 まさか。


 クオシンさんが、私へ向き直った。


「勘違いするなよ、リアリス。今回限りだ」


 声は荒く、断る余地もないような言い方だった。


「……俺が手を貸してやる」


 私は、言葉を失った。


     ◇


「……本当に?」


 我ながら、間の抜けた声が出た。


 クオシンさんの眉が、ぴくりと動く。


「二度も言わせるな。耳が悪いのか?」


「……すみません!」


 ……あっ。


 いつもの調子だ。


 でも。


 私は、まだ驚いていた。


 クオシンさんは、私を好いていない。


 それは、これまでの会話でもよく分かる。


 そんな人が、自分から手伝うと言ってくれた。


 それが、嬉しいというより、重く感じた。


 この人にとっても、簡単な決断ではないはずだ。


「ありがとうございます」


 私は、深く頭を下げた。


 クオシンさんは、少しだけ顔を背けた。


「勘違いすんな」


「……はい?」


「お前を助けたいわけじゃねえ。人を売りさばく連中が気に食わねえだけだ。そこを履き違えるな」


 ……ああ。


 そうだよね。


「うん。それで十分です」


 私は、頷いた。


 クオシンさんが、こちらを見た。


「……ふん。勝手にしろ」


 相変わらず、愛想のない返事。


 でも、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。


     ◇


「待て、クオシン」


 カバディ王が、重い声を出した。


 その一言で、室内の空気が張りつめる。


「お前の気持ちは分かった。だが、第一王子であることは変わらんぞ」


「んなこと、分かってる!」


「個人で動いたつもりでも、何か起これば国の問題になる」


「だから分かってるって言ってんだろ!」


 クオシンさんは、父王を睨み返した。


 カバディ王は、しばらく息子を見ていた。


 私も、口を挟めなかった。


 父親として心配しているのか。


 国王として止めなければならないのか。


 きっと、両方なのだろう。


「……ミキサー」


 王が、宰相へ声をかけた。


「はい、陛下」


「方法はあるか」


 ミキサー宰相は、しばらく考えた。


「……正式な外交使節として送り出すことは、避けるべきでしょう」


「うむ」


「しかし、殿下が個人的な事情で帝国を訪れたことまで、国家の命令とは限りません」


 そこで、宰相は言葉を切った。


 ……あれ。


 何か、考えがあるみたいだね。


     ◇


「ただし、表向きの説明が必要です」


 ミキサー宰相が、静かに続けた。


「第一王子殿下が、なぜ帝国へ行ったのか。何か起きたとき、誰がどこまで責任を負うのか」


 ……うん。


 そこは、大事だ。


 クオシンさんが、宰相を見た。


「例えば?」


「……そうですね」


 宰相は、少しためらう。


「殿下が、自らの意思では断れない事情により同行したという説明なら、王国から命令を受けたわけではないと示せる可能性はあります」


 私は、首を傾げた。


「……断れない事情?」


 ミキサー宰相が、こちらへ視線を向けた。


「例えば、リアリス殿からの強い脅迫です」


 …………。


 ……えっ?


「……脅迫?」


 自分の声が、思いのほか大きく響いた。


 桜花も、わずかに眉を寄せている。


 ……いやいや。


 私は、そんなつもりで来たんじゃないんだけど!


     ◇


「誤解なさらないでください」


 宰相が、すぐに説明した。


「実際に脅迫していただくわけではありません。あくまで、そう説明せざるを得なくなった場合に備える話です」


「……それって」


 私は、言葉を探した。


「嘘の書類を作る、ということですか?」


 部屋が、静かになった。


 ミキサー宰相は、はっきりと頷いた。


「事実とは異なる経緯を記した、説明用の書状になります」


 ……そうなんだ。


 私は、すぐには答えられなかった。


 誰かを助けるために、最初から嘘を用意する。


 それが本当に、いい方法なのだろうか。


 私は、昨日皇帝に言われた言葉を思い出した。


 ――噂と証拠は別だ。


 今、私は真実を知ろうとしている。


 そのために、嘘を使う。


 ……簡単に納得できる話じゃないね。



     ◇


「……ミキサーさん」


 私は、ゆっくり口を開いた。


「そこまでして、クオシンさんにお願いするべきなんでしょうか」


 ミキサー宰相は、私を見た。


「それは、私が決められることではありません」


「……そうですよね」


「殿下がどのような危険を引き受けるか。それを決めるのは殿下ご自身です。ただ、国としての問題は考えなければなりません」


 クオシンさんは、黙ったまま話を聞いていた。


 やがて、彼が口を開く。


「おい、それならリアリスが俺を脅した悪党ってことになるじゃねえか」


「……そうですね」


 私は頷くしかなかった。


「……いいじゃねえか」


「……えっ?」


 思わず聞き返してしまった。


 クオシンさんは、少しだけ眉を上げる。


「こいつならやりかねねえと、誰でも思うだろ」


「……いや、そんな評判はないと思いたいんですけど!」


 ……あっ。


 つい、いつもの調子になってしまった。


「冗談に聞こえたか? 俺は本気だ」


「……すみません」


 ……うん。


 この人、やっぱり苦手だなぁ。


 でも、そのやり取りで少しだけ肩の力が抜けた。


     ◇


「俺がお前を信用してると思うなよ」


 クオシンさんは、改めて言った。


「だが、人身売買が本当なら見逃してたまるか」


「……はい」


「だから俺が出る。国を巻き込まねえための説明ぐらい、俺が考えてやる」


 そこには迷いがなかった。


 この人にとっても、簡単な決断ではないはずだ。


 けれど、その顔には後悔の色がない。


「ありがとうございます」


 私は、もう一度頭を下げた。


「礼なんざ要らねえ。結果も出てねえうちから頭を下げるな」


 クオシンさんは、静かに答えた。


 ……そうだね。


 まだ何も、分かっていないのだから。


     ◇


「一つだけ、いいですか」


 私は、ミキサー宰相へ向き直った。


「その書状を用意するとして、真実を知っている人まで騙す必要はないですよね」


 ミキサー宰相が、静かに頷いた。


「可能な限り、避けるべきでしょう」


「皇帝には、ちゃんと本当のことを話したいんです」


 私は、続けた。


「ヴァリロッサ皇帝は、この件を気にかけていました。これから調べるなら、まず皇帝の了承を得たい」


 カバディ王が顔を上げる。


「それは、よい考えだ」


 ミキサー宰相も頷いた。


「帝国の統治者ご本人が事情をご存じなら、少なくとも誤解の危険は減らせるでしょう」


 ……うん。


 よかった。


 少なくとも、皇帝には正直に話したい。


     ◇


「帝国の皇帝には、俺が直接話す」


 クオシンさんが言った。


「……クオシンさんが?」


「ああ。帝国の貴族へ会いに行くのは俺だ。お前に代弁される筋合いはねえ」


 ……なるほど。


 それも、そうかもしれない。


「でも、皇帝にお会いできるか、先に確認した方がいいですね」


「分かってる。皇帝の頭越しに動いて、後で面倒になるのは御免だ」


 クオシンさんが、私を見た。


「お前、皇帝へ直接連絡できるんだろ?」


「はい。《映像通話》があります」


「なら出発前に話を通しておけ。俺が説明する」


「もちろんです」


 ……うん。


 これで、一つ決まった。


 皇帝へ事情を伝えて、了承を得る。


 認められなければ、そこで止める。


 少なくとも、勝手に動くことだけは避けられる。


     ◇


「ただしな、リアリス」


 クオシンさんが、続けた。


「皇帝が了承しても、それで安心するんじゃねえぞ」


「……どういうことですか?」


「許可と証拠は別物だ。そんなことも分からねえのか」


 私は、黙って頷いた。


「ゴゾーラが無関係なら、それで終わりだ。黒なら黒で、簡単に尻尾を出すわけねえだろ」


 ……そうだよね。


 初めて会う人へ、『人身売買をしているんですか』と尋ねたところで、正直に答えるはずがない。


「だから俺が行くんだ。顔見知りなら、まずは話を聞ける。お前みたいに考えなしで突っ込むよりはな」


 クオシンさんは淡々と言った。


 私は少し考える。


「……危険ではありませんか?」


「危険? そんなもん百も承知だ」


 即答だった。


「だがお前が門をぶち壊すより、よっぽどましだろうが」


 ……うん。


 それを言われると、反論しにくい。


「分かりました」


     ◇


「では、条件を整理しましょう」


 ミキサー宰相が、書類を一枚取り出した。


「第一王子殿下のご行動について、王国として正式な命令は出しません」


「はい」


 クオシンさんが答える。


「殿下は、個人の意思で協力なさる。帝国への接触は、皇帝陛下の了承が前提です」


「分かってる。いちいち念を押すな」


「子爵の罪は決めつけず、まず事実を確かめること。証拠が得られたとしても、その後の対応は帝国側と相談すること」


 その言葉に、私も頷いた。


「そこは、私も気をつけます」


 ミキサー宰相は、私たちを交互に見た。


「何より、ほかの方々を巻き込まないことです。特に、罪の有無が分からない使用人や家族を軽々しく扱ってはなりません」


 ……ああ。


 そうだね。


 悪いことをした人がいるとしても、その周りの人まで同じとは限らない。


 それは、忘れないようにしよう。


     ◇


 カバディ王は、これまで静かに話を聞いていた。


 けれど、ここで口を開いた。


「クオシン」


「……何だよ、父上」


「本当に行くつもりなのか」


 その声には、王としての厳しさと、父親としての心配が混ざっているように聞こえた。


 クオシンさんは、視線を逸らさなかった。


「はい」


「相手が何も知らない者なら、それでよい。だが、もし本当に人を売っているなら、お前も危険にさらされるかもしれん」


「だから、分かってるって!」


「それでもか」


 短い沈黙。


 クオシンさんは、はっきり答えた。


「人間を鎖につないで金に換える奴がいるってんなら、俺が見過ごせるわけねえだろ!」


「……うむ」


「そんな連中を野放しにしたまま、次の王だ何だとふんぞり返ってられるか!」


 カバディ王は、息子を厳しい目で見た。


「……クオシン。言っていることは分かる。だが、その言葉遣いと態度を改めろ」


「はっ。そんなことより、今は奴隷売買の話だろうが!」


「……そういうところだ」


 父王は、小さく息を吐いた。


 私には、二人の間にある言葉にならないものが感じられた。


 奴隷売買への怒りは本物だ。でも、王の言葉さえ跳ね返す強情さも本物だった。


 ……ああ。


 この人が、周囲とぶつかる理由が少し分かった気がする。


     ◇


「リアリス殿」


 カバディ王が、私へ向き直った。


「はい」


「クオシンを連れていくなら、無事に帰してくれ」


「……もちろんです」


 私は即答した。


 クオシンさんは、少しだけ眉をひそめる。


「父上! 俺を子供扱いするな! 護衛なんざ要らねえ!」


「分かっておる」


 カバディ王は言葉を遮った。


「だが、父親として心配くらいはさせてくれ」


 ……ああ。


 胸が、少し痛くなった。


 カトレアが危険なところへ行こうとしたら、私だって心配する。


 たとえ本人が大丈夫だと言っても。


 ……そうだよね。


「必ず、無事に帰れるようにします」


 私は、もう一度答えた。


 カバディ王は、ゆっくり頷いた。


     ◇


 そのあと、ミキサー宰相が書状について説明した。


「表向きの説明は、すぐに使うものではありません」


「……はい」


「万が一、殿下が帝国の貴族との不適切な接触を疑われた場合に備えたものです。あくまで、王国から命令されたわけではないという説明を用意する」


 私は、机の上の白い紙へ目を落とした。


「……それでも、事実とは違うんですよね」


「ええ」


 宰相は誤魔化さなかった。


「ですから、慎重に扱わなければなりません」


 クオシンさんが、私へ視線を向ける。


「おい、何が気に食わねえんだ?」


「……少しだけ」


 私は正直に答えた。


「人を助けるために、嘘の書類を用意するというのが、どうしても気になって」


「俺だって、こんな茶番を好きでやってんじゃねえ」


 クオシンさんは、淡々と言った。


「だが王国まで巻き込まれたら、関係ねえ民まで迷惑する。それぐらい分かれよ」


 ……そうだね。


 王国には、カトレアがいる。


 巴さんがいる。


 街で暮らす人たちがいる。


 その人たちの安全も、考えなければならない。


     ◇


 ミキサー宰相が机へ紙を置いた。


「では、文案を作りましょう」


 そこからは、今まで以上に慎重な相談になった。


 どのような状況で使うのか。


 誰へ見せるものなのか。


 どこまでを説明するのか。


 クオシンさんは、ときおり机を指で叩き、納得のいかない点を遠慮なく突っ込んでいた。


 宰相も、曖昧なままにはしなかった。


 私は、そのやり取りを聞きながら思った。


 ……政治って、難しいなぁ。


 今までの私なら、きっと途中で話についていけなくなっていた。


 でも、今日は聞き逃したくなかった。


 この人たちは、誰かを調べる前に、その行動がどんな結果を生むか考えている。


 私は、まだそこまで考えきれていなかった。


     ◇


 やがて、書状の文案が出来上がった。


 そこには、第一王子クオシンが、リアリスから脅迫を受け、自らの意思に反してローズ帝国への同行を余儀なくされた――という趣旨の言葉が並んでいた。


 私は、思わず顔をしかめた。


「……これ、私が読んでも怖いですね」


 ミキサー宰相が、小さく頷いた。


「そのように読める必要がありますので」


「……そうですよね」


 クオシンさんは、書状を手に取って読み進める。


 表情は変わらなかった。


「……ふん。俺が脅されて言いなりになった、か。気に食わねえ文だな。だが勝手に使うなよ。先に皇帝へ本当の話を通す」


「もちろんです」


 宰相も頷いた。


 ……うん。


 それを聞いて、少し安心した。


 少なくとも、この書状を盾にして好き勝手にするつもりは、誰にもない。


     ◇


「もう一つ、作っておきたいものがあります」


 私が言うと、三人がこちらを見た。


「何だ?」


 カバディ王が尋ねる。


「本当の経緯を記した記録です」


 クオシンさんが、目を細めた。


「……あぁ? 何を残す気だ」


「表向きの書状だけ残したら、あとで何が本当だったのか分からなくなりそうで」


 私は、言葉を選んだ。


「今日、クオシンさんは自分で協力すると決めてくれました。カバディ王もミキサーさんも、無理に行かせているわけじゃない。それは、ちゃんと残しておきたいんです」


 ミキサー宰相は、少し考えてから頷いた。


「……記録としては必要でしょう」


 クオシンさんも、小さく息を吐く。


「お前に脅されて大人しく従う俺じゃねえ。そのことだけは書いとけ」


「……はい!」


 ……ああ。


 そこだけは、はっきりしておきたい!


 カバディ王が、少しだけ口元を緩めた。


「よし。そうしよう」


     ◇


 こうして、もう一枚の記録が用意された。


 帝都で奴隷売買の疑惑を聞いたこと。


 カバディ王とミキサー宰相へ相談したこと。


 クオシンさんが自ら協力を申し出たこと。


 王国として正式な命令は出していないこと。


 帝国の皇帝へ事前に説明し、了承を得てから動くこと。


 それは、すべて事実だ。


 ミキサー宰相は、記録を丁寧に封じた。


「こちらは、王城で保管します」


 カバディ王が頷く。


「うむ。頼む」


 ……うん。


 真実を知るために動くのだから、自分たちの経緯まで曖昧にしたくない。


     ◇


「おい、リアリス」


 クオシンさんが、最後に私へ尋ねた。


「お前、何かあったらどこまで責任取るつもりだ?」


 私は、少し考えた。


「何か起きたら、できる限り自分で責任を取るつもりです」


「……できる限り? ずいぶん歯切れが悪いな」


「はい。絶対に全部うまくいくとは、言えないので」


 自分の口から出た言葉が、少しだけ苦かった。


 《想像魔法》があれば何でも大丈夫。


 そう言いたくなる自分は、今でもいる。


 でも、何が起きるか分からないのに、全ての無事を約束するのは簡単じゃない。


「……ただ、一緒に行っていただくなら、危険な目には遭わせたくありません」


 クオシンさんは、しばらく私を見ていた。


 それから、ゆっくり頷く。


「……ふん。口先だけじゃねえことを祈るぜ」


 突き放すような返事だった。


 どうやら、私への不信感は少しも減っていないらしい。



     ◇


 書状と記録が整うと、ミキサー宰相は小さく息を吐いた。


「今日のところは、準備までにしておきましょう」


 私は、顔を上げた。


「……まだ、決まりではないんですね」


「はい。皇帝陛下が了承されるまでは、あくまで準備です」


 ……そうだね。


 先方の国の問題なのだから、最後はその国の判断も必要だ。


「皇帝への連絡は、私が取ります」


 私が言うと、クオシンさんが頷いた。


「ああ。ただし勝手に話を進めるな。何を伝えるか、俺にも先に見せろ」


「もちろん」


「先ほどの事実を記した記録も、皇帝陛下へ説明する際の基礎にします」


 ミキサー宰相も頷いた。


「必要であれば、私の方で要点を整理いたしましょう」


 ……おお。


 ありがたい。


 さっきから難しい話ばかりで、私一人だったら何度も説明し直すことになりそうだ。


 ただ。


 少し前なら、こういう場面で気楽に笑っていただろう。


 今日は、そんな気持ちになれなかった。


     ◇


「一つ、伺いたいことがあります」


 桜花が、初めて自分から話に加わった。


 皆の視線が集まる。


「どうぞ」


 カバディ王が答えると、桜花は小さく頭を下げた。


「もし子爵が何も知らず、今回の噂が誤りであった場合、その時点で調査は終えるのでしょうか」


 クオシンさんが、桜花を見た。


「そいつが白なら、そこまでだ。無実の奴を追い回すほど暇じゃねえ」


 桜花は頷いた。


「では、行方不明の方々については、引き続き調べる必要がございますね」


 部屋が静かになった。


 私は、桜花を見た。


 ……ああ。


 そうだった。


 私はゴゾーラ子爵のことばかり考えていた。


 でも、もともと気になったのは、人が帰ってこないという噂だ。


 仮に子爵が無関係でも、探している家族がいるなら、その問題は何も終わっていない。


「……そのとおりだね」


 私は、桜花へ頷いた。


 クオシンさんも、静かに言った。


「子爵一人を吊るし上げたいわけじゃねえ。何が起きてるか突き止めるのが先だ」


 ……うん。


 忘れないようにしよう。


     ◇


「もう一つ」


 私は、クオシンさんへ尋ねた。


「実際にゴゾーラ子爵へ会うとき、私や桜花も一緒に行った方がいいですか?」


 彼は、すぐに首を横に振った。


「は? 来るな」


「……即答ですね」


「顔見知りは俺だ。俺一人の方が自然に決まってるだろ」


 ……なるほど。


「お前やそこのメイドがついてきたら、余計に警戒されるわ」


 ……そうか。


 私は、帝国で皇帝へ謁見したときのことを思い出した。


 確かに、見知らぬ人が何人も現れたら、相手だって身構えるよね。


「では、私は外で待っていましょうか」


「皇帝に話を通してから決める。先走るなよ」


「……分かりました」


 桜花も、静かに頷いている。


 クオシンさんは、ここまでの話を一つずつ整理しているみたいだった。


 私は、その様子を見て少し安心した。


 ……頼りになる、というより、ずいぶん強引な人だね。


 ただ、思い切りのよさだけじゃなく、用心深い一面もあるみたいだ。


     ◇


 カバディ王が、最後に確認した。


「クオシン。もう一度聞くが、後悔はないな?」


「あるわけねえだろ」


「リアリス殿の力を借りることになるぞ」


「……んなこと、言われなくても分かってる」


 クオシンさんが、私をちらりと見た。


「勘違いすんなよ父上。俺はこいつを信用したわけじゃねえ!」


 ……おっと。


 そこは、やっぱり譲らないんだ。


 私は、苦笑した。


「……はい。分かってます」


「これが終わったら、お前とは金輪際関わりたくねえ」


「……うん。それでも大丈夫です」


 そう答えると、クオシンさんは少しだけ眉を寄せた。


「……お前、本当に気色悪いほど能天気だな」


「嫌われてるのは、何となく分かってるので」


 …………。


 ……あっ。


 言っちゃった。


 部屋の空気が、一瞬止まった。


 カバディ王が、何とも言えない顔で咳払いをした。


 ミキサー宰相は、視線を手元へ落としている。


 ……うん。


 この話題は、広げない方がよさそうだね!


     ◇


 クオシンさんは、露骨に舌打ちした。


 どうやら、遠慮する気はまったくないらしい。


「……そのヘラヘラしたところが、心底気に食わねえんだよ」


「……えっ?」


「何を言われても笑って流しやがって。自分が馬鹿にされてることも分かんねえのか?」


 ……そう言われても。


 私は、少し考えた。


「分かってますよ。でも、人を好きになれるかどうかは、無理に変えられるものじゃないでしょう?」


 クオシンさんは、黙った。


「だから、今回も私たちが仲良くなる必要はないと思っています。ただ……」


 私は、目を逸らさずに続けた。


「困っている人がいるかもしれない。そのことだけは、同じ気持ちだと分かったので」


 部屋は、しばらく静かだった。


 やがて、クオシンさんが小さく頷いた。


「……チッ。そこだけは同じだ。勘違いすんなよ」


 ……うん。


 十分だよ。


     ◇


 話し合いが終わり、私たちは席を立った。


 ミキサー宰相が、用意した文書を揃えている。


 表向きの書状の文案。


 真実の経緯を記した記録。


 そして、皇帝へ説明するための要点をまとめた紙。


 見た目には、ただの紙だ。


 けれど、その一枚一枚に、さっきまでの重い会話が残っている気がした。


 私は、ミキサー宰相へ頭を下げた。


「いろいろ教えていただいて、ありがとうございました」


「いいえ。どうか、慎重に進めてください」


「はい」


 カバディ王も、ゆっくり頷いた。


「結果が分かったら、知らせてくれ」


「必ず」


 私は、そう答えた。


 まだ何も終わっていない。


 むしろ、始まったばかりだ。


     ◇


 王城の廊下を歩く途中、クオシンさんが足を止めた。


「おい、リアリス」


「はい?」


「明日、帝国へ行けるんだろうな?」


「はい。こちらは大丈夫です」


「なら皇帝の都合を確認しろ。会えるなら俺が直接話す」


「分かりました」


 クオシンさんは、一度だけ頷いた。


「それまで勝手に動くんじゃねえぞ」


「……はい」


 ……ああ。


 本当に、念を押されてる!


「特に子爵の屋敷へ一人で突っ込んだら、ただじゃおかねえからな」


「しませんよ」


「……信用ならねえ。余計な真似すんなよ」


「本当です!」


 ……うん。


 そこは、約束できる。


 勝手に動いて、クオシンさんの決断を無駄にしたくない。


     ◇


 クオシンさんは、最後まで不機嫌そうだった。


 話し合いには協力してくれたけれど、私への嫌悪感まで消えたわけじゃない。


 むしろ、隠そうとすらしていない。


「……ふん。明日だ。遅れんなよ」


「はい。よろしくお願いします」


 私は、軽く頭を下げた。


 クオシンさんは、そのまま廊下の向こうへ歩いていった。


 肩を怒らせた背中。


 誰かが道を譲るのを当然とするような、迷いのない足取り。


 ……ああ。


 あの人と一緒に行動する日が来るなんて、思ってもみなかったな。


 桜花が、私の隣に立つ。


「リアリス様」


「ん?」


「よいお話し合いができたかと存じます」


「……そうだね」


 私は、クオシンさんの背中が見えなくなるまで、少しだけ廊下に立っていた。


     ◇


 王城を出ると、昼を少し過ぎていた。


 街では、商人が荷物を運び、子どもたちが笑いながら走っている。


 いつものクーラルだ。


 ……ああ。


 ここでは、人が売られているという噂を聞かなかった。


 少なくとも、私の周りでは。


 それが、急に不思議なことのように思えた。


 国が変わるだけで、人の暮らしはこんなに違ってしまうのだろうか。


 それとも、私が知らないだけなのだろうか。


 桜花が、静かに尋ねた。


「このままお屋敷へお戻りになりますか」


「うん。まずは帰ろう。それから皇帝へ連絡する準備をしないとね」


「かしこまりました」


 私は、人の少ない場所へ移動した。


 《転移》を使えば、家までは一瞬だ。


 でも、今はその一瞬が、少し長く感じられた。


     ◇


 シルク王国邸へ帰ると、庭からカトレアの声が聞こえた。


「お父さん、お帰り!」


「ただいま!」


 カトレアが、笑顔で駆け寄ってくる。


 その後ろには、楓。


 いつものように無表情で、静かにこちらを見ていた。


「ねえ、お父さん。お花の絵、もう一枚描いたよ」


「本当? 見せてほしいな」


「うん!」


 カトレアは、私の手を引いた。


 ……ああ。


 いつもの家。


 いつもの庭。


 いつもの声。


 私は、そっと小さな手を握り返した。


 これが、私の守りたいものなんだ。


     ◇


 居間へ戻ると、巴さんが温かいお茶を出してくれた。


「お帰りなさい、リアリスちゃん。お話はどうだった?」


「……少し、進んだよ」


 私は、答えた。


「協力してくれる人が見つかったんだ」


「そう。よかったわね」


 巴さんは微笑んだ。


「……でも、簡単な話じゃなさそうね」


「うん」


 私は、お茶を一口飲んだ。


 温かい。


 けれど、胸の奥はまだ落ち着かない。


「明日、帝国へ行くことになりそう」


「そうなのね」


「今度は、ちょっと難しい人と一緒に」


 巴さんが、少しだけ首を傾げた。


「……クオシン様?」


「……あっ。分かるんだ」


「ふふ。何となくね」


 ……ああ。


 巴さんには、隠し事ができないなぁ。


     ◇


 私は、今日の話を巴さんへ簡単に伝えた。


 クオシンさんが、協力すると言ってくれたこと。


 皇帝の了承を得てから動くこと。


 まだ、誰も何も確かめられていないこと。


 巴さんは、最後まで静かに聞いてくれた。


「……リアリスちゃん」


「ん?」


「どんな結果になっても、帰ってきてね」


 私は、顔を上げた。


「もちろん」


「それから、桜花ちゃんも。無理はしないでね」


「承知いたしました、巴さん」


 桜花が、静かに答えた。


 ……ああ。


 心配してくれる人がいる。


 それは、嬉しいことだ。


 私は、改めて頷いた。


「うん。ちゃんと帰ってくるよ」


     ◇


 夕方。


 自分の部屋へ戻った私は、机の上の花の絵を眺めていた。


 昨日カトレアが描いてくれた、薄紫の花。


 その横には、海で拾った貝殻。


 少し前まで、私はそれを見て、ただ嬉しいと思っていた。


 今も、もちろん嬉しい。


 ただ、その向こうに別の景色が重なってしまう。


 帝都の商人たちの、声を落とした会話。


 名前を出すことを怖がる人たち。


 帰ってこない誰かを、探し続けているかもしれない家族。


 ……明日、何が分かるのだろう。


 何も分からないままかもしれない。


 ゴゾーラ子爵は、何の関係もない人かもしれない。


 それなら、それでいい。


 でも。


 もし、本当に人を売っている誰かがいるなら。


 どんな言葉で、その行為を正当化しているのだろう。


 私は、机の上で指を組んだ。


 ……考えたところで、答えは出ない。


 だから、確かめるしかない。


 私は、皇帝への連絡に必要な内容を改めて整理した。


 クオシンさんへ、きちんと説明するために。


 帝国の許可を得るために。


 そして、もし誰かが助けを待っているなら、その人のところへたどり着くために。


 ――今日、私は苦手な人と手を組んだ。


 それが何につながるのか、まだ分からない。


 ただ一つ、確かなことがある。


 人が人を売るという噂を聞いて、私たちは同じように嫌悪した。


 それだけの共通点でも、歩き出す理由にはなった。


 明日の帝都は、昨日までとは違って見えるかもしれない。


 そう思うと、眠るにはまだ少し早かった。

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