第1話:帝都で聞いた奴隷のうわさ
人に、値段がつく。
その言葉を聞いたとき、私はしばらく意味を理解できなかった。
花にも、服にも、食べ物にも、値段はつく。
でも、人間は違う。
少なくとも、私はそう思っていた。
――これは、海での旅を終えてしばらく経った、ある日の話だ。
◇
ローズ帝国、帝都トリテア。
黒を基調とした建物が並ぶ大通りには、今日も多くの人が行き交っていた。
金属を打つ音。露店の客引き。荷馬車の車輪が石畳を転がる音。
シルク王国の王都クーラルとは、また違った賑わいがある。
「お父さん、こっちのお花も見ていい?」
「もちろん。今日は急ぐ用事もないからね」
私の手を引くのは、カトレア。
水色の短いおかっぱ髪が、歩くたびに小さく揺れている。
海への旅行から戻って以来、カトレアは貝殻を飾る場所を考えるのに夢中だった。
それで今日は、ローズ帝国邸に寄るついでに、帝都の市場を散歩することにした。
付き添いは、いつもどおり桜花。
「リアリス様。通りの向こうに、花を扱うお店がございます」
「ありがとう、桜花。行ってみようか」
カトレアが頷く。
その顔は、もうすっかり普段の笑顔だった。
……うん。
こういう一日も、いいね。
◇
花屋の軒先には、小さな鉢植えが並んでいた。
薄紫の花。淡い黄色の花。葉の先が白くなった、見慣れない植物。
カトレアは、どれも大切なものを見るように眺めている。
「この紫のお花、かわいいね」
「そうだね。カトレアの部屋にも似合いそう」
「……でも、もうお花がいっぱいあるから」
言いながら、カトレアは少しだけ笑った。
……ああ。
自分の部屋の花の数、ちゃんと分かってるんだね。
店主が、柔らかい声で説明してくれた。
「そちらは、帝都でも人気の花ですよ。丈夫で育てやすいんです」
「へえ。じゃあ、一ついただこうかな」
「ありがとうございます!」
代金を払うと、店主は鉢を丁寧に包んでくれた。
カトレアが、その包みを両手で受け取る。
「ありがとう!」
……うん。
そんな何でもないやり取りが、嬉しかった。
私たちの毎日は、こういう小さな出来事でできている。
このときは、そう思っていた。
◇
花屋を出て、少し歩いた先。
通りの角で、二人の商人が話していた。
果物を扱う男と、布を売っている女だ。
最初は、仕入れの相談に聞こえた。
「……また一人、戻ってこなかったらしい」
「また?」
「ああ。街の外で仕事を探していた女だ。家族が探してる」
歩きかけた足が、止まった。
女の商人が、声を落とす。
「この前の職人の話もあるでしょう。やっぱり、あの噂……」
「おい。ここではやめろ」
男が、周囲を見回した。
「貴族が関わってるって話だ。下手に口にするな」
カトレアは、花の包みを抱えたまま、首を傾げている。
私は、二人の横を通り過ぎた。
何となく気になったけれど、まだ何の話か分からなかった。
人が戻ってこない。
貴族が関わっている。
それだけなら、どうとでも解釈できる。
……そう思おうとした。
けれど、胸の奥には小さな引っかかりが残った。
◇
「お父さん?」
「ん?」
「どうかしたの?」
「……いや。ちょっと気になる話が聞こえただけだよ」
カトレアは、私の顔を見た。
「困ってる人がいるの?」
私は、すぐには答えられなかった。
さっき聞いたのは、たった数言の噂話だ。
事情も知らない。
何が起きたのかも分からない。
「まだ分からないんだ」
そう答えると、カトレアは静かに頷いた。
「……そうなんだ」
私は、そっと手を握り直した。
桜花が、私の横に並ぶ。
「リアリス様」
「うん。聞こえてた?」
「はい」
それ以上、桜花は何も言わなかった。
私も、今は問いただすことをしなかった。
この場で商人を問い詰めても、怖がらせるだけかもしれない。
まずは、落ち着いて確かめよう。
◇
昼前。
私たちは、帝都の市場の奥にある、小さな広場へ出た。
露店では焼き菓子を売っていて、近くの噴水では子どもたちが遊んでいる。
カトレアは、花の包みを抱えたまま水音に耳を傾けていた。
「お父さん、あのお菓子、いい匂い」
「本当だ。少し買っていこうか」
「……うん!」
桜花が、周囲を見回してから頷く。
「こちらでお待ちしております」
「うん。すぐ戻るよ」
私は、露店へ向かった。
焼きたての小さなお菓子が、布の上に並んでいる。
店主の女性が、笑顔で迎えてくれた。
「いらっしゃい。お嬢ちゃんにも、ひとつどうだい?」
「ありがとう。三つお願いします」
店主が紙包みを作り始めたとき、隣の露店から声がした。
「……昨日、また兵が来たって?」
男の声だった。
「ああ。例の、行方不明の件らしい」
お菓子を選ぶ手が、止まった。
◇
「見つかったのか?」
「いや。何も分からないそうだ」
「……またかよ」
男が、低く息を吐いた。
「人が消えてるのに、誰も何も言わない。あんなの、昔の奴隷商と変わらねえじゃないか」
――奴隷商。
その言葉が、はっきりと耳に入った。
私は、店主へ目を向けた。
「……すみません。今の話、どういうことですか?」
女性の手が止まった。
さっきまでの笑顔が消える。
「お客さん、旅の方?」
「はい。時々、この町へ来ています」
「……なら、あまり首を突っ込まない方がいいよ」
彼女は、小さく声を落とした。
「最近ね、人を売り買いしてる貴族がいるって噂があるんだ」
……人を。
売り買い?
「……それは、人身売買ということですか?」
店主は、私の目を見なかった。
「噂だよ。ただの噂。あたしは、何も見てない」
そう言うと、包みを差し出してきた。
「ほら。お嬢ちゃんに、冷めないうちに持っていってあげな」
私は代金を払い、静かに頭を下げた。
どうも、ありがとうございました。
その言葉が、うまく声にならなかった。
◇
広場へ戻ると、カトレアが手を振ってくれた。
「お父さん、お帰り」
「ただいま」
私は、お菓子の包みを開いて渡した。
カトレアは、嬉しそうに一口食べる。
「……おいしい」
「よかった」
いつもなら、私も一緒に食べていたと思う。
でも、その日はどうしても食欲が湧かなかった。
桜花が、静かに私を見た。
「何か、お聞きになりましたか」
「……うん」
私は、小さく答えた。
「あとで話すよ。今は、カトレアと一緒に食べよう」
カトレアが、私へ半分になったお菓子を差し出した。
「お父さんも食べて」
……ああ。
優しい子だね。
「ありがとう」
私は受け取って、一口食べた。
甘い香りがした。
それなのに、何だか味が分からなかった。
◇
しばらくして、私たちはローズ帝国邸へ戻った。
帝都トリテアの邸宅は、今日も静かだった。
門をくぐれば、整えられた庭。
花壇。
大きな屋敷。
いつもと変わらない光景だ。
出迎えてくれた一般メイドへ、花の鉢を預ける。
「カトレア様のお部屋へお運びしましょうか」
「……うん。窓の近くに置いてほしい」
「かしこまりました」
カトレアが、嬉しそうにメイドの後ろをついていく。
……その姿を見送りながら、私は思った。
この屋敷では、誰かが帰ってこないというだけで、きっと大騒ぎになる。
巴さんが心配する。
桜花が探しに行く。
フラワーズも、放っておかない。
私だって、必ず迎えに行く。
でも。
帝都で消えたという人たちは、どうなんだろう。
待っている家族がいるなら、その家族は今、何を思っているんだろう。
◇
「リアリス様」
桜花が、少し離れたところから声をかけた。
「お話を伺っても、よろしいでしょうか」
「……うん」
私たちは、カトレアのいる部屋から離れた、小さな応接室へ入った。
扉を閉める。
窓からは、庭の花が見えた。
私は、広場で聞いた話を桜花へ伝えた。
人が消えていること。
貴族が関わっているという噂。
そして、人を売り買いしているかもしれないという話。
桜花は最後まで黙って聞いた。
「……そのようなことが」
「まだ、噂でしかないよ」
「はい」
「でも、同じような話を、別の場所で二度聞いた」
桜花の視線が、ほんの少し鋭くなった。
「ご調査なさいますか」
「うん。そのつもり」
私は、窓の外へ目を向けた。
風に揺れる花。
子どもの笑い声。
何も知らなければ、今日も穏やかな一日で終わったはずだ。
……それでも。
聞いてしまった以上、知らないふりはできなかった。
◇
私は、桜花に尋ねた。
「桜花は、この世界の奴隷制度について、どれくらい知ってる?」
「各国で扱いは異なりますが、人間を財産のように扱う行為について、良いものではないと認識しております」
「……そうだよね」
私は、膝の上で両手を組んだ。
日本にいた頃も、人身売買という言葉は知っていた。
ニュースで見たこともある。
教科書で、昔の奴隷制度について習ったこともある。
けれど、それはずっと遠い出来事のように思えていた。
どこかにある、恐ろしい話。
自分が暮らす毎日からは、隔てられた話。
そして今、私が歩いてきたばかりの市場で、その言葉が交わされていた。
「この帝都で本当に人が売られているなら……」
続きが、うまく口にできなかった。
桜花は私の向かいに座り、静かに言った。
「リアリス様。まずは、確かな情報を集めましょう」
「うん。そうする」
その言葉は、私が自分で考えていたことでもあった。
誰かを疑って、間違っていたらどうするのか。
本当に被害者がいるとして、下手に動いたせいで隠されてしまったらどうするのか。
力があるからといって、何も考えずに動いていいわけじゃない。
……そうだね。
今、必要なのは怒りをぶつけることじゃない。
事実を知ることだ。
◇
昼食の時間になり、カトレアが応接室へ顔を出した。
「お父さん、もうご飯だって」
「うん。今行くよ」
「桜花お姉ちゃんも、一緒?」
「はい。ご一緒いたします」
カトレアが、にっこり笑った。
私たちは、立ち上がって食堂へ向かった。
食卓には、帝国邸のメイドたちが用意してくれた料理が並んでいた。
焼いた肉と野菜。
温かいスープ。
果物の盛り合わせ。
カトレアは、さっき買った鉢植えをどこに置いたか、楽しそうに話してくれる。
「窓のところにね、お日様が入るから、あそこにしたの」
「それはいい場所だね」
「帰る前に、お父さんにも見てほしい」
「うん。あとで見せてね」
たったそれだけの会話が、今はとても大切に思えた。
食事があって、帰る家があって、誰かが待っていてくれる。
当たり前みたいな一日。
……だけど、その当たり前を、奪われている人がいるかもしれない。
◇
カトレアが食事を終え、一般メイドと庭へ出ていったあと。
私は、帝国邸の管理を担当しているメイドに声をかけた。
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな」
「はい、リアリス様」
「最近、帝都で人が行方不明になっているって話、聞いたことはある?」
メイドの表情が、少し曇った。
「……噂でしたら、耳にしております」
「やっぱり」
「ただ、実際に何が起きたのか、私たちにも分かりません。お屋敷の周辺では、特に問題は起きておりません」
……うん。
この子たちは邸宅の管理が仕事だ。
帝都の全てを把握しているわけじゃない。
私は、頷いた。
「ありがとう。無理に調べなくていいからね」
「かしこまりました」
……ああ。
聞けば聞くほど、噂は存在する。
でも、肝心なところが見えない。
どこで。
誰が。
何をしているのか。
それが分からなければ、人を救う方法も決められない。
◇
その日の午後。
私は、カトレアを連れて花壇を見に行った。
買ってきた鉢植えは、陽の当たる窓辺へきちんと置かれていた。
淡い紫の花が、静かに揺れている。
「……綺麗だね」
私が言うと、カトレアが頷いた。
「うん。大きくなってくれるかな」
「ちゃんとお世話すれば、きっとね」
「じゃあ、帝国のお家に来たら、毎回見に来る」
「いいね」
カトレアは、そっと花を見つめていた。
私は、その横顔を眺めた。
この子にも、帰れなくなった家がある。
両親を失い、馬車の中で怯えていたあの日。
私たちが出会わなければ、どうなっていたのだろう。
……考えたくもなかった。
「お父さん?」
カトレアが、私の服を引いた。
「……何でもないよ」
私は、しゃがんで目線を合わせた。
「カトレアは、ここにいてくれて嬉しい?」
何でそんなことを聞いたのだろう。
自分でも分からなかった。
カトレアは、一度だけ首を傾げた。
それから、当然のように答えた。
「うん。お父さんと一緒がいい」
私は、言葉を失った。
……ああ。
そうだよね。
「私も、一緒がいいよ」
そっと抱きしめると、カトレアは嬉しそうに笑った。
小さな手が、私の背中へ回る。
……この温かさを、誰かの都合で奪っていいはずがない。
◇
夕方になる前に、私たちは一度シルク王国邸へ帰ることにした。
帝国のメイドたちへ挨拶し、荷物をまとめる。
桜花が確認を終えてから、私は《転移》を使った。
見慣れた庭へ戻る。
巴さんが迎えてくれた。
「お帰りなさい、リアリスちゃん。カトレアちゃん」
「ただいま!」
カトレアは、買ってきた花の話をしたくて仕方がないらしい。
……ああ。
でも、今日は持って帰ってきていないんだよね。
「今度、巴さんにも見せてあげようね」
「うん!」
巴さんが、二人の顔を見比べた。
「リアリスちゃん。何かあったの?」
……あっ。
分かるんだね。
私は、カトレアへ向き直った。
「先に楓たちと遊んでおいで。お父さんは、巴さんと少しお話してくるから」
「……うん。あとでリバーシする?」
「もちろん」
カトレアが、庭の方へ駆けていく。
……うん。
今は、あの子がいつもどおりでいてくれることが救いだった。
◇
居間で、私は巴さんにも話をした。
帝都で聞いた、行方不明の人々の噂。
奴隷売買に貴族が関わっているかもしれないこと。
まだ、裏づけが何もないこと。
巴さんは、いつもの穏やかな表情のまま、最後まで聞いてくれた。
それから、小さく息を吐く。
「……嫌な話ね」
「うん」
「昔のことならともかく、今もそんなことをする人がいるのね」
「……本当なら、ね」
私は、そう付け足した。
断定してはいけない。
今の私には、噂しかない。
「リアリスちゃんは、どうしたいの?」
「確かめたい。もし本当なら、放っておけない」
巴さんは、静かに頷いた。
「そうね」
それから、私の手をそっと包んだ。
「でも、無理はしないでね」
「うん。分かってるよ」
……本当に、分かっているつもりだった。
少なくとも、このときは。
◇
翌日。
私は、桜花と二人で帝都トリテアへ戻った。
カトレアは、シルク王国邸で巴さんと過ごしてもらうことにした。
今日は、少し落ち着いて町の話を聞きたい。
昨日のことが本当かもしれないなら、カトレアを不安な場所へ連れて歩きたくなかった。
「リアリス様。どちらから参りましょうか」
桜花が、隣で尋ねた。
「市場へ戻ってみようかな。昨日とは別の場所も歩いてみたい」
「かしこまりました」
私は、帝国邸を出て、再び大通りへ向かった。
昨日と同じ空。
昨日と同じ賑わい。
昨日と同じ店の呼び込み。
――何も変わらないように見える。
けれど、私の耳には、昨日までなら聞き流していたかもしれない声が残っていた。
◇
大通りの端で、荷物を運ぶ男たちが話していた。
「北の方で、また人を探してるそうだ」
「何日も帰ってないんだろう?」
「ああ。家族が、毎日あちこち回ってるらしい」
私は足を止めた。
男たちの話は、続く。
「役所には届けたってよ」
「じゃあ、何で見つからない?」
「……知らねえよ。見つからないものは見つからないんだ」
短い沈黙があった。
一人が、小さな声で言った。
「売られたって話もある」
もう一人が、すぐに口を塞ぐようにした。
「やめろ。誰に聞かれてるか分からない」
……まただ。
昨日とは違う場所。
違う人。
それでも、同じ言葉が出てくる。
私は、静かに男たちへ声をかけた。
「すみません。少しお話を聞いてもいいですか」
◇
男たちは、ぎょっとした顔で振り返った。
「……何だ、あんた」
「旅の者です。人が行方不明になっていると聞きました」
私は、なるべく落ち着いた声で続けた。
「もし困っている人がいるなら、何かできないかと思って」
男の一人が、警戒したように私を見た。
「……あんた、役人か?」
「いいえ」
「じゃあ、やめときな。あれは俺たちがどうこうできる話じゃない」
「……どういうことですか?」
男は、ためらった。
もう一人が、さらに声を落とす。
「偉い人が関わってるって噂だ。名前は言わねえ。俺たちだって、家族がいる」
……家族。
その一言で、私はもう無理に聞けなくなった。
「分かりました。引き止めてすみません」
頭を下げると、男たちは早足で去っていった。
桜花が、横へ並ぶ。
「……皆様、恐れておいでのようです」
「うん」
私は、遠ざかる背中を見送った。
情報がないんじゃない。
口に出すこと自体を、怖がっている人がいる。
――それが、何より嫌だった。
◇
次に立ち寄ったのは、広場近くの布屋だった。
昨日とは別の店だ。
私は、以前この店で買った布が使いやすかったことを思い出した。
買い物をしながらなら、無理なく話を聞けるかもしれない。
「この布を、二枚ください」
「はい。少々お待ちを」
年配の店主が、丁寧に布を畳む。
私は、周囲の様子を見てから声をかけた。
「最近、帝都で物騒な噂があると聞きました」
店主の手が止まった。
「……どんな噂ですか」
「人が、行方不明になっていると」
店主は、私の顔をじっと見た。
それから、小さく息を吐いた。
「……私も、耳にはしています」
「誰か、知っている方がいなくなったんですか?」
「いいえ。ただ、お客さんが話していったことがあって」
店主は、布を包みながら言葉を選んでいた。
「仕事の紹介を受けて町の外へ出た人が、戻ってこないことがあるそうです。どこへ行ったのか、誰も分からないと」
「……仕事の紹介?」
「そう聞きました。でも、確かな話じゃありません」
私は、頷いた。
「ありがとうございます」
店主は、声を落として付け加えた。
「どうか、気をつけてください。ここでは、正しいことを言った人が守られるとは限りませんから」
……その言葉が、重く残った。
◇
店を出たあと、私はしばらく無言で歩いた。
桜花も、何も言わずについてきてくれる。
……三度目だ。
場所も人も違うのに、同じような話が出てきた。
行方不明。
貴族。
奴隷。
仕事の紹介。
その言葉が、頭の中でつながりそうになる。
……だけど。
まだ、つなげてはいけない。
噂同士を重ねても、それだけで事実にはならない。
今の私が想像した筋書きで誰かを裁くこともできない。
では、どうするのか。
私は、大通りの向こうに見える大きな城へ目を向けた。
この国を治める人なら、何か知っているかもしれない。
「……桜花」
「はい」
「皇帝に、会いに行こう」
「かしこまりました」
桜花は、一度だけ深く頷いた。
私たちは、帝城へ向かって歩き出した。
◇
ローズ帝国の帝城へ着くと、門の兵士が私たちに気づいた。
「リアリス殿。お久しぶりです」
「こんにちは。皇帝に会いたいんだけど、今は大丈夫かな」
「少々お待ちください。確認してまいります」
兵士はすぐに城内へ向かった。
私は、門の外で待った。
目の前には、頑丈な外壁と、高い塔。
城を守る兵士たちは、いつもと変わらずきびきび動いている。
この国には、皇帝がいる。
宰相がいる。
兵士がいて、役人がいて、街にはたくさんの人がいる。
それでも。
誰かが消えて、家族が探しているという噂が広まっている。
国が大きくなれば、見えなくなることもあるのだろうか。
……いや。
見えないからといって、なかったことにはできない。
「リアリス様」
桜花が、私を見た。
「大丈夫だよ。まだ、何も起きてない」
自分へ言い聞かせるように、そう答えた。
今は、話を聞くだけだ。
◇
しばらくして、兵士が戻ってきた。
「皇帝陛下がお会いになるそうです。こちらへ」
「ありがとう」
私たちは、案内に従って城へ入った。
以前にも歩いた廊下。
高い天井。
磨かれた床。
豪華だけれど、どこか武骨な飾りつけ。
……うん。
変わらないね。
案内されたのは、謁見の間ではなく、奥にある小さな会議室だった。
扉の前で、兵士が立ち止まる。
「リアリス殿をお連れしました」
「入れ!」
聞き慣れた、よく通る声。
扉が開いた。
◇
「おう、リアリス!」
ヴァリロッサ皇帝が、席から立ち上がった。
灰色の短髪に、大柄な体。
相変わらず、皇帝というより強い冒険者みたいな人だ。
「久しぶりだな! どうだ、今日は手合わせでも――」
「皇帝。今日は、相談があるんだ」
私が言うと、皇帝の言葉が止まった。
「……ほう?」
笑いかけていた顔が、少しだけ真面目になる。
その横には、黒髪に片眼鏡の宰相、ガラントさんがいた。
「リアリス殿。どうぞ、お掛けください」
「ありがとうございます」
私は椅子へ腰かけた。
桜花は、その隣へ静かに座る。
皇帝は、私の顔をしばらく見ていた。
「……何があった?」
「帝都で、気になる噂を聞いたんだ」
そこで私は、一度言葉を切った。
自分が話そうとしていることは、軽い相談ではない。
「人が売り買いされているかもしれない、という噂だよ」
室内が、静かになった。
◇
皇帝の表情から、笑みが消えた。
ガラントさんも、片眼鏡の奥で目を細める。
「……その話か」
先に口を開いたのは、皇帝だった。
私は、その反応を見て背筋を伸ばした。
「皇帝も知ってるの?」
「ああ。噂なら、耳にしている」
――知っていた。
私は、膝の上で手を握った。
「本当に、そんなことが起きてるの?」
皇帝は、すぐには答えなかった。
しばらくして、低い声で言った。
「分からん」
「……分からない?」
「少なくとも、今のところ確かな証拠は上がっていない」
私は、皇帝の顔を見た。
その目には、いつもの勝負を楽しむような光はなかった。
「帝都では、最近、人が消えたという話がある。人身売買につながっているのではないかという噂もな」
皇帝は、腕を組んだ。
「だが、噂と証拠は別だ」
……うん。
私も、そこは分かっている。
◇
ガラントさんが、静かに補足した。
「我々としても、確認が必要な話だと認識しております。ただ、誰が何をしたのかを示すものが、まだありません」
「行方不明になった人についても?」
「確かな報告として整理できた情報は、十分ではありません」
……なるほど。
つまり、何も心配していないわけじゃない。
調べたいと思っても、相手や場所が分からない。
私は、ゆっくり息を吐いた。
「……でも、噂が何度も出ているんだよね」
「そうだ」
皇帝が頷いた。
「だから、俺も気にしている」
その声は、短かった。
けれど、いつもの大きな声よりずっと重く聞こえた。
私は、窓の外へ目を向けた。
高い場所から見下ろす帝都は、さっきまで歩いていた市場が小さく見える。
あの中に、家族を探し続けている人がいるかもしれない。
ここからは、その顔までは見えない。
◇
「一つ、聞いてもいいかな」
私が言うと、皇帝は頷いた。
「何だ」
「もし本当に奴隷売買が行われているなら、この国では許されることなの?」
皇帝の眉が、はっきりと動いた。
「許すわけがない」
即答だった。
ガラントさんも、静かに頷いている。
「少なくとも、勝手に人を捕らえ、財産として売り渡すようなことを、帝国は認めておりません」
……ああ。
その言葉を聞いて、少しだけ息がしやすくなった。
この国の支配者が、人を売ることを当たり前だと思っているわけじゃない。
……でも。
「それなら、調べないといけないね」
「ああ。そう思っている」
皇帝は、そこで声を落とした。
「ただし、相手が貴族なら話は厄介だ」
私は、皇帝を見た。
◇
「貴族だから、調べられないの?」
思わず、そう尋ねてしまった。
皇帝は、首を横に振った。
「そういうことではない。俺が命じれば、調べさせることはできる」
「じゃあ……」
「だが、何の根拠もなく屋敷へ兵を送り、誰かを罪人と決めつけていいわけではない」
私は、口を閉じた。
「俺は皇帝だ。だからといって、噂だけで人を裁けば、それもまた権力の乱用になる」
……そうか。
皇帝だからこそ、力の使い方に責任がある。
私が《想像魔法》で何でもできるからといって、何をしてもいいわけじゃないのと同じだ。
「もちろん、証拠が出れば別だ」
皇帝が続けた。
「俺の国で人を売り買いしていたなら、見逃すつもりはない」
その言葉は、はっきりしていた。
◇
私は、少し考えてから尋ねた。
「……誰が関わっているか、心当たりはないの?」
皇帝は、ガラントさんと視線を交わした。
短い沈黙。
それから、皇帝が口を開く。
「……一人、気になる男はいる」
私は、顔を上げた。
「誰?」
「ゴゾーラ子爵だ」
……ゴゾーラ。
知らない名前だった。
皇帝は、続ける。
「帝都に屋敷を持つ貴族だ。最近の噂と結びつけて、その名前を口にする者がいる」
「……その人が、奴隷を売っているの?」
「分からん」
再び、きっぱりとした返事。
「疑いがあることと、事実であることは違う」
私は、頷いた。
……そうだった。
ここで名前を聞いたからといって、その人が犯人だと決まったわけじゃない。
「その子爵について、証拠は?」
「ない」
皇帝が、短く答えた。
その言葉が、室内に残った。
◇
「人が消えたという話と、子爵の名前。それ以外に、何かあるの?」
私は、なるべく落ち着いた声で尋ねた。
ガラントさんが答える。
「噂の内容にはばらつきがあります。確かな目撃者も、今のところ確認できておりません」
……なるほど。
誰かが『そうだ』と言ったからといって、次の人がそれを繰り返せば、噂は広まっていく。
人数が多くても、元をたどれば同じ話かもしれない。
……それは、私も分かる。
だけど。
「本当に人が捕らえられているなら、その人たちは今も待ってるんだよね」
言葉にしてみると、重かった。
助けが来るのを待っているかもしれない。
帰りたいと思っているかもしれない。
あるいは、もう希望を持てなくなっているかもしれない。
私は、唇を噛んだ。
「リアリス」
皇帝が、低い声で呼んだ。
「……うん」
「気持ちは分かる。だが、今は慎重に動け」
私は、小さく頷いた。
「分かってる」
◇
皇帝は、椅子の背へ深くもたれた。
「お前なら、屋敷の壁でも門でも簡単に壊せるだろう」
「……そうだね」
「だが、壊した先に誰もいなかったらどうする。疑いをかけられた者が無実だったらどうする。あるいは、誰かを隠している者が、こちらの動きを知って別の場所へ移したら?」
……そうだ。
どれも、考えておかなければならないことだ。
私は力を使うことには困らない。
でも、力で解決できることと、力を使うべき場面は違う。
桜花が、静かに言った。
「リアリス様。皇帝陛下のお言葉は、もっともかと存じます」
「……うん」
私は、桜花へ目を向けた。
銀色の短い髪。
真っ直ぐな眼差し。
いつも私の隣にいてくれる、頼りになる存在。
「焦らず、確かなところから調べよう」
「はい」
桜花の返事は、揺るがなかった。
◇
ガラントさんが、机の上の書類を揃えた。
「陛下。情報の確認については、引き続きこちらで進めます」
「ああ。頼む」
私は、二人へ頭を下げた。
「今日は、話を聞いてくれてありがとう」
「構わん」
皇帝は、私をじっと見た。
「リアリス。何か分かったら、俺にも知らせろ」
「うん。もちろん」
「この国のことは、俺にも責任がある。お前一人で背負うな」
……ああ。
強い人だと思っていた。
戦うことが大好きで、いつも手合わせの話ばかりしている皇帝。
でも、今日は違う。
この人は、本当に国を背負っているんだね。
「……ありがとう、皇帝」
私は、もう一度頭を下げた。
◇
会議室を出ると、廊下の空気が少し冷たく感じた。
兵士の足音が、遠くで響いている。
桜花が、隣を歩いていた。
「リアリス様」
「ん?」
「ゴゾーラ子爵という名が挙がりましたが……」
「うん。まだ、決めつけちゃ駄目だね」
「はい」
私は、窓の外の街並みを見た。
遠くには、市場の屋根が見える。
朝、話を聞かせてくれた商人たちは、もう仕事へ戻っているのだろうか。
家族を探す人たちは、今日も街を歩いているのだろうか。
確かなことは、まだ何も分からない。
それなのに、不安だけが確かに残る。
……変な話だね。
私は、桜花へ小さく笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
◇
城を出ると、ちょうど夕方になっていた。
大通りの店は、片づけを始めている。
家路を急ぐ人。
荷物を抱えた商人。
親に手を引かれて歩く子ども。
……ああ。
昨日と同じ景色だ。
そういえば、カトレアが花屋で私の手を握ってくれたっけ。
あの子は、今ごろシルク王国邸で花壇の水やりをしているかもしれない。
私は、その姿を思い浮かべた。
……会いたいな。
今は、そう思った。
「桜花。今日は、帰ろうか」
「かしこまりました」
私は、人目のない場所へ移動した。
「《転移》」
目の前の帝都の景色が、ふっと消える。
次に見えたのは、シルク王国邸の庭だった。
……帰ってきた。
何も解決していないのに。
私たちは、いつもどおり帰ってこられた。
◇
シルク王国邸の庭には、夕方の柔らかな光が差していた。
花壇の向こうから、声が聞こえる。
「アリーナお姉ちゃん、こっちのお花も見て!」
「まあ、綺麗。こんな色もあるのね」
……アリーナさん?
私は、足を止めた。
振り向いた桜花も、声のした方へ目を向けている。
庭の中央に、二人の姿があった。
カトレアと、シルク王国の第一王女アリーナさん。
桃色の長い髪を揺らし、アリーナさんはカトレアの目線に合わせてしゃがんでいた。
その様子は、王女様というより、本当に優しいお姉ちゃんみたいだ。
「……お父さん!」
カトレアが、こちらに気づいた。
ぱたぱたと駆け寄ってくる。
「お帰り!」
「ただいま。アリーナさんが来てたんだね」
「うん! 一緒にお花を見てたの」
アリーナさんも、こちらへ歩いてきた。
「リアリス様。お邪魔しております」
「いらっしゃい。来てくれて嬉しいよ」
「カトレアちゃんと遊ぶ約束をしておりまして」
「そうだったんだね」
……ああ。
私がいなくても、楽しく過ごせてたみたいだ。
よかった。
でも。
胸の奥にある重さだけは、消えてくれなかった。
◇
「リアリス様?」
アリーナさんが、少し首を傾げた。
「どうかなさいましたか?」
……あっ。
また、顔に出てたかな。
「ちょっと、気になることがあって」
私が答えると、アリーナさんは心配そうな顔になった。
「何か、お困りのことですか?」
私は、すぐには答えなかった。
カトレアが、私の手を握っている。
今、この子の前で話すことなのか。
少し考えてから、私は言った。
「カトレア。巴さんに、帝国で買ったお花の話をしてきてくれる?」
「……うん。お父さんは?」
「アリーナさんと少しお話してるよ。あとで一緒に遊ぼう」
「分かった!」
カトレアは、元気よく頷いた。
それから、屋敷の方へ歩いていった。
……ああ。
少しずつ、ちゃんと話を理解してくれるようになってるんだね。
でも、今は。
それを喜ぶ余裕も、あまりなかった。
◇
私たちは、庭の端にある屋根つきの休憩所へ移動した。
アリーナさんが向かいに座り、桜花は私の隣へ腰かける。
風が、木々の葉を揺らしていた。
「……ローズ帝国で、少し話を聞いてきたんだ」
私が言うと、アリーナさんは静かに頷いた。
「どのようなお話でしょうか」
「帝都で、人が行方不明になっているらしい」
アリーナさんの表情が変わった。
「……行方不明、ですか?」
「うん。まだ、噂の段階だけどね」
私は、言葉を選びながら続けた。
「人を売り買いしている貴族がいるかもしれない、という話もある」
アリーナさんは、すぐには答えなかった。
風の音だけが、少しの間続く。
「……そんな」
ようやく漏れた声は、とても小さかった。
「本当に、そのようなことが……?」
「分からない。だから、確かめたいんだ」
私は、アリーナさんの目を見た。
「皇帝にも話を聞いたよ。でも、確かな証拠はまだないらしい」
アリーナさんは、両手を膝の上で重ねた。
少し、強く握っているように見えた。
◇
「……皇帝陛下も、ご存じなのですね」
「噂は知っていたみたい」
私は頷いた。
「それで、気になる貴族の名前を聞いたんだ」
アリーナさんが、顔を上げる。
「お名前は?」
「ゴゾーラ子爵」
その瞬間。
アリーナさんの目が、わずかに見開かれた。
……ん?
私は、彼女の反応を見た。
「アリーナさん?」
「……ゴゾーラ子爵、ですか?」
「うん。知ってる人?」
アリーナさんは、少し考え込んだ。
それから、ゆっくり頷いた。
「お名前は、存じております」
……おっ。
知ってるんだ。
私は、身を乗り出しそうになるのをこらえた。
「その子爵、どんな人なの?」
「私自身は、詳しく存じません。ただ……」
アリーナさんは、少しためらった。
それから、はっきりと私を見た。
「クオシン兄様でしたら、お会いになったことがございます」
……え?
クオシン。
シルク王国の第一王子。
カバディ王の長男で、コモド君のお兄さん。
そして。
……ああ。
私とは、あまり仲のよくない人だ。
◇
「……クオシンさんが?」
私が聞き返すと、アリーナさんは頷いた。
「はい。以前、王家に関わる席で、ゴゾーラ子爵とお話しされたことがあると聞いております」
「どんな話をしたのか、分かる?」
「申し訳ありません。そこまでは……」
私は、首を横に振った。
「ううん。十分だよ。ありがとう」
……そうか。
クオシンさんなら、あの子爵の顔を知っているかもしれない。
性格も、少しは分かるかもしれない。
皇帝から聞いたのは名前だけだった。
でも、話を聞ける人が一人いる。
……これは、大きい。
「ただ、リアリス様」
アリーナさんが、静かに言った。
「兄様が子爵と面識があることと、今回の噂とは別の話です」
私は、頷いた。
「うん。もちろん分かってるよ」
……そうだね。
知り合いだったからといって、何かを知っているとは限らない。
まして、関わっていると決めつけることもできない。
それは、きちんと区別しないとね。
◇
アリーナさんは、少しだけ表情を曇らせた。
「……兄様に、お会いになるおつもりですか?」
「できれば、話を聞きたいと思ってる」
「……そうですか」
その返事には、少しためらいがあった。
……うん。
気持ちは分かる。
クオシンさんは、私のことをあまり快く思っていない。
前に会ったときも、友好的とは言い難かった。
何もなければ、わざわざ会いに行こうとは思わない相手だ。
……でも。
「好き嫌いで、決める話じゃないからね」
私は、静かに言った。
アリーナさんが、顔を上げる。
「ゴゾーラ子爵が無関係なら、それを確かめられればいい。もし何か知っているなら、話を聞きたい」
ただ、それだけだ。
今は、誰かを敵にしたいわけじゃない。
――帰れなくなっている人がいるなら、その人を帰したい。
その思いの方が、ずっと大きかった。
◇
少しの沈黙のあと、アリーナさんが言った。
「……リアリス様」
「ん?」
「私、兄様がどのようなお返事をなさるかは分かりません」
「うん」
「でも、人が行方不明になっているのなら、何とかしてあげたいです」
私は、アリーナさんを見た。
王女として、軽々しく口にできる話ではないだろう。
それでも、彼女は目を逸らさなかった。
「……ありがとう、アリーナさん」
彼女は、小さく頷いた。
桜花も、静かに頭を下げる。
「貴重なお話を、ありがとうございます」
アリーナさんは、少しだけ微笑んだ。
「いえ。お役に立てることがあれば、嬉しいです」
……うん。
ほんの少しだけ、道が見えた気がした。
◇
話を終えた頃、屋敷の方からカトレアの声が聞こえた。
「お父さん! お話、終わった?」
「うん。終わったよ」
カトレアが、駆け寄ってきた。
その手には、小さな花の絵。
どうやら、帝国で買った花を思い出して描いてくれたらしい。
「これ、見て!」
私は、絵を受け取った。
紫色の花びら。
緑の葉。
その横には、小さな窓。
……ああ。
ちゃんと、飾った場所まで覚えてるんだね。
「上手に描けたね」
カトレアが、嬉しそうに笑った。
「……お父さんにあげる!」
「ありがとう。大切にするよ」
私は、絵を折らないように受け取った。
その紙は、驚くほど軽かった。
なのに、胸の奥にはずっしりと残った。
◇
カトレアは、アリーナさんにも絵を見せ始めた。
何色を使ったのか。
花をどこに置いたのか。
次に咲いたら、どんな絵にしたいのか。
アリーナさんは、一つ一つの話を嬉しそうに聞いている。
桜花は、いつもの静かな表情でその様子を見守っていた。
私は、少し離れて座ったまま、三人を眺めた。
……平和だな。
目の前では、誰も傷ついていない。
帰る家があって、誰かが待っていて、明日の楽しみがある。
少し前まで、私が見ていたのは、世界のそういう部分ばかりだった。
それが悪いことだとは思わない。
むしろ、ずっと守っていきたい。
――でも。
同じ空の下に、別の一日を過ごしている人がいるかもしれない。
名前を呼ばれる代わりに、値段を告げられる人が。
帰りを待っている家族へ、手紙一つ送れない人が。
……本当に、そんな人がいるなら。
私は、どうすればいいのだろう。
◇
「リアリス様」
桜花が、そっと私の隣へ来た。
「……桜花」
「お考え事でしょうか」
「うん。少しね」
私は、手元の花の絵を見た。
「皇帝に聞いたことも、アリーナさんに聞いたことも、まだ断片ばかりだね」
「はい」
「でも、何も知らなかったときよりは、少し進めた気がする」
桜花は頷いた。
「次は、どうなさいますか」
私は、庭の向こうを見た。
シルク王国の王城がある方角だ。
そこには、カバディ王がいる。
ミキサー宰相がいる。
そして、クオシンさんがいる。
……彼のことは、正直、得意じゃない。
きっと向こうも、同じだろう。
でも、今はそんなことを言っている場合じゃない。
「……明日、王城へ行こう」
桜花が、静かに頷いた。
「かしこまりました」
◇
その夜。
私は、カトレアの描いた花の絵を、自分の部屋の机に置いた。
小さな紫の花。
陽の入る窓。
幸せそうな、何でもない景色。
その隣には、海で拾ってきた貝殻が一つ置いてある。
少し前まで、私たちはあの青い海で遊んでいた。
みんな笑っていた。
明日もきっと、同じように笑えると思っていた。
……そうだ。
私が欲しかったのは、こんな毎日だった。
大切な人たちと、のんびり暮らすこと。
それだけで十分だった。
けれど、帝都で聞いた言葉は、頭から離れなかった。
――人を、売り買いしている。
まだ、事実と決まったわけじゃない。
誰かを罪人と決めつけるつもりもない。
ただ。
もし、噂が本当なら。
誰かが大切にしていた日常を、奪われているのなら。
私は、それを見過ごすことができない。
机に置いた小さな花の絵を、もう一度見た。
明日は、クオシンさんに会うために王城へ向かおう。
気の重い相手だ。
うまく話せるかも分からない。
それでも。
確かめなければならないことがある。
私は、部屋の灯りを落とした。
暗闇の中で、帝都の商人が言った言葉を思い出す。
――『俺たちだって、家族がいる』。
……そうだね。
家族がいるのは、あの人たちだけじゃない。
消えたという人たちにも、きっと。
目を閉じても、その言葉はいつまでも消えなかった。




